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人間を素材として。

 人は心。
 その心がいろいろと考えてみました。

 自分の身体(からだ)は自分が自由に動かせます。
 でも、その身体を維持させている臓器(内蔵)は勝手に働いて、この身体(からだ)を生かして居ます。

 さて、生きている、あるいは生かしている、のは自分(私)でしょうか?
 それとも、この身体(からだ)でしょうか?
 あるいはコラボレーション?

 回答できる人はいますか。
 いたら、教えてください。

質問者からの補足コメント

  • 締め切る前の補足です。
     回答ナンバー9のお礼文について。

     お二方を表と裏と表現した心の内は、西洋的、動的、外向き、に対して東洋的、静的、内向き、と云った思いを述べようとしたのです。

     けっして両者を比較して、良し悪しを云おうとしたわけではないことを、弁解しておきます。
     ご回答くださった皆様ありがとうございました。

     ベストアンサーはgoodで答えたいと思います。

      補足日時:2015/03/23 00:26

A 回答 (13件中1~10件)

yy8yy8azさんの記述の意味を理解するのが難しいです。


「a人間を素材として。 b人は心。 cその心が dいろいろと考えてみました。」
dどのように考えたのかは、開示しないのですか。
cその心とは、どの心でしょうか。何を特定した表現でしょうか。
c(d)の考えた主体は、(c)で特定されているその心でしょうか。
b人は心 うーん、「私のレッツノートはwin7」ならば、述語や文の意味を推察できるんですが。 「人は心」は何でしょう。 (c)(d)に先行してますが、どう繋げようとしているのでしょうか。
a人間を素材としては、1文字字上げしているから、表題かな、うーん b以下とのつながりは。

通常の日本語では、死んだ遺体について述べる時には何かしらの説明がどこかに書かれているものなので、ただ身体と記述している場合には、生きている身体をさし、また重大な一部損傷などがないことを前提にしています。 そのような場合、身体には、頭部頸部胸部腹部腰部脚部腕部手足指内臓等があり、もちろん脳死でもないし、循環機能、呼吸機能、内分泌、消化器、新陳代謝もそこそこに正常範囲に近い機能を果たしています。そうした全体状況を具備しているのが身体、生きている身体です。 何かが身体を動かすという場合には、身体の外部の力などを想定しています。 脳や心臓が身体を活かしているというような認識は、身体と別の、身体外の存在として、脳や心臓を認識しているようなものです。 もしも、脳や心臓を身体外の存在として認識するなら、呼吸器、消化器、泌尿器、神経系、内分泌は、身体との関係でどのように認識するのでしょう。 
こころとか精神、感情、情動、思慮とかを、身体外の存在として認識することはしばしば行われることですが、身体活動の結果や身体状況の現れとして感知できる呼吸や心拍、目つき、表情、動作、声、言葉などではないが、「その背景にあると想起できる何ものかを概念化したもの」が《こころとか精神、感情、情動、思慮とか》であって、実際は身体の一部です。 身体がなければ、《こころとか精神、感情、情動、思慮とか》だけが存在するということはあり得ません。 写真や文章あるいは他人の記憶や感傷の中に、別人の《こころとか精神、感情、情動、思慮とか》は残り続けたりしますが、それはその別人の身体活動の結果や身体状況の一部です。(記憶、知識、知恵、思想、希望、恐れ、野望、慈愛なども、その当人の身体活動の結果や身体状況の一部です)

コラボのイメージをどのように描くかは人によって異なるでしょうが、オーケストラの各パートや指揮者、オーディエンスなどはオーケストラを構成する要素です。 踊り、歌、オーケストラ、舞台装置、出演者、ストーリー、観客は、オペラの一部です。 あえてコラボを強調するのは特別の観点で評価するからに他なりません。 学校は、施設、生徒、教員、授業、学校組織、教育計画やその社会での役割認識などで成立しているのです。 
身体と心は別物という理解や、身体と心のコラボで生が成立しうるという理解は、心についても、体についても、生についても、誤りでしょう。 身体の概念は生を内包し、心も、臓器も神経活動も、思索活動や妄想、狂信、精神錯乱や喜悦、不安、反発なども内包しているのです。 生のない(思索活動や妄想、狂信、精神錯乱や喜悦、不安、反発など)はあり得ません。生のない(消化活動、呼吸や血液循環など)はあり得ません。 病気や身体障害、精神障害も生の要素です。 繰り返しがしつこいですが、生は身体と不可分で、生を身体は内包しているのです。

自分の概念をここに持ち込んでも、混乱を増すだけです。 「自分が生きているのは、自分を活かしているのは自分ですか」 こうなっては、言語の混乱まで始まっています。 
酔ってませんか、寝ぼけてませんか、興奮しすぎてませんか、しっかりしてください。
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この回答へのお礼

大漁!(やっぱり“撒き餌”が必要な時も有ります)
 質問大成功!
 質問してよかった。
 
 おにわさん(失礼)私、酔ってません。でも、いただいた回答に興奮しています。

 一つだけ、疑問が生じました。
 内臓が身体を生かしているという認識は身体外の存在として認識しているようなもの、と云うところです。

 これは誤解、といえるかと思います。

 全体状況を具備しているのが身体と捉える、という事は“内臓の働き”は身体にとって当たり前のこと。言い換えれば身体=内臓とかの諸器官の働き、という“認識”でなければならない、と云うところがです。
でも、それは専門家が行き着いた処だから、との解釈だと思っています。

 生は心も体も一つ、一体で存在するのだ。
 と云う、おにわさんの認識が私との解釈に、ずれを生じたのでしょう。

 生は一体。
 なるほど。

 ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/13 21:29

この世は 全てに於いて「二性性相」の「授受作用」で成り立ってます・・・



心か 身体か・・・で無く 両方無いと駄目なのです・・・

電気等も+極と-極・・片方だけだと電気は流れない・・・

男と女・・・片方の性だけなら子孫は残せない・・・

目に見えない物や微生物・・そして宇宙に至るまで 全て 二性性相 の 授受作用なのです・・・
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この回答へのお礼

二性性相、と云う言葉を初めて知りました。
 私は自己流表現になるのかも知れませんが、それを二面性と云う表現にしています。

 そしてこの世の二面性と、それぞれに含まれるであろう三要素、と云う事にも注視し乍ら考えたりしています。

 ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/20 09:23

そうした考えは、「自分の外に認識体とは独立した存在


があり、そうした物体の結果として意識が生じている」
という日常的意識の延長としての、素朴唯物論と呼ぶ
ものです。
量子論的世界観、特にコペンハーゲン解釈~人間原理と
いった「認識される事で有限な存在性(世界)は生じて
いる」という、唯物論の極限である物理の果てに至った
観念論的な世界観において、「世界は脳の中の現象で
しかない」と言え、環境は生きる意志の射影において
実体を持ち得るのだ。

不確定性原理の相補的不確定性において、原理的にある値を
確定化しようとすると、それを実体化すべき補完的な値が
無限発散する事が知られている。
そうした原理性を確定せずに、経験によって階層現象性を
表面的に(いい加減に)捉える事で、有限な存在性を生じ
るのだ。
全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め
込むと存在確率の山が重なって平らになり、無と等しくなる。
この「絶対無=不確定性無限」に於て、その無限の闇に認識体
の仮定断面(潜在的認識可能性)の運動(プランク定数hの
収束(物体収縮)の時系列化=宇宙膨張)を想定すれば、相対的
に無の風は光になり、認識体はその光(量子相互作用パターン)
の向うに、自己の補完(相補的不確定性を伴う)としての宇宙を
認識し得るのだ。

時系列化によって、本質的に確定せずに経験的=現象表面的に
いい加減に捉える事によって、本質的=超弦における光速性を
潜在化させ、その非光速性に依存して、「超光速=過去=経験=
時間的流れ=自我仮説」と「光速下=未来=予測=空間的広がり
=空間仮説」は相補分化しているのだ。
「心と体(からだ)」の回答画像12
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この回答へのお礼

「世界は脳の中の現象でしかない」と言える。と云う処だけに感想を持ちました。

 これは“その人にとっては”という限定付きで受け止めればいいんですよね?

 ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/20 09:12

>さて、生きている、あるいは生かしている、のは自分(私)でしょうか?


>それとも、この身体(からだ)でしょうか?
>あるいはコラボレーション?

身体だと思います
なぜなら、自分の身体がなければ自分(私)は存在しないし
自分(私)がなければ身体は生活することができないからです

こう表現するとコラボレーションのように見えますが
そもそも自分(私)は自分の身体からしか生じません
自分の身体から自分(私)を取り出すことは現実にできないですね
そういった現実がありますから、自分(私)は自分の身体による
身体表現の一種であると考えるのが妥当であると私は考えます
そう考えますと自分(私)とは結局のところ身体なのですから
生きてるのも生かしてるのも身体という結論になるのです
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この回答へのお礼

肉体在りき!と云った感じの主張ですね。

 私も“妥当”な受け止め方だと思います。

 ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/20 09:03

お礼ありがとうございます。



私は自然の摂理に、その不思議さと素晴らしさに
痛く感動し、時に涙するような人間です。


>kanto-iさんは、考えてみるだけでは分かるわけのない世界なのだから考えません、との思いを感じます。
>kanto-iさんの心の本体は“自制心”であると。

ありがとうございます。

哲学カテですから、これはyy8yy8azさんだとお伝えしましょう。
yy8yy8azさんの認識と印象は、yy8yy8azさんのものであり
私の本来の姿を現わすものではない。

宗教は数年かけて数百カ所を訪ね歩きながら
いろいろ調べまわって、今の私の中ではおおよそを掴んで
ほぼ完結しています。

理解したくて思考するのと、好みや趣味で思考しているのとでは
受け取る実質は異なるものだと言えるのではないかと思います。

人の想いにこそ、人が積み上げた実質としてのものが存在し歴史に刻まれ
その想いこそ尊重を持ち、あるがままを受け取れば
そうなりえた裏付けの存在が明らかにできると認識を持っています。

人は思う生き物であるが故、目に見えないものに重要なものが多いと知り
それゆえ人を罵倒・蔑み・罵り・見下す・決めつけなどなど
相手に土足で踏み込むような干渉行為は、出来得る限りやらないと決めています。

それだけ人が想いを持つことになる「心」の比重は高く尊ばれると
考えるに至るものを私が内在しているからです。

尊き思いを持つことに価値を見出すのではなく
思いこそ尊ばれるものと理解できるに至れば
世の中は違う風景を見せてくれます。

私が見る風景は、私しか見えないのがちょっと残念に思える時があります。

哲学は、私の無知と馬鹿さ加減を教えてくれたので
非常に有難い存在であり先人に敬意と感謝を覚えます。

人は存在そのものが感動だと私は思っています。
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この回答へのお礼

レッテルを貼るつもりはないのですが、上手な感想が書けないので安易に表現すれば“人間肯定論者”といった印象です。
 また疑問は持ちつつも達観の境地にあって、それも「静の人」と云った感じがします。

 ・・・・・と、このように人をあれこれと評価するから私は嫌われてしまいます。

 ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/20 08:55

お礼ありがとうございます。



>植物人間の“生”をどう思いますか。

どう思うかなら「目が覚めたらいいよね」
稀に目を覚ます人はいます。


yy8yy8azさんが興味のある答えは、持ち合わせて無いと思います。

植物人間が目覚めるシステムが開発されたとか
どこに刺激を与えると何パーセントの人が回復するとかの話しであれば
非常に興味を持ちますし、ご家族の苦労など話しを聴くのは一時間でも聴けます。

どう言う形であれ、人が生きているということは
誰かの思いがあるから生きてあります。
それに対して私があれこれ言うのもおこがましい話しですし
当人と関わることが無い以上、人の生に必要以上に干渉もしないですね。

つまり特に考えません。

なんらかの結果を得ようとしない架空の想像は
害のないお遊びならやる事もあるでしょうが
自身のすべき範疇で手がいっぱいですから
自分の持てないものは持たないようにしてます。
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この回答へのお礼

ここ哲学カテでは宗教の世界に関する質疑が多々あります。
 私も大いに関心を持っています。

 でもkanto-iさんは、考えてみるだけでは分かるわけのない世界なのだから考えません、との思いを感じます。

 「人生哲学」を持っていますね。

 あえて言ってみます。 
 kanto-iさんの心の本体は“自制心”であると。

 このカテでは異質(良い意味)で、貴重なお方です。
 ありがとうございました。

 ☆ ブラジュロンヌさんを表とすれば、kanto-iさんは裏。
   kanto-iさんを表とすれば、ブラジュロンヌさんが裏。
   ・・・こんな思いも湧き上がってきます。

お礼日時:2015/03/15 03:01

もっと詳細にという事でしょうか?



生きている上での自然の摂理です。
そういう機能を持って産まれたのは、自然ですから。
人口的にそのように改造など手を加えられてはいません。

歯は治療したので、サイボーグになってしまってますが。
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この回答へのお礼

植物人間の“生”をどう思いますか。

 自分では生きられない状態だけど、他者に依って生かされている、という状態を。

 ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/15 00:27

人間という素材の可能性ですね。


心は喜怒哀楽にまみれ、
勝負事に一嬉一憂し好きだの嫌いだのいいます。
しかし体はあれが好きとか嫌いとか狭義での反応をしてない。
きっと全体のハーモニーの変化を表してしまう。

優劣での勝負もしませんから勝敗もつきません。
ただ一途に生真面目な職人さんなんですね。
脳細胞と心筋細胞のどちらが偉いとかそんなのもない。
職を通して使命感で心に貢献したいがだけ。

体のように偽ることも出来ずに素直になれば
好きとか嫌いの区別もない状態になれるんですけどね。

全てに勝つとしたら孤独とか虚空です。
それが全てを飲み込む、生は肉体あっての現実というより
人間が生きてることを証明できるのは人の記憶にある間だけ。
心も体も現実的になるのは想ってくれる人が居る限り。
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この回答へのお礼

肉体は心の為に!とのご意見ですね。

 最後の四行は意味深です。
 言い直してみたいと思っていませんか。

 ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/15 00:19

ヤッホー。



 身と心とは一体です。

 身の内の随意筋と不随意筋と どちらとも心は一体です。

 それが わたしです。

 ★ あるいはコラボレーション?
 ☆ という言い方をすると 身と心とが一たんとしてでも別であると見ていませんか?

 もともと存在として自然本性として一体であるものが 身と心とに分けて認識されるというに過ぎません。
 身の感性が 冷や汗を流してやめとけと言っているのに むしろ理性がこのくらいどうってことないよと言ってたとえば万引きを強行します。だから 心を身とは別のものだという見方も出来ないことはないとなりました。
 
 でもそれは 理性としての心が 身の素直な感覚にさからっておこなったことであるという意味で やはりつながっているわけです。感性としての心にさからう自由度が 人間の自由意志には与えられています。心における随意筋のごとくに。


 文句ありますか?
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この回答へのお礼

文句ありませ~ん!・・・と、云いたいところですが、、、

 水は酸素と水素に分けることが出来ます。

 生物の身体と心は認識上の問題ではなく、別けられると思うのですが。

 ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/15 00:07

自然の摂理



肉体は物理上であるから、そこに還元すると思います。
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この回答へのお礼

“石”は物理上であるから、とは言えても肉体は物理上であるからとは、云い切れないものが有る、ように思います。
 何といっても“生きている”から。
 だからそう思うと物体でしかない、とは云い切れないんです。

 最もkanto-iさんはそういう意味じゃぁないんだと云いたいんでしょうけど。
 そこのところを聞かせてもらえませんか。

 ありがとうございました。

お礼日時:2015/03/14 23:51

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