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天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?

A 回答 (19件中1~10件)

No.10です


わざわざお礼を記入して頂きありがとうございます。
お礼の中に二三ご質問と言いますが疑問点がおありのようでしたので追加の説明をさせて頂きます。

>幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?
正面から制度としてやったことはありませんが、現在の日銀の為替介入のような形で、市場からの買い上げを何度かやってはいました。
どの程度の規模買い上げたら効果があるのか、等と言う近代経済理論に基づいたものではなくエイヤッと見繕いでした。
結果として左程の効果はありませんでした。
幕閣のアリバイ工作にはなったでしょう。
一方江戸時代の中頃1730年前後から大阪で米の先物取引が始まっていました。
現在世界中で行われている商品先物取引は大阪が発祥の地です。
つまり現物取引と先物取引が現在と同様に混在して市中価格が決まっていました。
ただでさえ経済に疎い幕閣には到底理解ができなかったようです。
この程度の経済知識のレベルでの判断でやる市場介入ですから効果を期待する方が無茶でしょう。

ではなぜ制度的にやらなかったのか、という点については、いろいろ議論はあります。
幕府という組織はあくまでも軍事組織で、勘定方も戦費調達係のような位置づけではじまりました。
市場は全くの自由経済市場でした。
おそらく、室町時代からあった座という独占経済体制を織豊時代に破壊して楽市楽座という自由経済体制に移行させていた考え方がそのまま継承されて放置されてしまったためかと思います。
関ヶ原の戦も終わり100年程経ったころには、経済力は完全に町人の手に移ってしまっていました。
いわゆる元禄時代の到来です。
政治体制は戦国時代のままで、肝心の武家自身の日常生活は貨幣経済に飲み込まれていました。
この状態で、幕府による米の専売制度化は不可能に近い状態になっていました。
そもそも元禄時代直後の享保の改革などいう経済政策を行わなければならなくなったのは、家康時代にセッセと蓄えた資産を食いつぶしてしまった結果でした。
ロクに財源もないのに専売制は到底やれるものではありませんでした。

>インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?
需要と供給の関係です。
一つは、大名連中は収入=米を増やすためにセッセと領内の新田開発を進めました。
年貢といいますのは、あくまでも村単位で課税されるもので現在の所得税にように個人単位のものではありませんでした。
村の中で誰が納めるのか、ということになり、当然大地主の裕福な農家が納めることになりました。
つまり一定規模以下の農家は無税でした。
この年貢を負担した農家を本百姓、無税の農家を水呑百姓と呼びました。水呑は正式な身分呼称として扱われた名称です。
大地主は租税負担を軽減するために実際に農作業に従事していた人達に田畑を小分けして割譲しました。
他人の田んぼと自分の田んぼでは労働意欲が違いますから自然に村全体の収穫量は増大していきました。
田畑の割譲は「たわけ!」と悪口に使われるほど武家は嫌って禁止もしましたが収まりませんでした。
禁止令がでていますが、それ以降の日付の割譲契約や売買契約の書状が沢山残っています
ということで米の供給量は年々増えていきました。
武家が米を現金に換えるのは大阪か江戸でした。
つまり、この二大都市では米は必然的に潤沢にありましたから米の相場価格は下がり続けました。
年ごとの作況による上下は当然ありました。
一方、衣住のほうは平和な時代ですからいくらでも需要がありました。
食も米以外の食材への需要もいくらでもありました。食材も贅沢になっていきました。
そもそも倹約令なるものが度々だされるのは、年々贅沢になっていき倹約令そのものに効果がなかった結果です。
インフレになれば即値上がりしました。
つまりインフレ効果は米価には影響が極めて少なかったとお考えください。
武家の収入は米だけですから、たちまち貧乏になってしまいます。

>何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
まったく使わないのではなく江戸にいるよりも使わなくて済んだということです。
戦が無い時代の大名というのは、冠婚葬祭、節句行事などが最重要な仕事でした。
これに伴う贈答費用いわゆる慶弔費、交際費です。
年々派手になり半端な費用ではありませんでした。
しかも最も喜ばれるのが小判でした。
江戸時代の金貨である小判というのは、通貨であるとともに贈答用の景物という性格も持っていました。
大判は景物として最高のものでした。(むしろ通貨としては使われませんでした)
幕府もたびたび倹約しろ!といいますが幕閣自身が見栄の張り合いをやっていましたからどうにもなりません。
大名と呼ばれるお殿様は日常は一汁一采が普通でたまにつく魚も鰯か干物でした。
これが来客となるといわゆる大名料理がずらりと並びました。
形式第一主義社会を生きるのは大変です。
つまり国元に引っこんでいれば交際費はかかりません。
江戸城へ出かかるための行列をそろえる必要もありません。
形式見栄の時代ですから、喰うものを喰わなくても行列は飾りました。
食材も潤沢に現物が手に入ります。

蛇足
交易で得る金額などたかがしれていました。
木造帆船で運ぶ貨物量などたかが知れています。品物の価格もしれたものです。
100両のツボを1万個売ってもせいぜい100万両です。幕府や大名家の財政規模とは桁が違います。
秀吉の時代とは経済規模が違います。そもそも人口が違います。
交易で財政が潤うのであれば長崎での交易を独占していた幕府が財政難に陥る訳がありません。
薩摩島津家は500万両余の借金を抱えていました。
40年年賦払いなどとムチャクチャをやって明治時代も廃藩置県になるまで借金返済に走り回っていました。
金もろくに払わない薩摩の江戸藩邸に近寄る町人はいませんでした。
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この回答へのお礼

ichikawaseijiさん、追加の回答ありがとうございます。

なるほどお金が無くて米価のコントロールができなかったんですね。
他の大名と協力して米価のコントロールはできなかったんでしょうかね?

インフレの影響は米価にはほとんど影響がなかったんですね。
他のものはインフレの影響で物価があがってる、でも米価は下がってる。
困窮するのは当然というわけですね。合点がいきました。

大名は国元なら倹約できるからお金を使わなくてもいいということなんですね。

貿易は凄く儲かるという固定概念がありました。
でも言われてみれば昔の木造船じゃそんなにたくさん物は運べませんよね。よっぽど高価な物でも輸送しないと。
貿易で儲かったという説は怪しいですね。

いつも回答ありがとうございます。またお願いします。

お礼日時:2014/08/19 23:34

>組合費を高く設定すれば、それも同じことだと思うんですが。

それでは違うんでしょうか?
おそらく天領(幕府領)から近隣の他藩の領に商取引が多く流れるかと思いますが。
主要な商業地を全て占領しないといけませんし、信長秀吉の時代と違い廻船が整備された江戸時代中期以降となると不可能な話かもしれません。
現代だって法人税を高くすれば国際企業は他国に流れますし。
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この回答へのお礼

jkpawapuroさん、

江戸時代でもそうなるんでしょうか?
江戸時代の商人はそんなにあちこち移動できたんでしょうか?農民は逃げられないようにしてるイメージがありますが。

でも結局大阪と江戸で商売しないと儲からないと思うのですが。
買う人がいないと商売にならないし。

商人も自分が利益を独占できるなら高くても組合費を払うと自分は考えるのですが。組合側の商人にとっても楽市楽座で他の商人に利益が流れるより独り占めできた方が例え組合費が高くても組合側の商人にとってはいいと思うのですが。

いつも回答ありがとうございます。またお願いします。

お礼日時:2014/08/19 23:45

ithiです。

おはようございます。

インフレになっても、年貢を売って金に変える幕府にはあまり問題はないような気がするのですが


インフレになったら、貨幣の価値は下がります。ところがお米も豊作になったら価値が下がり、凶作のときは価値が上がり、とても、不安定でした。幕臣、特に小禄の御家人はその変動のお蔭で、大変でした。特に物価高だったときはお米を換金した金額では不足でしたし、借金などしておれば目も当てられなかったとか…
彼ら御家人の困窮は幕府にとって問題でした。
その詳細な内容は下記の本に書かれていますので、ご参照ください。

氏家幹人『小石川御家人物語』(学陽書房人物文庫、2001年)
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この回答へのお礼

ithiさん、たびたび回答ありがとうございます

インフレは米にはあまり影響なかったみたいですね。

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/08/19 23:36

subetenoaruji さん、こんにちは。

ithiです。



日蘭貿易で金銀が大量に流出したなら、なぜ貿易をやめなかったのでしょうか?


何回か貿易に制限がくわえられました。ただ、貿易の条件であるポルトガルやスペインなどカトリック教国の日本に対する計画情報を日本に通報するという条件があり、タイキリシタン政策や鎖国体制を維持するためにも貿易を禁止するわけにはいかなかったのでしょう。
また、金銀の産出量は五代将軍綱吉の時代に減ってきます。そのため貨幣改鋳を行ったのですが、これがインフレ状態を引き起こし、バブルになったのです。
詳細は下記のURLを参照ください。


海舶互市新例

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E8%88%B6% …

日蘭関係
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E8%98%AD% …
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この回答へのお礼

ithiさん、詳しい解説ありがとうございます。

うーんなるほど。そういう事情があるのなら辞めるわけにはいかないですね。
それにしても、その情報はそうとう高くつきましたね。
儲かるようにはできなかったんでしょうか?

インフレになっても、年貢を売って金に変える幕府にはあまり問題はないような気がするのですが

いつもありがとうございます。またお願いします。

お礼日時:2014/08/17 04:41

こんにちは。

 #11の再入場です。

幕府は密貿易をとがめなかったのですかとのご指摘は的を得ています。

薩摩が配下の琉球王国を通じて三角貿易をしている。 これは幕府の耳にも当然入っていました。 そこで動かぬ証拠を掴むため、密偵を大量に送り込みます。 しかし、薩摩藩はこれをことごとく関所近くで殺害しています。 その対策として薩摩弁をわかりにくくしたのです。 わざと方言を複雑にして他の藩の人間と簡単に識別出来るようにしたのです。 

しかも帳簿はすべて琉球にて保管。 痕跡を残さぬようにしていたのです。 

薩摩藩は九州の端っこですから、ここまで攻めて来る人間は先ずおりません。 そこで幕府は懐柔策に出ます。 薩摩藩島津家由来の姫君を将軍の正室に迎える。 島津重豪の娘・(近衛)寔子を11代将軍家斉の正室に、島津忠剛の娘・篤子を13代将軍家定の正室に迎えています。 

一方の長州藩ですが、ここは古来より関門海峡の激流で鍛えた船頭が水軍を率いて密貿易をして来ました。 海外では『倭寇(わこう)』と恐れられた海族である村上水軍などが本拠としています。 室町時代周防長州の領主だった大内家は明と直接貿易をしています。 このルートは鎖国となった以降も続いています。 長州藩を監視するのは松江藩ですがなにぶん距離が離れ過ぎています。 中国地方に幕府の味方である譜代大名は美作勝山、福山、岩国と数が少なく、いずれも小大名だった。 従がって中国地方では密貿易は比較的自由に行われていた。 

因みに私の曽祖父は文久三年の政変の際、長州寄りの七人のお公家さんを京都から萩までお連れする大役を長州藩士井上聞太(後の井上馨)を助け果たしています。 中国山脈沿いに譜代大名の領地を避けて行くルートを綿密に作り、実行しています。 因みに曽祖父は因幡藩(鳥取県)の人間です。 

その上、幕府は長崎の出島で貿易を行っていますが、ここ九州も周りは強大な外様大名が占めています。 さらに彼らは縁戚関係を結び結束を強めています。 中国・四国・九州は外様大名の天下だったのです。 しかもこれら外様大名は学問好きの名君が多かったのも事実です。 

徳川幕府が権力に胡坐を掻いて惰眠を貪っている間に西日本では着々と幕府打倒の動きが進められていたのです。 
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この回答へのお礼

なるほど、でもこの貿易で島津は儲かったのでしょうか?島津は凄い借金抱えてましたが

ありがとうございました

お礼日時:2014/08/20 00:01

希望の回答にはならないと思います。

 が、、、
 
ある体制が長く続いて、領土的拡張(経済圏の拡大)が続かないと、その体制は経済成長がとまり、政権や国家の財政は悪化し財政難というか赤字体制になるものだと思います。
現在の日本やアメリカ、この先の中国でも同じでしょう。

気候変動や天変地異、あるいは戦役などによる経済活動への影響・生産の障害、あるいは賠償金や軍事費、権力機構での蓄財や私的使用、濫費も影響があるでしょうが、そうしたものを上回る経済規模の拡大があれば、財政難を短期的には問題にしながらも、改革や支出抑制、税制改革、臨時徴収、国債発行などの借財でそれをしのぎ、中長期的、100年、200年と続けられると思います。
しかし、新技術による効率的生産、順調な気候、流行病が起きない、戦争などの損害もない、政治や行政もしっかりしているという条件に恵まれた状況が長く続いたとしても、自国以外の他の地域からの収奪や国際貿易での黒字幅を広げ続けるようなことが出来ない状態だ長く続くと、もうその国の経済は停滞をはじめ、やがて赤字財政になってしまいます。
 
織田が領土を拡大できる時期、豊臣が支配を広げる時期、徳川が体制を築き上げていく時期、明治政府が殖産興業で外貨を稼ぎ出せるようになる時期、敗戦後に世界を相手に輸出を拡大できる時期ならば、一時的に借財が増加してもやがて財政は改善します。しかし、ドンドンと領土拡大し続けられなければ、世界からの利益を引き出す速度が鈍れば、財政は悪化し始めます。
 
定常経済の中でも経済活動をしばらく続けることは可能ですが、自然の流れとして格差が拡大し、社会が一つのまとまった状態でいることが出来なくなって、やがて新しい動きが定常経済を前提とする社会を打ち壊してしまいます。
格差の拡大を抑制するための贅沢や浪費の自重・禁欲・格差縮小・貧民対策・富民からの特別徴収などの社会政策は一時の救済になりますが、徳川政権時代の各藩や幕府、社会主義政策をとっていた国々、現状の米国や日本もダメになっていきます。ケインズ的な景気刺激政策も、短期的効果しか出ません。
 
徳川政権下の250年間は(諸外国との取引拡大や領土拡大がほぼなかったのに、しかも災害は多かったのに)経済成長率0.4%と安定的に運営できたと高い評価をする方もいるようです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
狩猟採集時代は遙か昔に卒業していて、農耕や牧畜、工業もあり、文明利器・比較的発達した文化も享受できる社会だが、そこではその域内で自給自足・地産地消するような経済社会であるとするとします。 自分の経済的地位や資産拡大・大きな利得が望めない社会状態だと、活動が美食・工芸品・衣服装飾品、文化的なこと、芸術、スポーツ、趣味、観光など余暇を愉しむ方向になります。
そのような個人の状態が主流で圧倒的になれば、社会全体の経済的生産量の伸び率は下がります。その限定された経済的生産をベースにして、生活謳歌・飲食や観光・文化的・学術的・芸術的・技能的・美的・情報的価値の獲得への欲望が展開すれば、社会全体の財政難は進むと思います。
江戸時代や西欧中世のような禁欲を勧める道徳の強制だけが、財政難の急激な進行にブレーキを懸けることが出来るのだと思います。
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この回答へのお礼

moto_koukouseiさん、回答ありがとうございます。

自分も同感です。システムが同じで国土が同じならいつかは成長が止まるのが道理ですからね。
でも自分が聞きたいのはどういう原因のせいで行き詰まってしまったのかということなのです。

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/08/19 23:52

基本的に経済政策、課税の方法が違います。


江戸幕府は組合(戦国時代で言う座のようなもの)を認めて組合費を徴収していました。
商人に独占商売を認めてかれらから組合費をとるわけです。

織豊政権は楽市楽座をし誰にでも商売を奨励し、売上税をとっていました。
この場合後者の方が経済も膨らみやすく多くの税があがりやすくなります。

家康が幕府を興したときは、商業の中心地は豊臣領ですのでどうせ商人から税をとってもたかがしれています。
だから組合方式が楽だったのでしょう。
ただその時の家康の経済政策が、その後大坂を幕領とした後も延々と続くことになります。
ここが江戸幕府の最悪の失敗であったと思っています。
大坂城を落としたのちは楽市楽座で商売を奨励し消費税をとる方式を進めれば、だいぶ幕府財政は改善されたと思っています。
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この回答へのお礼

jipawapuroさん、回答ありがとうございます。

組合費を高く設定すれば、それも同じことだと思うんですが。それでは違うんでしょうか?

回答ありがとうございます。またお願いします

お礼日時:2014/08/17 05:35

 一言で言えばそれが「歴史の流れ」ということです。


一つは幕府の贅沢化による支出増大。もう一つは徴税対象の減少による収入源です。

 より根本は後者の収入源の原因。
幕府の本質は全国一、所領を多く持つ封建領主の元締めなわけですよね。
ということは、彼等が見えている徴税対象(年貢負担者)は土地持ちの農民(本百姓)です。

 歴史的に見ると「本百姓」の創設は秀吉の太閤検地。けれど貨幣経済が進展するにつれ
彼等は成功して大地主になる一部の農家と失敗して借金を背負い土地を失う「水呑」に分解。

時代がすすむにつれ租税負担の「本百姓」は減少の一途、必然、幕府財政も緊迫。
田沼意次が老中 になり租税の徴収対象として商人に目を向けます。そして大規模開発の資本も
商人の財力で行わせます。田沼というと「賄賂政治」で切り捨ててきたようですが
考えると当時の役人は賄賂を取るのが常識で、明治以後の政府重鎮は税金と私財の
区別が不明瞭。田沼だけを「わいろ」批判したのはやっかみと失脚策略。
 なぜ批判を浴びたのか。客観的にみると商人から税をとり商人を育成することは
封建制度の否定で近代資本主義への道。幕府の重鎮は本能的に危険を感じたのでしょう。

以後も幕政改革で贅沢の禁止令などだすけれど焼け石に水。本百姓が姿を消す流れは
止められなかったというわけです
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この回答へのお礼

nebu3さん、回答ありがとうございます

米価の低下だけでなく、徴税対象を減っていったんですね。
なぜ幕府は地主に課税しなかったんでしょう?

何故商人から税をとるのは封建制度の否定なのでしょうか?
謙信も信長も秀吉もいろんな大名が商人から税をとっていたと思うのですが

回答ありがとうございます。またお願いします

お礼日時:2014/08/17 05:32

八代将軍、徳川吉宗は享保の改革で幕府財政の立て直しを図ります。

 

その基本は(1) 倹約令、 (2) 新田開発、 (3) 商品作物の開発、 (4) 各藩に特産物を開発させ、海路を使って国内に販路を拓く。 しかし根幹はあくまでも重農主義でした。

一方、中国と九州を根拠に力を伸ばしていた薩摩と長州は幕府が制度上は禁止していた海外との交易によって莫大な富を蓄積しています。 この両藩は重商主義にシフトし、世界との密接な交流を維持しています。  農業中心の徳川幕府と重商主義の薩摩、長州連合では幕府に到底勝ち目なんかありません。  江戸で睨みを利かす幕府と中国や九州の外様大名では見ているものが全く違います。 

いつの時代も形式上の権力なんか何の意味もありません。 大切なのは情報収集と適切に分析出来る能力です。 特に薩摩は琉球王国を支配下に置き、ここを通して三角貿易をして富を築くとともに、世界との密接な関係を維持しています。 名目上の石高は77万石と幕府の五分の一以下ですが、交易に拠る富の蓄積で幕府の何倍も裕福だったのです。 何よりも知識の面で遥かに幕府を凌いでいます。 
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この回答へのお礼

ixtysさん、回答ありがとうございます。

幕府の貿易が損し、長州薩摩の貿易がもうかったのはどうしてでしょうか?幕府の貿易と何が違うのでしょうか?
どうして幕府は彼らの貿易をとがめなかったのでしょうか?

この二つの藩は重商主義にシフトしたと言いましたが、具体的にどういうことをしたのでしょう?米をやめて全て銭での税納にでもしたのでしょうか?

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/08/13 01:14

>徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?


「いつも」ではありませんでした。
当初は黒字で充分余力がありました。
時間をかけて赤字化が進み末期には加速度的に赤字が膨れ上がってしまったというのが全体の流れです。

>金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし・・・
こう簡単にはいきません。
江戸時代を通じて租税というのは、基本的に米でした。
ひらたく言えば税金を納めていたのは農民だけで、長屋の熊さん八っあん達は無税でした。
土地も農民も有限です。
農民が食えなくなって働く意欲を失えば、たちまち武家社会が崩壊してしまいます。
事実、農民は、領主が気に食わなければサッサと隣の藩へ逃げ出しました。
逃げ込まれた藩は人手が増えて新田の開発ができますから、時には報奨金を出して歓迎しました。
当時の藩は今の国家と同じですから、外交交渉するか戦争する以外に奪回できません。
自業自得の泣き寝入りになります。
江戸時代の農村は基本的には豊でした。
年貢率もあくまでも帳簿の上での話で実効税率は2割~3割程度でした。
働く気もない人間が技術を改良したり耕作地を広げるなどというこはしません。
1960年代までの左翼系歴史家の言に惑わされないで下さい。

>通貨も発行できるのに・・・
通貨は紙幣ではなく金銀の貴金属でした。
実際に、金貨である小判の金の含有量を減らして歳入を改善させるということは何度かやりました。
結果はインフレとなり、むしろ財政赤字を増やしてしまいました。

>災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません
超大雑把にいいますと武家は米経済で町人は貨幣経済だったというのが諸悪の根源でした。

〇江戸時代の武家はほぼ全員が借金暮らしでした。平均で年収の倍は借金していたと言われます。
これが周り回って幕府が背負いこんでいました。
文化14年(1817)の調査によると、大名207家に金114万両余り、旗本2210家に金106万両余りを貸し出しています。
若干利息は取っていましたが、大名も旗本も現在のサラ金地獄と同じ状態でしたからどうにもなりません。
〇武家というのは、収入は米で支出は現金という生活をしていました。
幕府も基本は同じです。
この米を現金に変える際の米価が時代とともに下落していきました。
原因は、農業技術の発達と新田開発による生産量の増加です。
幕府は米価を市場経済に任せていました。
流通量が増えていきましたから、当然市中価格は下落していきました。

幕府のみならず全国の藩が収入を増やそうとして、せっせと新田を開発をしました。
租税である米の現物収入は確かに増えました。
この米を現金に換える値段がドンドン下がりました。(米の価値がドンドン下がりました)
これに貨幣改鋳のインフレが追い打ちをかけました。
結果として、武家の購買力はドンドン下がりました。
この悪循環といいますか経済原理が幕府の首を絞めました。

大名も国元にいれば現金はさほど必要がありませんでした。
一年おきに暮らす江戸の街ではすべてが現金決済ですから、常に多額の現金が必要でした。
江戸での費用は藩の財政の二割を占めていたとされています。
藩の支出の大半は家臣への俸給でした(人件費)・・・支出全体の四割~五割でした
何も付加価値を生まない連中にセッセとお金を払っていました。
これに、参勤交代という一大イベントの費用がありました。・・・支出の一割~二割
米の収穫量の変動に関わらずこれだけ固定した支出がありましたから、幕府から金を借りるか町人から借りる以外に方法がありません。
江戸時代末期には薩摩藩は町人から500万両余の借金をしていました。
江戸の薩摩藩邸には町人は近寄りませんでした。

>信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?
織豊政権は一代ですから、財政云々の前に消滅してしまいましたので比較にはなりません。
徳川幕府もスタート時点では潤沢に資金がありました。
財政がひっ迫してくるのは100年ほど後の時代です。
この第一回目の打開策が1716年以降行われたいわゆる享保の改革です。

この他に江戸幕府は全国的な規模で課税していたのは現在の酒税に相当するものだけでした。
他の流通商品にも課税していれば、財政の悪化は防げたでしょう。

田沼意次の政策の基本は米依存をやめて武家も貨幣経済化すべきだと考えていたとされています。
近年学会では、田沼意次の歴史的な政策評価は見直されています。
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この回答へのお礼

ichikawaseijiさん、いつもありがとうございます

長屋の熊さん八っつあんは無税。
凄く不平等な税制だったんですね。

そういえば昔はお金は金銀でしたね。無限に作れるわけではないのを忘れていました。

幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?そうすれば別に税金をとらなくても問題は無かったと思うのですが。

インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?

何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
彼らも年貢以外に収入がないなら何かを買うのにお金が必要だと思うのですが

回答ありがとうございます。またお願いします。
いつも詳しい回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/08/17 04:59

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