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キリスト教には、救われる人間とそうでない人間が、神によってあらかじめ決められているという説があると聞きますが、それは新約聖書のどの部分がそのように解釈されているのでしょうか。
私も一度は聖書を読んだ者ですが、そのような箇所は思い出せません。
詳しい方がいらっしゃいましたら、具体的な書名と章と節の番号を教えていただきたいと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。

A 回答 (4件)

★ことにエペソ書がその解釈にとって大事です。

以下の2カ所など特にそうです。

エペソ 1: 5
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

エペソ 1:11
この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。みこころによりご計画のままをみな行なう方の目的に従って、私たちはあらかじめこのように定められていたのです。

★その他、ローマ書にも以下のことばがあります。

ローマ 8:30
神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

★世の初めにすでに小羊のいのちの書に名前が書かれているーーという黙示録のことばもあります。

黙示録 13: 8
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。

以上、ご参考になればと思います。
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この回答へのお礼

早速ご回答をいただいていながら、お礼が遅れてしまったことをお許しください。
質問した時点ではWindows7 を使っていましたが、Zeus-trojan とかいうウィルスに侵されていると言うメッセージが出て、ブラウザーが全く使えなくなり、以前に使っていたWindowsXPの入った機械をだしてきて、今これを書いている次第です。
予定説については、ご指摘いただいた聖書の箇所をもう一度読んでみたいと思います。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2014/08/24 13:08

キリスト教の本や聖職者がよく引用するのは



ローマ人への手紙 
第9章の15節から18節です

神はモーセに言われた、「わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ」。ゆえに、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである。聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである。

人間の反論への答え
第9章の19節から21節

そこで、あなたは言うであろう、「なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか」。ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか
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この回答へのお礼

ご回答いただき、有難うございます。
コンピューターにトラブルが発生してしまい、お礼が遅れてしまいました。どうかお許しください。
引用されたローマ書にある「神はそのあわれもうと思う者を憐れみ、頑なにしようと思う者をかたくなになさるのである」という言葉からだと、神がかたくなにしようと定めた人に対しては、いくら伝道しても効果がないということなのでしょうね。

お礼日時:2014/08/24 13:18

 こんにちは。



 変な回答になりますが 次のように考えるべきかと思います。

 すなわち もし仮りに聖書の文句にもとづき
 ★ 救われる人間とそうでない人間が、神によってあらかじめ決められている
 ☆ とした場合 そうだとしても そのことが人間に分かることはあり得ません。

 分かったとしたら その人は神であることになります。人間が決める・裁定するなどということはあり得ませんから。

 あるいはまた 聖書の《文字》が神であるということになります。つまりそのときには 《文字はころし 霊は生かす》という言葉を聞いて しかるべき取扱いをすることになります。


 ですので 《予定説》は オシエとして実際には成り立つことがありません。
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この回答へのお礼

ご回答いただき、有難うございます。
コンピューターにトラブルが発生してしまい、お礼が遅れてしまいました。どうかお許しください。
なるほど、たとえ神が救う人間と救わない人間がいるとしても、それは誰にもわからないのですから、救われる側の人間になろうと自分で努力する人々がいると考えてもいいわけですね。キリストを信じて、隣びとを愛して生きてきていれば、そうでない人よりは救われる確率は高いと信じたいですものね。
自分でもよく考えてみたいと思います。

お礼日時:2014/08/24 13:35

予定説というのは、イエスキリストの救いの御業を受け入れた人を救うという予定のことです。



イエスキリストの救いの御業を受け入れない人は救われないのです、

それを決めるのは人々であって、神様ではありません、

人々の救いを神様が決定しているのではありません。

人が自ら受け入れ、放棄するのかにかかっているのです。

もし神様自ら決定しているのであれば福音書に記されている大命令、「すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい」は無意味です。

私たちは誰が救われるか知りませんが、確かに福音「イエスキリストの十字架の御業」を受け入れるなら救われると確信しています。
一コリント書15:2~4
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この回答へのお礼

ご回答いただき、有難うございます。
コンピューターにトラブルが発生してしまい、お礼が遅れてしまいました。どうかお許しください。
taba4316 さんの回答はほかの皆さんのものとは違うようです。つまり、キリストの福音を信じれば必ず救われるということですね。信じて、キリストの教えに従って生きてきたのに、神様から「あなたを救う予定はない」などと言われることはないのですね。
これならとてもわかりやすいです。
実際に聖書の言葉をどのように理解すべきなのかはまだよくわかりませんが、希望が湧いてきました。それでこそ宗教だと思います。

お礼日時:2014/08/24 13:27

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