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天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?

A 回答 (19件中1~10件)

大奥が金を湯水のごとく使っていたのはよく知られていますね。

それだけが原因ではないでしょうけど。
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この回答へのお礼

tzd78886さん、回答ありがとうございます

いったい大奥はどれくらい金を使ったのでしょうか?
大奥はいったい何に金を使ったのでしょうか?

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/08/13 23:10

簡単に言うと経済の変化についていけなかったからです。



江戸時代の日本全体の米の石高は約2000万石です。
ほとんどが大名、大身旗本の所領で有り、徳川家の天領は400万石でした。
徳川家は過酷な年貢(約50%)を取っていましたが、逆にいうと
これ以上税収を上げることは不可能でした。

また、上人からも運上金をとっていましたが、個別徴収では無く、組合毎に
徴収していたので、税収としてとれる金額は少なかったのです。
江戸時代初期は経済の70%くらいが「米」であって、天領が他の大名よりも
多い徳川家は有利でしたが、経済における米の比率が下がっても、新しい
経済活動を見ることはせず、相対的な税収は下がりました。
また、多くの大名は江戸時代中期以後、開墾によって米作可能面積を増やして
いきましたが、天領は比較的条件の良い土地だったので、逆に耕作可能面積を
増やすことは難しかったのです。

秀吉は経済においては徳川家よりもずっと上です。
直接統治していた領地は徳川家の半分くらいでしたが、新しい経済に目をつけ、
それを振興させるかわりに、運上金をとっていました。豊臣秀吉は日本で初めて
の米を中心としない経済を確立させた人物です。
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この回答へのお礼

saturn5さん。回答ありがとうございます。

経済の70%が米と言う意味は米が貨幣という意味ですか?
秀吉の時は家康が天下を取る前より主に銭で取引していて
家康が天下を取って米での取引に逆行したということですか?

秀吉と家康では運上金の取り方が違うのでしょうか?
秀吉の方が家康より税収は大きかったのでしょうか?
何故徳川家はもっと税金をとろうとしなかったのでしょうか?

もっと詳しいことを教えて下さい。

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/08/11 05:40

豊臣期・徳川初期には潤沢だった鉱山収入の大幅な減少も要因でしょう。


税を過剰にかけると逃散や一揆が発生します。
幕藩体制の財政の基盤は年貢収入でしたから、「百姓が成り立つ」ように年貢を取る配慮が重要でした。
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この回答へのお礼

izuharaさん、回答ありがとうございます

鉱山収入の減少は大きかったんですね。
秀吉と家康では課税の方法は大きな違いは無かったのでしょうか?

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/08/13 23:13

当時は農業が基本の経済でした。



農民は、努力して生産性を上げていきます。
また、隠し田などを開発して、どんどん豊かに
なっていきました。

5公5民のところが、実質4公6民に、場所に
よっては3公7民、2公8民になるとことも
現れました。

なら増税すれば、と思うでしょうが、当時の
農民の力は相当強く、武士といえども思うに
まかせない状態だったことが知られています。

百姓の同意を得られないと何も出来ない、と
まで言われました。
だから隠し田の摘発もできません。

こうやって農民が豊かになり物価が上がります。
しかし、武士階級の収入は一定不変です。
だから武士はどんどん貧しくなって行きます。

かくして、幕府も慢性的な財政難に陥った
わけです。
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この回答へのお礼

hekiyuさん、回答ありがとうございます。

百姓に言うこときかせられないなんて随分情けないですね。
それでよく全国の大名を従えられましたね。
でも頑張って収入増やしても、その分取られたら農民もやる気無くしてしまいますよね

回答ありがとうございます。またお願いします

お礼日時:2014/08/17 05:02

徳川幕府の公式学問が儒教だったからです。



儒教では,商業は悪と考えています。物を作らずただ人から人へ受け渡すだけで利益を上げることは悪と考えているのです。今の中国や韓国の商人が悪事を働いてばかりいるのも,どうせ悪人の仕事だからと誇りを持てないからです。

儒教では,一番上が官吏であり,武士階級がそれに当たります。次がものを作る百姓,職人,一番下が商人です。悪人の商人から税金を取ることも悪事を認めたことになるので,商人からは税金を取りません。幕府の公式収入は,百姓からの税だけです。米を納めさせ,それを配下の者に分け与えるシステムです。

米を貨幣のように扱っていますが,実際は貨幣にはなり得ません。商品ですので,経済の需要と供給の関係に囚われます。不作の時は米の収量が減り,物としての税収が減少します。豊作の時は米の税収が増えますが,それを売る時には,だぶついているために収入は少なくなります。米を経済の中心に据えることで,豊作でも不作でも結局収入は少ないのです。

これが,財政難の理由です。
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この回答へのお礼

tobitobi123さん、回答ありがとうございます

儒教の言ってることは自分も納得ですが、税金をとるのが悪事を認めたことになるというのはなんだか論理の飛躍のような気がします。

ようするに百姓だけに課税して商人には課税しない非常に不平等なシステムだったんですね。

米ばっかり課税して金銭に課税しなかったのが問題だったんですね。

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/08/13 23:26

歴史の展開過程としての、近代経済制度とシステムに依拠しない制度だったのでしょうね、幕藩体制っていうのは。


そのように65年前中学で習いました。
斬新的な若い先生でしたね。東大史学の卒業の直ぐの先生でした。
毎晩せんせいのところにみんなで押しかけていきました。
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この回答へのお礼

kyra1998さん、回答ありがとうございます

せっかく回答してもらったのに、抽象的すぎて理解ができませんでした。
もう少し具体的に詳しく書いて貰えたら嬉しかったです

ありがとうございました

お礼日時:2014/09/01 09:04

そりゃそうでしょ


だって幕府の収入の大半は「農民の年貢米」ですよ
いわゆるお金はわずかしか入ってきません
しかし支出は莫大です

明暦の大火の後 消失した江戸城の天守閣を再建する資金がありませんでした
と言うことは家光の時代に既に幕府は財政難です


朝廷への祭祀儀礼に幕府は金使いすぎました
家康が貯めたと言われる4000億円(現在の価値で)の大半は和姫(後水尾天皇妃)の入内で消えました


ちなみに秀吉はめっちゃ金持ってましたよ
だから秀吉の死後家康は豊臣家の金を無くさせるために色々企みましたね
金と言うのは軍資金にもなりえますから

有名なのは法広寺の再建ですね
あれを豊臣家に命じて秀吉の遺産を使わせたというやつです
しかしそれでも秀吉の残した遺産は莫大で
大阪の陣で浪人を招集するのに 1兆円近く使ってます(そんなに残ってたのかー)
真田幸村の勧誘に秀頼は23億出してます
しかし大阪城落城とともにこの秀吉の遺産も消えました
もったいない
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この回答へのお礼

azuki-7さん、いつもありがとうございます

4000億円の嫁入りって一体なに考えてたんでしょうかね?

秀吉の遺産凄いですね。なんで家康より多いんでしょうか?
自分も天下が欲しくなってきました。

回答ありがとうございます。またお願いします。

お礼日時:2014/08/17 05:25

家康が幕府を開きその後の100年間の5代将軍の綱吉までは順調に経済成長し元禄時代の繁栄を迎えるのです。

新田開発も増えて100年間で人口は2倍に増えました。
その後、転変地異が続発するのです。元禄地震で江戸は崩壊し、その数年後にあの宝永の大地震です。その後に富士山が噴火し、浅間山も噴火しています。この地震は今で言うなら東南海地震です。日本の歴史で一番の大地震と言われています。太平洋岸は大津波に襲われたのです。当時の大干拓地であった瀬戸内海の岡山藩の新田までもが大被害を受けたのです。江戸から宮崎まで津波の大被害を受けて新田開発が止まったのです。今で言えば原発事故のようです。以来、江戸時代の人口は増えていません。
天明の大飢饉で多くの農民が死んでいます。天候は冷夏で今で言うヨルニーニョ現象です。寛政の大飢饉、天保の大飢饉と幕府の財力は低下してゆきました。

そもそも江戸時代は封建制ですので、今で言う法人税が無かったのです。それをすると封建制が崩れるのです。幕府は強大であっても中央政府ではなく一番大きな大名であるだけで、全国から税金を徴収することが出来なかったのです。もはや時代遅れの政権だったのです。
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この回答へのお礼

titelist1さん、回答ありがとうございます

災害もたくさん起こったんですね

組合費は今でいう法人税と同じだと思うのですが。違うのでしょうか?

回答ありがとうございました

お礼日時:2014/08/13 01:45

subetenoarujiさん、こんにちは。



天下をとった徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?
金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし通貨も発行できるのに災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません。
単に乱費でしょうか?


江戸幕府は4代将軍家綱の頃の明暦の大火までは幕府財政はとても豊かでした。5代将軍綱吉、6代将軍家宣、7代将軍家綱の時代は放漫経営を続けていたので、幕府財政は傾き始めました。主な理由は佐渡金山で金の産出量が減ったこと、日蘭貿易などで金銀が大量に日本から流出したこと、宝永の大噴火により農作物が育たず、元禄バブルといわれた景気が崩壊したことにより、不景気になったことが理由になります。
吉宗の時代になって大規模なリストラや年貢増収を行った享保の改革によって多少の解消を見ますが、一揆や打ちこわしが増えます。
9代家重、10代家治になって田沼意次が重商主義政策による改革を行うようになりますが、11代将軍家斉に代替わりする段階でとん挫します。

天下を取り損なった信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?
信長や秀吉の頃のほうが金銀の産出量が多かったので、そんなことにならなかったのでしょう。

詳細は下記のURLを参照ください。


幕政改革
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%94%BF% …


享保の改革

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AB%E4%BF%9D% …

田沼時代
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC% …
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この回答へのお礼

ithiさん、いつもありがとうございます

信長や秀吉の頃の方が金銀の産出量が多かったんですね。それなら財政難が起きないのは納得って感じですね。

日蘭貿易で金銀が大量に流出したなら、なぜ貿易をやめなかったのでしょうか?

いつも回答ありがとうございます。またお願いします。

お礼日時:2014/08/13 01:07

>徳川がいつも財政難なのは何故でしょう?


「いつも」ではありませんでした。
当初は黒字で充分余力がありました。
時間をかけて赤字化が進み末期には加速度的に赤字が膨れ上がってしまったというのが全体の流れです。

>金や米が必要ならいくらでも税金をかけられるし・・・
こう簡単にはいきません。
江戸時代を通じて租税というのは、基本的に米でした。
ひらたく言えば税金を納めていたのは農民だけで、長屋の熊さん八っあん達は無税でした。
土地も農民も有限です。
農民が食えなくなって働く意欲を失えば、たちまち武家社会が崩壊してしまいます。
事実、農民は、領主が気に食わなければサッサと隣の藩へ逃げ出しました。
逃げ込まれた藩は人手が増えて新田の開発ができますから、時には報奨金を出して歓迎しました。
当時の藩は今の国家と同じですから、外交交渉するか戦争する以外に奪回できません。
自業自得の泣き寝入りになります。
江戸時代の農村は基本的には豊でした。
年貢率もあくまでも帳簿の上での話で実効税率は2割~3割程度でした。
働く気もない人間が技術を改良したり耕作地を広げるなどというこはしません。
1960年代までの左翼系歴史家の言に惑わされないで下さい。

>通貨も発行できるのに・・・
通貨は紙幣ではなく金銀の貴金属でした。
実際に、金貨である小判の金の含有量を減らして歳入を改善させるということは何度かやりました。
結果はインフレとなり、むしろ財政赤字を増やしてしまいました。

>災害や飢饉でもないのに財政難になる理由がわかりません
超大雑把にいいますと武家は米経済で町人は貨幣経済だったというのが諸悪の根源でした。

〇江戸時代の武家はほぼ全員が借金暮らしでした。平均で年収の倍は借金していたと言われます。
これが周り回って幕府が背負いこんでいました。
文化14年(1817)の調査によると、大名207家に金114万両余り、旗本2210家に金106万両余りを貸し出しています。
若干利息は取っていましたが、大名も旗本も現在のサラ金地獄と同じ状態でしたからどうにもなりません。
〇武家というのは、収入は米で支出は現金という生活をしていました。
幕府も基本は同じです。
この米を現金に変える際の米価が時代とともに下落していきました。
原因は、農業技術の発達と新田開発による生産量の増加です。
幕府は米価を市場経済に任せていました。
流通量が増えていきましたから、当然市中価格は下落していきました。

幕府のみならず全国の藩が収入を増やそうとして、せっせと新田を開発をしました。
租税である米の現物収入は確かに増えました。
この米を現金に換える値段がドンドン下がりました。(米の価値がドンドン下がりました)
これに貨幣改鋳のインフレが追い打ちをかけました。
結果として、武家の購買力はドンドン下がりました。
この悪循環といいますか経済原理が幕府の首を絞めました。

大名も国元にいれば現金はさほど必要がありませんでした。
一年おきに暮らす江戸の街ではすべてが現金決済ですから、常に多額の現金が必要でした。
江戸での費用は藩の財政の二割を占めていたとされています。
藩の支出の大半は家臣への俸給でした(人件費)・・・支出全体の四割~五割でした
何も付加価値を生まない連中にセッセとお金を払っていました。
これに、参勤交代という一大イベントの費用がありました。・・・支出の一割~二割
米の収穫量の変動に関わらずこれだけ固定した支出がありましたから、幕府から金を借りるか町人から借りる以外に方法がありません。
江戸時代末期には薩摩藩は町人から500万両余の借金をしていました。
江戸の薩摩藩邸には町人は近寄りませんでした。

>信長や徳川家より所領が少ない秀吉はこの財政難の幕府よりもっと財政難だったのでしょうか?
織豊政権は一代ですから、財政云々の前に消滅してしまいましたので比較にはなりません。
徳川幕府もスタート時点では潤沢に資金がありました。
財政がひっ迫してくるのは100年ほど後の時代です。
この第一回目の打開策が1716年以降行われたいわゆる享保の改革です。

この他に江戸幕府は全国的な規模で課税していたのは現在の酒税に相当するものだけでした。
他の流通商品にも課税していれば、財政の悪化は防げたでしょう。

田沼意次の政策の基本は米依存をやめて武家も貨幣経済化すべきだと考えていたとされています。
近年学会では、田沼意次の歴史的な政策評価は見直されています。
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この回答へのお礼

ichikawaseijiさん、いつもありがとうございます

長屋の熊さん八っつあんは無税。
凄く不平等な税制だったんですね。

そういえば昔はお金は金銀でしたね。無限に作れるわけではないのを忘れていました。

幕府は何故米価格をコントロールしなかったのでしょうか?そうすれば別に税金をとらなくても問題は無かったと思うのですが。

インフレが起こっても米を売って現金に変える幕府には米価と他の商品との価格の比率が変わらなければ問題ないと思うのですが何か間違っていますでしょうか?

何故大名は国元だとお金を使わないのでしょう?
彼らも年貢以外に収入がないなら何かを買うのにお金が必要だと思うのですが

回答ありがとうございます。またお願いします。
いつも詳しい回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/08/17 04:59

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