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私は人間です 人間の体を持っています 五体満足です(病気してますが)

でも人間の体と人間の精神は別ものだと思うんです

TVの受信映像機とテレビの番組の内容が別ものの様に。ハードとソフトですね。

で改めて私はどちらかと聞かれたら 私は精神だ と思います。

肉を食って糞をまってるのは命を持つ生々しい体で 精神はそれと関係はあるけれど

体ではなく 性質で出来た自我から意識と成り精神となった私であると思うんです。

だから肉体の食物連鎖と精神の競争は全く別だと思うんです。真似ることはありますが。

私は精神です。あなたはどうですか? あなたも精神ですか?

病気なんで短めに要点をお願いしますm(_ _)m

A 回答 (11件中1~10件)

>人間の体と人間の精神は別ものだと思うんです


 で改めて私はどちらかと聞かれたら 私は精神だ と思います。
 性質で出来た自我から意識と成り精神となった私であると思うんで
    私は精神です。あなたはどうですか? あなたも精神ですか?


そうですね、断定はできませんが、どちらかといえば、という感じで

質問者様に共感が持てます。私も(元は体から生まれたにせよ、今は)精神優勢です。  体は(以前からですが)限界を感じていて、もうどうでもよく、できればなくなっったほうがいいし、でも、精神は出来る限り長く保っていたい、もっともっと大きくなりたい、そんな気分です。


どうすればそうなれるのか?まだ結論は出ていませんがw。
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この回答へのお礼

そうですよね 人間の体って良い事も沢山ありますが 病気をしたり怪我したり

力が足りなかったり 眠たくなったり。不便なこともありますよね。

できればもっと自由に生きられればいいです。寒くもなく、腹も減らずに一年くらい持つ様な

病気もせず 死にもしないそんな体だといいなと思います。

まあ思うだけですけどねえ。体を交換する技術はまだないようです。

どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2014/11/02 21:45

サポート的な回答:当サイトは、助け合いの情報交換の場だから。



+++++
>なんか難しい大学の試験問題でも読んでるようですねえ

そうですか、私には普通の言葉にしか思えませんでした。

>普通に読んでも何の事か分かりません

あなたの「その正直さ」は貴重です。

>よく読むと成る程なるほど そういうふうに【考える】んだ と思います。

正確には「彼は、個人的な考え方で【考えてはおりません】」。つまり、観測や実験の結果、明らかとなった「事実=the fact=普遍真理」を、説明しているにすぎず、疑い深い私さえ、疑問や批判の余地がないのです。では言葉の表現法こそ違えども、言っている内容が同じであることを、以下の解説で、伝われば幸いです(解る人にだけ、解ればよい、というのが、pアニキや私の、回答スタイルです)。

+++++
【認識体はその光の向うに自我仮説の補完としての時空仮説=宇宙を認識するのだ】

>これを見る限りでは認識体が内なる存在でなくても 光の向こうに 時空仮説=宇宙を認識すると読めます。その時空仮説の「仮説」と言うのはどの様なものでしょうか?先生(貴方)が考えたのですか?

注意:お礼欄での質問は【禁止事項】ゆえ、質問があれば「補足欄」を使用してね。

解説:まず、認識とは「知覚」とか「観測」と言い換えても、とりあえずはよいでしょう。で、人間は「認識(観測)体」であり、ノラネコも、同じだし、ゾウリムシも同じです。特徴は「意識がある点」で、例えば「あなたの体細胞1個」や「昆虫の働き蟻、蜂」は、個体レベルで「意識を持っていない」ただ反射的に動いているだけなので、「認識体ではありません」。これは理科の事実です。

そして、「宇宙は、認識体の数だけある」と言えるのです。また、時間軸を考えると「パラレル宇宙論」が示すように、例えば「私が既に事故で死んで存在しない宇宙」もありえるし「質問者さんが病気で既に死んで存在しない宇宙」もありえる訳です。こうして、私とあなたが交流できるのは、それぞれの宇宙が干渉しあっている部分の宇宙があるからで、私の宇宙と、あなたの宇宙と、pアニキの宇宙は、別物であり、すべての可能性の中で「たまたま干渉しあっている部分」つまり「湖の水面に、3つの石を投げ込むと、3つの波がたち、波紋が複雑に重なり合う」のと同じようなことが、より高次元の世界で起こっているのです。

さて、認識体の数だけ宇宙があり、なおかつ、時間性の中では「波紋のように、どの方向へも広がる」ゆえ、【「自我仮説」に対して「時空仮説」が生じる】という【『仮説』という記号の使い方】に、何か問題があるでしょうか? 「多くの可能性の中で、仮にどこかの場所に宇宙を設定すれば、それに伴い、仮に自我・仮に時空、が同時に定まるよ」と言っているだけなので・・・。

ぜひ、とことん疑ってみて、疑問がわいたら、必ず「補足欄」で、その先生(彼は先生と呼ばれるのを【嫌う】。なぜなら、彼は『格差容認的な関係を持ちたくないから』です。なので、ふつうに『対等な関係』で『あなた』と呼ぶ事をお勧め致します。でも『私=おたま』を真似て『pアニキ』と呼んでも、彼は怒りませんよ。なぜなら私は「甘えている猫」のような者なので・・・)に質問するか、私に質問するかしてください。時間があれば、お答え致します。

以上、サポート的回答でした。
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この回答へのお礼

>「宇宙は、認識体の数だけある」と言えるのです。

ここに疑問が有るのです。普通宇宙というのは心の中にある小宇宙ではなく

空に広がる大宇宙の事を言うはずです。そしてそれは一つです。

もし敢えて言うなら「小宇宙は、認識体の数だけある」と書くべきでしょう。

唯心論の立場にも立ちませんし 小宇宙が実存的現実宇宙とも思えません

これは私の思うままの疑問を書いているのであって おたまさんをどう思って言ってるわけではありません

とても起きな問題なので、よく考えて欲しいということです。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2014/11/08 19:52

#8の者です。



>人間の体と人間の精神は別ものだと思うんです

人は通常、「精神は自分の内のもの、その外に存在の世界が
広がっている」と考えがちである。
しかし、その「世界」の実体は、感受表面での量子相互作用
に還元され、その五感の相関した経験の蓄積において、光や
音などの情報性の高い感受に対して、過去の味覚や触覚といっ
たより生理的な感受を励起させる=“そこに至れば何が起き
るか”という予測する事で、空間的広がりを生じているのだ。

全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に
詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなる。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、
認識体の仮定断面(無=無限の潜在としての認識可能性)の
運動(プランク定数hの収束の時系列化)を想定すれば、
相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに自我
仮説の補完としての時空仮説=宇宙を認識するのだ。
(無の潜在としての自我仮説と時空仮説の(相補的不確定性を
介した)相補分化)
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この回答へのお礼

なんか難しい大学の試験問題でも読んでるようですねえ

普通に読んでも何の事か分かりません

よく読むと成る程なるほど そういうふうに考えるんだ と思います。

>認識体はその光の向うに自我仮説の補完としての時空仮説=宇宙を認識するのだ

これを見る限りでは認識体が内なる存在でなくても 光の向こうに 時空仮説=宇宙を認識すると読めます。

その時空仮説の「仮説」と言うのはどの様なものでしょうか?先生(貴方)が考えたのですか?

これは回答としてよく分からないので

>“そこに至れば何が起き るか”という予測する事で、空間的広がりを生じているのだ。

これを特徴とする考えだということで参考にさせていただきます

どうもありがとうございます。 

お礼日時:2014/11/03 09:52

精神と肉体を全く別物と考える心身二元論


は、現代科学と相容れません。

何故なら、精神は脳細胞のネットワークで
あり、脳細胞は肉体だからです。
魂が肉体を離れて存在している
訳ではないのです。

それに、内臓から記憶物質も発見されています。

心身一元論が正しいと考えています。


ちなみにですが、自殺を考えている人には
十分な睡眠と休養をとり、健康体になって
から考えろ、

これを実践させれば効果的です。
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この回答へのお礼

魂が肉体から離れて存在してる訳じゃない事は私にも分かります

精神は脳細胞や体の神経や内蔵の記憶細胞の活動によるものでしょう。

では 我思うに我在りという自我 つまりあなた自身は脳細胞などの活動だと思いますか?

ハードとソフトという考えからしても別物だと思います。

心身一元論が正しいとしても 心と体が関わり合ってるということで 同じものという訳ではないと思います。

私も拘るつもりはありませんが 自分を考えた時 自分は脳細胞の活動自体じゃあいなあ

と思うわけです

どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2014/11/03 09:16

「精神」とは、宇宙全体の事である。


「自分の体」とは、そのごく部分の事である。
自分の肉体に依存して環境を認識しているから
といって、肉体的自己の満足ばかり目指すのは、
世界が目で見えているからといって、目ばかり
洗うようなものだ。

量子論的世界像において、宇宙は認識される事
で派生している=自我成立のための相補として
環境性は認識されており、そこには自然との
物質循環や生態系の食物連鎖、自己の生命の
社会的拡張といった、環境との相互作用の必然
性が与えられているのだ。
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この回答へのお礼

なかなか難しいですねえ

普通に考えると宇宙全体は精神では認識も出来ない様に思いますけどねえ。

量子論で考えられるようですが「宇宙は認識される事で派生している」と言うのは

どこかおかしい様な気がします。

しかしこれが先生(貴方)の思想であると知っているので 成る程そう言う考えがあるのだと憶えておきます。

どうもありがとうございます。 

お礼日時:2014/11/03 09:00

私は、肉体でも精神でも無いと思います。

心身二元論で語られる世界像が、正しい姿であるとも思いきれ無いからです。私とは、何の色もつかず、何の場所も持たず、ただ満ちている何かだと思っています。
たとえば、水や空気の充満しているところでは波が伝わります。
私とはそのような、現象の起きるところには必ず在る、媒体のようなものではないかと。
従って、精神の崇高さも、肉体の不思議さも、私では無い気がします。
ただそれらが現象するところには、必ず在る、という風な。
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この回答へのお礼

貴方は肉体でもなく精神でもなく それらがあるところに必ずあるもの

という訳ですね。

我思う故に我在り という言葉でも収まらないところにいらっしゃるのでしょうか?

そこまでは考えませんでした

どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2014/11/03 08:27

あなたに対して「あなたは精神ですか?」と問えば「はい」と答えるのでしょう。


しかし、そう答えたからといって、それが正しい訳ではありません。
確かに身体と精神は別のものかもしれませんが、精神があなたのすべてではありません。
「あなたは精神ですか?」と問うて「はい」と答えたのは、答えたのがあなたそのものではなく、あなたの精神だからです。
Aに対して「あなたはAですか?」と問えば、嘘つきでない限り「はい」と答えるに決まっています。
それ以外の答えが出ないのは、あなたの精神以外の部分が、問いに答えることができないから、精神の答えだけが勝っているに過ぎません。
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この回答へのお礼

精神ですかと聞いて「はいそうです」と答えたとしても精神以外の自分もあるということですね。

これはもう定義の問題かもしれませんね。

肉体を含めてその他も含めて「人間」と言うか 精神だけを「人間」と言うか。

人によって定義が違うということかもしれません

どうもありがとうございます。

お礼日時:2014/11/03 08:33

そんなこと精神に決まっているじゃないですか。

何のために生きて来られたのですか。まさか食事をしたいためではないのでしょう。
親の因果で命を授けられ、この世は自分を試しに来たところですよ。事に対峙する気構えや気力が無くては何事も成しえません。
私は子供の頃に死にかけて助けられ、感謝の気持ちと生きる精神力を持ちました。弱気にならずに尊厳を失わないようにしてください。
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この回答へのお礼

精神に決まってる という事ですね 成る程

この世は自分を試しに来たところ その自分というのは精神という訳ですね。

感謝の気持ちも精神力も精神ならではのこと

励ましまで頂いて どうも大変ありがとうございます。

お礼日時:2014/11/03 08:20

精神(心)だけでは成長する事が出来ないので肉体が必要なのです



例えば 人間が空気の様な存在だったと仮定すると 物にぶつかっても痛みも無いし何も感じませんよね

物質で出来ているから痛みとか諸々感じ取れるのです・・

肉体があるのと無いのとでは 精神の成長が そういう風に違うのです
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この回答へのお礼

親がないと子は育たないという感じですね。

でも育てしまったら子は独立して生きるのです 人間の尊厳とは精神の尊厳だと思います。

認知症になった老人の老人ホームでは 年に一回しか面会がないという家族が多いそうです

体は生きていても精神がつながらなくなったら人は軽んぜられるのです。

植物状態を考えれば、その人は人間と言えるでしょうか?人間としての機能はないと思います。

肉体があって精神が成長するという考えは成る程と思います。

ですが精神は自由です 独立しているのです。と思うのです。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2014/11/02 21:11

肉体から独立した精神は存在しないので、精神ではないと思います


さらに言うと、精神と言っているものは肉体が持つ働き、表現であるとも思います
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この回答へのお礼

クジラに精神らしきものがあるから捕鯨は反対と言ってますよね

でもサメを捕獲して食べることを悪いという人はベジタリアンくらいでしょうか

肉体と精神ではその次元というか質が違うと思うのです。

どうもありがとうございます。

お礼日時:2014/11/02 21:02

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