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 ▲ (エペソ書 2:1-2) ~~~~~~~~~~~
 1: さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。

 2: この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ (あ) 《空中に勢力を持つ者》とは なんでしょう?

 (い) それが 《この世を支配する者》なのですか?

 (う) 《不従順な者たちの内に今も働く霊》というのは 単純に言えば《悪魔》だと思われますが そんなものが ほんとうにいるのですか?

 (え) このような《権能》が《霊》としてはたらき わたしたちは《死んでいた》のでしょうか?

 (お) いいえ。自分たちのそれぞれの自由意志で よからぬことを思いこれを実行してもいただけなのではないのでしょうか?

 (か) 悪魔などは 屁の河童であると言わねばならないのではないでしょうか?

A 回答 (16件中1~10件)

bragelonneさん こんばんは



ベストアンサーのお礼にbragelonneさんの哲学体系構築の一助として参考文献となればと思い投稿いたします。

現在の宇宙観にこびりついた現代人の私は、なんと斬新な考えだと思ってしまいますが、当時の古代ユダヤ教の考えでは空には、第1の天として空高く雲のあるところ、第2の天として星や天体が張り付いているところ、第3の天としていわゆる楽園があると考えられていたそううです。

コリント人への第二の手紙12章2節に出てくる「第3の天」という言葉を読んでいただけるとわかりますが、パウロもこのような宇宙観を持っていたと考えられます。

さて、ご質問ですが、この聖句の「この世を支配するもの(アイオーン)」は永遠の時の流れ、または、グノーシス神話(知識豊かなbragelonneさんはもうご存知と思いますが、もうパウロの時代からキリスト教の異端が生まれ使途行伝8章9節に出てくる魔術師シモンはグノーシス主義のシモン派を率いていたそうです。)の中では悪しき霊的存在を示すそうです。

「かの空中」とは天の最下層(おそらく第1の天ですか)でグノーシス神話の中では諸霊の勢力を持つ者(アルコーン)が住むとされていたそうです。

ですからサタンと捉えてもいいと思いますが、パウロにとってのこの使い回しはグノーシス主義をキリスト教の異端であるという意味合いが含まれているかもしれません。

回答(お)につきましては私も賛成です。神は人間を自由意志がないロボットとしてはいないと思います。

アダムとエバの話にしろ十戒にしろ神は「~してはならない」と断言命令してますが、これはもし神と人との間に愛と信頼の関係あるのなら、その文をすべて「~するはずがない」と置き換えも可能と思います。前提つきですが。

(か)はいかがでしょう。ヒットラーなどは悪魔に取り付かれたかもしれない。bragelonneさんは哲学体系が完成しても、まさか独裁者として君臨する野望はないと断言してください(笑)

しかし、子孫がbragelonne哲学体系を使い世界統一戦争をおっぱじめるかもしれませんよ。そうならないようにくれぐれもご注意ください。

以上参考文献でした。

この回答への補足

 《第三の天》など《天》をめぐる宇宙観について 次の質問と回答を見つけました。いくぶん神にかかわらせたオシエというその中身に近い解釈ではないかと思いますが ここに掲げておきます。

 【Q:聖書の記事について質問です。】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7724767.html


 ◆ (回答No.2:第一の天から第三の天までについて) ~~~~
 第一の天とは、物質的な天、大空または宇宙。

 第二の天は 霊的な天使たちの住む領域。そして、

 第三の天、つまり「天の天」とは、全能の神の王座のあるところ、

 ということができます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《天使の住む・第二の天》に どうも《悪霊ないし 堕天使でしょうか悪魔》なるチカラがはたらくと見られているのでしょうか? エペソ書6:12に《天にいる悪の諸霊》とあるようです。

 ◆ (同上:空中の権能について) ~~~~~~~
 ヤコブ(イスラエル)も天使と格闘してついには勝ちましたが、「腿の関節、つまり腰の筋」を打たれて謙遜にさせられました。(創世記27:24-32)

 それに対応して、クリスチャンは悪魔(ヤコブの時の天使に対応)と格闘しなければなりません。

  「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 」

 とエフェソス6:10-18にあります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2014/09/01 12:21
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この回答へのお礼

 まづ聖書のくだりの確認です。

 ▼ (コリント後書12:2-4) ~~~~~~~~
 2: わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。  
 3: わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
 4: 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 確かに 《第三の天》と《楽園》が出て来ますね。

 
 あめんほてぷ2000さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。



 ★ 「この世を支配するもの(アイオーン)」は永遠の時の流れ
 ★ 諸霊の勢力を持つ者(アルコーン)
 ☆ これらは 確かに使われていますね。

 ▲ (エペソ書 2:2) ~~~~~~~~~~~

 κατὰ  τὸν  αἰῶνα(<アイオーン)  τοῦ  κόσμου  τούτου
 = according to the course of this world,
 = この世を支配する者に従い

 κατὰ  τὸν  ἄρχοντα(<アルコーン)  τῆς  ἐξουσίας  τοῦ  ἀέρος
 = according to the prince of the power of the air
 = かの空中に勢力を持つ者に従い

 〔 κατὰ  τὸν  ἄρχοντα(<アルコーン) 〕 τοῦ  πνεύματος
 = 〔 according to the prince of 〕 the spirit
 = 霊〔の支配者〕に従い

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




 ★ グノーシス神話((中略)・・・もうパウロの時代からキリスト教の異端が生まれ使途行伝8章9節に出てくる魔術師シモンはグノーシス主義のシモン派を率いていたそうです。)
 ☆ ということは この《悪魔≒空中の権能》とは グノーシス主義ですからけっきょく思考と想像の産物として現われたものだ。ということでしょうか?
 
 偶像の神 思念ないし観念としての神だということでしょうか。

 いや あるいは グノーシス主義は 二元論ですね。それも 関係していましょうか。



 ふむ。ただ 信仰の道をはづすという場合は グノーシス主義のごとく理念志向によるだけではないとは思われます。善神と悪神との二元論によるマチガイだけではないかも知れません。






 ☆☆ (趣旨説明欄)(お) いいえ。自分たちのそれぞれの自由意志で よからぬことを思いこれを実行してもいただけなのではないのでしょうか?
 ★ 回答(お)につきましては私も賛成です。神は人間を自由意志がないロボットとしてはいないと思います。

 そして
 ★ アダムとエバの話にしろ十戒にしろ神は「~してはならない」と断言命令してますが、これはもし神と人との間に愛と信頼の関係あるのなら、その文をすべて「~するはずがない」と置き換えも可能と思います。前提つきですが。
 ☆ これは そういった解説がついていますね。必ずしもオシエないし規範なのではないという見方です。律法ないし法律ではなく アブラハムの信仰に立って その信仰によってあゆむというかたち。信仰の道をあゆむ者には 《ころすという行為をするようになることはない》といったように。



 ☆☆ (趣旨説明欄) (か) 悪魔などは 屁の河童であると言わねばならないのではないでしょうか?
 ★ (か)はいかがでしょう。ヒットラーなどは悪魔に取り付かれたかもしれない。bragelonneさんは哲学体系が完成しても、まさか独裁者として君臨する野望はないと断言してください(笑)
 ☆ 独裁者を放っておくような人びとからもし仮りに支持を受けても うれしくない。でしょうね。

 ★ しかし、子孫がbragelonne哲学体系を使い世界統一戦争をおっぱじめるかもしれませんよ。そうならないようにくれぐれもご注意ください。
 ☆ 悪魔に取り憑かれることがないということが分かって来たなら ひょっとして人間の知恵と能力と努力とで 競争が始まるかも知れませんね。互いに自由な批判を もろに・余すところなく おこないきるようになるかも分かりません。

 経験合理性にもとづく推論が行き着くところまで 議論をつらぬきとおすようになるかも分かりません。

 議論戦争が始まるかも分かりません。
 

お礼日時:2014/08/30 22:15

「お礼」ありがたうございます。

このあたりで最終にします。

>>ひょっとして 文法からすると 破格なのでは?

現代西洋語の感覚からすれば「破格」ですね。日本語だつて同じく「破格」です。
解釈上の前置詞は何でもいいのですが、アガペー「について」の説明をしますよ、といふことが伝はればよいのではないでせうか。ヘブライ語のアシェルも同じ感覚です。

「明晰でないものはフランス語ではない。」

といふ有名な言葉がありますが、不明晰な言語として一番に挙げられてゐたのがラテン語だつたと記憶してゐます。(違ふかもしれません。)現代語の感覚では、古典語の理解は無理です。これは外国語カテゴリでも苦労します。

もしかすると、私の感覚がまちがつてゐるのかもしれませんけれど。

>>オールスターズの件 やっぱしダメでしたね。
>>サポートは このサイトを目の敵にしているみたいな。・・・

ねこさんには申し訳ないことをしました。回答者のみなさんにも。少なくとも、盗用事件の記述に関しては、徹底削除の方針のやうです。私としては、臭いものには蓋ではなく、利用者に注意を促す必要があると考へてゐます。

ご迷惑をおかけして、すみませんでした。

この回答への補足

 今回は 考えさせられましたし それぞれの点でみなさんにお世話になりました。

  BA には 文字通りに《空中の権能》を問題としてあらたに継ぐように促してくれたあめんほてぷ2000氏のご回答を えらびました。

 よろしかったら あらためておつき合いください。

補足日時:2014/09/01 13:03
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この回答へのお礼

 たぶん めでたし めでたし。でしょうか。

 オールスターズは 残念ですが よりよい道筋を問い求めて行けばよいという考えに落ち着きます。つまりは そのオールスターズの件にしても トライアゲンになるかも知れないという意味において。


 ご回答をありがとうございます。



 あっ。もう一点ですが わたしにとって悪魔論はかなり進めて来ています。ですので 理論もかなり得て来ています。この質問の問題点は 《空中の権能》というその言い回しにありました。何でそういうふうに言うのか?


 これは あめんほてぷさん2000さんが 取り上げてくれました。第一から第三までの天があるといった宇宙観にもとづき この空中の権能が出て来ているのではないかという解説です。

 悪魔だとすると へびの印象があります。へびが 空中のチカラであり支配者であるという感覚が いまひとつ分かりにくい嫌いはありますが まづはそういった世界観にかかわっているという捉え方だと思います。


 
 《へび》の理論 これを掲げておきましょうか?

お礼日時:2014/08/31 19:19

「お礼」拝見いたしました。



>>ということは わたしの説の勝ちになりますよ。

bragelonneさんの勝ちです。

>>その思考や想像をおこなうという意志の自由を
>>他人がどうこうするわけには行かない。

結局わからないので、否定もできません。

実際上は、bragelonneさんの考へでゆくことになります。

>>エーガペーセン(神が愛した)の対格語は 
>>ヘーマス(われわれを)とそしてこのヘーン(アガペーなる愛を)
>>という二重のかたちになる。

無理に西洋現代語で解釈するから複雑になるだけで、ふつうに読めば、アガペーの内容を解説してゐるだけの文です。あへて西洋現代語訳すれば、前置詞をつけた訳になると思ひますが、余計な道具を使ふ必要はないと思ひます。
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この回答へのお礼

 ★ あへて西洋現代語訳すれば、前置詞をつけた訳になると思ひますが、余計な道具を使ふ必要はないと思ひます。
 ☆ そうなんですか。そういう認識はありませんでした。

 ふううむ。だから いくつかの訳し方が出て来るということでしょうか。
 つまり

 ・ through the great love with which he loved us (New Jerusalem Bible)

 のごとく前置詞をつけたかたちに採る。これなどは ディアを through としているのですから with ではなくて やはり同じ through which とすれば 解釈にとっては分かりやすい。こういうことでしょうか?

 ・ through his great love that he loved us (A Conservative Version)

 これなどは 前置詞をつけるのを嫌ってのように いっそのこと名詞節にしてしまえというような解釈なのでしょうか。


 ・ because of the great love he had for us (New American Bible)

 これになると 《愛でわれわれを愛した(ディア ヘーン(アガペーン) エーガペーセン へーマス)》の主格‐対格( S = ホ テオス - V = ヘーマス )のかたちさえを変えてしまった。やはり前置詞無しの関係節をつくろうとした。
 次の訳文も 同じようです。

 ・ because of the intense love which He bestowed on us (Weymouth)


 ふうーう。こんなカラクリがあったとは。
 でも ひょっとして 文法からすると 破格なのでは? 文法じょう認められているということでしたが これは 破格を大目に見た受容なのではないですか?



 ご回答をありがとうございます。

 オールスターズの件 やっぱしダメでしたね。サポートは このサイトを目の敵にしているみたいな。・・・

お礼日時:2014/08/31 17:50

「お礼」ありがたうございました。



>>大きな出来事または事件を悪魔の所為にするという安易な心理としての飛びつき
>>――つまりそれは たいていは責任のがれ――に走ってしまうクセです。

これは、ご指摘のとほりだと思ひます。さういふ状況はたしかに有害です。

《空中の権能》には、高度なステルス機能が備はつてゐて、レーダー誘導地対空ミサイルでは撃墜できないのが難点です。電波系のbragelonneさんでは、捕捉不能です。

>>悪名高いローマ教会のオシエにあっても

宗教の組織化には恐ろしい面があります。個個の人たちを否定するわけではありませんが。

>>どんでん返しが成った。理論じょう成った。

まだ理論上ですね。実現はしてゐません。

>>いのちの貴びと生きることとをないがしろにする思想および行動については 
>>善を損ない傷つけることとして はっきり《悪》だと判定してよい。

たしかにそこまでいつてしまふと、問題です。

何事も話しあひは必要かと思ひます。例の盗用事件もさうなのですが、対話に応じてくれないことがいちばん困ります。

>>新学期突入前短期集中特別講座をありがとうございます。

私のほうが教へていただいてゐます。文法は嫌ひです。本を読むだけで充分です。先日、文献から用例を挙げることを羨ましいと書いてくださつた方がいらつしやるのですが、読んだ本から実例を説明するのがいちばん普通の態度だと思ひます。

>>ヘーンは 関係代名詞として 
>>むしろアガペーン( love )を承けています。

語順がさうなつてゐますので、bragelonneさんの見方が正確ですね。

前置詞は、現代西洋語の視点でせう。おほらかな古典語には不要です。アガペーの内容を説明してゐるだけです。印欧古典語は日本語の融通無碍に通じるところがあるのが、私にとつての魅力です。外国語カテの質問者さんのなかにも、現代語の得意な人ほど、そのあたりの事情をのみこめない場合があり、話がむづかしくなります。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 《空中の権能》には、高度なステルス機能が備はつてゐて、レーダー誘導地対空ミサイルでは撃墜できないのが難点です。電波系のbragelonneさんでは、捕捉不能です。
 ☆ ということは わたしの説の勝ちになりますよ。

 つまり この権能は 空中に人間が描いた像であってこれをアイドルにして 自分の行動をそのアイドルの意志に従うものであると決めるようになっているということ。

 つまりは 人間の思考と想像の産物であって その思考や想像をおこなうという意志の自由を 他人がどうこうするわけには行かない。つまり さすが電波系の頭脳を持ってしても 《捕捉不能》であるということになります。







 ★ 前置詞は、現代西洋語の視点でせう。おほらかな古典語には不要です。
 ☆ ふうーむ。だとしたら エーガペーセン(神が愛した)の対格語は ヘーマス(われわれを)とそしてこのヘーン(アガペーなる愛を)という二重のかたちになる。
 したがってたとえば:

 ・ because of the intense love which He bestowed on us (Weymouth)

 というような意味の取り方になりましょうか? へーマス(われわれを)を  on us (われわれに)に変えて捉えています。
 あるいは別様に:

 ・ through his great love that he loved us (A Conservative Version)

 というように《 ヘーン エーガペーセン へーマス 》をひとつの名詞節(≒ that he loved )として見ている。



 ますますわっかんないなぁ。外国語カテでたずねますよ?

お礼日時:2014/08/31 14:09

「お礼」ありがたうございます。


お役に立てない回答ばかりで、申し訳ございません。

>>《文学》と《哲学》とのあいだに何かの領域があるというのはピンと来ません。

私もわかりません。書いてあるのですから、いつたんは、そのとほり受けいれればよいのではないかと、自分では思つてゐます。幽霊とかUFOとか遊郭とか誘導尋問とか優秀回答者とか、ユーがつくものは怪しいものだらけです。否定することはできませんから、害がないなら、いやむしろ、信じることで幸せならそれでいいのではないでせうか。

>>だとしますと それは 相対的なチカラしか持っていません。

ほかの回答者のみなさんもおつしやるとほり、人間には自由意志がある、それが原則です。

初めの回答番号2に書きましたが、善悪の二項対立を人間が簡単に決定してしまふのは、おそろしいことだと思つてゐます。他者の価値観を認めず、「悪」だと判断することこそが戦争への道ではないでせうか。

>>《ヘーン》は 対格なのですよね? 
>>でも エーガペーセン(神が愛した)の対格は 
>>《ヘーマス(われわれを)》がありますから・・・
>>あっ 二重対格語のようなかたちなんでしょうか? 
>>《ディア》が ひとつ抜けているのですか? 
>>なくても合法(合文法)なのですか?

関係代名詞が名詞を修飾してゐるだけです。グッドウィン希語文法第421条第4項に適合し、合法です。関係代名詞の対格は、形容詞と同じく名詞の対格に合せてゐます。二重対格といふわけではありません。もし対格アガペーンが属格アガペースであれば、関係代名詞も属格ヘースになります。
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この回答へのお礼

 あははははっ。よく集めましたね。
 ★ 幽霊とかUFOとか遊郭とか誘導尋問とか優秀回答者とか、ユーがつくものは怪しいものだらけです。

 お早うございます。けさは 寝坊すると思っていたのが あんがい早く起きました。
 ご回答をありがとうございます。


 ただし:
 ★ 否定することはできませんから、害がないなら、いやむしろ、信じることで幸せならそれでいいのではないでせうか。
 ☆ 《害》は あります。それは ムイシキが出て来て 何もかもそれの所為にする風潮が出来てしまったように それほどでなくても やはり大きな出来事または事件を悪魔の所為にするという安易な心理としての飛びつき――つまりそれは たいていは責任のがれ――に走ってしまうクセです。

 悪魔がおれに命じたんだ。だから やった。というような言い訳が用意されているとしたら これは ゆゆしき問題です。自由意志をないがしろにする人間放棄に到ります。

 だって 悪名高いローマ教会のオシエにあっても 《キリスト・イエスは じんるいの罪またさらにはその根源としての原罪をあがなった》と言っているのですから もう罪へと人が へび≒悪魔≒空中の権能によってみちびかれることはなくなった。――こう言っていなくては ウソです。

 へびの時代から 子どもたちがライオンや蝮といっしょにあそんでいてもだいじょうぶの時代へと どんでん返しが成った。理論じょう成った。うんぬん。




 ★ ほかの回答者のみなさんもおつしやるとほり、人間には自由意志がある、それが原則です。
 ☆ ええ。

 ★ 初めの回答番号2に書きましたが、善悪の二項対立を人間が簡単に決定してしまふのは、おそろしいことだと思つてゐます。他者の価値観を認めず、「悪」だと判断することこそが戦争への道ではないでせうか。
 ☆ これは これも 大問題であり欠かせぬ論点を成します。(断定口調に成って来ました)。

 (1) すなわち 煮詰めた議論として言えば 善悪観は 主観の問題であり 善とは ヤマシサ反応にさからわない心の保持だと見ます。さからう意志は 善の損傷となり 善の欠け・すなわち悪となります。

 (2) すなわち ヤマシサ反応そのことは 誰にも共通であるとしても その具体的な現われ方・いえ つまり反応への反応の仕方 これは 人それぞれです。よって 主観ごとに 善観が出来て来ると考えられます。

 (3) おそらく すべての人に共通の――ほとんどただ一つの――善は 《いのち・存在》でありそのとうとさ・また生きること・そして 共に生きることを指すものと考えられます。(存在の中核は 意志です。自由意志です)。(人権じゅうりんというのは 意志を踏みにじることです。外傷もありますが 意志を無視するのが 人権侵害です)。

 (4) 生きることとその互いのとうとび・ゆえに共生 これを善の物指しとしてもよいと考えます。(どうせ 緊急避難などの条件がつけられるのですし)。

 (5) あとは議論を端折りますが 言いたいことは もし
 ★ 他者の価値観を認めず、「悪」だと判断することこそが戦争への道ではないでせうか。
 ☆ という主張に対してなら こう答えます。:

 ○ いのちの貴びと生きることとをないがしろにする思想および行動については 善を損ない傷つけることとして はっきり《悪》だと判定してよい。もしそうしないなら 初めから 人殺しとしての戦争を肯定していることになる。





 新学期突入前短期集中特別講座をありがとうございます。

 ★ グッドウィン希語文法第421条第4項に適合し、合法です。
 ☆ 高津春繁の本で勉強しました。参照できなくて残念です。

 ですが
 ★ 関係代名詞が名詞を修飾してゐるだけです。
 ☆ 関係代名詞というのでしたら 何の代わりなのですか? どの語を承けた関係代名詞なのですか?

 あるいはひょっとして

 ○ ヘーンは 《そのゆたかな愛によって( ディア テーン ポレーン アガペーン)》なる語句を繰り返し示すためにある。

 のでしょうか? 


 いえいえ。

 ・ through the great love with which he loved us (New Jerusalem Bible)

 この場合は ヘーンは 関係代名詞として むしろアガペーン( love )を承けています。《修飾している》わけではありません。そして この見方をするなら 《ディア ヘーン( with which )》というように前置詞が必要なのではないのでしょうか?

お礼日時:2014/08/31 11:37

コメント有難うございました。

私のようなものの回答がきついツッコミになるとは思いもよりませんでした。
モーセの律法やそれ以前のことについては、浅学にして何も申し上げられません。ただ、

>したがって 《よからぬことを、よきことと思わせる教えのもとに暮らしていた》としても それは―― 一時期の一部の人びとないし地域で自由意志の自覚がとぼしくなっていたとしても―― やはりすでに感性が よきこと・よからぬことの判定をヤマシサ反応としておしえているのではないかと考えます。

という点については少し引っかかります。感性は、生まれつきそなわっているものではなく、育てられるものと考えます。感性が育っていない人に、ヤマシサ反応を期待できるでしょうか。それと同じ論理で、遠藤周作の言う「どうにもならない悪」というのも、以前から引っかかっています。昔インタビューで聞いたのですが、遠藤周作の考える悪とは、こういうことだそうです。「キリストが磔になった時、多くの人が石を投げつけた。最初は投げていなかった人も、周りの人がやるのを見て、一つ投げてみたところ、たまたま命中したので、面白くなって投げ続けた。そういう、どうしようもない悪というものがあるのではないか。」そんな内容だったような気がします。そういう「悪」を描くのが、遠藤周作のテーマだったのでしょう。しかし、これは本当に「悪」なのでしょうか。私がそれを疑問に思うきっかけになったことがありました。
オーストリアに留学中、国営放送のFMで、オーストリアの作家、アルベルト・ドラッハ(Albert Drach)のインタビューを聞いたことがあります。この人はユダヤ系だったため、大戦中はあちこちに逃げていたようです。頭の良い人で、1942年に逮捕され収容所に送られたとき、生年月日の下に記載されていたIKGという略号、つまり「Israelitische Kultusgemeinde」を「in katholischem Glauben」と翻訳させて、釈放されました。この作家が、「ユダヤ人を収容所へ送ったのは悪ではない、官僚主義だ」と言っておりました。つまり、役人は上からの命令に従ってサインするだけ、ということです。これをドラッハは、「愚かさ」とよび、そのあとに続けて、「この世で最も困るものは、愚かさだ、悪というのは、愚かさのひとつの形式に過ぎない」と話していました。この言葉が大変印象に残っております。「悪魔」を「悪」の比喩としてとらえるならば、「悪魔」というのは、愚かさゆえに自分自身で作り出した幻影、ということにならないでしょうか。自らが作り上げたものであるがゆえに、悪魔だとは思わない、そして「あらがい難い圧倒的なチカラをもってアヤマチへと誘導」します。
このところ、世の中で何かが起きると、マスコミは必ず善悪を演出します。これは大衆受けしますので、多くの人がそれによって問題が解決すると錯覚します。しかし、そんなことばかりしているので、笹井氏のような犠牲者が出ます。悪魔は実在せず、その実態は「愚かさ」にあるということが理解できなければ、本当の解決にはならないと思っています。事件の当事者もマスコミも愚かです。ただ、これがモーセの時代の律法の話と関連させることができるかどうかを論じるのは、私の能力外のことになりますので、どうか御勘弁ください。
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この回答へのお礼

 あらためまして こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ★ 感性は、生まれつきそなわっているものではなく、育てられるものと考えます。感性が育っていない人に、ヤマシサ反応を期待できるでしょうか。
 ☆ うむ。そうですね。幼児や子どものときのことを詳しく知らないのですが あのお ヤマシサ反応というのは あれですよ。つまり ウソをつこうとすると胸のドキドキが激しくなったり 顔が赤くなり言葉がろくにしゃべれなくなったりする心や身の変化です。

 つまり ウソ・イツハリを言ったりおこなったりするときには 誰でも生まれつきの自然本性としてこの反応が起きると思って ヤマシサ反応というふうに言って来ました。どうなんですかね。この反応が起こらない人がいましょうか。とは思います。




 ★ それと同じ論理で、遠藤周作の言う「どうにもならない悪」というのも、以前から引っかかっています。
 ☆ これも ふむというふうにまづ受け留めまして。つまり よく知らないのですが これは 模倣欲望ですとか 集団心理のようなことではないのでしょうかね。

 どちらかと言うと あとに出て来る《おろかさ》なのかも知れないとは思いました。《官僚主義》も 前例に従うといったように或る種の模倣というかたちにおいて成っているとすればです。




 ★ この作家が、「ユダヤ人を収容所へ送ったのは悪ではない、官僚主義だ」と言っておりました。つまり、役人は上からの命令に従ってサインするだけ、ということです。これをドラッハは、「愚かさ」とよび、そのあとに続けて、「この世で最も困るものは、愚かさだ、悪というのは、愚かさのひとつの形式に過ぎない」と話していました。
 ☆ ううーん。あまり考えたことのない見方・考え方なんですが もし逆の見方をしてみるのも 話がすすむのだとしますと 《おろか》な場合は ひとつの場合として《知らなかった》ということも起きますね。

 つまり わるいとは知らなかったという場合であり それは 善意であると見なされる場合もある。悪を為したことには変わりはないわけですが。

 でも殺害につながるコトについては このような善意は ないでしょうね。

 ★ 「ユダヤ人を収容所へ送ったのは悪ではない、官僚主義だ」
 ☆ アーレントという人は ふつうの市民の感覚や生き方から そのような民族の殺害などという行為の実行が起きたのだとか言ったそうですね。

 いま いろいろと反対の見方から考えることを試みているのですが
 ★ 悪というのは、愚かさのひとつの形式に過ぎない
 ☆ そうですね。ユダヤ人が捕らえられ収容所に送られるというとき そこで何をされるのかを知らない場合は それでも認めの判子を押すと思うのです。と考えるのは 浅はかでしょうか。



 ★ 「悪魔」を「悪」の比喩としてとらえるならば、「悪魔」というのは、愚かさゆえに自分自身で作り出した幻影、ということにならないでしょうか。自らが作り上げたものであるがゆえに、悪魔だとは思わない、そして「あらがい難い圧倒的なチカラをもってアヤマチへと誘導」します。
 ☆ つまり これまで逆の見方を試みましたが ここでなお往生際わるく自説にこだわるならば こうです。
 すなわち もし収容所へ送られそこでは けっきょくガス室で《処分》されるのだと知ったとしたら そのときには 自分がそのことに直接に加担するのでなくても 一度はヤマシサ反応を起こすと思うのです。

 この反応にさからう自由度が 人間にはあるとも言って来ましたし あるいはそのような強行突破が重なると感性も麻痺してしまい 反応を起こさなくなるかも知れないとも いま考えます。



 ★ 「悪魔」を「悪」の比喩としてとらえるならば、「悪魔」というのは、愚かさゆえに自分自身で作り出した幻影、ということにならないでしょうか。
 ☆ この見解は 《悪魔とは 思考や想像の産物である》というわたしの立ち場にとって 裏づけをしてくれているような内容なのですが たぶん発想のみなもとは ちがっているのでしょう。

 だからなのでしょうか この《愚かさ》をめぐっても もし端的に《人殺し》の要素があるとするなら それを実行するというときに やはりヤマシサ反応は起きる。とは推測します。

 起こることは 例外なくです。その反応にしたがって やましいことを避けるか・それともやましいことでも 敢えておこなうか。この選択は 人それぞれである。とは 考えます。




 どうも読み直してみて 直接にお応えし得ていないように思えています。どこか発想が異なるところがあるような感じを持ちます。感覚において わたしのそれは 粗いのかも知れません。


 それでも
 ★ 悪魔は実在せず、その実態は「愚かさ」にあるということが理解できなければ、本当の解決にはならないと思っています。
 ☆ という悪魔観は 同じような・しかも扱い方で別であるような。ちょっとお手上げかも知れません。

 ひとつ見方が異なるという事例が 分かりました。つまりそれは
 ★ 笹井氏のような犠牲者が出ます。
 ☆ この犠牲は 笹井氏がみづから招いたものであるか それともみづからにアヤマチはない場合には 世間の波風に飲まれてしまうほど弱かったかだとわたしは考えていますから。

 つまり 何も自死をえらぶことはない。まったくない。何があってもである。という見方です。
 自死も 人殺しですから ヤマシサ反応が起きたはずです。こういう見方をしています。

 というところから見るなら Tastenkasten さんとわたしとは どうも繊細さの点で違いが現われて来ているのではないかとは 思いました。

 こういうときは ぷらぽた氏が ことの実態を解き明かしてくれるのではないでしょうか。

お礼日時:2014/08/31 01:31

回答が多くて、お相手がたいへんさうですね。



>>どういう思考のあり方であるのかが 分かりません。

私もわかりません。
STAP細胞のやうに科学の世界では、証明できないならば、ない、とされますが、宗教の世界では、証明できないからといつて否定はできません。書いてある以上は、素直に読めばいいのではないかと思ひます。反論は当然あるでせうけれど。

回答番号8の「お礼」にまたギリシャ語の話がありましたが、回答番号10にも書きました。関係代名詞が、女性単数対格なのですから、アガペーンだけにかかる、といふのが自然だと思ひます。和歌の解釈でしたら、さういふ重層的な読みもおもしろいのですけれど。

>>《空中の権能》とは 何でしょう?

完全に制してゐるわけではありませんから、「制空権」ではなく、「航空優勢」のレベルと思はれます。
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この回答へのお礼

 こちらから先に応答いたします。ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
   >>どういう思考のあり方であるのかが 分かりません。

 私もわかりません。
 STAP細胞のやうに科学の世界では、証明できないならば、ない、とされますが、宗教の世界では、証明できないからといつて否定はできません。書いてある以上は、素直に読めばいいのではないかと思ひます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ぷらぽたさんは 《素直》過ぎます。
 
 つまり まだなお 《文学》と《哲学》とのあいだに何かの領域があるというのは ピンと来ません。
 シュウキョウは オシエとしては 哲学です。その中で タトエとしては 文学です。

 信仰としては――非思考の庭にかんしては―― 経験思想や経験科学を超えています。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
  >>《空中の権能》とは 何でしょう?

 完全に制してゐるわけではありませんから、「制空権」ではなく、「航空優勢」のレベルと思はれます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ だとしますと それは 相対的なチカラしか持っていません。
 
 あらがい難い圧倒的なチカラをもってアヤマチへと誘導するというような悪魔ではない。のですね?








 ★ 関係代名詞が、女性単数対格なのですから、アガペーンだけにかかる、といふのが自然だと思ひます。
 ☆ ぷらぽたさんは 《自然》過ぎます。物差しが欲しいです。

 《ディア》が ひとつ抜けているのですか? なくても合法(合文法)なのですか?

お礼日時:2014/08/30 22:27

回答番号6「お礼」拝見いたしました。



>>主語は ホ テオス= 神が。
>>述語は エーガペーセン= 愛した。
>>および シュネゾーオポイエーセン=生かした。

文が長いので、ややこしいのは確かです。

>>《そのゆたかな愛によって( ディア テーン ポレーン アガペーン)》
>>だけで済むようにしか考えつかないのですが?・・・

そのとほりだと思ひます。アガペーについてアガパオーするといふのは、馬から落ちて落馬するのと同種ですが、ギリシャ語やヘブライ語ではめづらしくないやうな気がしますし、だからこそ、そちらにしか、かからないのではないでせうか。
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この回答へのお礼

 ★ そのとほりだと思ひます。
 ☆ そうなんですか?


 ご回答をありがとうございます。



 ★ アガペーについてアガパオーするといふのは、馬から落ちて落馬するのと同種ですが、ギリシャ語やヘブライ語ではめづらしくないやうな気がしますし、だからこそ、そちらにしか、かからないのではないでせうか。
 ☆ ううーん。やっぱし むつかしい。

 《ヘーン》は 対格なのですよね? でも エーガペーセン(神が愛した)の対格は 《ヘーマス(われわれを)》がありますから・・・あっ 二重対格語のようなかたちなんでしょうか? 

 


 あぁ。なんだかなぁ。


 でも お教え ありがとうございます。

お礼日時:2014/08/30 22:47

☆さて 空中の権能とは 何でしょう?


◇テキストとしての流れからすれば、
《肉(欲)》を求めるハタラキや心の有り様となるのでしょうか。

でも、分からないですね、
「the air」という言葉が(従順や善性などの)欠乏や空虚といった意味を表わしているのかもしれないので。



☆もし悪魔だとして それは 実態があるのでしょうか?
◇現われとしての心やそのハタラキとしてならばある。
しかし、それは実体的な存在ではない、と考えるべきなのでしょうね。


で、
the ruler of the spiritのspiritも霊や聖霊といったものと考えるべきではない、
と思います。
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この回答へのお礼

 あらためまして こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ 「the air」という言葉が(従順や善性などの)欠乏や空虚といった意味を表わしているのかもしれない
 ☆ これは 《善の欠如 ないし 善の損傷》として 善のマイナス つまり悪のことですね。

 ◇ テキストとしての流れからすれば、 / 《肉(欲)》を求めるハタラキや心の有り様となるのでしょうか。
 ☆ その《ハタラキや心の有り様》は 人びとにはあらがい難い圧倒的な・または得も言われぬほど魅力的なチカラを持つものか? でさらに中身がはっきりするように思います。

 もし《霊》と言っているのなら それは つまり経験事象を超えていると考えられるからには 人間の知恵と能力と努力を超えていると思われます。


 ただしこの《霊》という規定も 必ずしも神としての霊のことではないかも知れません。

 
 あっ 書いてありましたね。
 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 で、
 the ruler of the spiritのspiritも霊や聖霊といったものと考えるべきではない、
 と思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~





 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ もし悪魔だとして それは 実態があるのでしょうか?
  ◇ 現われとしての心やそのハタラキとしてならばある。
 しかし、それは実体的な存在ではない、と考えるべきなのでしょうね。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここは 意見が一致しました。ただしその実態は 悪魔という表現をつかっているだけではないかとは思っています。

お礼日時:2014/08/30 22:39

回答が遅くなりました。

最近はさまざまな宗教議論への参加者がふえてきて、好ましく感じてゐます。特に佛教については、回答者がねこさんだけのときが多く、心配してゐたものですから。

>>《存在として》という概念そのものが 一大事ではないでしょうか?
>>悪魔のことについてですよ?

作曲家の先生がおつしやるとほり、書いてあるとほりです。

たしかに文学的問題ならば、すんなり認めればすむことです。現実には、否定はできません。比較すると叱られるかもしれませんが、STAP細胞よりも、可能性があるやうな気がします。

さきほどの関係代名詞の件ですが、何かあつたのでせうか。文法の説明など、bragelonneさんには不要と思ひますけれど。

for his great love wherewith he loved us (American Standard Version)
through his great love that he loved us (A Conservative Version)
through the great love with which he loved us (New Jerusalem Bible)
because of the great love he had for us (New American Bible)
because of the intense love which He bestowed on us (Weymouth)
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この回答へのお礼

 ★ 作曲家の先生がおつしやるとほり、書いてあるとほりです。
 ◆(回答No.4) (か)「悪魔などは 屁の河童である」- 悪魔であることに気付いていなければ、そう叫ぶことはできませんね。
 ☆ これですか?


 まづは ご回答をありがとうございます。

 
 でも 人が《悪魔に気づいていなければ》 やはり悪魔は 現実ではないですね。虚構の世界でしか現われない。となるのではないでしょうか?


 ★ たしかに文学的問題ならば、すんなり認めればすむことです。現実には、否定はできません。
 ☆ は 大いに分かるのですが
 ★ 比較すると叱られるかもしれませんが、STAP細胞よりも、可能性があるやうな気がします。
 ☆ は どういう思考のあり方であるのかが 分かりません。つまり 自説にかたくなになっているように見えるのでしょうが そうではなく 決してそうではなく 飲み込めないのです。

 《実体》であるとか《存在》であるとかのカテゴリには 悪魔は 入らない。という捉え方のほかに どういう定義や認識の仕方があるのか? これが 分かりません。

 文学については 分かります。






 ▽ through the great love with which he loved us (New Jerusalem Bible)
 ☆ だとしますと

  2:4  διὰ  τὴν  πολλὴν  ἀγάπην  αὐτοῦ  〔 διὰ 〕 ἣν  ἠγάπησεν  ἡμᾶς

 のように もうひとつ ディアが必要なのではないのでしょうか? よろしくお願いします。つまり そうなると ディア・・・・・・アウトゥー(そのゆたかな愛によって)なる語句は 2:5 のほうの 《シュネゾーオポイエーセン=生かした》にかかることになるという寸法です。
 
 なんだかなぁ。

お礼日時:2014/08/30 21:33

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