プロが教えるわが家の防犯対策術!

 1. 《絶対》は 相対的な存在である人間の言葉で 絶対無と言っても絶対有と言っても いづれも 経験世界を超えている。つまり 非経験の場であり そのように想定するものである。

 2. しかるに 《不確定性無限》は 人間のおこなう確定作業つまりは 不確定の確認作業をつうじて認識するものごとであるゆえ 経験世界に属する。

 3. よって 表題の等号は 成立し得ない。両者は 互いに次元が違う。

 これを 問います。





 表題の示す命題は 次の文章から引いたものです。

 ◆(【Q:《宇宙は 自己の補完である》とはどういう意味か?】回答No.4) ~~~
  http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8207934.html

 (*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており
 無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。

 この「絶対無=不確定性無限」において、
 その無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、
 相対的に無の風は光になり、
 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに
 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 この文章についても 問います。

 4. ★ 無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり
 ☆ これは 闇の世界において《無い神》が 光あれ! と言ったら 光があったと言うのと どう違うか?

 次のような文脈です。:
 ▲ (創世記  1:1~5) ~~~~~~~~~
 1: 初めに、神は天地を創造された。

 2: 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
 3: 神は言われた。「光あれ。」 こうして、光があった。

 4: 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、
 5: 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 5. あるいはつまり
 ◆ 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。
 ☆ というとき ひとつに 経験世界としての《宇宙》を認識しても 始まらない。相対的なものごとについての堂々巡りに終わる。ゆえにつまりは 次のような解釈に替えられ得るのではないか。

 ○ 《光と闇 昼と夜》の向こうに 相対性としての人間存在を補完するもの・すなわち《絶対》をひとは むしろわが心なる《非思考の庭》の内に たとえばヒラメキをとおして 知覚する。もしくは 予感する。

 6. それ・つまりヒラメキにおいて予感しうる何ものかが 《無い神》である。むろん《有る神》と言っても同じである。また いろんな名で呼ぼうと 関係なく それらはすべて 全体として同じひとつの神である。

 7. ただしこのような《相対存在が 絶対によって補完されること》は 《相補性》ではない。神のほうから 一方的に 補完してくれるのである。相対と絶対とであることを思うべきである。

 8. これらすべては 想定による物語である。ワタシの主観の内なる動態過程において 動態過程として ある。

 9. けれどもこの物語としての仮説理論は それによって 神についてのマチガイを質すことができる。《神は 何でないか?》を明らかにして示すことができる。たとえば 経験世界のものごとではない。

 10. そして それだけでじゅうぶんである。

 11. おまけとしては ヒラメキをつうじて神――真理――の予感が得られれば そこから 経験科学としての知恵や知識に通じるイメージの知覚をすでに得ている。


 忌憚のない自由なご見解において ご批判をお寄せください。

A 回答 (11件中1~10件)

スルーしようと思ったのですが P氏のことが引っかかり こちらに 回答しました。


参考になるようでしたら してください。

『人間は 物理学の捉えたモノなる存在に還元されるか』は 現在の物理学では全くできてないと思います。将来の物理学では できるかもしれませんが。理由は 現在の物理学の捉えるモノは抜けが非常に多い構造であり 人は複雑構造だからです。例えば 素粒子と素粒子の関係すら完全に解明できていない状態で 人の素粒子が どのように機能しているのかほとんど手付かずの状態と思います。それでも 何とか物理学の結果を導入し 細胞などの階層別の機能を考えて合理的に 人の機能を考えているのだ と思います。

一連のbさんの質問は p氏の物理学用語を適当に散りばめた主張が理解できらひたなく それでも理解したく 質問になったとものと思います。その代表的な『無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり』あるいは『*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており 無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。』は 私も理解できないのです。もちろん 理解できない無意味な文章として 放る という処理の仕方もあります。私は かつて P氏の主張を理解するべくP氏の意見を求めましたが 全く理解できるものではありませんでした。
ということで終われば話は進みません。あえて理解しようとすれば
『一個の粒子のシュレーディンガー方程式の波動解をある空間で考えます。するとこの空間内の任意点の粒子の存在確率は波動解の絶対値の二乗で与えられます。空間を十分大きくとれば 任意点の存在確率は限りなくゼロになります。万物は粒子から構成されており 十分大きい空間に多くの粒子を詰め込みます。すると 任意点の存在確率は一個一個の場合の確率の重ね合わせになりますが、ゼロのものを十分多く集めても 任意点の存在確率はゼロである。光子のようにボーズ・アインシュタイン粒子として十分に多数個のゼロを集めても体積はゼロである。これを無限の闇という。この空間のなかで人が認識出来るものを仮定すると それは光のパターンであって 結局認識であるから脳内の出来事であり、人の脳内で決められていることになる。脳内で決められということは 相対的であり適当にである。そのパターンはたとえれば あたかも無風状態から任意状態の風が生まれるようなものである。』と
この説明は P氏が言っているものではなく こうでも考えないことには P氏主張は 聴くに耐えない妄想と私はおもうのです。P氏の思考しているところはこんなところと思うのです。光パターンを目より入力して脳内でパターンを認識することを 相対的に適当に決められている と説明したかったのではないか とおもうのです。
ただし、この説明は 物理学ではありませんデタラメもいいところです。一個の粒子のシュレーディンガー解は近似解かと思いますが あとの多数個を扱う以下はこんなことにはなりません。
ここでは出ていませんが P氏主張の前面に出ている粒子観測の基本式としてハイゼンベルグの不確定性原理を引用していますが、間違っており 正確には小沢正直氏の修正式になっております。P氏の主張は正しく物理学を反映していません(不確定性原理を正確に理解して論を進めるならですが)。
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この回答へのお礼

ok9608 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ひとつに追随者がいること それによって同じ議論が延々とつづけられること そして追随される人は やはり延々と同じ議論をつづけているということ。しかも 対話には応じないということ。

 ひとつに 中で妥当性のうすい議論がかさねて繰り出されるということは それを見ているこの哲学カテの参加者は 消極的ににしろ その主張内容を認めていると 第三者には見られてしまうおそれがあり これを避けなければならないと思われること。

 ちなみに そのような議論のうち社会科学や人文・哲学のこととしては 最近では次のようにわたしも問いかけをおこなって来ています。

 ・Q:自己主張ってそんなにわるいことですか?
 ・Q:《自己の精神的充足》は 《利己》ではないですか?
 ・Q:《自己主張するな》は 自己主張ではないのか?
 ・Q:《押し籠もり》についての批判です。
 ・Q:日本人の強調性(協調性)は 稲作農耕という経験から来たか

 同じ主題の繰り返しがあるのは ひとつの質問はひとつのスレッドにとどめるのがルールだ・だから別建てで問うべしという相手の《主張》に合わせて そうしているものです。

 《オシコモリ》については 必ずしもいま話題にしている当人のことではなくても けっきょくおのれの文章や発言について問われたら・問われても答えるという責任を持たないという姿勢――それが オシコモリですが―― これがはびこると あたかも百回や千回繰り返されるウソはホントウのことだと見なされかねないという問題と連動するおそれがある。
 そういう主観的な考えからのものです。


 そうして 物理学関係のいくつかの《主張》――しかもその《キャンペーン》のごとき――にかんする問題があります。
 素養がとぼしいながら 問題として挙げ みなさんに解決・解法を問うています。






 かつてのわたしなら 相手が話をしないのなら それは人間以前の状態にある人間だと指摘して もう放っておくのですが たとえば【Q:《行け。淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。》】(ホセア書1:2)といった命題をも受け取って いろいろ考えることがありました。

 それよりも何よりも アマテラスお二階さんにまかせてはおかないと言い スサノヲ市民たちによる共同自治(地域主権)なのだと言っているなら 《オシコモリ》にも《半鎖国状態人間》にも声をかけ心をとどけ手を差し伸べざるを得ないとも考えました。


 そういった 文脈での一連の質問になっています。





 さて ddtddtddt さんが 《恣意的な解釈が入り過ぎだ》と言って批判し nyan_nyanko さんからもどうしても解せないという意味合いのことが述べられ ここに ok9608 さんからさらに詳細な批判が明らかにされました。

 質問者のわたしは 素人が整理してみることはおろか 復唱することも いまは控えたほうがよいかと思います。さらにみなさんに問うのみです。その場をつくりました。



 質問者のねがうところは この哲学カテがばかにされることのないようにであり ひいては そのような問い求めをつうじて・またその問い求めにおける市民のあいだの対話・話し合いの過程そのものが 日本のためにならんことをです。

お礼日時:2013/08/17 14:11

 こんばんは 




> ★ 1s軌道の動径分布
 ☆ というのは
 ▲(ヰキぺ) 1s軌道の動径関数
 ☆ のグラフのことですよね。
↓ ↓ ↓

 はい、仰る通りであります。

 
> ★ 半径”r”が1付近のところに、ほとんど全ての確率分布が集中していることが見てとれます
 ☆ となるのだと。
↓ ↓ ↓

 はい、その通りであります。


> ◆ 無になる
 ☆ ということではない。のですね。
 ▲ 4f軌道の動径関数
 ☆ のグラフでは 横軸の値がほとんどどの場合でも 存在確率は ゼロになっているようにも見えます。これが《無になる》かたちだと見るのは 別なのですね。
↓ ↓ ↓

 確かに、そこでは「無」かもしれません。ただ、 [”有”から変化して]「無」に”なる ”と言われますと、異なると考えます。この式には時間を現す変数(t など)含まれておりませんし(時間のファクターは入っていないですし)、また、そもそも、存在しえないから、であります。

 例えば、にゃんこが、頭を中心とし、両手を広げた場合、半径(中心の頭から手の先の距離)はせいぜい1 m 未満です。
 ”もし、にゃんこが大阪にいて、 両手を広げた場合、名古屋にもその指先が届いている” これが成立するかといわれますと、「しえない」 と考えられるからです(つまり、名古屋での存在確率は0%)。


> ◆ 無限につめ込むと
 ☆ という条件設定が 問われるべきなのでしょうか。
↓ ↓ ↓

 はい。どういった[算術的] 処理をしたかですね。


> と言っても ここまでしか分からない状態です。
 どうすれば よいかなぁ。と SOS を発してみます。
↓ ↓ ↓

 わたくしも、そうであります。
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この回答へのお礼

 にゃん_にゃんこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
  ▲ 4f軌道の動径関数
  ☆ のグラフでは 横軸の値がほとんどどの場合でも 存在確率は ゼロになっているようにも見えます。これが《無になる》かたちだと見るのは 別なのですね。
 ↓ ↓ ↓

 確かに、そこでは「無」かもしれません。ただ、 [”有”から変化して]「無」に”なる ”と言われますと、異なると考えます。この式には時間を現す変数(t など)含まれておりませんし(時間のファクターは入っていないですし)、また、そもそも、存在しえないから、であります。

 例えば、にゃんこが、頭を中心とし、両手を広げた場合、半径(中心の頭から手の先の距離)はせいぜい1 m 未満です。
 ”もし、にゃんこが大阪にいて、 両手を広げた場合、名古屋にもその指先が届いている” これが成立するかといわれますと、「しえない」 と考えられるからです(つまり、名古屋での存在確率は0%)。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほど。《無になる》というのは 時間的な過程においての変化を言うわけですね。
 ただ距離が離れている遠くの位置における状態を明らかにしても それは《無になる》のではない。
 つまりそれでは 《無限に詰め込むと》という条件のもとでの存在確率の問題にはならないと。

 そして
 ▲ 無限に詰め込むと
 ☆ についての問題というのは
 ★ どういった[算術的] 処理をしたかですね
 ☆ 分かりました。問い求めの中身が。

お礼日時:2013/08/13 23:50

 こんばんは にゃんこです。




 あれから、再度考えてみました。

 まずは、

> ddtddtddt さんからは 次のような見解が示されていますが。
 ◆ (回答No.2) ~~~~~~~~~~
   >(*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており 無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。

 については、確かにこれの物理モデルはホワイト・ノイズの重ね合わせで物理的に検証できますが、その数学的正当化の根底には、上で述べたように実無限がいます。つまり実無限のみに基づいて、このような現象を説明するような体系が、既にあるという事です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 残念ながら 質問者には歯が立たないです。

 “ホワイト・ノイズを用いた重ね合わせで物理的に検証”は可能かもしれませんが、これが「無」になると断じることには・・・と思いました。

 なお、回答者同士の議論(討論)は禁止されていますし、ddtddtddt様に対する批判をする意図も全くございません。

 そこで、少々考えて見ました。

 次に、以下の「水素原子におけるシュレーディンガー方程式の解」に沿って説明をさせてもらいたいと思っています。

「水素原子におけるシュレーディンガー方程式の解」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B4%A0% …


 「水素原子は最も単純な原子モデルであるため、 <中略> 水素原子におけるシュレディンガー方程式は様々な教科書で取り上げられている」とありますが、具体的な数式の定理等はそちらの方を参考にしていただき、今回は、問題とする箇所のみの説明とさせていただきます。

「この余白はそれを書くには狭すぎる!!」 どこかで聞いた言葉ですが・・・


[電子の"存在確率"]
 水素原子の各々の固有状態において、電子がどの位置に見出されるか? また、その"存在確率"は? について説明したいと思います。
 
 そこで、 電子の"存在確率" についてなのですが、

 Wikipediaにもありますように、
「動径関数を2乗し、rの2乗を掛けた動径分布は、核の中心からのある距離 [r] における電子の存在確率に相当」
 します。つまり、式7-7の2乗値にあたります(a0はボーア半径です)。

 その計算結果のみ記述いたしますが、
 一番下のグラフがそれとなります(「1s軌道の動径分布」など)。

 最も単純でもあり、基底状態でもある、’1S軌道’をご覧ください(「1s軌道の動径分布」がこれに当たります。n=1という最も単純なものであり、大きな原子・分子でも、まずこの軌道から電子が詰まっていきます。)
 横軸は原点から電子までの 距離、つまり、半径を(単位はボーア半径)、縦軸は“電子の存在確率”を(単位は%)現しています。
 なお,この"電子の存在確率"を積分すると、“1”、つまり、全確率が 100 %になるように“規格化”しています(存在確立の積分、つまり、総和は100%となりますから。式7-3参照)。

 半径”r”が1付近のところに、ほとんど全ての確率分布が集中していることが見てとれます(「1s軌道の動径分布」を参照)。



 以上、極基本的な水素原子のシュレディンガー方程式によって求められる波動関数について述べてきました。

 そこで考えていただきたいのですが、どんな状態でもいいんです、もちろん、「”重ね合わせ”た状態」(この状態も波動関数で記述できます)でもいいです。

 「無」とは? と問われますと・・・

 わかんないよ~!!!

 となってしまいます。

 もちろん、横軸にあたる半径rを∞にすれば、[確率は] 0になります。半径1kmを超えるような原子なんて考えられませんから(そんな遠距離では、その原子が持つ電子は存在しないはずです)。


 以上から、下のいずれかになろうかと考えます。

1. やはり、説明を加えていただけなければ、凡人には理解不可能である。

2. そもそも、この「無」になる、ということ自体に、無理がある。
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この回答へのお礼

 にゃん_にゃんこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 1s軌道の動径分布
 ☆ というのは
 ▲(ヰキぺ) 1s軌道の動径関数
 ☆ のグラフのことですよね。

 そして
 ★ 半径”r”が1付近のところに、ほとんど全ての確率分布が集中していることが見てとれます
 ☆ となるのだと。
 
 さらに 横軸の距離が遠くなると どの動径関数のグラフも 縦軸の存在確率は ゼロに収斂していくようなかたちが見て取れます。このとき
 ★ もちろん、横軸にあたる半径rを∞にすれば、[確率は] 0になります。半径1kmを超えるような原子なんて考えられませんから(そんな遠距離では、その原子が持つ電子は存在しないはずです)。
 ☆ となるのでしょうか。

 これが 
 ◆ 無になる
 ☆ ということではない。のですね。
 ▲ 4f軌道の動径関数
 ☆ のグラフでは 横軸の値がほとんどどの場合でも 存在確率は ゼロになっているようにも見えます。これが《無になる》かたちだと見るのは 別なのですね。


 ◆ 無限につめ込むと
 ☆ という条件設定が 問われるべきなのでしょうか。

 と言っても ここまでしか分からない状態です。
 どうすれば よいかなぁ。と SOS を発してみます。
 

お礼日時:2013/08/13 00:07

夕飯の材料を買っておくように頼まれていたんですけど


ネットを閲覧していたら時間が迫っていたので
猛ダッシュで地場産直売所へ行き、お盆で混雑する中、
なんとか夕食に間に合い、叱られずに済みました。

こちらの質問&回答を見て、ドーパミンが補給されました。
勉強になります。ありがとうございます。
お母さんに、もう寝なさいと言われたので、
ヱヴァンゲリヲンを見ながら寝ます。では。
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この回答へのお礼

 それはそれは。

 よかったですね。夕食とドーパミン。


 そして 早寝早起きなのでしょうか。

 エヴァンゲリオンのことが分からないので それはパスです。(アニメだとは知っています)。


 質問をしてよかったと思います。うれしい。

 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2013/08/11 21:52

1.《絶対》は すでに確定され、変わることのない


過去のことではないでしょうか。

2.《不確定性無限》は まだ確定されていない、
今この瞬間のことではないでしょうか。
もの こと が 確定されるのは、いつも後になってからです。

3.よって、両者とも経験世界のできごとではありますが
しかし、1と2では時間的なズレがあり、
“=”では結べない。
なぜ時間的ズレがあると“=”で結べないのか?
それは、もの こと が 変化することが、
すなわち時間であるから。
変化したものは“=”ではない。

4.《つめこむと存在確率の山が平らになり》
これは
選挙前の得票予想に例えれば、国民の数が10人として、
自党の集計:8票
社党の集計:7票
維党の集計:5票
というような結果になるようなもので、
この予想集計結果が“無”である。
今まさに開票結果が出たとすれば、
開票前の各党の予想集計結果が、“絶対無”。

無ではあるけれど、まだ投票日前において、
得票の闇に、候補者の運動を想定すれば、
相対的に世間の風は希望の光になり、
候補者はその光(選挙演説相互作用)の向こうに
自己の補完としての得票を認識するのです。

以上が私の二つの脳がシンクロ率200パーセントで
暴走した結果、導き出されたアナザーワールドです。

え?もうこんな時間! お母さんに叱られるぱお。では。
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この回答へのお礼

 あーる40くろ‐ずさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 1.《絶対》は すでに確定され、変わることのない / 過去のことではないでしょうか。
 ☆ そうですね。これは 違うと思います。

 《変わらざる真実》としての真理を言うと思いますが 《確定され》とか《過去》とかと言うとそれらはすでに人間の思考ないし認識の対象となっています。真理は 思考し得ませんし 認識し得ませんから。

 二で割っても三で割ってもその商は みづからであるところの無限 これが 絶対です。

 あるいは 経験事象としては有るか無いかが認識されますが この有る無いを超えているのが 絶対です。

 人間はその能力によっては ついぞ神は存在するか存在しないかは 分かりません。


 このように 数量が定まらず けっきょく人間の能力によっては定めえないのが 絶対です。
 しかも 有るとも無いとも 分かりません。


 ぎゃくに言えば 神は有ると言っても神は無い(または 無い神がある)と言っても それらは絶対にかんしては 互いに同じことです。自由にどちらの表現で呼んでもかまわないわけです。

 したがって これが起きたからそれがあるといった因果律からはいっさい自由です。これが 絶対であり 無限であり 真理であり 神です。《非経験の場》と呼んでいます。




 ★ ~~~~~~~~~~~
 2.《不確定性無限》は まだ確定されていない、
 今この瞬間のことではないでしょうか。
 もの こと が 確定されるのは、いつも後になってからです。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはたとえば たしか
 ▲ (ヰキぺ:不確定性原理) ~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A2%BA% …

 (ふかくていせいげんり、独: Unschärferelation 英: Uncertainty principle)とは、量子力学では、量子(たとえば電子)について、その位置と運動量を、同時に、かつ、いくらでも高い精度で確定することはできず、片方の精度を上げようとすれば、もう片方の精度が下がる、という関係(不確定性関係)を量子自身が(測定可能かどうか、ということではなく)持っている、という原理である。

 その後の量子力学の発展により、現代ではより原理的な量子の性質から導出されるものとなっている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ といったところから捉えられているものだと思います。

 

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 3.よって、両者とも経験世界のできごとではありますが
 しかし、1と2では時間的なズレがあり、
 “=”では結べない。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはたぶん それでは時間的なズレのあとでなら ひとしくなるか? という問い返しが出されると思います。




 ★ 4.
 ☆ はおもしろかったのですが どうコメントしたらよいか 分からなくなりました。
 ★ アナザーワールド
 ☆ ってことで。

 お母さん どうでしたか?

お礼日時:2013/08/11 21:03

 こんばんは にゃんこです




> 2.しかるに 《不確定性無限》は 人間のおこなう確定作業つまりは 不確定の確認作業をつうじて認識するものごとであるゆえ 経験世界に属する。
↓ ↓ ↓

 これは、「全ての存在は <中略> 無と等しくなります。」の認識のことでしょうか? 
 それとも、「認識体は <中略> 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです」の認識のことでしょうか?

 いずれにしましても、その確認 [観察、認識] する主体は、”ひと”ですので、我々のこの経験事象からなる”経験世界”に属する のは当然と考えます。


> 4.★ 無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり
 ☆ これは 闇の世界において《無い神》が 光あれ! と言ったら 光があったと言うのと どう違うか?
↓ ↓ ↓

 実を言いまして、この「無限の闇に認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は光になり」と、そう表現されうる根拠がわからないのです。

 「*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており
 無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。」

 まず、前段の文章に関しては、ミクロの世界では確かに、そうだと考えます。つまり、不確定性原理とそれに基づくボーアの理論から導かれると考えました。

 ですが、後段の「無限につめ込むと」が理解できませんでした。

 数学上では”無限”は可能かもしれませんが(実際、微分などには頻繁に用いられます)、この「無限につめ込む」が、どういったものかが、この経験世界でのこととしては、理解できないのです。極論しますと、主語と目的語が何か? なのですが。

 なお、次の「存在確率」、これは量子が持つアプリオリな性質、つまり「ゆらぎ」のことを指しておられるのかと・・・

 次の「存在確率の山が平らになって、無と等しくなります」に関してですが、例えば、”量子の「ゆらぎ」幅”は,統計学的には「標準偏差」で表現可能かと考えられます。としますと、「山が平らになって」は、そのまま「カーブが平になること」と考えられますが。
 ですが、なぜこれが(平になったことが)、「無」となりえるか? なのです。
 確かに”一点に収束”、もしくは、”一点に辿り着く”ことはありえるでしょうが、「無」になると断じる根拠が不明なわけです。

 さらに言いますと、「全ての存在は <中略> 無と等しくなります。」は、存在論としても極めて重要な知見をもたらしてくれます。例えば、形而上学的難問の一つである「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? [Why is there something rather than nothing?]」に修正を迫ることも可能となりえますでしょう。
 それのみならず、神学上の問題解決にも必ずや寄与してくれるでしょう。



 なお、理解できないのは、ひとえに、わたくしのオツムが弱いから、というのがその理由からかもしれません。

 もし、おわかりの方がおられましたら、ご説明を賜わりたいと願っております。

 因に、量子論はわたくしの専門ではありません。ですが、仕事上、MO法などのコンピューターケミストリーには携わったこともあり、多少のことは理解しているつもりではおります。



> 11.ヒラメキをつうじて神――真理――の予感が得られれば そこから 経験科学としての知恵や知識に通じるイメージの知覚をすでに得ている。
↓ ↓ ↓

 これは、アインシュタインの次の言葉でじゅうぶんかと思います。

 「理詰めで物事を考えることによって、 新しい発見をしたことは、私には一度もない。」



 中途半端な回答となってしまい、誠に心苦しいのですが、厳密性を求めたいがため、これ以上の回答は不可能でした。
 どうもごめんなさい。

 ですが、わたくしの疑問にお答えくださる方がおられましたら、それに応じて、回答していきたいと考えております。
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この回答へのお礼

 にゃん_にゃんこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 《不確定性無限》・・・の確認 [観察、認識] する主体は、”ひと”ですので、我々のこの経験事象からなる”経験世界”に属する のは当然と考えます。
 ☆  なるほど。初めから《認識》の主体をすでに前提としているのだと確認するなら 《認識・確認・観察》という限りでその初めから経験事象を扱っている。この当然のことを言うのを遠慮していたみたいです。つまり 気づかなかったのですが。――あとのほうで やっと《認識体》を取り上げている恰好になってしまっていました。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 ですが、後段の「無限につめ込むと」が理解できませんでした。

 数学上では”無限”は可能かもしれませんが(実際、微分などには頻繁に用いられます)、この「無限につめ込む」が、どういったものかが、この経験世界でのこととしては、理解できないのです。極論しますと、主語と目的語が何か? なのですが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ そうなのですか。質問者は 分からないまま 何とも言えないでいました。
 ddtddtddt さんからは 次のような見解が示されていますが。
 ◆ (回答No.2) ~~~~~~~~~~
   >(*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており
   無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。

 については、確かにこれの物理モデルはホワイト・ノイズの重ね合わせで物理的に検証できますが、その数学的正当化の根底には、上で述べたように実無限がいます。つまり実無限のみに基づいて、このような現象を説明するような体系が、既にあるという事です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 残念ながら 質問者には歯が立たないです。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 次の「存在確率の山が平らになって、無と等しくなります」に関してですが、例えば、”量子の「ゆらぎ」幅”は,統計学的には「標準偏差」で表現可能かと考えられます。としますと、「山が平らになって」は、そのまま「カーブが平になること」と考えられますが。
 ですが、なぜこれが(平になったことが)、「無」となりえるか? なのです。
 確かに”一点に収束”、もしくは、”一点に辿り着く”ことはありえるでしょうが、「無」になると断じる根拠が不明なわけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ということなのですね。
 素人の受け取り方としては その標準偏差などのカーヴが平らになることを超えて その観察しうる値または位置が 消えてなくなるか または すべての場を満たしてしまうかではないかと思っていました。それを 《無》と言うのだと。また 《闇》とも見るのだと。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 さらに言いますと、「全ての存在は <中略> 無と等しくなります。」は、存在論としても極めて重要な知見をもたらしてくれます。例えば、形而上学的難問の一つである「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? [Why is there something rather than nothing?]」に修正を迫ることも可能となりえますでしょう。
 それのみならず、神学上の問題解決にも必ずや寄与してくれるでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という問題にもつながっているのですね。
 ★ もし、おわかりの方がおられましたら、ご説明を賜わりたいと願っております。
 ☆ 質問者からも 同じくにねがいます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
   > 11.ヒラメキをつうじて神――真理――の予感が得られれば そこから 経験科学としての知恵や知識に通じるイメージの知覚をすでに得ている。
  ↓ ↓ ↓

 これは、アインシュタインの次の言葉でじゅうぶんかと思います。

 「理詰めで物事を考えることによって、 新しい発見をしたことは、私には一度もない。」
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここは 引用して掲げるのみになりますが。


 みなさん! ひとごとみたいで澄みませんが にゃん_にゃんこさんからの呼びかけです。
 ★  ですが、わたくしの疑問にお答えくださる方がおられましたら、それに応じて、回答していきたいと考えております。
 

お礼日時:2013/08/10 23:12

 まずニュートリノの話ですが・・・・その様ですね、測定間違いであった見たいです。

修正してください。光とほぼ同等の速さだそうですね・・・

>述べた《非経験の場》が――わが心としては 《非思考の庭》として―― あたかも捉えられるか にあります。>

 そりゃあ有るでしょうね、無いと言ったら嘘になる。ただそれは単純に「経験の場」でいいのか?そこでの話であって、そこでの直感なりヒラメキなりが非経験の場を直感認識するという事であるわけだからそれを直感的なのかなんなのか分かりませんがno.4さんが不確定性原理とくっつけて話しているというだけの話ですよ

>★ bragelonne さんが「そうなのか!」と思っている状態であって
 ☆ これは ちがいます。
 (あ) わたしは分からないので いったいどういう内容なのかが知りたい。おしえて欲しいと言っています。>

 それに答えればただの物理や数学の説明に適当もしくは直感的にno.4さんが本当だと思いんでいるか否か分からないがくっつけているという事です。
 それで不確定性原理というのは波の様であり量子の様である性質を持っているのが我々の世界であるという事です。そしてその波の中で観測に量子を当てるとするとポツンと丸い粒として現れる、それを何回か行ったら普通真ん中に集中する筈の量子が波の様に量子があちらこちらに現れたという事実があるんですよ、これほど摩訶不思議な話はないのですが、そこで理論体系化したのが不確定性原理というものです。アインシュタインはボーアの不確定性原理はそのまま不確定のままであるという考えに猛反発し「神はサイコロを振らない」と言った話は有名です。そしてアイシュタインの考えで物理学が進み、理論体系化したのが弦理論、それでも数学的矛盾が発生するので閃いて作ったのがM理論という訳です。つまりアインシュタインの言う統合理論を作ろうとしたものが弦理論、その矛盾を解消するためにM理論が出てきたというだけの話でありまして、そこに精神を組み入れようというのがno.4さんの思案見たいですが、それは証明され得ないものであり、あたかも事実かの様に強引に組み入れた様にしか思えません。

>(い) しかも 分かる範囲では 哲学として これこれの見方はおかしいと思われるがどうかということをも問うています。>

 そんなの証明できないんだからおかしいもへったくれもないんですよ、勝手に妄想してそれが未来だと言えばなんでも言えるでしょ?それと同じで証明できない領域に適当に組み合わせて作ったんじゃないんでしょうか?

>(う) 《そうなのか どうなのか》が分からないので 問うています。>

 それは永久に分からないままであくまで可能性として「有り得なくもないか~」位に受け止めるべきでしょう、あたかもそれが100%事実であるかの様なno.4さんの言い回しに誘導されてるだけのようにしか見えません。

>さらに問い求めていきたいと思います。>

 問い求めたところで、no.4さんが適当に組み合わせてるだけなのでそれを信じるか否かにだけです。
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この回答へのお礼

 ていえんとさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★  ・・・・ただそれは単純に「経験の場」でいいのか?そこでの話であって、そこでの直感なりヒラメキなりが非経験の場を直感認識するという事であるわけだから・・・
 ☆ この《非経験の場》は 質問者のわたしが言っていることです。ほかにはまだ誰も言っていないと思います。

 ええ。 その非経験の場――神のことなのですが――と人との接点 これを 個々の人であるワタシにあってはその心なる《非思考の庭》と言っています。

 じつはこの《接点》というのは 仮りの見方です。
 想像としてですが たとえばちょうど出て来たニュートリノのごとく 非経験の場の作用がわが心をつらぬいているかも知れない。
 あるいは じっさいミケランジェロのアダムの創造のごとく 指先でそおっと触れているようなことかも知れない。
 あるいは要するに神の霊の遍在ということが或る程度一般に言われているごとく 非経験の場のチカラが作用しているのならそれは わが心をすっぽりと覆い包んでいるのかも分かりません。
 つまりあるいは いわゆる仏性として・自性清浄心として わが心にやどっているかも分かりません。
 さらにあるいは 泉の水のごとく心に汲めども尽きぬ水のごときチカラが湧いて出て来るということかも分かりません。

 要は 《非思考の庭》というごとく 《思考や認識》では捉えられないというところにあります。





 ★ ・・・それを直感的なのかなんなのか分かりませんが no.4さんが不確定性原理とくっつけて話しているというだけの話ですよ
 ☆ ここのところは わたしが適切に理解してしかるべく対応し得ればよいのですが なかなかしゃれたお応えも しかねています。

 ★ ただの物理や数学の説明に適当もしくは直感的にno.4さんが本当だと思い込んでいるか否か分からないがくっつけているという事です。
 ☆ 《物理や数学の説明》が きちんと捉えきれていないので わたしはまだ何とも応答しえないでいます。



 ★ ・・・・つまりアインシュタインの言う統合理論を作ろうとしたものが弦理論、その矛盾を解消するためにM理論が出てきたというだけの話でありまして、そこに精神を組み入れようというのがno.4さんの思案見たいですが、それは証明され得ないものであり、あたかも事実かの様に強引に組み入れた様にしか思えません。
 ☆ これは 誰でもそして言ってみればどんなことでも いちど仮説として言ってみるというのも わるくはない。のではないでしょうか。
 問題は 中身ですから みながこれを検証していけばよろしいのでは?
 ★ 勝手に妄想して
 ☆ でもかまわないはずです。中身で勝負なのでは?

 ★ 証明できないんだから
 ☆ でほうむり去れるか。または 別の検証の方法があるのか。いづれにしても 前へすすめるかたちで やり取りをしてまいりたいと考えます。


 すなわち
 ★ それは永久に分からないままであくまで可能性として「有り得なくもないか~」位に受け止めるべきでしょう、
 ☆ というのが たとえば《非経験の場》という仮説です。
 ただし 《あくまで可能性として》になりますが 《「有り得なくもないか~」位に受け止めるべきでしょう》とは考えません。初めの想定を前提にすれば これこれのことが理論としてのごとく 言えるというところまで行くことが出来る場合がある。こう考えます。

 《証明が出来ない》場合には 初めに何らかの想定をして その前提にもとづくかぎりでの議論を推し進めるということは 出来るはずです。
 言いかえると 単なる仮説であっても そこに人間の存在や心に対応する内容が見出されて 世界観の一環となることさえ――それも一人ひとりの主観によるということですが―― あり得る。こう考えます。

お礼日時:2013/08/10 06:14

存在の本質が粒子か波動か、という問いは、全ての素粒子が


超弦の量子定常波=不確定性原理に還元される事から、決着
がついています(これは定性的な概念の産物ではなく、物理を
記述した式の説明です)。
全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいて
いるならば、無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、
無と等しくなります。
この「不確定性無限=絶対無」において、その無限の闇に、
認識体の仮定断面の運動を想定すれば、相対的に無の風は
光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、
自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。

質問にある「経験世界」について、あなたの定義は何かは解り
ませんが、私にとっては時間性のベースとなる記憶=過去=
超光速(階層現象性の表面的な定性化による非光速性に由来
する光速下(未来=予測=時空仮説)との相補分化たる)であり、
あなたの「そのように想定する」とは全く違うものが見えているの
です(あなたが物理を学ばない限り、こうした表面的な言葉の
やり取りは実質的な意味を伝えません)。
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この回答へのお礼

 そうですね。分からないからと言って 何でもかでも 問えばよいというものではないのでしょう。それでも 引き続きこの問いを立てたのは やはり そこかしこにちらつかせていますように 《非経験の場》もしくはそれと経験世界との言わば接点としての《わが心なる非思考の庭》という視点(作業仮説)を取り出して そういう別の観点から 捉えて置ける余地が いくらかはあるのではないか。という心です。


 ぷしゅてっくすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ですから――たしかに基本的に言って
 ★ 物理を学ばない限り、こうした表面的な言葉のやり取りは実質的な意味を伝えません
 ☆ という基礎の領域があると心得つつも そのときほかに考え得る一面としては―― なお藪にらみが いますぐただちに効く分野があるのではないか? というのが ねらいです。


 ★★(前身の質問【Q:《宇宙は 自己の・・・】の回答No.5) 私が提示できるのは頂上に見える道標だけです。
 ☆ と言われるその《道標》について ただちに無謀にもであっても哲学の観点から どのように位置づけ得るか? これの問い求めになっています。




 12. 《絶対無=不確定性無限》というとき この絶対という用語を使っていても 《絶対無》は 《実無限》として取り扱うという了解が 数学では出来ているそうです(回答No.2)。
 
 だとしたら 《絶対》という言葉は 分かりづらいと言いたいことが ひとつ。やはり《経験世界を超えたところの何ものか》にこそ当てはめるべきだと思われます。
 
 そして それよりも もし《実無限》としてのようにあくまで経験世界に属する事象をこの《絶対無》が言うのであれば 相手の《不確定性無限》も 同じく経験事象であるのですから けっきょく同語反復をおこなっているに過ぎないのではないか? と問えると考えられます。

 ★ 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識するのです。
 ☆ このように認識し得た《宇宙》も 間違いなくはっきりと経験事象に属するものです。
 何が言いたいかと言えば 《相補性》を言うかぎりでは 人間としての自己も 相手の宇宙に対して補完するところがあるということになります。

 あるいはつまり
 ★ その光(量子相互作用パターン)
 ☆ これも 《相補的不確定性》として存在する。のですから すべてが 補完しかつ補完されるところの《宇宙》であるとなります。

 問題また課題が残るとしたら 
 ★ 認識体
 ☆ すなわち《人間》という存在にあるのかも知れません。





 13. 《人間 あるいは その個別の存在としての〈わたし〉ないし自己》が取り上げられるなら 問題もしくは問い求めの視野はいくらか変わって来ます。

 ひとつに 人間もそうでありそれに属するところの相対世界ないし《経験世界》とそしてこれを超えたところに想定される絶対なる何ものかつまり《非経験の場》との関係が 視野に入って来ます。

 ひとつに そうして《相対》と《絶対》との対比であれば――それらは互いに次元が違うのであるからには―― 《補完》ということの意味が違って来ます。違ったかたちで・つまり相互性ではないかたちで 定まって来ます。


 これら両者を合わせて捉えるに こうなります。

  (あ) 人間は 一本のか弱い考える葦であるに過ぎないと言われるとき――つまり これを始末するのに一滴の液体で事が済むと言われつつも それでも そのような弱さをみづからが知っているのだと言われるとき―― 問題は その《考える葦》どうしの 相互の補助や思いの共有が有り得る。しかもこのような思いやりや助け合いなる相互の補完性を超えるものはあるか? 

  (い) この問いに答えるには 《絶対》を想定し持ち出すなら 容易であるという利点が出て来ます。
 《相対》がそのか弱さや移ろい行かざるを得ない無常性を 《絶対》によって補完されるということ。その逆はあり得ない。絶対は 独り満ち足りているゆえ。

  (う) ただししかも この神による人間のよわさの補完は ことが絶対というナゾの何ものかであるからには その補完のありさまは 《非経験》もしくは《非思考》として成り立つ。 

  (え) 言いかえると そんなものは成り立たないという向きには 《無い神》による《無いところの補完》があるということになります。

  (お) この(え)の場合が あくまでどこまでも《経験事象》によって――宇宙の到るところで経験的なありとあらゆるものごとや存在にかんして――相互の補完関係を捉えるという立ち場だと考えられるからです。

  (か) これが 物理学による世界認識であると考えられます。《頂上に見える道標》を聞いた結果 その具体的な認識の中身を知らなくても その道標がどのようにどこに位置づけられているか これについては いま分かると考えます。

  (き) つまり早い話が 経験事象が 一つひとつすべて《相補的不確定性》として存在しており これが すべて互いに補完関係にあるというのは あくまで どこまで行っても相対世界しかないと見ていることを意味します。

  (く) けれども 相対的な事物や事象が 互いに補完しあうと言っても・また人間としては互いに思いやり助け合うと言っても それは 《か弱い考える葦であり やがては朽ちるものであること》をまぬかれない。――これは 補完ではないのではないか? 気休めの補完関係ではある。


 14. ところが こうであると言って来つつも もし《補完する者が 無い神であり 絶対者である》のならば 《有る神》と同じく その人の心には 《非思考の庭》が成ります。

 そのとき
 ★ ~~~~~~~~~~
  質問にある「経験世界」について、あなたの定義は何かは解り
 ませんが、私にとっては時間性のベースとなる記憶=過去=
 超光速(階層現象性の表面的な定性化による非光速性に由来
 する光速下(未来=予測=時空仮説)との相補分化たる)であり、
 あなたの「そのように想定する」とは全く違うものが見えているの
 です。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ というその《見えているもの》は――補完してくれる相手側は―― 《絶対》ないし《非経験の場》であるなら どれもこれもまったく同じひとつの神だと考えられます。

 言いかえると 経験事象のひとつが 何か特別なものとして見えたとしても 話は それが見えない場合と何ら変わりません。助け合いや思いやりをあたえたり受けたりすることが ある場合とない場合とで どれほど世界が変わりましょうか。そういう補完というのは ふつうは こちらでプラスの補完があり あちらでマイナスの補完をこうむり それらプラス・マイナスの綯い交ぜとしての相補性なる存在〔の関係〕として生きて行くしかない。

 物理学によって いくら精緻な世界認識が得られようと まったく同じことです。

 そもそも ほかの人たちに少しでも伝えられ得る内容であれば まだ少しはましなのでしょうが 学問をまなばなければ見えない真理というのは どうなのでしょう。




 こういう覆いかぶせの理論(!?)も あるのです。これによって 問い求めが互いにさらに深められるよう願っています。

お礼日時:2013/08/09 14:52

 完全に騙されてますね、質問文に書かれているno.4さんの意見は一種のペテンだと思った方が無難かと・・・


ここの回答のno.1さんが仰っている様に正直不確定性原理に適当に入れただけだと思います。

 「非経験の場」って普通に「意識」とか「認識」の事を言っているだけであってあまり関係のない理論だと思います。
どうでもいいですがno.1さん「光を超える事が出来ない」と仰っていますが、じゃあニュートリノが光の速さを超えたのはどのように説明するんですか?
 
 それはさておき今回の質問ですが「不確定無限」ってなんだ?と思いますが普通に考えて観測した瞬間に波の様に派生するランダムな電子?粒子?忘れましたがそれを無限にやって行けばその内波の範疇で観測的に電子か粒子は埋め尽くされるというだけの話を強引に「不確定無限」とか言ってるだけじゃないかと思います。

 ヒラメキや直感についてですが、これは超心理学の分野だろと思います。超心理学というのは不確定の理論をなんとか証明してとりあえず、絶対的に存在するであろう限界まで証明する分野です。EPSもしくはPSIと呼ばれる分野です。ここの分野は存在するか否かしかやっていません。実際証明されたとした場合、推論体系を作るのが今の技術では限界だと思います。

 弦理論やM理論だって証明までは至っていない訳で、あくまで数学的な仮説に過ぎない訳です。そこに適当な事を言って無論当たっているかもしれませんがくっ付けているだけであって、強引な理論をあたかも本当かの様にその回答者自信思い込んでいるというのをbragelonne さんが「そうなのか!」と思っている状態であって、証明された理論では無いですし・・・理論とも言い難いような本当に直感的にくっつけているだけなので、「まあそういう考え方もあるか」程度に見ておいたら?まあ自由だけどね・・・忠告しました。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ★ ここの回答のno.1さんが仰っている様に正直不確定性原理に適当に入れただけだと思います。
 ☆ そうですね。そこのところは 質問者は物理学等の素養がなくなかなかうまく理解しえないので何とかくらいついて分かろうとしています。

 ★ 「非経験の場」って普通に「意識」とか「認識」の事を言っているだけであってあまり関係のない理論だと思います。
 ☆ この《非経験の場》は ちがいます。
 経験事象としての因果関係からいっさい自由な何ものか これを想定したものです。神のことです。

 そりゃあ 神と言ったり非経験の場と言ったりあるいは心の内なる非思考の庭と説明したりするなら それらは人間の言葉を用いているからには すでに《考える》の対象になっています。その概念を認識したり それを観念として意識したりすることにもなります。

 ですが 《因果関係から自由な何ものか》は その意味内容が 経験世界における事象としては ついぞ表象し得ません。人間が 言葉を用いて持つにいたった概念ですが これの内容を 事実としては人間は認識し得ません。

 二で割っても三で割ってもその商が それ自身としての無限であるというその無限は このように想定した神のことです。説明は出来て 持ち得ているが そのものが経験事象として認識しうるわけではない。――これが 《非経験の場》のことです。




 ★ どうでもいいですがno.1さん「光を超える事が出来ない」と仰っていますが、じゃあニュートリノが光の速さを超えたのはどのように説明するんですか?
 ☆ これは その実験結果が マチガイであったのではないですか? いづれにしましても お答えがあるかと思います。


 ★ ヒラメキや直感についてですが、これは超心理学の分野だろと思います。超心理学というのは不確定の理論をなんとか証明してとりあえず、絶対的に存在するであろう限界まで証明する分野です。
 ☆ これには従えません。つまり 問題は ヒラメキや直感があるか無いかではなく――つまりマチガイなくありますから そうではなく―― ヒラメキをとおして 先ほど述べた《非経験の場》が――わが心としては 《非思考の庭》として―― あたかも捉えられるか にあります。

 次のように捉えています。

 ○ (ひととしてワタシなる存在の成り立ち) ~~~
 
   非思考の庭(しんじる。心の明け。直感かつ直観)
   ________________
   思考の緑野(かんがえる。⇒田園および都市)
   感性の原野(≒直感・ヒラメキ)
   ________________

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ★ bragelonne さんが「そうなのか!」と思っている状態であって
 ☆ これは ちがいます。
 (あ) わたしは分からないので いったいどういう内容なのかが知りたい。おしえて欲しいと言っています。
 (い) しかも 分かる範囲では 哲学として これこれの見方はおかしいと思われるがどうかということをも問うています。
 (う) 《そうなのか どうなのか》が分からないので 問うています。
 といったところでしょうか。

 さらに問い求めていきたいと思います。
 

お礼日時:2013/08/09 06:42

 あくまで現行の数学に基づいた(と自分が考えている)範囲での応答です。



 絶対無(限)は、実無限に対応すると思います。一方、不確定性無限は仮無限と呼ばれるものだと思います。

 以前に議論しましたように、実無限は無限公理(無限集合は存在する!)という独断を必要とする無限です。仮無限の方は、無限公理がなくても想定できる、経験事実の一般化です(普通に言うと、何かを何々した極限になります(^^;))。

 しかし厳密な「有限の立場」では、仮無限も認められません。極限操作は絶対に完遂できないからです(経験世界に属さない)。そこで数学では、仮無限などと中途半端な事は言わない方がお得だ、となり、実無限を一気に「存在として認め」、仮無限はそれに対する人間の「観測結果だ」という立場を取ります。

 実無限さえ認めれば、(実際には見れない)極限操作の結末を保証できるからです。


>(*全ての存在は、量子的な不確定性=確率波動性に基づいており
 無限につめ込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。

については、確かにこれの物理モデルはホワイト・ノイズの重ね合わせで物理的に検証できますが、その数学的正当化の根底には、上で述べたように実無限がいます。つまり実無限のみに基づいて、このような現象を説明するような体系が、既にあるという事です。

 つまり絶対無=不確定性無限ではありませんが、これをこの後の段落へ結び付けるには、どうしたら良いのか自分にはわかりません。

 あくまで現在の技術に基づいた話なので、結びつかない気がします。
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この回答へのお礼

 でぃーでぃーてぃーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 絶対無(限)は、実無限に対応すると思います。
 ☆ そうですか。そうだとしたら ここは《絶対》という概念の意味をめぐって もうひとつ別の解釈がありうると言わねばならないと思うんですが。・・・

 なにしろ《絶対》ということであり 相対性ないし経験世界のことではないと言っているわけですから。

 因果関係に従う場合 あるいは 数量が一定のかたちを持ち得るか たとえ持ち得なくても 測ることが出来ると見なされる場合 というのは いくら無限という言葉をつかっても 限りはあります。経験しうるという規定に服しますから。

 《絶対》は そうではないはずです。
 いや そんなものはないと言っても そのように《絶対などはない》というかたちで 絶対のことをみとめた格好になります。《ある》とも《ない》とも証明し得ないのですから。経験合理性によって――因果関係から自由で 数量による認識をも超えているゆえ 経験合理性によっては―― 検証しえない何ものか これを 絶対と言うのだと思われるからです。

 ですから 絶対はないと言っていても それは けっきょく想定として《無い神》を立てているという結果になります。絶対を人間がどうにかして思うように処理するなどということは 出来っこありません。それが 《神》です。

 もし
 ★ 絶対無(限)は、実無限に対応すると思います。
 ☆ ということでしたら 言葉は《絶対》と言っていますが この《不確定性無限》にひとしいとされる《絶対無》は そうすると 《相対的な〈絶対無〉》のことだとなります。

 その絶対無に対応するとされる
 ★ 実無限を一気に「存在として認め」
 ☆ るという操作をするのだということですが これは もともと経験世界の事象として・その意味での《存在》という範囲には入っていたわけだと思います。ただ 可能無限ないし仮無限が 《限りなく》という操作をともなうので 事実性にとぼしい。ゆえに これに事実性を 簡便法によって 持たせるのが 実無限なのだと思います。――つまり あくまで経験事象である。と言わねばならないと考えます。


 でしたら 《絶対 つまり 絶対有または絶対無》とすれば この経験事象をすでに超えている。こう 初めから 設定すると言いますか 設定されている。はずです。《絶対》ないし《神》という言葉を持ったときから ついてまわるサダメです。あるいは そういうサダメのもとにあるのが人間存在であるゆえ そういう言葉を持った。

 この《非経験の場》としての《絶対》については どうしても受け留めなくてはならないものと考えます。





 そのあとのお話は つまりそのお話も けっきょく《実無限》という想定の上に成り立つということでしょうか。 
 ★ ・・・その数学的正当化の根底には、上で述べたように実無限がいます。つまり実無限のみに基づいて、このような現象を説明するような体系が、既にあるという事です。
 ☆ ですから 質問者の焦点としましては そのように《実無限 またそれとしての 絶対無》も 経験世界に属するものでしかない。このことを確認するところにあります。

 言いかえると 経験世界を超えたところの何ものか としての絶対 ないし 非経験の場 これの想定に関心があります。

 言いかえると もしそうではなくあくまで経験事象としての《絶対無=不確定性無限》のことを持ち出すのでしたら それは そのまま経験事象であるのですから その内の何を取り出して認識したとしても それはすべて 相対的な事物の認識にしかならない。つまり そういう意味で《宇宙にあるものは すべて互いに補完し合っている》と言って言えなくはないでしょうが そんなことを言っても・つまり認識しても ただの同じたぐいのものの中での堂々巡りにしかならない。――こういうことではないでしょうか。



 といった伸ばしたところの話は 分からないということなのですね。考えようがないといったところでしょうか。
 それはそれとして うけたまわります。




 けれども 無限を二で割っても三で割っても その商はいづれも やはり無限である。というのは 絶対としての絶対を 想定していると考えられます。




 

お礼日時:2013/08/08 23:12

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