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「対手が悪い(間違っている)、だから自分が正しい」

此の理論の哀しい所は、「悪」が居ないと、「善」が成り立たない所です。

更に悲劇なのは、「自己」にも「他者」にも「証明」を求め続けます。


さて、此処で喧嘩を売りましょうかw

西洋哲学は、なかんずく、此の理論で全てが展開されます。

其れはまるで(ドラマの)「水戸黄門」です。


我々一人一人が立っている大地の広さは、一人に一人分に過ぎません。

しかし周りが必要無いから(悪いから)と、回り全部を掘り取ってしまったらどうなるでしょう?

そもそも大地が大地を為さなくなるのでは?

または、何処にも行けなくなるのでは?


雨に濡れた道を歩くのは嫌?

自分の決めた道は、誰が作った道?

魂の言葉を聴きたいものです。


あぁ、今回は堂々と喧嘩を売りましたが、買う資格の無い方は控えて欲しい物ですw

・・でも、解らない方が買うんだよなぁ・・w

A 回答 (26件中1~10件)

 こんばんは。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 善悪、非常に理解し易い、其の幼稚な正義

 [・・・]

 西洋哲学は、なかんずく、此の理論で全てが展開されます。

 其れはまるで(ドラマの)「水戸黄門」です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このくだりに反応します。


 《善悪の彼岸》としての神が想定されるようになったということ。こういう解釈が すでに成っています。

 【Q:神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8604161.html

 すなわち簡略にその内容を言えば 次のふたつです。

 神は じんるいの侵した罪をもう覚えない。忘れる。

 神を知れと言っておしえることは もう無くなる。要らない。


 すなわち この神つまりヤハヱーですが この神は じんるいにとってただ一つの普遍的な神へとみづからを揚げて ふるいユダヤ民族のための神であることを棄てた。



 雑草の生えるにすべてが任されたということになりますが むろんそういうことを言う必要がない。という世界の幕が切って落とされた。

 このあたらしい思想にしても シュウキョウのオシエとして商売道具になるのかどうか。・・・
 あとは 一人ひとりの自覚に俟つよりほかありません。
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この回答へのお礼

おぉ~~、なるほどw

いや、私は本質的な基督は理解していますよ。

其れは「今、現在」の基督教とは別物だと言う事です。

ただ、私は基督教徒ではありませんので、此のレベルでの会話は致しません。


仮に仏教徒である私に基督教の真髄を尋ねたい方が居れば、お答えします。

と言うか、常にその発言はしています。

釈尊も基督も、同じ事しか言っていません。

お礼日時:2014/09/02 23:18

 No.1です。




 ★ (No.1お礼欄) 釈尊も基督も、同じ事しか言っていません。
 ☆ ゴータマは 擁護・弁護し得るとは思えません。

 なにしろ天上天下唯我独尊ですよ。

 おれのやり方でなきゃ おまえたちは成仏しねえぞ! と言い続けただけぢゃん。典型的な阿呆ですよ。
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この回答へのお礼

天上天下唯我独尊ねぇ・・・

私も同様の感覚を憶える時はありますが、対手によって、態度によって使い分けています。

本質的に釈尊の教えで、そんな内容はありません。

「偉いから言う事聞け」といったのは、其の後の人間です。

バチカンと同様です。

「独尊」の表現が全てを崩壊させているので、釈尊の言葉でないのは明白です。

矛盾していますからw

「尊い」には反語があります。

釈尊がそんな拙い用語を使う意味がありますか?


まぁ、出典も一次資料が無い時点で、無意味ですが。


私は自分が「独尊」だ等とは、色んな意味で思いませんが、他に理解出来ない人物が相当数居るとは思います。

お礼日時:2014/09/02 23:53

 ゴータマ批判をつづけます。



 いかにゴータマが独りよがりの《さとり》を得たと言っているかを 一次資料ではないですが ヰキぺの説明から考えます。

 ▼ (ヰキぺ:釈尊) ~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6# …

 §3  生涯
 §3.3  成道

 [・・・]悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかをその後28日間にわたって考えた。その結果、「この法(悟りの内容)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうし、了ることはできないだろう。語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。

 ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。釈迦は彼らの住むヴァーラーナシー (vaaraaNsii) まで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そして その仲間からも《さとりを得た》者が現われたそうですが このさとりの内容は けっきょく生涯にわたって明らかにされることはありませんでした。

 さとりの輪郭だけを説明したに過ぎません。ですから 後世においてもすでに二千五百年も経っているにもかかわらず ブッダとなった人間は いません。(日蓮とその系統には自称ブッダがいるかも知れませんが 相手になりません)。


 つまり これは 法華経に出て来る言い方ですが 《大化城》を見せたのであるということです。
 《さとり》についてそれを得たならば そこに住むという場を・つまり極楽浄土のようなところを 《化城つまりまぼろしの城》として見せたのだと 語っている。

 それは 人びとにとってこの世で生きることがつらく苦しいだろうから せめてイメージにおいてでもよきところがあるのだと示してやりたかった。ということだったようです。

 わるく言えば ペテンです。何もないけれど 必ず自由自在の境地に到ることができるよと言い続けたということです。百回言えば 信じるであろうという手です。
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この回答へのお礼

さて、これ以上は不毛な会話になるので、此の一言で終わります。

幕末の日本には「Freedom」の概念はありませんでした。

でも理解で切る出来ないは別にして、存在はしていました。

自身が理解出来ないのは、誰のせいでしょう?

相手?自分?


貴方が求めるならば、私は付き合います。

しかし縋るのでしたら、蹴落とします。

私は釈尊や基督の様に優しくは無いのです。

お礼日時:2014/09/03 00:30

 地球上の生物の中で人間だけが生きるために“経済社会”を作り出しました。

たぶん、人間同士の間で需要と供給という関係が成立ったから。

 発展した現代の人間社会は経済社会と云い換えられると思います。(ど素人の感想を述べています)

 億単位の金額を扱う経済界で働いている人の自慢話を聞いていると、その仕事に人間的な“情”は全く感じられません。入る余地は無いようですらあります。

 これを人情味が無い。好ましくない。気の毒だ。と受け止め、批判する人がいても不思議ではありませんが、大多数の人がこの人たちが作り出し、安定?させようとの努力の結果の“経済社会”によって生きていられるのだと思うと、その“情”抜きの世界で働いている人々のおかげで「私」もいるのだと思えます。

 魂の言葉ではありませんが・・・
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この回答へのお礼

書き込みありがとうございます。

表題とは違いますが、新たな考察のヒントをありがとうございます。

「金」・・「利益」・・、色々な表現があるでしょうが、「未来」の貯蓄(保障)との見方が出来るでしょう。(定義・理解に因りますが)

マルチ講や宗教団体での活動をしている方は、「人間関係」を「金額」に換算していますね。

其の為に手元に残るのは良くて「現金」でしょう。

ブラック企業も同じでしょう。


面白いのは「宗教団体」も同様という事です。

求めているのは何なんでしょうねw


此の表題は、何れ別に会話をしたいと思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/03 00:39

こんばんは、おふろさん。

またまたおもしろいです。


わたしは以前、「ニンゲンにはなぜワルモノが必要か?」
という質問をしたことがあります。
八百万方角から多くの意見をいただき、感謝しています。


このような問い方もできるのですね、
おもしろい回答を期待しています。


>自分の決めた道は、誰が作った道?
:う~ん。オマエでもオレでも社会でもない場合も
あるからなあ。

>魂の言葉を聴きたいものです。
:「わたしの( )を受け付けてください」。
「あなたの( )を表現してください」。
「それを続けてください」。


 
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この回答へのお礼

愉しんで頂けてうれしい限りです。

今回は結構、身を切る思いで書き込んでいますw


判ります?

私は既に他人の領域に踏み込んだ発言をしているのです。

二元論を否定していながら、相手がいるのですw

この矛盾に気付いて突っ込んでくれる方を楽しみに待っているのですw

お礼日時:2014/09/03 00:49

おふろさん、ご返事ありがとう。



どなたかと境界侵入し合っているのですか。
その人と仲が良いのですね、きっと。

無人島の大統領になっても楽しくなさそうなので、
人が雑居している中の塵のほうがいいです。
塵も積もればマンテンっていうし。
 
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この回答へのお礼

いえいえいえ・・・

今回の会話では、未だそんな事はありません。

非常に有意義で、有益な方しかお見えになっていません。(食いついて来る方が無益とは言いませんw)

私の発言は、そもそもが「二元論を侵害している」立ち位置だとの突っ込みを期待しているのです。

まぁ、其のレベルでは楽しめないかもしれませんがw

本来、哲学を標榜する方ならば、逃げられないテーマなので、楽しめるかなぁと思っています。

お礼日時:2014/09/03 01:15

>しかし周りが必要無いから(悪いから)と、回り全部を掘り取ってしまったらどうなるでしょう?


>そもそも大地が大地を為さなくなるのでは?
>または、何処にも行けなくなるのでは?

黄門様が悪人を全部しょっぴいて、地上から悪人が姿を消したら
その時はこの世では善行だけが成され、悪は空想の産物になります

掘り取る話で言えば、掘った土はどこかへ捨てなければなりません
捨てたところに新たな大地が出来ます

掘れば、掘った場所と異なる所に大地ができるように、悪が空想の産物になることで
悪が存在しなくなるのではなく、存在する次元が善と異なる場所になるのです

歴史が古く盛んな西洋哲学でしぶとく生き抜いている二元論に喧嘩を売るには
力不足の感が否めませんね
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この回答へのお礼

>この世では善行だけが成され、悪は空想の産物になります

善だけで悪を計る事は出来ません。

立ち位置を何で測っています?

>存在する次元が善と異なる場所になるのです

善と異なるとは、善とは違うものですね。

何と呼ぶかは勝手ですが、比較で生まれているのでは根本には変化はありません。

>歴史が古く盛んな西洋哲学でしぶとく生き抜いている二元論に喧嘩を売るには力不足の感が否めませんね

勘違いしないで頂きたいのは、私は二元論を「捨てろ」等とは言っていません。

二元論は立派な「段階に必要な思考」です。

私は「喧嘩を売った」と言っています。

何に売っているかを理解してくださる方を楽しみにしているのですよ。

書き込みありがとうございます。

お礼日時:2014/09/03 22:22

 ★(No.2お礼欄) ~~~~~~~~~~~~


 「独尊」の表現が全てを崩壊させているので、釈尊の言葉でないのは明白です。

 矛盾していますからw
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この判断が 矛盾していますよ。と言ってあげるべきだと思ったまでです。
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この回答へのお礼

いや、ねぇ・・・

其処まで言い張るのならば、(貴方の人生的には)良いのですが・・・

私は「唯我独尊」の発想そのものが、釈尊の発言だと思っていないのですよ。

ですので、此のレベルの会話をしたいならば、ご本人の発言だと言う第一資料でもなければ、したくないと言っているのです。

お礼日時:2014/09/03 22:26

おはようございます。



反論になって申し訳ないですが、少なくともカントは
純粋理性批判において、延々延々と受容を書いております。


「天上天下唯我独尊」は、今の私の目で見ると
コンパクトに言ってしまえば「自律」と読み取れます。
自分でもちょっとビックリであるのですが(^_^;)

自身を尊ぶのは、自分の尊厳を守り
自身の尊厳を守るは、相手の尊厳も認め敬うことができます。

これすなわち、自身の独立性を持つことができ
今の権利と尊厳を守る日本の法に繋がります。

私としては民主主義と言うより、自由主義が相応しいと
勝手に思っています。
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この回答へのお礼

>コンパクトに言ってしまえば「自律」と読み取れます

此れは面白い理解ですね。

私は気付きもしませんでした。

ただ、誰もが「自律」をしていますが・・

皆が皆、何かに命ぜられて、「自律」していますw

此の「何か」は人によって違いますが、此の何かを手に入れる事が、大概は望みでしょう。

確かに此の理解を進めれば、唯我独尊も文面的には正しいですね。

でも、「我」の単語を出せば、今の私の様に喧嘩を売っているだけだと思われてしまいますがw


私も少しは楽しみたいのです。

ご迷惑をおかけしています。

お礼日時:2014/09/03 22:33

 論点として派生しているかどうかも分かりませんが 文字として書き込みがあったということで それにかかわってさらに述べます。





 天上天下唯我独尊の《唯我》がいけないのです。

 《我独尊》ならまだセーフかも知れません。《独》が 微妙ですが・つまり《唯》とあいまってはたらく気遣いがあるからですが みづからをとうとぶことがわるいわけではありません。

 しかも 《唯だ我れ》と言ってしまっては もうアウトなのです。
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この回答へのお礼

んん~~・・・

まぁ、先ほど書き込んだので、しつこく言うのも何なんで・・・

此の文面は褒められる物では無いと思いますよ。

ただ、例えどの様な経典でも、釈尊は一文字も書き残してはいない筈です。

残したのは弟子達です。

文字が一人歩きしていません?

お礼日時:2014/09/03 22:36

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