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こんにちは。
僕は平均的に普通の部類に入る高校三年生です。
進学の機会を失い、就職を目指してはいますが、哲学に興味があり、それなりに独学して『形而上学』の分野を調べたり研究(とは呼べるレベルではありませんが)したりしています。

ある日、アインシュタインの提唱した『特殊相対性理論』の世界線の図を眺めていて、一つの仮説が思い浮かびました。
言葉で簡潔に表現すると
『未来は『未来の因果律』により、過去の通過地点である現在が過去の因子に干渉しても同じ結果を生む』
という考えです。
つまり、未来はどんな選択をしても現在より過去に原因があるのならば、いくら改善を試みても同じ未来になる……つまり、未来はある程度決まっているのではないか?
という考えです。

あまり知識は無いのですが、知り合いに仮説を証明するには『式』にせよと言われたので頑張った結果

{limC_n∋F=α
limC_n∋F'=β}α≒β

※C=Causality F=Future

無限に広がる因果が集合したものが未来であり、因子の違いで僅かに違う並行世界が生まれたとしても相似した世界はほぼ同一の未来となる。
という式です。

本当はもっと簡潔にしたかったのですが、勉強不足であるためどうも改善策が思い浮かびません。

また、因果の集合=未来という理論の証明もしなくてはいけないと思うと、なんだか飛躍しているようにも思いますが、出来ればご意見があればお聞きしたいです。

若輩者の考えですが、この仮説はどう思いますか?
ご感想をお聞きしたいです。

A 回答 (6件)

相対性理論だけでは完全ではありません。


相対性理論は、時空的計量を相対化しましたが、そこに容れる
存在については、あなたのお考えのような古典的な因果律を
想定していました。
その結果、アインシュタイン自身も、量子論に猛反対しましたが、
結果はご存知の通りです。
量子論において、存在性も相対化されました(不確定的本質が
認識されることで有限化する)。
相対性理論と量子論は、基本的アイディアにおいて相容れなく
とも、現実を記述する両輪なのです。

あなたが取り上げた相対性理論においても、「運動する物体の
時間は遅れる」と言ってますが、運動する物体から見れば、
あなたの方の時間が遅れる、つまりあらゆる相対運動ごとに、
異なる時空が派生しているのです。
「派生」と言っても、パラレルワールド的に具体的な発生ではなく、
量子的な可能性の重なりとして。
素粒子レベルにおける経路積分において、「素粒子の相互作用
において、Aの状態からBになる確率は、途中の色々な可能性の
それぞれの確率を足したもの」=素粒子は複数の経路を経る、
というものもあります。
無数の可能性がオーバーラップした、確率波動の干渉の結果が、
有限な存在性なのです。

それは計算上のものではなく、完全に1個、2個と数えられる電子を、
1個ずつ二本のスリットに向けて発射すると、その向うのスクリーン
には、二本線ではなく、干渉縞が描かれる=1個の電子が2つの
スリットを同時に通り、自分で干渉し合うのです。
相対論効果における、相対運動でお互い相手の時間が遅れるのも、
円柱を上から見たら円、横から見たら四角に見えるようなもので、
「互いに行き来できるパラレルワールド」的なものではありません。

全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に
詰め込むと存在確率の山が平らになり、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に、
認識体の仮定断面の運動(プランク定数hの収束の時系列化)を
想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに
自我仮説の補完としての時空仮説=宇宙を認識するのです。
相対性理論はご理解されているのならば、異なる慣性系において
時間軸が異なるミンコフスキー空間はご存知だと思います。
そこにおいて、過去と未来の領域も、観察者によって一致しない事も。
であれば、過去と未来の関係を絶対化した考察は破綻します。

我々は「過去は既に終わっている」「未来はまだ来ていない」ので、
「存在するのは現在」と考えますが、空間の遅延作用において、
真の『現在』とは、認識体の感受表面での量子相互作用(光速)のみ
であり、その経験(過去=超光速)による予測(未来=光速下)として
時空的広がりは発生しているのです。
そこにおいて実際に捉えているのは、感覚器官表面の量子相互作用
(五感の違いは、その作用を捉える器官による波長や媒体の違い)
であり、その五感の中の(光や音などの)先行感覚に対して、過去の
五感の相関した経験(過去)によって、そこに至った場合の生理的
作用の予測(未来)として、空間的広がりを派生させているのです。
無の不確定性無限の潜在としての、「自我仮説性」の相補としての
「時空仮説性」。

そこでは、相対性理論の「超光速においてエネルギーは虚数化する」
=自乗において負(時間軸逆行と等価)となり、その結果、時間軸を
虚数軸とし、空間軸との等距離点に0の面(無の射影)を生じるのです。
その面こそ、ライトコーン=光の軌跡なのです(そして超弦理論に
おいて全ては量子性に還元される)。
即ち、「何か有るんじゃないの?」という疑問(自我仮説)の相補として
生じた時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影
として、存在は生じていると言えます。
つまり、無いとは分からない事が有なのです。
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因果という概念は、多くの場合に当てはまるため、そうして、知的に(仮想的に)扱いうるため、あらゆるものごとが、「因果」にて説明可能なごとくに錯覚してしまうものです。



因果にて説明可能なものごと(あるいは「おおよそ説明可能なものごと」)を知的に扱いうるとは、論理的であり、無矛盾性が担保されるということで「言葉で表現可能」ということを意味します。そうして、場合によっては(数式として)数学的・(図解として)幾何学的に表現可能だということです。

「知」について言えば、中学・高校時代は、そういった「知」について、どのようなものがあり、どうすれば上手く使いこなせるか?を、主体に学習していくことが一つの柱になるようです。

でも、それは、一つの柱であって、他の柱もあります。たとえば、心の働きは、大きく「知・情・意」といった分類(3本の柱)にて捉えられてきています。無論、これら3本の柱も完全には分離できず、枝葉が絡み合っています。たとえば、「情」として捉えうる恋愛関係は「知」で扱うには余りある領域に属していますが、絡み合った領域を通じて、「もしかしたら知や意で扱いうるかも?」といった錯覚を覚えることもあるかも知れません。「知・意」によって、ある程度「情」をコントロールできたとしても、「完全に」知・意の配下に置くことは不可能です。

また、「因果」について言えば、「全てを因果で説明可能」というわけではありません。

科学の領域について言えば、「ラプラスの悪魔」が有名です。
>>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%97% …
ラプラスは自著において以下のような主張をした。

もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。

– 『確率の解析的理論』1812年

つまり、世界に存在する全ての原子の位置と運動量を知ることができるような知性が存在すると仮定すれば(ひとつの仮定)、その存在は、古典物理学を用いれば、これらの原子の時間発展を計算することができるだろうから(別の仮定)、その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができるだろう、と考えた。この架空の超越的な存在の概念を、ラプラス自身はただ「知性」と呼んでいたのだが、後にそれをデュ・ボワ=レーモン(英語)が「ラプラスの魔」と呼び始め、その名称が広まることになった。

この概念・イメージは、未来は現在の状態によって既に決まっているだろうと想定する「決定論」の概念を論じる時に、ある種のセンセーショナルなイメージとして頻繁に引き合いに出された。
<<<

関連する項目として
「決定論」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%BA%E5%AE%9A% …
「自由意志」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1% …
などがあります。

科学と少し離れた領域であれば、「偶有性」や「共時性」(シンクロニシティ)といった概念があります。

「偶有性」については、優れたブログ記事(http://genxx.com/blog/archives/000187.html)があったのですが、引っ越しされたためか記事内容が消えています。リンクしている「はてなブックマーク」に部分的に残っているものを引用しておきます。(引用されていない部分にて、非常に考えさせてくれる内容だったのですが、残念です)
>>>http://b.hatena.ne.jp/entry/genxx.com/blog/archi …
偶有性(contingency)とは、「AではなくBでもありえた/BでもありえたのにAである」こと、つまり「可能だが必然でもない/必然ではないが不可能でもない」ことだった。なにも難しい言葉を使わなくても、たとえば「運が悪い」ってのも偶有性の問題だ。論理的必然性、および明確な因果関係は無い、けれどもなぜか自分が被害者に選ばれてしまった、ということ。
<<<

「共時性」(シンクロニシティ)は、ユングによって提唱されたものです。
>>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3% …
シンクロニシティ(英語:Synchronicity)とは「意味のある偶然の一致」のことで、日本語訳では「共時性(きょうじせい)」とも言う。非因果的な複数の事象(出来事)の生起を決定する法則原理として、従来知られていた「因果性」とは異なる原理として、カール・ユングによって提唱された独: Synchronizitätという概念の英訳である。 何か複数の事象が、「意味・イメージ」において「類似性・近接性」を備える時、このような複数の事象が、時空間の秩序で規定されているこの世界の中で、従来の因果性では、何の関係も持たない場合でも、随伴して現象・生起する場合、これを、シンクロニシティの作用と見なす。
<<<
「共時性」は「原理」「作用」として扱うイメージが強いようですが、理論化した途端に「知的」に扱われてしまうため、個人的には「本来的ではない」と考えています。「知的」に扱おうとすればするほど、「非因果的」な概念にもかかわらず、「因果的」な思考に結びついてしまいます。

個人的には「非因果的関連性」としては「共時性」よりも「偶有性」の方がぴったりする感じです。

『特殊相対性理論』の世界線の図ですが、点として表される「現在・現時点」から少しずれた「隣」は「世界線の図」を少し平行移動した図に相当します。すなわち、隣に座っている人にとっての世界線の図は貴方の世界線の図と重なるところが多いのですが、重ならない部分もあるわけです。重なる部分に重きを置いたとき、因果が意識されるでしょうが、重ならなかった部分に重きを置いたとき、二人の関連性を意識するなら、「偶有性」が意識されるでしょう。

大震災で直接的な被害を被られた方々と、間接的な被害を被られた方々と、関係者と、対岸の火事のように感じる人々と、無関心な人々と、それらは、世界線の図では「ほんの少し」しか離れていないのです。

思春期から大人への変遷の時期においては、「知的」な領域がずんずんと伸びる時期でもあり、どこまで「知」で扱いうるのか?を、実体験(知的に記述)してみなければ、「知」で扱い得ない領域について、「知る」ことができないと思います。
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『未来は『未来の因果律』により、過去の通過地点である現在が過去の因子に干渉しても同じ結果を生む』



つまりこういうことですか、未来という名の5円玉に過去という名の糸がぷらーんとぶら下がっている。
その糸を鉛筆ですこし引っ掛けると、相変わらず糸はぷらーんとぶら下がっているが、先ほどのように一直線に下に伸びているのではなく、糸の道筋が違う。しかし5円玉につながっているという意味では同じである。
そしてその糸の道筋は無限大にあると。

どうでしょうねぇ、宇宙全体で言えばエネルギーは拡散の方向に向かっているらしいので、いずれ世界は止まってしまうという意味では5円玉は存在しますが・・・。
人類の現象レベルでの5円玉が存在するのか・・。
もしそうなるなら、そうなる必然的理由が必要ですね。

まあすべてが物理法則によって決定しているのなら、そもそも拡散すらありませんが。
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 今晩は、かつて歴史学を専攻していたオジサンです。


「仮説」の評価は後に回すとして、その知り合いの方とやらの「仮説を証明するには『式』にせよ」とのアドバイスに対して君は何の疑念も持たなかったのでしょうか?。もし持たなかったというのであれば、君は哲学を勉強しているとは言えませんね。哲学は人間の認識を対象とする学問領域です。したがってそこで唯一の手段てとして駆使できる表現媒体は「言葉」でしかない、との根本的なテーゼに気付かなかったのでしょうか?。
 さてお尋ねの質問ですが、歴史学のスタンスからいえば残念ながら「成り立たない虚構」と言わざるを得ません。その最大の理由は「未来から過去を見通すことは出来た(これ自体が既に問題としてはなり立っていない)としても過去から未来を俯瞰することは出来ない」からです。
 「現在は過去に規定される」この点に関しては部分的に当を得ています。けれども「現在が未来を規定する」ことには必ずしもつながるとは限定できません。この2つの違いに気が付きますか?。
 実例を出しましょう。ヒトラーとナチスドイツによる「第三帝国」が現代の国際社会の中に存在していますか?。確かにヒトラーはナチスドイツを率いて政権を掌握しましたが、それは1945年に崩壊します。これは事実です。君の「仮説」に従うならば、ヒトラーが構想した世界はその時点で「将来の世界」が決定され現在にも続いている事となります。「現在」は「未来」に対する1つの選択肢としては存在しても、全てを決定する要因とはなり得ない。
 またもう一つの「並行世界」?所謂パラレル・ワールドなるイメージも「何を根拠として存在を実証できるのか」との疑問があります(もっと端的に言えば、学問と呼ぶよりも観念もしくは思い込みと言った方が適切です)。仏教には前生(ぜんしょう)・今生(こんじょう)・来生(らいしょう)、キリスト教にも天国という形での来世信仰はありますが、それも生物として終わりを遂げた後に訪れる世界を構想してのモノです。実際の世界(現世)では救済を求めることが困難であるから「来世」に救いを求めるのであり、パラレル・ワールドの存在を想定してはいません。もしパラレル・ワールドが存在するのであれば宗教すらも存在しないこととなります。
 哲学を学ぶのであれば「過去の先達が残した思索の道」を辿ることです。そこは多くの峰々が連なる世界です。オカルティズムの欠片すらもないことがお判りになることと存じます。
 因みに君の想定する「仮説」の中で実際にそれが証明されている部分が1つだけあります。それは「遺伝子解析による将来的な疾病発生の可能性に関する確率」です。しかしながら、これすらも100パーセント完全なモノではなく、飽くまでも1つの「確率」にすぎないというのが現実です。
 「哲学」は言葉遊びではありませんよ、坊や。
 
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 質問を見て考えました。



 現在という“果”は、過去の“因”に因り、未来という“果”は、現在の“因”に因る、と。

 神でさえ予測できないくらい複雑すぎるので、決まってはいるが、複雑すぎるゆえに決まってはいないに等しい。

 「並行世界」を想定すると、更に複雑になってしまいそう。
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数学は苦手なので数式の意味は全く解りませんが、人間と言う生命体の特殊性を考えると未来像を限定するのはあまり意味が無いように思います。

もちろん地球や太陽が生命の存続に不適になるような遙か未来を考えればある程度正しいと言えますが、近未来を予測し過去の経験則を活用できるほどに知能が発達しているのであれば、未来像は予測不能な広がりを見せると思います。これでもまだ控えめな表現ですが。
もうちょっとだ。がんばれ。しのげ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

確かに未来の無限の広がりについて考えてもみたので、あくまで仮説にも満たないかもしれません。
ですが、現在の視点で過去に原因があり、現在では結果は出ていないという段階ではある程度の未来は同じ結果へと結ばれると思うのです。
そこに意味があるのかと問われますと、それこそ本当に答えに困ってしまうのですが……

過去に原因がない場合、現在の時点で因子を作り出すことで未来は確かに無限に広がりをみせ、最終的な結果はどんな行動(ただし殺人など他人の人生に大きすぎる変化は例外)をしても、手段は違ったとしても、結果はほぼ同じ方向へ繋がっていくのではないか、と思うのです。

きっかけは失恋から始まって、原因を考えた結果、僕と知り合う前から原因があった、という状況でした。
それで、僕は一年半以上その原因の対策を練ってはいましたが、結果的には原因が引きずられ、同じ結果に繫がってしまいました。
何度も工夫をしましたが、やはり相手の考えは同じ。
『友達としか見れない』
という完璧な像が過去の影響で作られているからなので、どんな事をしても無意味なのだと、分かりました。

では、全ての出来事はそれに似てはいないだろうか?
過去に原因があるならば、因果律の流れ的に必ず結果が生じる。
現在の地点ではまだ観測されていないだけ。
それが全ての事象に当てはまるとしたら?
未来はある程度は因果律により定まっている可能性もなきにあらずなのです。

と、考えてはいました。

もうちょっと勉強してみますね。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2011/06/03 23:54

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