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最近(といっても結構たつけど)ら抜き言葉が目立ってきてますよね。そこらへんにいる高校生などがよく使っていますよね。またはテレビに出るタレントやお笑い芸人も良く使っています。まだここまでは許せる。

しか~し!最近ではニュースのアナウンサーや、番組のナレーターまで使っているではないか!私はこれは許せないことだと思う。アナウンサーなど(アナウンサーたる者)が「ら」抜き言葉を使っていいんですか?別の言い方をすると、アナウンサーまでもが使っているのだから、ら抜き言葉はどんどん広まってしまうではないですか。もうら抜き言葉は文法的に認められてしまったんですか?

皆さんはこの事態をどうに考えますか?意見を聞かせてください。

A 回答 (17件中1~10件)

今日別の「ら抜き」的現象に出会ってしまったので、それを紹介だけしておきますね。


普通の「ら抜き」は可能の用法で使いますが、使役の「ら抜き」というのもどうやらあるのではないかと思ったのです。
こういう一文があったのです。トルストイの翻訳ですが。
「かわいそうだから今度だけは、家に帰らしてやる。お帰り」
これに僕は違和感を抱いたのです。「帰らせて」が「帰らして」になっているのはいいとしても、「帰る」+使役の助動詞を使うくらいなら、どうして「帰す」という動詞を用いないのだろう。帰してやる、でいいのではないか。
「戻す」を「戻らせる」にすると違和感がありませんか?
でも、僕が推測するに、もともとは「帰らせる」「戻らせる」が先で、それから単純な動詞ができてきたのではないでしょうか。
そうすると、今日本語を使っている人間のことを、百年くらい前の世代の人はどう思うでしょう。
そんなことをちょっと思ってみました。
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この回答へのお礼

回答してくれた皆さんへ。
こんなに回答がくるとは思っても見ませんでした。それほど皆さんが言語に関して意識を持っているのだと思います。しかし自分の考えに完全に一致している回答もなくて少しさびしい気もします。べつにこれは、私が皆さんの回答を全面的に否定しているということではありません。正直言って、読み始めのうちは意気消沈しました。しかしよくよく考えてみたら十分納得できることだと分かりました。以前古典の授業で、「○○時代の文法はこうだけど、●●時代はこうだよ」と教わったとき、なんの違和感も覚えませんでした。これと同じことなんですよね。そういえば私もら抜き言葉こそ使わないものの、ほかの間違った文法の使い方をしていたりしました。たとえば「全然」。この言葉の後には、否定する語が続かなければならないのに、肯定する言葉を続けてしまったり。ほかには最近の変な言葉を使っていたり・・・。ふと気が付いたのですが、「好きじゃない」を意味する言葉を、「好きくない」というのは一応今のところ間違いですよね。この言葉は使ったことがありませんが、ら抜き言葉の次に聞き苦しい言葉です。ついでにもっと言っておくと、これは間違っていないのでしょうが、気になる言い方があります。それは、「最も○○のひとつ・・・」という表現です。これはどんなに考えても納得いきません。
・・・とまあ話が少々ずれてしまいましたが、言語は変わっていくもので、何もそんなに悲観することはないということが良く分かりました。それと、ら抜き言葉が明治時代から使われていたことや、雪国にも出てきているということを知り、非常に驚きました。しかし近頃本当に新しい言葉が生み出されていますが、あまり簡単に(軽い気持ちで)日本語を変えていってほしくないものです。皆さん回答ありがとうございました。できれば、このお礼の中にある質問にも答えていただいたら幸いです。(「好きくない」と「最も○○のひとつ・・・」)。よろしくお願いします。

お礼日時:2001/06/05 17:14

もう10年近く前になると思いますが、


「ら」抜き言葉が世の中に浸透して間もない頃、
国語委員会だか日本語委員会だかいう、辞書や教科書に
使う「正しい日本語」を決める組織のようなところが、
「ら抜き言葉は正しい日本語と認めない」という
結論を出していたと思います。
これを受けてコンビニの「ミニストップ」の
「しゃべれる・食べれる・ミニストップ」という
キャッチフレーズが使えなくなったはずです。

その後どうなったかは知りません。

私の個人的な意見では、「ら抜き言葉」は肯定的です。
例えば「見られる」という言葉は文字で見ても、
音にしてみても受動的な意味の方が先に浮かびますね。
実際は「見ることができる」という可能を意味する言葉でもあるわけですが、これは誤解を招きやすいと思います。
ですから一般に使われている「見れる」を可能の意味として認めてやってもよいのではないかと考えます。

過去にも言いやすいからという理由で一般的になった言葉はあります。

例えば「だらしない」
これは「ふしだら」と同等の意味で「しだらない」が正しい言い回しなのだそうです。
それが言いやすいように変化してきてその過程で意味合いも少しずれてきているのだそうです。
「新しい」も「あらたしい」が正しいのではないかという説があります。
「新」の訓読みが「あらた」であるからというのがその理由です。

「雰囲気」は読み仮名は「ふんいき」ですが、発音するときは「ふいんき」の方が通りがよくなってきています。

関係なさそうですけど、写真の「焼きまわし」なんかも
何の疑いもなく使っている人が多いけど、「焼き増し」が正解ですね。

よく、良識をふりまわす大人が「正しい日本語」を使えといいますけど、古文の授業があるほど日本語は変わってきているのに何が「正しい」のかと思ってしまいます。

一説には「日本語」は韓国あたりから沖縄を経由して日本に入ってきたというものがあります。
その説で言うなら、韓国語こそ正しい本来の日本語ということになりますね。

そうじゃなくても日本には「大和言葉」というものがあって沖縄弁こそその「大和言葉」を継承する言葉であるという説もあります。
私見ですが「めんそーれ」なんてその後「お目にかかって候」という言葉に変化した可能性もありそうです(逆もあるかもしれませんが)

ですから少々日本語が乱れても目くじらを立てるほどではないと思います。
ただし、変化する前の言葉もちゃんと知っていた方がいいとは思いますけど。

とはいっても、仮にも正式に「認められない」言葉を雑誌やテレビなどの公的な場所で平気で使っているのを見ると私もツッコミたくなりますけどね(笑)

あと、携帯のコマーシャルでやっているけど、
「サバイバル」や「イタメシ」を「日本語」と言ってはばからないのもどうかと思いますね(笑)
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>「最も○○のひとつ・・・」



これは英語でよく出てくる表現の直訳に由来するのかもしれません。
英語は大げさな表現が多いですし。
私は「有数の」とか「最○級の」とかで訳したりしますが。
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川端康成の『雪国』にも駒子の台詞でラ抜き言葉が出てきたりしますから、今に始まった事ではないんでしょう。



そんなに切迫した問題ではないと思いますよ。
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「正しい日本語」というものは、私は存在しないと思っています。

あるとすれば、
例えば文部省国語審議会(?)の基準に沿った日本語とかNHKアナウンサーの
マニュアル(?)に従った日本語とか、そういうものであって、それらは、その
基準の中では「正しい」と言えるものかもしれませんけれど、言語そのものは
もっとダイナミックに使われ、変化していくものだと思います。
ただし、gessiさんのような立場も、全面的に否定しようとは思いません。
「正しい日本語」はないとしても、日本語を使う一人一人がある表現を美しいと
感じたり、逆に美しくないと感じることはあるでしょうし、美しいと感じたもの
について他の人の共感を求めることは、決しておかしいことではないと思います。
(もちろん共感を得られないこともあるでしょうけれど。)で、ら抜きではない
言葉を維持しようとする立場には、私は「共感」(「賛成」ではなく)します。
以上、必ずしも美しくもない日本語ですみません。
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言葉にとってもっとも大切なことはこだわりではなく、


しゃべりやすさと、気持ちの伝わりやすさの二点です。
ひたすら文法に従うというのなら、gessiさんは既に矛盾を犯していますよ。
質問の冒頭、「ら抜き言葉が目立ってきてますよね。」って
「ら抜き言葉が目立ってきていますよね。」の「い」抜き言葉ではないですか。
(「い」抜き言葉にも賛否両論ありますが…。参考URL参照。)

それは普段gessiさんが「きています」がしゃべりにくいのを無意識のうちに認識して「きてます」に短縮しているのに過ぎないのです。
もともとら抜き言葉は「られ」を短縮して「れ」になったものです。
ラ行の言葉はもともと続けて言うのが難しいのです。
ラ行は舌を毎回口蓋に当てなければ発音できません。
試しに「ラレリルレロラロ」と言ってみてください。
gessiさんが早口言葉が非常に得意なら別ですが、おそらく言いにくいはずです。

日本語はそういった言いやすさを追求してきた結果現在の形になったのです。
それが、音便であり、美しい日本語の基礎でもあるのです。
ぜひ、gessiさんには「平家物語」を読んでほしいと僕は思います。
「平家物語」は琵琶法師によって語られることによって発達したために言いやすさを追求した結果の完成作品となっています。
文法をかたくなに守って「平家物語」を読むのと、
流れるような調子で進んでいく「平家物語」のどちらが人に感動を与えるか比べてみてください。

gessiさんはおそらく日本語の乱れが日本語の破壊をもたらすことを恐れているのではないでしょうか。
もちろん日本語の乱れが日本語そのものを破壊してしまうこともありえます。
「むかつく」「チョベリバ(古いですが)」など、感情の発散が単一的かつ短絡的に行われることは日本語の破壊のみならず、人格の破壊まで起こしかねない問題です。日本語には感情だけでもそれを表す言葉は数知れずあります。それらの言葉を乱雑に扱ってすべて「むかつく」といった言葉に集約していくのはあまりにも無理があり、感情と感情が激しくぶつかり合ってしまう事態となってしまいます。
語彙の減少、画一的な会話、これはぜひ改善していくべき課題です。

しかし、それにはかかわらない、つまり、「ら抜き言葉」に代表される言いやすさという問題は全くの別問題です。言いにくい言葉は淘汰されるのが世の常です。
それでも守っていくという強い意志がgessiさんにあるというのならそれはgessiさんの勝手です。その意志は僕は最大限尊重したいと思います。

ただ、そこまで追求するというのなら、あまり言いたくはありませんが、
せめて「です・ます」調と「だ・である」調は統一してください。
この二つの調の混用は意見の強調に過ぎません。文法上は×ですよ。

言葉はあくまでコミュニケーションの手段の一環でしかありません。
こだわることも大切ですが、もっとも大切なのは
「自分の感情を相手にどれだけ理解してもらえるか」なのです。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=78654
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過去に同様の『ら抜き言葉』についてのご質問があり、その場でも述べたことがあるのですが、明治時代に制定された関東及び東北方言を基本として作られた『標準語』においてのみ問題となることでしょう。


少なくとも明治時代初期には大阪でら抜き言葉は普通に使われていました。他の地方でも伝統的にら抜き言葉が遣われてきています。
日常会話において、『ら』が入っているために曖昧になってしまう受動と可能の使い分けを意識した結果、そうなったのではないかと想像することは難くないですネ。

ら抜き言葉と違ってほとんど問題となっていないのが、鼻濁音ですネ。
これは関東以北の地域方言が標準語に取り入れられたものですが、元来関西をはじめ多くの地方には存在しなかった発音であり、日常生活でも全く取り入れられることなく、アナウンサーなどの間と一部の地方でのみ用いられているものですネ。

時代によって言葉は変わって行くものです。その中で、最も守り続けていかなければならないのはバックボーンとなる文化を無視して作り上げた言葉である標準語ではなく、地方文化・地域文化の原点でもある方言であると考えています。
ですから、各地の方言の中での文法や用法というのは尊重されるものであり、標準語と異なることにより迫害を受けるものではないと考えています。
以上kawakawaでした
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「ら」が入ることによって、逆に分かりにくくなりませんか?



『食べれる』と言ったら
「食べることができる」の意味だとすぐにわかりますが、
『食べられる』と言ったら、
「お客様が○○を食べられる」(尊敬語かな?)の『食べられる』なのか、
「食べることができる」の『食べられる』なのか、分からないですよね。

こういうことの「区別」として、
言葉が時代とともに『進化』してきたんだと僕は思っているんですけど。
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 私自身は「ら抜き言葉」は好きではありません。

できるかぎり使わないように気をつけています。gessiさんがおっしゃるとおり、最近のアナウンサーやテレビ番組のナレーションなどで「ら抜き言葉」が使われているのを耳にすると私自身は確かに違和感を覚えます。「ら抜き言葉」は国文法で未だ正式な用法として認められてはいませんし、アナウンサーの仕事はただニュースを国民に伝えるというだけでなく、同時に「標準的な正しい日本語」を伝えるという側面も担っていると、私は考えているからです。
 ただし、日常の会話の中で例えば家族や友人などが「ら抜き言葉」を使ってもほとんど気になりませんし、違和感も別段感じません。私のこの「ら抜き言葉」に対する考え方は私の中で矛盾している、あるいは二面性をもっているのですが、自然に考えれば言葉はやはり生き物です。時代の流れと共に変化していくものであり、それこそが自然な言語の姿ではないでしょうか。今私達が使っている「常識的に考えて正しいと思っている日本語」も、やはり100年、200年前の日本人が耳にすれば間違いなく違和感を覚えると思います。「そんなものは日本語ではない!!」と言われることでしょう。
 「ら抜き言葉」が問題になっているのは、いわゆる「可能形(見られる)」と「受身形(見られる)」の混同に関することではないかと思うのですが、一般的に考えて日常生活の中でこの両者の用法の違いを取り違えるということは、まずありません。話の前後関係の中で容易に判断できることです。考え方によっては、可能形の「ら」を省くことで「可能」の意味をより前面に出した「新しく且つ合理的な使い方」とも言えるかも知れません。「ら抜き言葉」自体はここ5年とか10年とかいう最近に始まった新しい現象ではなく、実は50年とか100年とかいう前から既に指摘されていたことです。また、東京近辺の地域でも場所によっては「ら抜き言葉」の方が実は正しい使い方というところもあります。「ら抜き言葉」がこれほどヤリ玉に挙げられているのは、少し古い言い方かも知れませんが、「コギャル」とか「ガン黒女子高生」などといわれた人達が一時期マスコミの注目を集め、彼女達が「ら抜き言葉」を使っていた(いる)ために、特に指摘されている部分もあるのではないかと思います。前にも言いましたとおり、言葉は生き物ですから彼女達が使っている「ら抜き言葉」や「短縮語」も含めて、これもまた「新しい日本語の形」あるいは「新方言」などと呼べるものかも知れません。言葉は古今東西を問わず、やはり簡素化、使用者の使い易い方向へ変化していこうとする性格を持っています。逆に考えれば、「ら抜き言葉」という新しい言葉の使い方や次々と新語が生み出せる日本語という言語は柔軟性を備えた素晴らしい言語なのだとも、私は考えています。日本語は今「言語の揺れ」の時期に差し掛かっているのではないでしょうか。
 だからと言って私は「ら抜き言葉」の使用を推奨するつもりは毛頭ありませんし、私自身は今後も「ら抜き言葉」は極力使わないようにしていきたいと思っています。この現象を「言葉の乱れ」と捉えるか、「言葉の変化」と捉えるかは、その人の言葉に対する考え方の違いに過ぎないと思います。
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私は無論、専門家でも何でも有りません。

一市民です。
私自身も流行り言葉には思わず「ピクッ」ってなっちゃう方ですが、乱暴な言い方をすれば古来の日本語から「乱れに乱れて」現代語になっている訳ですから、容認(この言葉が正しいかどうか私自身迷いますが)せざるを得ないと言う結論に達します。
 それよりも私が危惧するのは、最近のお若い方に流行の「曖昧口調」の『方』です(笑)。
報道による分析では(結構当たり前の考えですが)、仲間内でさえ意見をハッキリ言えない、言わない・・そんな人間関係から発しているとの事ですので、これは私は本当に深刻な問題だと思います。

「美味くない? 」。
1.これって美味しいよね。
2.私は美味しいと思いますが、あなたはどうですか?
3.私はあまり美味しくないと思うのですが、あなたは美味しそうですね、どうですか?
4.これって美味しいの?(不味いのかな?)
一体、どれやねん、ハッキリ言わんかい!!
皆様ご承知のとおり、全部含まれているんですよね。
大げさに言えば、こう言った人間関係しか築けない現況が、様々問題(犯罪を含め)の原因であったりするのではとつい考えてしまいます。(有る意味、結果かも)

・・・・って話が逸れてしまいましたね。
以上、一市民の戯言でした。
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