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精神疾患で、障害者と呼ばれることに抵抗があります。正直な話、常識的に言えば障害者というと身体の方のことと思います。手足が不自由な方と同じにされるほどの障害ではありません。
純粋に幻覚に悩まされたり、気分が落ち込んで社会生活が困難というだけです。

それを世間が理解せずに知的や身体の方と同じで3障害まとめてとは失礼ではないでしょうか?
心の声が聞こえるなどといった人は以前に重宝されたことがあると本で読みました。

精神障害といえば、確かに障害者かもしれませんが、完全回復可能であり、全体の3分の1はそうなると言われているのですよ?

一生背負っていく病気などとても的外れの勘違いです。精神科医療がそういっているだけでそれは営業上の目的に過ぎません。

精神疾患者を障害者とは偏見としか思えませんが、皆様はどうお考えですか?
教養のある方に回答をお願いしたいと思います。よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

世の中に精神障害という言葉が存在し、精神福祉手帳というものなどが存在する限り障害者はそれを認めるべきです。



認めないというなら社会から外れて1人で生きていくしかありませんね。精神疾患で周りと協調性を持ってやっていけない時点で障害なのですが、もし周りと一緒にやっていくおつもりなら、どんなことがあっても障害のことを一切口に出さないで頂きたい。
当然、障害者手当や障害年金その他障害者が受けれる公共サービスは受ける権利ありませんよね?認めないのであれば。
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この回答へのお礼

確かに障害手当てをもらって障害者と呼ばれたくないは、無いですね。回答者様の年代を簡単に教えていただければ幸いです。

お礼日時:2014/08/07 22:54

偏見自体は大多数に理解されにくい構造だからこそ偏見として成立する。



だから、共感者が圧倒的少数派になれば、ある意味で偏見として成立しているとも言えると思う。

同じ立場をイメージしたら、なんなく私は嫌だと思った。だから偏見があるとする。


まあ、普通に考えれば「障害者」とか誰も成りたくない。

障害者になる前から既に、「障害者」に対して絶望的なイメージあるし、生理的に染み付いてると思う。

言論上にたとえ問題がないとしても、当事者的に障害者の文字列を持てば、絶望を植えつけられる要素はあるのではと思う。

そもそも、その言論に耐えなければいけない理由とか、正当化する理由なんて一つもない。まあそれは身体障害者や知的についても言える。


第三者はともかくとして、
同じ立場なら同じ様に思う人は多いのではないかと思う。

特に精神病は身体や知的障害者と違って、他人や社会からの理不尽なストレスを受けてなってくケースも含まれるのだから、社会が「加害者」の方程式になる。

加害者が勝手に決めた言葉にどうして被害者側が受け入れないといけないのか、そこに公平間の無さ理不尽さを感じる。
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失礼致します。

私はアスペルガー症候群という発達要害の診断を受け、精神の障害者手帳三級を認定された者です。生憎短大卒なので、教養という面では、他の方に劣ることと存じますが、寛恕いただければ幸いです。

質問者様は、身体・知的の障害者の方ほど、苦しんでいないと仰いますが、たぶん違うと思います。精神の障害に区分けされるのは、それらとは違う苦しみを持っているからだと考えるからです。身体の方は、五体が自由に動かない苦しみ。知的の方は、どうなのでしょう?私は、伝達手段と感知手段が絞られる苦しみを抱いていると感じますが…精神の方は、五体は動くし、言動も普通のときは普通ですが、そうでなくなった時との差の苦しみがあるのではないでしょうか。
たぶん、困難を感じている部分が違うのです。だから三種類に分けられた。現実的に、括りをあまりに細分化しすぎても、全体が捉えられなくなってしまうのではないでしょうか。質問者様は、お嫌いでしょうが「障害者」とは、何らかの困難を抱えた人と捉える言葉としては、適当ではないかと愚考します。後は、ジャンルわけから、個々人に深く入り込むのは、個人対個人の話ではないでしょうか?
その点では、前回の質問でNo.6・7の方が仰るように、「障害者」というのは、記号であって、意味は無いと思うのです。

少し聞きかじりの話となりますが、南洋の島では昔、精神病は無かったそうです。ただ、悪霊の呪いがあり、呪術師が対応していました。その島に精神科医が訪れ、島民を診断し始めました。しばらくすると、悪霊の呪いはなりを潜め、代わりに精神疾患の患者が、悪霊のの呪いと同じような数ほど、現れたそうです。この話が真実かどうか、私は検証する術を持ちませんが、つまりは見方の問題といえるのではないでしょうか?
神がかりの巫女は、確かに古い時代には重宝されました。しかし今の人々は、予言に頼らずとも別の方法で、明日の天気も、ある程度未来のことも予測できます。神がかりは、その必要性を減じ、別の、もっと今の大衆に理解しやすい形に変容しました。それを促したのが、精神医学と、私は考えます。


私も、現在転職活動中ですが、「アスペです」と言うたびに、「テンカンか」とか「そんな得体の知れない人間は雇えない」と、内定直前の段階でもいわれています。それは認識が違うだろうとも思いますし、偏見だよとも思います。けど、それが今の現実で、それは精神医学の陰謀とは、私は思えないのです。
かっては受け入れられていた社会が、今は変わってしまっただけ。昔と今は、ルールが違い、昔は一定の分野で重宝がられていた存在も、排除の対象とされてしまっただけと、私は考えています。

質問者さまの仰ることは、私も似た気持ちだとは思います。でも、いつの時代も偏見はあり、それを覆そうとする存在も、偏見を、受ける側から現れていると、私は考えます。例えばアインシュタインとか。
質問の回答としてまとめると、精神疾患は、障害です。ただ、過去には違う見方をされており、最近特にクローズアップされ、それに対する世間の認識が、追いついていない。それは容易に偏見へと転じてしまう。だから、偏見はあります。ルールが変わったので、偏見をなくそうと思えば、今度はこちら側から、ルールの変更なり、認識の変化を働きかけるべきではないですか?となります。

最後に、私は世間とずれています。たぶん、一生これとお付き合いすることになるでしょう。治らないかもしれない立場の人間から言わせてもらえば「三分の一が治るから、そんなにひどい障害じゃない」といわれても、困ります。
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大辞林 第三版の解説


しょうがいしゃ【障害者】

身体または精神に何らかの障害をもつ者。心身障害者。

出典:三省堂
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デジタル大辞泉の解説
しょうがい‐しゃ 〔シヤウガイ‐〕 【障害者】

身体障害・知的障害・精神障害(発達障害を含む)その他の心身の機能の障害があり、障害および社会的障壁によって継続的に日常生活や社会生活に相当な制限を受ける状態にある人。
◆「社会的障壁」とは、障害がある人にとって日常生活や社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物・制度・慣行・観念その他一切のものをいう。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩



編纂に関わった人たちは教養があるでしょうね。
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この回答へのお礼

皮肉ばかり言ってますが、見え見えですよ。

お礼日時:2014/07/20 10:10

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