プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

前にKYという言葉が流行りましたが、それって、ADHDの可能性因子だと思いませんか?
ADHDを知らない人はたくさんいるとおもいます。
その中で自分は本当にKYなやつだと思って自己否定してしまっていたり、なんでこんなにKYなんだろうと思い悩んだりしている人もまた多いと思います。
どう思いますか?

A 回答 (14件中1~10件)

私の体験を正当化の屁理屈と切り捨てないでいただきありがとうございました。


今、巷で語られているイジメ問題の正論に照らし合わせて見て、どうだったでしょうか?
私の体験したような『イジメ』に対応できる理論でしょうか?


>団体行動の足を引っ張ってしまっているその子の原因が先天的なものなのか、もしくは家庭状況や周辺環境によって形成されてしまったものなのか。
問題行動の絶えない班員について、教師や本人から障害とか病気によるものとは説明されていませんでしたが、今になって思うと何らかの発達障害のフシは伺えます。
しかしはじめに回答したように、被害者からすれば事故の原因がドライバーの不注意か無謀運転かブレーキの故障かの違いでしかないと思います。
それに責任取らされる人だって、障害のせいにするわけにはいきません。
むしろ、先天的なものであるならばなおのこと、トラブルを未然に防ぐ対処をしなかったという反発が芽生えるのでは。
私の奇形に由来する軽度な聴覚障害によるトラブルではそういう厳しい指摘もありました。


>私たちがやりたいサイクリングや映画鑑賞などは、・・・
>すみません、これは授業においてのことでしょうか。
知的障害の子(前に使った表現は問題あるかもなのでこちらの言葉で)との交流は学校から離れた自宅、プライベートでのものでした。
私たち、とは、私やその友人のこと。
私の親が近所にいるその親子に深く同情してしまい、交流を迫られたわけです。
障害者同士で気が合い、よい刺激になるだろうという考えがあった模様です。
悪い刺激にしかなりませんでしたが。
こういう経緯なので、関わらない、という選択が無理でした。


>また無理交流させず棲み分けさせるというのはクラスで共に生きていくことをやめるという別の意味で思考停止になってしまうのではないか
しょっぱなから分けるのは問題だし色々試行錯誤させることはもちろん大事です。
しかし、これは折り合いつけるのは無理だ、という見極めをつけ、どうしようもないくらいに関係が悪化する前に一時的にでも離して落ち着くまで待ち、トラブルの再発を防ぐ手立てができるまでは無理に接触させないことも大事だと思います。
もう一つの私の回答に対する補足に『いっぱいいっぱい』という表現がありましたが、そういう状況なのに無理させたらまずいでしょう。
車の運転ではお互い猛スピードで動く鉄の箱の中ですから踏み込んだ事情の把握も対処を考える時間も限られてきますが、直接接するならそうではないですから。
何も完全に別環境におくのではなく、利害が衝突する部分だけ分ける程度でも十分です。

例えば知的障害の子との食事では、食事時の訪問は避ける、私に一緒に食べさせるのではなく食事のサポートをさせる(それはそれで不満が出てきますが)、躾が身につくまでは同席を避ける。
といった対策が考えられます。

修学旅行などの一大イベントのとき、どうしてもやりたいことがある一方で、班にその子がいたらできない、どうしても無理、というなら別の班、別行動を認めてやる。

運動会などの真剣勝負の場に、その種目に影響の出る障害児を無理に参加させない。
特別ルールを設けたりして種目を捻じ曲げない。
お手々繋いで仲良くゴールインなんてのが美談になりがちですが、その勝負にこだわり持つ子は納得いかないでしょう。
・勉強はからっきしダメだけど競争では脚光浴びれる。
・足遅いの馬鹿にされて、見返してやるため特訓した。
・足の怪我を克服し、走れるくらいに回復したことを見せ付けたい。
こういった具合に並々ならぬ思い入れを持つ子の為の活躍の場を確保しておかないと、活躍の場を潰した子への反感が芽生えます。
既存のルールに基づく競技は存続し真剣勝負で完全燃焼させてやる一方で、障害児向けの種目も用意するというやり方ならよいかも。
こういう規模で分けることも棲み分けです。

『聾の形』というマンガをご存知でしょうか?
話題になったので、検索したら様々なところでHitします。
このマンガでは普通学級に聾の子が編入され、イジメを受けます。
そのきっかけは合唱コンクール。
聾ゆえに発音が滅茶苦茶。当然ながら歌も滅茶苦茶。
このイベントに力を注ぐ校風だったので、みなの怒りが爆発しイジメが勃発。
(授業の停滞などで皆の不満が蓄積していたので、この行事がなくてもいずれは爆発していたでしょうが)
アンビリーバボーなどの番組だったら様々な行事に行事に障害児が参加することを美談にしてしまいますが、とてつもなくリスキーな行為です。

皆に平等に同じことをさせるのではなく、適性に応じた関わり方をさせる。
学校行事などの共同作業で、障害ではないとしても苦手なことを無理にやらせれば足を引っ張ることになり上記の合唱コンクールのような展開を招きかねません。
だからと言って参加させないのではなく、足を引っ張らない参加のさせ方を用意する。
例えば裏方とかマネージャーとか。

私が小学校時代の学芸会では桃太郎をやりました。
桃太郎役は4人。
と言っても平等にやらせたのではなく役割分担です。
情感をこめた台詞回しの得意な子に感動的な場面、運動の得意な子にアクションシーンといった割り振りです。
楽器が得意な子にはBGM、手先が器用な子に小道具といった具合に、皆一斉に表舞台に立たすのではなく、それぞれの得意分野で一つの劇を作り上げる。
準備期間はそれぞれ別行動だったので、コレだって棲み分けです。
皆一緒なんて考えでは足を引っ張ったりせっつかれたりで高いレベルのことはできなかったと思います。


>相手の立場になって考える十分で力を伸ばし、
コレがなかなか難しい。
ちびまる子ちゃんというアニメで、クラスメイトの家が全焼するという話がありました。
クラス委員長の指揮のもと励ます会が催され一人ひとり励ましの言葉を投げかけ『僕らは皆生きている』を合唱するのですが、そのクラスメイトはどんどん落ち込んで行くばかり。
そんな相手の反応には目をむけず自己陶酔し指揮者する委員長に対し、そっとしておいてやれー! と、クラスメイトたちも、視聴者も思っていたことでしょう。

同じか、似た経験をしていないと相手の立場に立つってのは難しいし、なまじ知ってしまったばかりに自分が知るパターンを妄信して、他のパターンにも無理やり自分のやり方を押し付けトラブルになることもあると思います。

巷に美談として語られてるやり方は本当にうまくいけばよいのですが、ダメだったときのダメージは子供にとっては大きすぎるものも多々あります。
ヤバい! と思ったらすぐ方針を変えることも必要と思います。
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KYと文句を言われる人、KYと文句を言う人。


どうも、言われる人がイジメ被害者で、文句をいう人がイジメ加害者であるというのが世間の風潮、『空気』であるように感じます。
しかし、それぞれが一方的な見方をしていると私は感じます。

違いがあっていい、個性が大事。
よく聞く話です。
しかし、多くの者が『普通』『標準』として受け入れ、その社会に定着しているものにはそれだけの必然性があります。
そこから逸脱したものをそのまま受け入れようとしたら衝突が起きます。
他所では受け入れられてるからと言って、土台の違いを考えずに受け入れようとすればそれまた衝突が起きます。


自動車は多種多様なモデルが販売されていますが、道交法を遵守することや保安規準、燃費、環境への影響、事故が起きたときの搭乗者やぶつかった人の安全etc、それらを満たそうと創意工夫を重ねた結果、おのずと似たデザインとなっていきました。
デザインの独自性にばかり目を向け、安全性などを軽視するもの、さらにはその程度で危険だと騒ぐほうが間違いなどと考え世に送り出された車やメーカーにはそれ相応の見解が下されるでしょう。
もちろん満たした上でなお独自性を打ち出しているものもありますが、それが世に出るまでにはとてつもなく高いハードルがたくさん待ち構えていました。

車に関するルールもさまざまな変化をしていきましたが、時代の変化や新しい技術の登場、安全性の見直しといった必然性に基づくものです。
厳しすぎるから緩和されていったものもありますが、緩和しても関係者の負担の増加や安全性の低下といったしわ寄せが生じないよう慎重な議論を繰り返した結果のものです。

さて、人の場合はどうでしょう?
その違いがもたらすもの、受け入れのために何かを変えた際の影響etc
慎重な議論は行われているでしょうか? 本当にしわ寄せを受けることになる当事者の参加や発言は認められているでしょうか?
それをせずに受け入れや容認を迫られれば、自衛のため拒絶や排除といった対処にもなります。

考え方や感覚の違い、それに基づいた行動や言動で人様に辛い思いをさせるなどのトラブルを起こしたならば、考え方を変えたり、考え方や感覚はそのままでも行動や言動への反映の仕方を変える必要があります。
ここで、『その程度で辛いなんて甘えたこと言うな』といった具合に相手の訴えを切り捨て我を通すようでは、今後もさまざまな局面で衝突は免れないでしょう。
違いがあっても受け入れるよう主張する人にしても、結局は自分が認められる違いしか認めてないのではないでしょうか?
案外、その人の許容範囲は実際に拒絶や排除といった行動を取った人より狭いかもしれません。

※表に普通に出られる程度の、まだまだ軽度の人だけを見てわかったつもりになって、重度ゆえになかなか表に出られず知られる機会の少なかったパターンを否定してしまうことがあります。



問題行動が一向に改まらず退職を余儀なくされた人がいました。
本人が自ら気づき改めていったほうが身につくだろうという考えから、直接的には言わずに、ヒントとなる要素はそこかしこに用意した上で見守ることになっていました。
しかし、残念ながら彼はそのヒントに気づかなかったり自分本位の解釈をしたりで一向に改まらず、更なるトラブル発生。
この方針ではダメと判断しタネあかしをしたのですが、そんなんでわかるわけない、更には起こした問題についても問題視するほうが間違ってると開き直る始末。
大勢の前でそんなこと言わなくても! と怒り出しもしました。

※直接言わなかったのは、一対一での話し合いの場を用意するのが難しい環境だったので、誰が聞いてるかわからない場であまりにも初歩的なことやデリケートな問題を指摘し恥をかかせないように、という配慮でもありました。

お客様からのクレームも相次ぎ、もうかばい切れないレベルになっていたための退職でした。

空気読めと言う人の中には、行動や言動を改めるヒントとなる要素がそこかしこに用意されていた状況を指して『空気』と表現している者もいると思います。
同僚の一人がそうでした。

問題行動の被害者でも責任取らされるものでもなく、しかし被害そのものはきちんと理解している人が指導に当たったなら、開き直られても冷静でいられて彼にも伝わる話し方ができたかもしれません。
しかしそれがなかなか難しい。
まして、ヒントに気づけなかったりあさっての方向への解釈をしてしまうのが何らかの障害によるものならばなおさらでしょうね。
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 こんばんは夜分に失礼しますおや、今度は喧嘩ですか。

。一見、紳士もしくは弱者を装う偽物が喧嘩を売ってきましたので、本題に立ち返って投げられたボールをお返しします。
 本件の話題は、「KYと呼ばれる人をあからさまに排除してしまうことは、その人を含めて多くの人に息苦しさだけを与えるのではないだろうか」との問いかけでした。
 これに対し、僕はそうした人達を排除せず、何らかの形で互いの世界を守りつつ共存することの方がより大きなメリットをもたらすのではなかろうかと考え、そのためには見直しを含めた「新たなルール作りと適切な運用」の方がより現実的であろうと、お話しさせていただきました。
 件の回答者様はどうも自分の目線だけでしかものを見ることのできない典型的なステレオタイプ嗜好であるとの印象も拭えません。
 ルールが先にあり、目的はそれに従う。こんな馬鹿げた話もないでしょう。何らかの行動をするために、最低限これだけは互いに約束しましょうね、と「約束事を作る」。これは優先順位からすれば、「行動する」には「そのための組織作り」が必要であり、その目的を達成するために「共有できる最低限のラインを作る」との図式です。でもその「ルール」も絶対的、確定的なものでは決してありません。実際の運用で困難が生じれば、柔軟に手直しもする。
 そして質問者様からのご質問は「学校」を前提にもしています。これは補足をお読みいただければ読み取れる要素です。
 学校で「違う物の考え方を認めるな」と指導しますか?。一つの課題に対し「これは模範解答ではあるけれど、必ずしもそれだけが絶対的に正しい」などとは教えません。自ら課題を立ててそれをどう具体的にそして相手に分かり易く説明するための論理姓を学んで欲しいとの意図はあります。
 そして子ども達の生活行動半径は、赤子から保育そして幼稚園から小学校さらに中学校へと進むにつれて広がりを見せてもいく。子どもとっての「世界」「自分との関係を持つ者」が親から親を含めた親族だけがったものから、近隣の人そして同じ保育園や幼稚園に通う自分と同じ年頃の人間やその親御さん、先生、小学校ならば同じクラス友達へと広がっていきます。その度に子ども達は自分達で約束を作り、それに基づいて「組織内での秩序」を構築してもいきます。最初は自分達でルール作りなどをするほどの繋がりや関係ももてませんので、そこは大人達がアドバイスし、やがて学校課程が進むにつれ、「自分達で決めて、守る」ルール作りを模索し始め、やがては独自にルール作りをし始め、運用する過程で不具合があったなら、ルールの方を見直して弾力的に運用するか、或いは新たなルール作成を始める。しかしその前提には「相手との距離感」をより縮め埋めて行くためにはどうすれば良いだろうかと知恵を絞る。そうした場で互いの違いを実際に確認し合うことで、認識を共有することになる。極めて論理的です。人間が十人いたなら、その十人は全て異なる価値観を有するとの前提に立てば至極当たり前の話です。
 >言いたいことは山ほどある、としてさも自身が大人であるかの様に構えられても、それはお山の大将でしかないでしょう。自身を弱者あるいはマイノリティーとしてアピールするなら、堂々と自身の立場を披露されても別に誰も問い糾すなどもしません。回答者様は自身が思い込んでいるほどの辛さも実際には辛さにも値しないとも言えましょう。世の中にはアトピーの患者さんなど多勢います。でも回答者様の様に卑屈にはなってもいません。自身を過保護に扱えば扱うほど、それはご自身の現実から自身を遠ざけてしまう結果にもつながります。
 何年か前、会社のとある現場でこんな事件がありました。性格的にも温厚な従業員が現場でのチームリーダーとなりましたが、彼は人前で話すことが苦手ででした。その職場に「気の強い」女性社員がおり、実質その部署を牛耳ってもいました。その女性社員は仕事上でミスを犯しても決して自らのミスを認めることもなく、少しミスした他の社員に対しては高圧的で、しかも犯罪にも抵触しかねないほどの言動を繰り返してもいました。
 会社側の意向としては、そうした女性社員に少し反省を促す目的で、件の温厚な従業員をチームリーダーに抜擢したのですが、それが当人にとっては面白くなかった。自分よりも経験ある者などこの会社に居るはずはないと勝手に思い込んで、事ある毎にそのチームリーダーを罵倒し続け、遂に彼は仮性吃音症を発症するに至ってしまいました。これは彼をサポートする僕らの責任でもある。そうした観点から、その職場のスタッフ全員が衆目する中で、会社がこれまでの間、貴方の言動を全て記録していたこと。そして貴方が彼に対し様々な形でパワーハラスメントを行ってきたこと。それにより彼が心因性の病を発症し、やむなく休職状態になったことを話し、これ以上の言動を働いた場合にはペナルティを科すことも検討していることを全て話しました。
 その時の「弁明」と思しき言葉を今でも克明に記憶しております。「だって、こいつ何も出来ないんだよ」。従事している作業内容が異なる事に対し、自分の担当する部署のルールをそのまま運用することに無理があることを説明した上で、彼女が管理職に対しその様な言動を行ったことは社内コンプライアンスの観点からも決して許容される性質の問題ではないことを説明した途端、突然にわなわなと震えだし、俯くだけでした。無論、僕らは彼女を断罪することもありません。ただ彼女が言動を自ら改める機会を自身で探してもらえれば、それで終息させるとの考えで、彼女に対するフォローも十分に行いました。
 こうした自己対象化のプロセスが回答者様には見えないことからお話し申し上げました。後はご自身で判断なさってください。
 
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いろいろ言いたいことがありますが表題の件に立ち返り…。



まず、空気を読むということの大切さを知ってほしい。
そして、原因が何であれそれができない人と接する苦痛を知ってほしい。
苦痛をもたらす相手へのそれ相応の扱いを認めてほしい。
そう思うんです。


何でもかんでも事情をオープンにすればいいってものではありません。
さまざまな事情からそのとき、その場では言うに言えなかったりします。
それに、そもそも知られたくない、何事もなかったように接してほしい、触れずにいてほしい。そう感じる人がいます。そういう事情だってあるんです。
ドラマだったらそういうのをオープンにしたうえで、多少のトラブルはあったとしても最終的にはメデタシメデタシという展開にできますが現実はそうは行きません
メッセージを持ち寄ったり訪問して励ましたり、それまたドラマだったら友情に満ちた美しい光景にできるのでしょうが、そういうアプローチ自体が苦痛になります。
人によっては、そういうやり方を『ウザい』と評するでしょう。
良かれと思ってしていることなのだからあからさまに拒絶できないだけかもしれません。

世の中にはそういう問題がいくらでもあるのですが、それがわからない人に干渉や詮索をやめてもらおうとしたら、秘密にしておきたいことやネガティブな話を洗いざらいさらけ出すことになります。
苦痛です。

干渉はやめようといった相手が望む対応を行う判断の材料は、周りの状況や相手の態度といった具合にいくらでもあるのにです。


個性が大事、違いがあっていい、あるがままの自分でいていい。
イジメ問題ではよく出てくる言葉です。
危険です。
その個性と称する違い、特性が元でとんでもないトラブルを起こしたのであれば、自分の出し方というものを見直す必要があります。
社会に受け入れられている人は、それを自然に、当たり前に行って自分を変えていってるのだと思います。
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 こんばんは夜分に失礼します。

他の回答者様が仰ることを拝読させていただき色々と考えるものがありました。
 >子供なんだから、とか発達の度合いは人それぞれなどと思考停止せず、改善に向けた指導をしたり、嫌な思いをしたという訴えには真摯に耳を傾け、無理に交流させず棲み分けさせることも必要だと思います
 おそらく、これは僕の舌足らずな言葉に寄せられたご意見であろうと推察します。少なくとも僕は排除しろとは一言もいっておりません。逆に相手を認めることから全てが始まる、とは申しました。恥ずかしい過去の話も少しばかりお話ししました。
 この方はご自身のアトピーの問題に絡めて自動車運転時のマナーを類例に挙げられましたが、この事例はご自身とは逆の話になってしまいます。一方でマナーを守れない相手の非を口にしつつ、一方でご自身に向けられた世間による好奇の眼差しに対する憤りを対比させ、その上で子どもにも指導すべきだとご自身を高見に置いて見物されているかの様にお話しされても、それでは一体、あなたは誰なの?と僕は解らなくなってしまいました。回答者様ご自身の姿が見えなくなってしまった。
 ADHD(いわゆる多動性障害)とKYでは「自身と社会との距離感の把握の仕方」にも違いがあるでしょう。心理学や脳科学で呼ばれる病態としての前者は病因を調査しそれに対する処方を以てして治癒とはいかないまでも社会復帰の足掛かりを見出すことも可能です。また彼を取り巻く周囲も彼と社会の間の距離感があるとの事実を知ることで、互いの距離を縮めていくことも可能です。
 これに対し後者は「自身の行為が社会に対し、迷惑を及ぼしていること」を自覚できていない未発達ともいえるかと存じます。僕の表現からすれば、学校秀才がそれに近いともいえます。学校秀才とは一つの答しかないと決め込んでいて、他の可能性があるかどうかすらも疑わない。それが「正しい」「絶対的な基準である」などと勘違いしているともいえます。卑俗な表現をすれば「字面しか読めない」「マニュアル人間」ともいえましょう。
 件のオシッコ坊やはその後中学生になり、脚を骨折した時にも教室で粗相をしました。座席は教室の一番後ろでした。移動のために不自由を感じさせては辛いだろうと担任やクラスメートの何気ない気遣いでした。でも授業中にお腹の具合が悪くなり、気が付いた隣席の友人が教員にサインを出してくれたものの、間に合わず。男子生徒にとって学校でトイレすることはとても恥ずかしいことでもあり、言いづらくもある。そんな部分はからかったりしないとの男同士の暗黙のルールもありましたがやはり言いづらいことも確かです。
 友人は保健室に同行し気遣ってくれましたが、今度こそ本当に引きこもりになりました。二週間学校に行けなかった。恥ずかしかったことと、友達に迷惑をかけてしまい、どうしようかと悶々とするだけで出口すらも見いだせないままでした。でもまたまた、クラス全体で話し合いが持たれたとのことで、プリントや宿題そして、びっしりと書き込まれたメッセージノートを入れ替わり立ち替わり出来る日も来る日も持って遊びに来てくれました。曰く「誰だってお腹の具合がよくないことはあるし、それにクマは脚骨折して動きにくいから仕方ないよ」「あの後、クラスで話し合ったけど、トイレすることは自然だから誰もからかったりしないことにしよう」「全員でフォローするから、出てくるの待ってる」「クマいないとつまらないし寂しい。だから早く出てきて!」などなどが綴られていました。
 本当に大丈夫かなと半信半疑で怖ず怖ずと登校してみたものの、いざ学校に着いたものの中々校門をくぐることもままならなかったのが本音です。逡巡する僕を友人達が促し、松葉杖で玄関を入ると段差部分にはスロープが 、教室へと続く昇降場には車椅子とその置き場が用意されていました。トイレもユニバーサルタイプに改装され、一階の保健室脇に、保健室からそのまま入れるトイレが作られてもいました。
 何時の間にか、後ろに立っていた担任と校長が「おっ、戻ってきたな、待っていたよ」とポンッと肩を軽く叩き「怪我したりハンディのある人が学校を訪れることを想定していなかった僕らの方が勉強させてもらったのだから、こちらからお礼をいわなくちゃ、ありがとう」そんな言葉をいただき、改めて人の中で生きる、一人ではないとの言葉を噛みしめた懐かしい記憶もあります。こんな僕の経験からすれば、回答者様は何かご自身を卑屈なものと感じられているように見うけられ仕方ありません。僕のいた世界は回答者様より狭いかもしれません。けれども広いからといってそこにある空気が必ずしも希薄とは限らないのではあるまいかとも感じてしまいます。
 KYも「学べば互いの距離を縮めていくこともできる」性質の問題と理解するなら、気付けば相手のことも解るはずです。もし知らないならば、ハンディのある側から「手伝っていただけませんか?」と声をかけてみることも一つの方法でしょう。むしろヨーロッパではその方が多い。アメリカは健常者の方からワーッと行って、相手の手伝いをしてしまいがちですが、最近では「相手の意思を尊重して、押しかけるよりも呼ばれたら行く」スタイルが増えてもきました。
 やはり共存するには互いの違いを認めていくしかないと思いますが、それにはこちらも重いコートを脱ぎ捨て居る必要もあるかなと存じます。互いに肩の力が抜けた状態、それを如何にして作っていくか。この問題如何ではなかろうかと僕は感じています。子ども達はそうしたかべをあっさりと乗り越えてしまうことも確かですが。
 質問者様には余分な話ばかりしてご迷惑を掛けてしまい申し訳ありません。

この回答への補足

「自身の行為が社会に対し、迷惑を及ぼしていること」を自覚できていない未発達



ADHD(自分では注意しようと思っているけど、粗相が多くなってしまう)

は違いがありますよね。
私の中でも混乱していた所だったので、わかりやすく分けてくださり、整理しやすくなりました。
ご意見ありがとうございます。

子供って、何においても理屈を語る前に一つ納得すればあっさりとできることが増えますよね。

子供のうちに、いかに、心を育てるか。


掲示板に質問したこと以上に話を広げてくださる方々がいて私としては感謝です。

補足日時:2013/06/10 20:33
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質問者様は車の運転はしますか?


でないなら以下の話はわかり辛いかもしれませんが…。

私が左車線を走っていたところ、前方に路駐車がいたので右車線に移ろうとしました。
しかし右車線にいた車は私の真横にピッタリとつき、減速も加速もしません。
仕方ないので私が減速しその車の後ろに入ろうとしたのですが、後続車は入れそうで入れない車間距離を維持したまま。
そうこうしてるうちに路駐車は眼前に迫り、やむを得ず完全に停止することになりました。

普通に運転していれば、路駐車や車線減少などの要素を見つければ左車線の車が右車線に移ろうとすることは十分に予測でき、合流の協力をしなければどういう事態を招くかも想像できるはずです。
それに、左前方の車が右ウインカーをつけているのにいつまでたっても合流してこないならば、自分の車間の空け方が不十分で安心して合流できないのだとわかりそうなものなのですが…。

KYといわれる人も、そうなのではないでしょうか?
普通なら言われなくてもわかりそうなことをわかろうとせず、直接口頭では言われていないとしても相手は何らかの意思表示をしているのにそれを読み取らず、取るべき配慮を怠ってトラブルを起こす。

走行中の車対車ではなくすぐ傍にいるのだから普通に言えばいいだろうと思うかもしれませんが、人と人同士が生身で接する状況であっても、対話できるくらい近づくころにはもう手遅れのトラブルになってるケースがありえます。

それに、言われなきゃわからないような人は応用が利かなかったり自分が正しいと思うことに固執するため、納得してもらえるだけの説明をしようとしたら相当な時間と精神力を浪費することになります。

世の中には、やめてほしいこと、やってほしいことを相手に納得いくように説明することが難しいケースがあります。
失禁や性など尊厳に関わる問題ならば、知っている人が少ないに越したことはなく、第3者が知らされたってどうすることもできなかったりします。
なのに察することをせず、誰も触れようとしないが自分が何か違和感を感じた点に好奇心の赴くままにアプローチを仕掛ければどうなるか。


話すに話せない事情だってあります。

私がアトピーを患っていたころ、その状態では到底楽しめないアウトドアな娯楽やアレルゲンとなる食べ物や無茶苦茶な民間療法をしつこく薦める人がいました。
どんなに断っても、病は気からとか騙されたと思って、などと言ってしつこく食い下がるため、私がこれまでどんな治療法を希望を託して試しては打ちひしがれてきたか、あなたが薦めたものを、私がどれだけの葛藤の末に諦めたのかを洗いざらいさらけ出す羽目になりました。
話しても仕方のないこと。思い出したくもないこと。そして、決して愉快な話ではないこと。
せっかくの楽しい同窓会は台無しでした。
私がもう少し器用に立ち回れればよかったことではありますが、彼が、『誰も触れないのだから、自分もやめておこう』『自分が振った話題への食いつきがよくないから、この分野の話はもうやめておこう、なんか事情があるんだろう』『自分が思いつく方法なんてとっくにやってて、それでダメだったからこそあの状態なんだな』といった考えをしてくれれば起きなかったトラブルでもあります。

KYと言われる人について公正な見方で見たら、こういう事例がたくさん出てくるのではないでしょうか。
空気を読むなんてのは日本だけ、外国では…といった意見がよく出ますが、その外国でもこういう込み入った問題を抱えた人はいるはずです。
思うのですが、日本でKYとか異質な存在として排除される人は、外国でも排除されてしまうかもしれません。
どう違うのかをより明確にし、『無神経な人』『非常識な人』『差別者』『テロリスト』『犯罪者』『性倒錯者』といった具合に、その時代、その社会で悪と定義される分類にして、排除しているだけかもしれません。

多種多様な人を受け入れ共存していくなら、なおのこと違いがもたらすトラブルを避ける知恵が必要になります。
ただ闇雲に一緒にいさせるのではなく、共存の知恵をしつけのレベルで徹底的に叩き込んでいるからこそ、うまくやっていけているのではないでしょうか?

回答者1さんが
>他人の意見ばかり求め自分の頭をまるっきり使わない連中
と仰っていますが、外国の方々が共存の知恵を駆使して自分の頭で考えた結果出した結論は、日本人が空気を読んだ結果出した結論と同じなのかもしれません。

この回答への補足

車、たまに運転します。
なるほど。不快な気持ちになりますね。
私もそのような事態になったことがあります。
相手の立場に立って考えられない、気が利かない。
でもそんな状況になる人ってたくさんいると思いませんか?

相手の立場まで考えられず、自分でいっぱいいっぱいの時。
無意識に自分のことに集中していてこっちの状況まで把握しきれない時。

車の件はまさにこれなのではないでしょうか。
ただ、楽しい同窓会を台無しにした、という「しつこさ」は、その方が本当に人の立場になる力がないという意味で、また違うことなのかなと思います。

>多種多様な人を受け入れ共存していくなら、なおのこと違いがもたらすトラブルを避ける知恵が必要になります。
>ただ闇雲に一緒にいさせるのではなく、共存の知恵をしつけのレベルで徹底的に叩き込んでいるからこそ、うまくやっていけているのではないでしょうか?

先ほどの補足はこちらの回答を見ていませんでした。失礼いたしました。
それは私も共感します。
共存の知恵、というものは躾においてとても大切なことだと感じます。

子供のときに、相手を思いやり、相手の立場になって考える十分で力を伸ばし、均等にみんなが持っていれば、気持ちよく生きられますよね。(理想はこれです)
子供が問題を起こした時被害者(と言われた側)も加害者(と言われた側)も、自分のことでいっぱいいっぱいだと考えられます。
その時に、うまくお互いの気持ちに整理をつけてやれるように、誘導してあげたいです。

どのようにすれば全員が気持ちよく共に生きれるのか。
まだまだ私としましても勉強不足ですので、これから考えていきたいと思います。

補足日時:2013/06/10 20:21
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おはようございます。



空気を読むという振舞い方。
ソレに対する考え方については更に色々と考えさせられることがあったので、ぜひとも聞いてほしいことがあるのですが、それまたまとめるのに時間がかかるので質問閉じるのは待ってもらえますか?

勝手なお願いではありますが、なにとぞよろしくお願いいたします。
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私はイジメ加害者と見なされた経験が何度かあります。


このトラブルに対する私の見解を、イジメの正当化とか後付の屁理屈と片付けず冷静に読んで頂ければ、少しは参考になると思います。
くれぐれも言っておきますが、いじめていい理由などこの世のどこにもありません。
その上で、現実的な対処法を考える材料を提示します。
ADHDに起因する諸問題にも応用は利くと思います。


>クラスにいる周りの子から出遅れてイジメにつながる可能性
これは、容疑者の立場や言い分を一顧だにしない自称被害者や第3者の一方的な見方だと思います。

・団体行動の足を引っ張る。
・連帯責任などで同じ班のものがとばっちりを食う。
・班長、世話係といった具合に責任を背負わされる。

といった背景が考えられます。
問題行動の絶えない班員に対し、私が班長として行った忠告を、言葉のイジメと解釈されたことがあります。

対策としては、教師が責任持って指導をし、足を引っ張らないようにする。
係やルールといったクラスの仕組みを見直して、足を引っ張らずに済むようにしたり、班員などが連帯責任で責任取らされる展開を防ぐ。
班長や世話係が苦情処理係にされて激しいストレスに晒されている恐れがあるので、クラスの仕組みはよく考える必要があります。

イジメ問題では、関わらなければよい、なのに嫌がらせしてくるのだからいじめるほうが悪いという意見がよく出てきます。
しかし関わらざるを得ない状況についての考察は全然出てきません。


>周りと異なる意見や感覚を持ってKY呼ばわり
容疑者の言い分をよく聞いてください。
ただ意見や感覚が違うというだけで排除しようとするような差別者などそうそういません。
なのに人様をそんな目で見て取調べや指導を行って、相手を納得させられるわけがありません。
その異なる意見や感覚。そういった周囲との違いがどういう事態をもたらしていたのかをよく調べる必要があります。

知恵遅れの子をいじめたとして責められました。
壊れ物の貸し出しを拒否しました。コレを意地悪と解釈されました。
食事に関する躾が身に浮いておらず、クチャクチャと音を立てて食べ吐き戻したりするため、同席した私は生理的な嫌悪感を堪えきれず、えずきました。
ソレを汚物扱いするイジメと見なされました。
私達がやりたいサイクリングや映画鑑賞などは、もうその子の知能ではついていけないものだったのですが、その子に合わせてやろうとせず、ついてこれないことをやりたがることをイジメと見なされました。


私は耳の奇形で生まれました。
それをキモいと言ったり、耳なし芳一というあだ名をつけ嘲るものがいました。
私のような人をそうやってからかってもいいという意見、考え方、そして、そういう行為が楽しいという感覚の持ち主だったわけです。
人によっては、彼のネーミングセンスを賞賛するかもしれません。
逆上した私の暴行は、無視できず話し合いでも解決できない私が100パーセント悪いとして、イジメとして処理されました。


イジメ問題では、加害者の言い草としてKY、ムカつく、あとはキモイとかウザいという言葉がよく出てきます。
しかし、コレを額面どおりに受け止めるのは考え物です。
・激しい憤りに駆られ、喉が言うことをきかずうまく喋れなかった。
・取調べを行った教師や親が偏見の塊であり、発言内容を乱暴な要約の仕方でまとめた。
・容疑者の言い分を適切にまとめたらいじめられる側にも問題点が浮上してきたため、バッシングを恐れてその部分をはしょって報告をまとめた。
というパターンが考えられます。

あと、語彙が乏しいためにそういう表現になったとも考えられます。
公正な見方で、決して悪者扱いせず親身に話を聞けば浮ける印象は変わると思います。
『ムカつく』:私の奇形に対するからかいのように、激しい憤りに駆られるだけのひどいことされたのだけど、共感を得られなかった。
『キモい』:本当に気持ち悪い。身だしなみに関するしつけが身についていなかったり、ストーカーのようなラブレターをしたためた。
中2病をこじらせ、死体のグロテスクな写真をプリントしたTシャツをかっこいいと思って着てきた。
『ウザい』:距離感、引き際というものをわきまえておらず、踏み込まれたくない領域にもズカズカと踏み込み、食い下がる。
『KY』:TPOをわきまえない無神経な行動や言動で迷惑をかけたり、深く傷つけたりする。

そして、本人や保護者が違いがあっていいとか個性が大事といった主張を鵜呑みにした結果、問題点を指摘されても耳をかざず、問題行動を継続する展開が考えられます。

子供なんだから、とか発達の度合いは人それぞれなどと思考停止せず、改善に向けた指導をしたり、嫌な思いをしたという訴えには真摯に耳を傾け、無理に交流させず棲み分けさせることも必要だと思います。

この回答への補足

ご意見ありがとうございます。
回答者様は、教師にわかってもらえなかった、という経験をお持ちなのですね。
確かに、仲間はずれにされている子を見ると、どうしても仲間外れにされた側のほうが「かわいそうだ」と認識されがちなことは事実です。

>・団体行動の足を引っ張る。
>・連帯責任などで同じ班のものがとばっちりを食う。
>・班長、世話係といった具合に責任を背負わされる。
>といった背景が考えられます。

団体行動の足を引っ張ってしまっているその子の原因が先天的なものなのか、もしくは家庭状況や周辺環境によって形成されてしまったものなのか。
どちらかはわかりませんが、その子のせいで「とばっちりを食うはめになった」「責任を背負わされた」というクラス環境では、生活していて気持ちよくありませんね。

>班長や世話係が苦情処理係にされて
このような責任を押し付ける風潮ができてしまっていること

>壊れ物の貸し出しの拒否を意地悪と解釈
理由を理解していない

>ソレを汚物扱いするイジメと見なされました
一概にイジメとせず、理解してからそれぞれに適切な指導を入れる

>私たちがやりたいサイクリングや映画鑑賞などは、・・・
すみません、これは授業においてのことでしょうか。

>逆上した私の暴行は、無視できず話し合いでも解決できない私が100パーセント悪いとして、イジメとして処理されました。


これらの回答者様の経験は問題を教師に額面で解釈され、加害者というレッテルを貼られたのですね。
その教師の力不足を感じてしまいます。

自分がクラスを経営し問題に直面した時に、双方の主張を公平に聞き入れ、解決に向かうような対応をとりたいです。
自分はまだ勉強途中の段階なので、これこれこのようにすることで円滑にクラス作りができる、というようなことは言えませんが、様々な方のいろんな視点の意見がとても参考になります。ありがとうございます。

違いがあっていい、個性が大事、というような主張は難しいですね。もちろん、個々人は個々人同士違うものがあるし、それぞれ別の個性があります。
問題行動を個性のせいにする、これは変な話ですね。
個性の限度って何でしょうね。

また無理交流させず棲み分けさせるというのはクラスで共に生きていくことをやめるという別の意味で思考停止になってしまうのではないかと考えたのでしょうが、いかがでしょうか。

補足日時:2013/06/10 19:48
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おはようございます。


補足でいただいたコメントについては色々思うことがあるのですが、まとめるのに時間かかるので回答は気長にお待ちください。

このサイトでは、回答者が考えをまとめてる間に質問者がさっさと打ち切ってしまうことよくありますので…。
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 こんばんは夜分遅くに失礼します。

この度は丁寧なお言葉をいただき恐縮です。
さて、子ども達の遣り取りを教員や父兄がどの様に観て、それを判断材料にしてしまうか。そして大人達の言動を子どもが真似ることで更に悪循環をもたらしかねないだろうかとの危惧は全くそのとうりで、僕も同感するところです。
 類例に「いじめ」の問題があります。先だって草津市で起きた事件の背後にあったのは、親の問題でした。いじめる側のボス的生徒の親がやはりPTAや父母会でのボス的存在だったことを子どもは目にしていたのでしょう。親かボスなのだから、僕もボスだと勘違いしてしまった。それにより発生した事件で子どもが今度は居場所を喪ってしまった。にも関わらず件の親は未だにその罪を認識してもいない様子です。という意味でこの親は二人の生徒を傷付けてしまったことになります。
 僕は未だに結婚もしておりません。そのため親業に携わった経験もありませんが、学校ボランティアなどの形で子ども達と接する機会を得ています。そうした中で、今回の質問者様の問いかけが気になりました。
 子ども達が「自分と違う形の相手」を見たらどの様な反応を示すか。相手が外国籍の子どもさんだったり、肉体的にハンディのあるお子さんだった時、まず先生が紹介しても子ども達はオッカナビックリで遠巻きにして様子をうかがうでしょう。そして一人が恐る恐る言葉をかけて次第に距離を縮めていき、いつしか壁もなくなっている。そんな形が普通です。
 僕がまだ子どもだった頃の話をすれば、寸詰まりのデブにメガネ、そして左ギッチョといった見かけとしては最悪の状態でした。それが中学生になりますと、更に付加的要素が加わります。ニキビだらけ。でもそんな僕を見て、ある女子生徒が発した言葉、それが「あっ、熊のぬいぐるみだ!」その一言でした。内心「うるせえよ、おめえにいわれたくねえよ」とカチンときてチョッピリ傷ついたものの、見かけからすればそう不自然でもありませんから、納得もしました。子どもは第一印象、見かけを言葉に出してしまいます。そしてそれが間違いだったと気付くには時間と十分な説明を大人がすることも大切です。大人の場合は、それを捨象して排除する形で自分のテリトリーと仲間を築きますが、それは組織を崩壊させる原因ともなりかねませんので、近年ではそうした現場管理もチームリーダーの職務として求められてもいます。現場の従業員間によるパワハラは何よりも注意が必要です。
 ご質問の趣旨からは離れてしまいましたが、小学校の先生方ことに低学年の先生方は経験も浅い方が着任されるケースもあり、そうした先生方が教育心理や児童心理および発達心理の心得があるかといわれれば、疑問符もつきます。経験何年という方ならばそうしたケース・バイ・ケースの処し方も心得ていますが、新任の先生には何しろ引き出しの数が余り多くない。マニュアルどうりにしかできないならば、それ以外のケースを日常的に見てきている親御さんの知恵も大切です。先生を育てる最高の素材は他ならぬ先生方の目の前にいる子ども達です。
 でも何気ない一言が相手の持つ可能性を引き出す魔法の杖にもなれば、相手を悲しませる道具にもなってしまう。そうしたことを国語の授業や読書指導の中で伝えることができれば、と思い僕は子ども達と遊んでいます。
 僕が子どもだった頃、殊に地方の小学校などでは左利きが異端視されていました。実際に教員も矯正しようとしていました。そしてデブが他の子と木登りをすれば途中で怖くなって登れず、オシッコをもらしてそのまま今でいう引きこもりにもなりましたが、その事件の翌日から友達が交代でプリントや宿題そしてノートを持って遊びに来てくれました。話を聞けば、子ども達なりにTANUHACHIちゃんが学校に来れるようにするにはどうすれば良いだろうかとクラス全員で話し合ったそうです。今とは時代環境も違いますが、子ども達にも相手を気遣う優しさは今でも十分にあると僕は考えています。だから僕は子ども達を信じたい。その可能性に賭けてもみたい。もしそれが見えなかった時には、大人達が少しだけ切っ掛けを与えれば、子ども達は子ども達で解決の糸口を見つける努力をします。「今の君でいいんだよ、それが君の個性なのだから、何の恥じるところもないよ」と自然な形で相手を見て接することにつながれば、それだけで少しは世の中も居心地がよくなることでしょう。今回は質問者様の様に懐の深い方にお会いできてとても嬉しかった。ありがとうございました。
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この回答へのお礼

ご意見ありがとうございます。
私も自分以外に一緒に自分の中にあった問題、疑問を考えていただける機会ができて嬉しいです。

草津のいじめ問題について、TANUHACHIさんの意見にとても共感します。
その親は自分がしたことにも気づいてもいないですよね。
悪循環からの脱却、となると、担任は親の家庭環境から受ける影響も考えて子供と接したり、親御さんと話をする場を設けて把握し続けることがいいクラス経営につながるのかな。

TANUHACHIさんは学校ボランティアで実際に子供たちと関わる機会を持っているのですね。
私は小学校の先生を目指していて、特別支援の勉強を今しています。そこでADHDという障害があるということを知り、ADHDの症状がKYといわれていじめにつながる可能性があるのではないかと疑問を持ち、この場で質問させていただきました。
国語の時間や読書指導の中に、「何気ない一言が相手の持つ可能性を引き出す魔法の杖にもなれば、相手を悲しませる道具にもなってしまう」ことを見いだせる授業にするのは訓育の面でとても大切だと思いました。
実際に現場を見ないとただ指導要領解説を読んでそれに沿って指導案を書くという形になってしまいがちですが、現場における生の声を聞くと教育って深いなと改めて感じます。

TANUHACHIさんの先生を見習いたい。
その子がどうなるかは先生の実践にかかっているといえますね。

相手を気遣う優しさ等、もとから子供たちが持っている能力を引き出すために、教師が効果的にきっかけをあたえてあげて考えさせることは大切だと感じさせられました。
子供たちが居心地のいいクラスにできる先生になりたいです。

文章がまとまらなくてごめんなさい。
でも、回答者様のおかげで、考えさせられることがとても多いです。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/06/05 00:15

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