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神や仏の話になると、ステレオタイプに、「目に見えないものは信じられない」という反論が聞かれると思います。でも、この反論はチョッとオカシイと思うのです。

 子供を育てていると感じることなのですが、言葉を教えようとする時、目に見えない物を、一生懸命、子供に教えようとしていることに気が付きます。

 例えば、「例えば」という言葉を子供の教えようとする時、とても大変です。「例えば」というものを目に見せられないからです。でも、大人なら誰でも、「例えば」が分かるでしょう。目には見えませんが。

 他にもイッパイあります。抽象的な言葉はだいたいが目に見えません。因みに「抽象的」という言葉も目に見えないと思いますが、これも大人ならその意味は分かるでしょう。

 世の中には、「概念」「いっぱい」「すごい」「疲労」「上下」「右左」「時間」「努力」「あっち」「無効」「勝利」などなど、目に見えない言葉にあふれています。

 つまり、抽象的な言葉は目に見えない。しかし、何の疑問も抱くことなく使っています。ところが、神や仏の話になると、「目に見えないものは信じられない」となります。

 何故なのでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 荒井由美の「やさしさに包まれたなら」という歌に、

    「小さい頃は、神さまがいて、不思議な夢を、かなえてくれた~」
    「小さい頃は、神さまがいて、毎日愛を、届けてくれた~」

    という歌詞があるのに気が付きました。
    それで、何となく分かってきました。

    正解かどうか分かりませんが、
    「小さい頃は、みんな、神さまがいる」と信じていたのではないか-ということです。

    でも、現実は、
    「いくら信じて、いい子のしていても、神様は応えてくれなかった」のではないか-と思うのです。

    だから、
    「目に見えないものは信じられない」というわけではなく、
    「神様なんか信じられない」ということなのではないでしょうか

    つまり、「目に見えないものは信じられない」という言い回しで、「神さまに裏切られ、傷つけられた、おさな心の切ない気持」を、神様にぶつけているのではないかと思うのですが・・・

      補足日時:2015/03/03 23:22

A 回答 (7件)

抽象的な言葉は人が生活していく上で、


必要とされるコミュニケーションを繰り返すうちに覚えていくのだと思います。
人社会では覚えざるを得ないというか。

覚えていかなければ、意思の疎通がうまくいかず、
特に仕事や学校での人間関係がズムーズに行かない。

なので、子供に「なんでどうして?」と訊かれた時は深く正確に教えなくても、
いづれ必要にかられ覚えていくものだと思います。

翻って神仏の存在はとりあえずそれらに関係しないので、
必要にかられないためどうでも良い話になり、「信じられない」となるのでは?と思います。

人はよく神社で願い事をします。
しかし淡い願望もそうそう叶えてはもらえません。

よっていとも簡単に神などいない、に通じやすいですよね。
都合の良い願望など、そうそう叶うわけがないんですが(笑

「優しさ」や「思いやり」というのがどういう意味なのか、
昨今の進みすぎた情報化社会で人間関係がドライになっていく環境だと、
コミュニケーションに必要とされなくなってきているためか、
それらの意味が分からない人も増えてきているのかも、ですね。

しかいそれではマズいので、
その点は身振り手振りなんかを酷使して教えておいたほうが良いかもですね ♪
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補足、読みました。



そういうステレオタイプの答えが欲しいのであれば
私には答えられそうにありません。

人は信じたいものしか見えませんから
相手も自分も同じスタンスで生きているだけでしょう。
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子育てに必要なのは親の生き様、次に目の動き、次に言葉である。


子も大人も無自覚でその人を察する。

生き様が相手に印象付ける。無自覚野で。へほへほの親の世界は子供がそれを無自覚で真似る。
それが世界と知るのである。
目をごまかすことは出来ない。
言葉で教えをもたらす。
順序がある。

無意識は無意識である。無自覚がその人なのである。
こう言うと立腹されるのは承知している。およその人は無意識は決して知ることはできない。

疲れるなぁ。心と心で人は接しているのだ。
神仏観念より、親が全うに行きる。それで子は救われる。
まぁ、疲れる生き方だから薦めはしない。
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あなたの表現の仕方がおかしいと思います^^


あなたが言っている「目に見えないもの?」ってのは、「言葉の意味」のことですかね。

>、「例えば」という言葉を子供の教えようとする時、とても大変です。「例えば」というものを目に見せられないからです。

言葉は見て覚えるのではなく、聞いて覚えるものです。
「例えば」って発声すると、音として伝わり言葉を覚えます。

言葉の意味は会話や読み聞かせの中で学んでいくものなので、教える方法は数多くの会話です。
そこから入ってきた情報を脳機能が処理し理解していきます。

言葉の意味がわかってもらえない場合は「例えば」をもっと子供が理解しやすいように簡単な言葉にして「もしも」って意味と同じだよって教えればいいですよ。
「いっぱい」「上下」などは身振り手振りを付けて教えればより理解が早いですよ。
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あなたの言っている意味がわからないですが、それらの言葉は「言葉」であって「物質」ではないでしょう。


目に見えない気体だって存在を形や現象で確認できれば信じることが出来ます。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

 私の疑問は、子供(乳幼児)に言葉を教えようとして、ハタと困ったわけです。例えば、風(気体)は扇風機を回せば感じることが出来ます。何とか教えられるのです。

 ところが、例えば、「意味」という言葉を教えようとすると、とても難しいというか、無理なんです。また、「存在」という言葉も困ります。「形」「現象」「確認」も、教えるのが非常に難しい言葉です。

 でも、大人にとっては、何故かよく分かっていると思います。目には見えない物を表すあらわす言葉だと思いますが、当然のことと理解していると思います。

 そこで、不思議に思ったわけです。大人でも、神や仏の話になると、突然「目に見えないものは信じられない」となるのです。

 おかしいと思いませんか。なぜなんでしょうか。目に見えない物(言葉)をいっぱい信じているはずなのにです。

お礼日時:2015/02/28 11:50

素晴らしい!



「目に見えないものは信じられない」と言う人に共通しているものがあります。
それは「目に見えないものの存在を認識していない」と言うことです。

でも、あなたはそれに気がついて認識しています。
そこが素晴らしい(^ ^)

「目に見えないものは信じられない」と言う人には相手に尋ねらたいいですよ。
私がよく言うのは「思考」ってあると思いますか?
Yes→「思考」を直接目で見たことはありますか?

後は「愛」とか「思いやり」とか「優しさ」だとか
大切だと思われるものの多くは見えないものです。

尋ねると、その人は認識できます。

それと、人は信じたくないものは「信じない」と決める人がいます。
信じたくないものは仕方ないですね。
その人にとっては、事実より思いが勝っているのですから。

私は、神や仏は分かりません。否定も肯定もしない。
存在の有無は、どちらとも証明されていないし
私が信じても信じなくても事実に影響も無いでしょう。

信じる・信じないは、事実に根ざしてなく
好みの問題ですから。
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この回答へのお礼

回答をありがとうございます。

 だいぶ頭の整理が出来ました。ただ、疑問は、「分からない」というのは理解できるのですが、「信じない」と積極的に否定するのには、どういうことなのでしょうか。

 幼い子供は、「分からない」と言います。「分からない」という言葉は理解しているのだと思います。「信じる」という言葉をまだ知らないのかも知れませんが。

 私が思うのは、「日本は空気に支配される」とも言われていますが、そうした何らかの空気に支配されているのではないかと思うのですが。

 何か、暗く重い空気に支配されているようで、気持ちがよくありません。

 神や仏のほか、「愛」とか「思いやり」とか「優しさ」についても「目に見えないものは信じられない」という人も少なくないように思います。

 チョッと変なのではないかと思うのです。この頑なさは何なのでしょうか。

お礼日時:2015/02/28 12:40

反対に、見えるからといって「ある」ということにはならないのですよ。

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