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古今和歌集、大河内躬恒の
「夏と秋と行きかふ空の通ひ路は かたへ涼しき風やふくらむ」について

季節の変わり目を読んだ歌ということなのですが、なぜだか私には「現実逃避」の
意味合いもあるように思えてなりません…

この「人」は、生きづらくままならない現実(蒸し暑い夏でイメージ)の中で身動きがとれずにいるけれど、空には秋(涼しい風が吹いていて楽になれる境地)との境目があり、その境目の向こうに行けるものなら行ってしまいたい…という思いで、その人はその境目の向こう側を眺めている、というような^^;

立原正秋氏の「残りの雪」という小説にこの歌を引用した箇所があり、
そんな風に感じました。
まったく見当違いでしたらすみません。いかがでしょうか…??

A 回答 (2件)

medama317さん、こんばんわ。




そうですね。でも、どうでしょう?彼の地位はその当時の歌壇での名声に比べてとても低い地位だったと思います。彼は和歌で名声を得て出世や官職を得る糸口にしようとしていたのかもしれません。この人ではありませんが、壬生忠見という人は歌合せに敗れて悶死してしまったところから相当真剣な気持ちで歌を作っていたのかもしれません。
ちなみに奈良時代からの教養である漢詩に比べ、この頃和歌はやっと勅撰集ができるまでになっていましたから、貴族の公式な教養になったのです。だからこの頃盛んに歌合せが行われたのです。
下記のURLを参照してください。

壬生忠見
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%9F% …

凡河内躬恒
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A1%E6%B2%B3% …
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感興をそぐ様で申し訳ありませんが、古今集を一通り読んでみると、要するにこの歌集は言葉の遊びに過ぎないと感じます。

感動などまるでありません。当時は何回も何回も歌合せをやっています。テーマに沿った歌を合成する技を競うのが趣旨でした。ただ、文学とはある意味で言葉の遊びの極致、そう思うと軽さを楽しむのも一興かと思います。

凡河内躬恒の代表歌は

心あてに折らばや折らむ初霜のおきまどはせる白菊の花

これに対して正岡子規は以下のように評しています。

此躬恒の歌百人一首にあれは誰も口ずさみ候へども一文半文のねうちも無之駄歌に御座候。此歌は嘘の趣向なり、初霜が置いた位で白菊が見えなくなる気遣無之候。……

(正岡子規『歌よみに与ふる書』)

子規に大いに同感です。
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