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最近神様はやはり居ないんだろうなと考えてしまい心の拠り所が無くなって辛いです。
神様がいたらこんなに不平等じゃないだろうし、神様て酷いことするなあと考えてしまいます。
震災や虐殺虐待等は、サタンのせいなんでしょうか?
居るとすれば、神様は一体何をお考えなのでしょうか?
(そんなこと聞かれてもわかりませんよね(苦笑))


私は、私たちを支配して試練を与えてくる何者かは居ると思うのですが、
キリスト教の様な慈悲深い神様は居ないと考えています。


以前、神社に行くと心が落ち着くので、よく行ってたのですが、神様は居ないと思うようになってから、行く気がなくなってしまいました。

神様が居ないとわかっていながら、
年始等、あんなに沢山の人がお詣りするのは何故ですか?

A 回答 (17件中1~10件)

ちゃんと生きていけて、誰かに「ありがとう」って言いたんだけど、友達に言って、兄弟に言って、親に言って、ご先祖様にも言っても、物足りんような気持ち。

それで、多分、そこに神様がおられるという気持ちで参拝。神様、ホンマにおおきに、みんな手助けくれて苦境乗り切れました。神様、お願いやから、みんなにもようしてあげて、って。

そこに神様がいても、いなくてもどうでもいいんです。とにかく、心の底からありがとう、って言いたく、もし、おれば、手助けくれた人たちにも、いいようになるようにと、お願いしたいんだけです。

多くの人も参拝されますが、皆様、つきとめたら、私と同じような気持ちで参拝されているんじゃないでしょうか?
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神社の総代をしているおじさんです。


ご質問を読むと、lucky2528さんは少し勘違いされてるかもしれません。
神社にはいろいろあります。
太古の偉人を奉ってある神社がありますし、戦国武将を奉ってある神社もあるのですが、もっと大昔からある神社では人間を奉ってはいません。
では何を奉っているのか、それは山の神、海の神などです。
そして、それらの神社に参拝する目的は、山の恵み、海の恵みなど自然に対する感謝なのです。
もともと、神社は「自然に対する畏敬の念」が源なのです。
それが時代と共に、人々が日々の様々な苦悩や悩みの解決も祈るようになったのです。
もちろん、それでもいいのですが、人間の理不尽な願いを叶えてくれるなどは元々ないのです。
そこが勘違いなのです。
人間の理不尽な願いというのは、分かりやすくいえば欲望です。
・宝くじを買う時に、1億円当たりますようにという金銭欲
・会社で出世しますようにという出世欲
そのような欲望を神が叶えてくれるはずがないのです。
神社に参拝するのは自らの心を落ち着かせるためなのです。
「受験を控えて、一生懸命に頑張りますので見守ってください」ということなのです。
勉強もせずに合格させてくださいと祈願してもそれは無理なのです。
あくまでも心のよりどこりなのです。
信仰というものはそういうものですよ。
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この回答へのお礼

皆様沢山の回答本当にありがとうございました。人知を越えた力は何かあると思うので、神社にお詣りに行ったりしようと思いました。ありがとうございました

お礼日時:2014/12/17 21:49

>心の拠り所が無くなって辛いです。


そのための神様では?

>お詣りするのは何故ですか?
み~んな休みで特にする事もないし、食べてるだけじゃ体が鈍るから行っとく?
行くと何かが守ってくれるって話だよ。
そんな淡い期待も込めながら行くのだと思います。
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面白いが鋭い質問ですね♪



個人的な意見をシェアさせて頂きます。遊びに行くという意見も、お礼を言いに行ったという意見も反対ではありません。私も書きますが気に入らなければスルーで構いません。

●神さま(外神 大いなる存在)は何をお考えか?
【大法則:いい悪いは宇宙に存在しない。投げかけたら返され、投げかけないと返されない】
ワタシは神さまは“無償の愛”と呼ばれる、相手(誰か)が何かをしたい権利を愛して、好きにさせることをよく理解されていると思います。愛すれば愛されるし、愛さなければ愛されない。嫌えば嫌われると知っていなさるし、嫌わなければ嫌われないことも教えてくれました。宇宙的には“良い”とか“悪い”概念そのものがない。天につばを吐いたらジブンにかかり、逆も又然り。不平不満泣き言文句悪口陰口を言えば倍返しされ、ありがとうやゆるします、うれしい、たのしい等々相手が聞いても心安らぐコメントを出すなら、またそう云いたくなる事を宇宙は倍の数、用意してくれます。ワタシが神さまが居ると、公平だなと感じるのはそんな・・・時です。神さま(大いなる存在)はおそらく自分で経験できないことを、小さい身代わりとして地球や肉体を通して“経験を為さっている・・・”そんな印象を持つのです(あくまで想像です)。

震災のような地球や自然(nature)が自身のバランスを取るために取る行動=台風や地震、活火山を動かすことを許しています。ただ経験なさいます。ワタシの立場は震災でなくなる方も、殺される方も“よい悪いと論評せず”にただただ“寿命”だと考える考え方です。それは決して罰せられるのでも罰するのでもない(・・・次に後述します)のだと考えています。

また、因果応報と云って、今世(前世)ひどい(と言われる)事をしたヒトには来世(今世)でひどい事をされる経験をしてバランスと成長を遂げることを許しています。或いは尊い進んだ(生まれ変わり回数が10万回に近い)魂が、短い命で社会的な意識変化を齎すためだけに生まれて亡くなることも許している・・・という情報です。理由もなく起こされることは無い・・・投げかけたから返されているだけ・・・それだけだと。論評や判断をしないのが(神さま)自らの立場ではないかと思えて成りません。

いい(褒める)悪い(罰する)という次元で動かれていないというのか、神の意思はとても自由で客観的で誰も責めずただ“したい事を自由にさせて”そこからの経験から(魂的に)バランスと成長を遂げていくのを嬉しく見てくれていると思っている次第です♪

※サタンの存在はどちらかというと“闇”の使者であって、例えば戦争などの“正義感を振りかざし過ぎる事によって起こす”ものや“信じた裏返しで生まれる妬みやそねみ”をエネルギーにする存在だと解釈しています。そう教わりました。ワタシの解釈では“人間の心の中に常に居る”ものですね。
また神には外神と内神という考え方がある中、ワタシ達を支配して試練を与えたり、宗教は(どちらかというと)外神の考え方が色濃いと思いますし、ワタシ自身は内神を信じる派であるので、少々前提から食い違うかも知れません。それぞれの神が居ていいし、そもそも申し上げている様にいい悪いもありません(笑)。

神社という場所は“お願いに行く場所ではない”と伊勢神宮の宮司さまが仰っているように、ワタシも感謝を言いに行くところという考えですので、個人的にはお礼を言いに行く目的でしか行きません。念を投げるなら神にでなく宇宙にだと信じています。普通とは少々ちがうかも知れません(笑)

でも事実、神さまが神社で見せる(祭壇に置いている)のは(鏡)であって、お参りする私の顔が“反射して映る”ことを意味しており、アナタの中に神が居る!と教えてくれていることをワタシは知っている・・・ただそれだけの事でしかありません。そこは高い木が在りながら雷が落ちない神聖なスペースであることは間違いないし、神木と呼ばれる樹齢の長い木に手をかざすだけでピリピリ来て“実におもろい場所”であるのも間違いありません。

ヤオロヅの神と言われるくらい沢山の神さまの集合体を奉っていると信じているものにはそう思えるし、信じないヒトには信じないヒトなりに“パワースポット”とか言って愉しく過ごす場所にするのも“神さま”は文句すら云わずじっと見ている気がしてならないのでした♪日本は神さまについても古来、一神教ではありません。

●なぜ初詣が賑わうか?
観光とはヒカリを観に行くと書きますが、昔からお宮参りはイベントや遊山としてレジャーであったので、その名残☆信じるも信じないも厭(いと)わない大きな存在が神さまだと思いますから、いたずらさえしなければ行こうと行かまいと構わないというのが自論でした。なぜワタシが行くか?と問われれば、感謝参りで“ありがとう”と行って帰ってくるだけです。自分の内側(中に)神さまが居るとも考えているので、初詣に行かずとも行った気持ちになっている人種も居ることを知っておいてください(笑)。l

お賽銭も“命が救われても2000円まで”と斉藤一人さんから教わっていますから、小銭を入れて鐘を鳴らして『ありがとうございます』と云って2礼2拍手1礼して帰ってくる。なんだかすっきりする・・・其れぐらい主観的なもので十分とワタシ自身は感じています。風邪やウィルスを貰いに行くのだけは、止した方がいいと思って“朝まで生でさだまさし(NHK)”を観て年越しをするワタシでした。

<追伸>
キリスト(教)も素晴らしいと思います。クリスマス感謝祭も大好き人間です

こう思う・・・が長くなりました。真剣に応えてみました。
心のよりどころ・・・ジブン自身を尊ぶことを覚えると、(精神的には)ラクに為れますのでお試しください(一番言いたかったことです)♪蔭ながら応援しています。

~ あなた様に全ての理解を超えるほどの平穏が訪れ、あらゆるよき事がなだれの如く起きます ~
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他の回答者も言っておりますが。


そんなこと言うなら、何故、お墓参りや、葬式や、何かしらの祈願を、多くの人はするのでしょうか。
神様っていうのは、物体じゃないのです。
個人個人の頭にあるイメージです。神様は存在しますよ。人の脳内に、ぼんやりとした姿で。
つまり、気の持ちようなのです。

「神社に行くと心が落ち着くので」←気の持ちようです。神社に行っても行かなくても、気が落ち着く人はいるし落ち着かない人はいます。

人々は、何か崇め称えるものを日頃から欲しています。それは希望になるからです。
実際に存在する希望、ではありません。希望のイメージを持つ考え方、です。
怖いのは、これが行き過ぎると、悪徳宗教になることです。
更に怖いのは、「そうではない人」を批判する社会になることです。
「神社に行っても特に気が落ち着くこともないな」と言った人に対して、
子供だから、心が無い人、人生に失敗した人、人ではない、
などといった批判が主になる世の中です。
そして質問者のように、「どうせ何もないのに何で行くのかね?」となる世の中も、同時に怖いです。

「神様が居ないとわかっていながら」
そういう質問者も、きっと、お葬式は批判しないでしょうし、お墓参りにも行くのでしょう。仏様なんていないのに。それとも、仏様はいるんですかね。私は見たことないし、証拠の写真も映像も存在しておりませんが。いるんでしょうか?

「神社に行くのは大切」
と思ってる人でも、雨が降らないからおてんと様に祈願をするのも、馬鹿らしいと思っている人が多いでしょう。
だって、願ったって雨が降るわけでもないのですから。


だから、全ては人間の脳内のイメージ、気持ち、でしかありません。
そしてその気持ちを馬鹿にするのも、
その気持ちを信じ込むのも、
どちらも自分は怖いです。
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毎年、初詣で神社に行っている者です。


たしかにlucky2528さんの言われる通りで、
神社って行くだけでなんだか心落ち着くところですね。

私の場合、神社に行くのは、お願いに行くのではなく、
神様と約束をしに行くのだと思っています。
例えば合格祈願なら
「今年は受験です。希望校に通してください」ではなく、
「希望校に入れるよう頑張りますので、どうか見守って支えてください」
みたいな。

年頭に神様に約束をして、それが叶ったら「お礼参り」に行きます。
昨今「お礼参り」というと、その筋の人たちの恐い嫌がらせみたいな意味に
使われることもありますが、本来の意味は文字通り「お礼」:
約束が叶った報告(:契約の解除、に近い)

長く生きていると、神様なんかいない!と思うことも多々あります。
(震災の時もそう思いました)
神様を感じられなくなった時は、祈らなくてもいいと思います。
神様との約束は厳粛で、たとえささやかでも具体的な努力が要るからです。

こんな先の見えない世の中なのに、あんなに沢山の人が
初詣に出かけるって、逆にすごいことですよね。
ただの習慣、イベントとして詣でている若い人は多いのでしょうが、
形から入って、続けているうちに意味を知ることも
日本の伝統行事には多いような気がします。
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>>年始等、あんなに沢山の人がお詣りするのは何故ですか?



イベントだからですよ。

言ってしまえば、墓参りも、葬式も、別にやらなくても良いでしょう。
神様仏様なんて存在しませんから。

でもやる人は多いですよね。
ただのイベントだからです。
習慣、決まりごと、です。

なんとなく、やるんです。
なんとなく、行くんです。

そんな難しく考える必要ありません。

新しく土地を建てる時にも、なんか白い紙ついた棒をフリフリしますよね。
意味もないのに。
「なんとなく」だからです。
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…例えばあなたは、あなたの歩いている足元に「どれだけの数の生き物がいるか」即座に言えますか?。



神様って「そういうもの」だと思います。
目に見えず、臭いもせず、しかしどこかに「生きている」。
そういう存在が「神様」なのじゃないでしょうか?。

神様に助けてもらおうなどと考えると、間違えるんです。
「神様を助けてあげなければいけない!」と考える事が出来るなら、神様は確かに存在できるんです。

私だって、神社に神様がいると本気で考えているわけじゃありません。
でも、私は社に頭を下げ、柏手を打って、お参りをします。
頭を下げ、自らを見て、こころを込めてお辞儀をします。
それは「そうすることが、その場でできる私の「善」」である、とそう思うからです。

善の心を参拝する人皆が持てれば、神社には確かに「豊かな気」が廻るはずです。
そうすれば少しの気配があっても、それに気付くことが出来ます。
そのことで、自分が一つだけ優しくなれる…そういうことだと思っています。

神様の存在って「あなた次第」なんですよ。
信じられるなり、信じたいと思えるなりするのは、自分の心が反映された「結果」なのです。
頭や知識で考えてはいけない。
感じる心や、気持ちで捉えるものだと思います。

…まあ、それより何より「いないと思うより、いると思った方がいい」そうは思いませんか?。
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日本人の多くはキリスト教徒ではないですから、キリスト教のような「神」がいると信じている人は少ないです。

多くの日本人は、日本の伝統的な多神教を漠然と受け入れているのです。
だから、神社でもお寺でも教会でも道端のお地蔵様でも、「人が拝むものはとりあえず何でも拝む」のです。

ちゃんキリストを信じているキリスト教徒は神社やお寺へ行っても「拝み」ませんし、クリスマスに恋人とホテルへ行ったりもしません。

日本人の多くは、漠然とどこにでもかしこにでも「神が宿っている」ので、「とりあえずみんなと一緒に拝んでおけば罰は当たらない。もしかしたらご利益がある」と思っているのです。

宗教というよりは、「習俗」といったほうが適切でしょう。

心が落ち着くのは、「いつもの習慣をすると安心する」のだと思います。
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クリスチャンではありませんが、少し旧約聖書を読んでいます。



ヨブ記では、大天使サタン(悪魔王サタンとはまた別の存在の解釈のようです)が
神様から許可を得て、ヨブの信仰心を試すために様々な不幸を与えますが
それでもヨブは折れずに、神への信仰を貫き最後には祝福されたようです。

ヨブの子達が亡くなってて蘇ったわけではないのに??という不条理さはありますが
まぁ、神様ってそんな試練を与えることもあるもんだと思って気楽にいきませんか?

尚、初詣の神社は、キリスト・イスラム・ユダヤの「主」がおられるところではなく
精霊信仰としての神道での「八百万の神々」を祀った場所です。
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