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中学生のときに一度なって以降、1年に1回〜数回くらいの緩やかな頻度ですが、意識が飛びそう(発狂しそう?)になることがあります。
他の人とそういう話をしたことはないのですが、みんな同じなのでしょうか?

具体的にどういうときになり、どうなるのかを説明します。
必ず、部屋に一人きりのときになります。
寝る前に布団で考えているときになることが多いですが、ネットをしてふと考えが逸れたときにもなったこともあります。
「いつかは死ぬんだよなあ」とか考えているうちに、急に、「いつか死ぬってことは今やってることも何もかも自分の世界からはなくなってしまうんだ」「いつか必ずこの自我がなくなってしまうんだ」と思い始めて、そのことに急激に焦燥感と恐怖感を抱き、意識がおかしくなりそうになって、思わず「うわーーー」とか「助けて!!!」とか叫んでしまいます。
で、叫んで数秒すると、もういつもの普通の感覚に戻っています。
ちなみに、今このように文章にしていても、そのときの変な感覚になったりはしません。

また、自分が死んでも自分が例えばモノを作ったとしたら、それが自分のいなくなった世界にもきちんと残ることとか、睡眠のたびに自我は一時的になくなってることは分かっていますが、上記のように叫んでしまうときは、ただただ自分の思考が永遠に失われて今の自分がすごく希薄で今すぐ消失しそうな気持ちになって、それどころでなくなります。

みなさんも同じようなことがありますか?
それとも、こういうのは少し異常なのでしょうか?
一応、普通に生活を送っていて、精神的な病気を指摘されたこと等はありません。

A 回答 (5件)

失礼いたします。



私はアスペルガー症候群を医師より診断され、障害者手帳の3級を持っている者です。
私も偶然、同じような趣旨の質問を、現在こちらでさせていただいています。
 https://oshiete.goo.ne.jp/qa/8939540.html
よろしければご参照ください。

>「いつか死ぬってことは今やってることも何もかも自分の世界からはなくなってしまうんだ」「いつか必ずこの自我がなくなってしまうんだ」と思い始めて、そのことに急激に焦燥感と恐怖感を抱き、意識がおかしくなりそうになって、思わず「うわーーー」とか「助けて!!!」とか叫んでしまいます。<

この気持ちは、よく判ります。私は現在三十代半ばですが、小学生のころまでは、この気持ちで泣き出したり、叫んだりした記憶もあります。
自分の存在を肯定できる事象が欲しかったのではありませんか?
叫ぶことで、自分の存在を認識する。そのための作業だったのでは?
だから、自分を認識できた=安心したから、数秒で元に戻ると思うのですよ。

まず、異常か平常かというと、たぶん異常だと思います。
精神がおかしいとか、神経がどうのという訳ではないですが、自己と世界の認知、あるいは繋がり方に普通ではない部分があると思います。
他の方は、たいしたことは無いと仰いますが、私は違う意見です。極力早めに手を打っておくべきだと思います。
文面から察するに高校・大学生くらいの方ではと思うのですが、ソレを前提に話をします。
まず、スクールカウンセラーなどに相談なさい。たまにこういうことがあると。
これは病的とか異常であるからではなく、他人と悩みを共有できれば、それだけで随分楽になります。
また、哲学や宗教に詳しい大人に、相談に乗ってもらうと良いと思います。

少し自分語りをさせていただくと、私は自分が消えてしまうとか、世界が突然終わってしまうとか、魂も霊魂もいつか消える。という恐怖心を覚えたのは、保育園の頃でした。
もう三十年近く、この気持ちと付き合っています。
ひどいときは、感覚として自分の足元から地面が消え去ったり、眠ってしまえば二度と目が覚めない、ずっと気付けなくなるとか、自分が自分と全く姿かたちの同じ別の存在と取って代わられるなど、とても強い恐怖感に襲われました。
正直今でも、それらの不安が強くなると胸が苦しくなり、ひどく精神的にも肉体的にもストレスです。
「無も無い無」
という概念をご存知でしょうか?
ビックバン以前、あるいは宇宙が完全に収縮しきった後にあるだろうと予測されているものだそうです。
何も無いことすらない世界。そこでは存在は、たとえ全能の神であろうとも存在し得ない、私たちには知覚すらできない世界だそうです。
小さい頃、テレビでソレを見たときから、私の恐怖はずっと続いています。
これは、自己の連続性が確保できないからだと、私は思っています。

連続性とは、昨日の自分も明日の自分も、今日のと同じであり、それがいつまでも続くということだと思ってください。
死は事故を完結させますが、それは自己が完結したという認識を自己に残します。最後まで自分は自分であったということです。
でも、もしソレが否定されたら…
無も無い無とは、自分は死んで無になるという概念すらも否定します。
これは、自分が自分で無くなるということです。

ゲームのキャラクターを思い浮かべてください。彼らは自分がゲームの世界の住人である事を理解できないでしょう。私たちと同じように日々を生きている(そう設定されている)と思います。
彼らは、電源が落とされたことを理解できるでしょうか?ゲームが起動していないあいだ、彼らは認識を停止して、電源が入った瞬間、生活を再開します。
では、データが消えてしまえば、どうなるでしょう?
あるいはパッチが入り、情報を書き換えられたら?
自分でも気付かないうちに、それは昨日の自分の延長ではない自分になってしまうと私は思うのです。
そして、ソレと同じことが、自分にも言えるのではないか?と思えるのです。
無も無い無、でも、もしその概念があるのなら、ソレを知覚できる存在があるということになります。それらの存在からして見れば、私たちの世界は、ゲームと同じである可能性もある。

もちろん、これはくだらない妄想でしかなく、現実的ではないでしょう。
でも、完全に否定はできません。
量子論とか、素粒子論の世界では、物質の確定が完全にはできないといいます。存在があやふやなのだそうです。
シュレディンガーの猫のパラドクスは有名でしょう。
身近なものですら、そうなのです。
馬鹿らしいと一笑に付すのは、否定ではなく逃避です。それは何も物事を確定していません。

自分では回答を見出せないまま、自己の連続性を疑い、それでも生きる限り連続性を信じなければ成らない。昨日の自分と今日の自分が別人かもしれないと受け入れて、生きるすべを私は知りませんから。


私は、幼い頃から一人でこれと戦ってきました。だから、言います。
誰かに助けを求めて、過去の人間の英知を学び、自己の安定を図るべきだと。
普通の人は、たぶん見えないのだと思います。
また、見えないほうが安心して生きていけます。
少しでも見えてしまったなら、見えない振りをするか、向き合うか、死に逃げるかくらいしか対策は無いと思います。
だから、少しでも早い対策をするほうが良いと思うのです。

私自身が苦しいので、随分とネガティブな文章になりましたが、この回答文が、少しでも貴方の力になれることを祈ってやみません。

失礼いたしました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます!

「感覚として自分の足元から地面が(中略)ひどく精神的にも肉体的にもストレスです。」というような経験はありませんが、他の大体の部分については、すごく分かりました。感動するくらいよく分かりました。

ただ、宗教は好きではないので(ハマればラクだろうなとは思うけど)・・それと、多分、私と貴方の決定的な違いは、私のストレス(?)が数秒で終わるのに対して、貴方のストレスは本当にストレスだということだと感じました。つまり、質問しておきながら深刻じゃなくて申し訳ないですが、私のは、カウンセラーや詳しい人に相談するほどのことではないと思います。
でも、心配していただいたことは、素直に嬉しいし、気に留めておこうと思っています。

世の中の事は、論理的に考えれば考えるほど憂鬱になる気がします。
なので、好きなことをして気を逸らすのが一番だと考えています。

お礼日時:2015/03/11 21:40

お礼について。


皆んな四六時中経験しているのですよ。ですが、その経験をどのように感じるかの程度は、人それぞれですよ。例えば、高い所に登って高揚感を感じる人もいれば、恐怖心を感じる人もいる訳だから。
あなたの場合は、恐怖心が強い為にその先を考える事を「叫んで」やめてしまうので、また怖くなるを繰り返しているんです。
とても、高所恐怖症や広所恐怖症に似ていると思います。「死」について、考えると自分の視点がどんどん高るなる、或いは広がる、世界にある自分の存在が小さな点になってゆく、自分の存在が頼りなく感じた所で「怖く」なり、手放す訳です。
私も、小学生くらいまでは、そうだったと思います。今、その視点を感じても怖くないのは、暮らして行く中で、複合的な知識を得るごとに、「この私」という存在が機能を得る毎に、その先を知りたいという好奇心の方が強くなったからです。欲求としての広がりが、「怖さ」を小さな点にしてしまったのですよ。でも、恐怖心があるかないかといえば、あるんです。
あなたもいずれば、恐怖心よりも強い欲求がやって来て、恐怖心のその先を知りたくなりますよ。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございます!

「例えば、高い所に登って高揚感を感じる人もいれば、恐怖心を感じる人もいる」というのは、すごく納得させられました。
個々の反応の違いだけの話かもしれないですね。

最初に叫んだときから、もう10年以上は経過しているので、よほど自分が変わる出来事がない限り、その先へ行くことはないかもしれません・・・。
自分が雲散霧消するような感覚に引きずりこまれて、感覚を断ち切るために叫んで・・・それは、引きずり込まれたままだと、本当に気が狂ってしまうように思うのです。

お礼日時:2015/03/11 21:46

天国君です。



貴方の気持ちは少し解ります。私が中学生の時に同様な事がありましたが
叫ぶ事はありませんでした。

そこで、哲学書の様な物を読んだ記憶があります。
そこにはどうして人間がこの世に誕生してどう去っていくのかというのを
一生懸命に探した事があります。

所謂、雌蕊と雄蕊が合体した時からを考えておりましたが残念ながら卵が
先なのか鶏が先なのかという方向に流されてしまいました。

当然と言えば当然なんですが、生まれてきた事が解明されないと、死後の
世界が解らないと考えると、どうしてもそれより先に進めなかった。

しかし、はっきり解った事は、人は死ぬと言う事は、毎日、睡眠の中に
入り込みますから、その状態がず~~と長く続く事だろう思いました。

そこで、貴方のご質問になるヒントになるのかどうかは解りませんが、
多分ですが、死に対しての恐怖が無くなるのだろうと思います。

死は、眠る事ですから、怖いという気持ちではなく自然に意識が薄れて
徐々にこの世から消え去るのだろうと思いました。

なので、意識しながら死ぬのではなく、徐々に消えていくのだろうと
思います。

なので、結果的には、恐怖を知らないままで・・・だと思います。

逆にいうと、意識のある生きている人の方が感じるのだろうと思います
ので、感じる貴方は正常ですが、あまり気にしない方が良いと言い聞か
せると良いのかもしれません?

回答になっていなくて、すみません。
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この回答へのお礼

>あまり気にしない方が良いと言い聞かせると良いのかも
まさにこれだとは思います。
ただ、久しぶりに叫んでしまい、ちょっと気になって質問してみました。

死がどう訪れるかによって、眠るように死ぬか、怖いと思って死ぬかは変わってくると思います。
死そのものではなく、死に至る過程だとは思いますが。

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2015/03/10 21:46

人間と他の生物との一番大きな差は、人間はいずれは「自分が死ぬ存在であると知っている」という事だそうです。

「知」としては、そうなのかも知れませんね。本能として死に向かう生き物は、他にもいると思いますけれど。
兎に角、「知っている」という事は、それを意識するという事です。それを知らない人は、それを意識せずに暮らせるかも知れません。そして、過去については無意識化出来ますが、未来については無意識化出来ません。経験未満なのでね。やってくる死とは、意識の中で感じるしかない事です。
あなたのような気分は、誰しもが四六時中経験する事だと思います。叫ぶのは、個性でしょうけれどね。叫ぶという事は、その「気分」を手放したいという事。手放したくない人は、叫びません。
私は、叫ばない派です。その気分がないと、やる気が失せます。目標、「途中で死ぬ」なので。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>あなたのような気分は、誰しもが四六時中経験する事だと思います
気分というか、恐怖の衝動(?)のようなもので・・あの衝動を誰しもが四六時中経験するのでしょうか。
叫んで恐怖心を断ち切りたい(気分を手放したい)というのは、その通りだと思います。

おっしゃられているのは、「いつか死ぬんだから今を頑張らないと」という気持ちであって
私が叫ぶときの感覚とは全く違うのではないかと思ったのですが、分かりませんよね・・・。
本当に、同じ感覚を皆が味わっていて、それで平然とやり過ごしているのだったら、尊敬します。
叫ぶ前の状態として、意識がおかしくなりそうな焦燥感と恐怖感に急激に襲われること自体が、私がこわがりだということなのでしょうか・・・。
皆はそこまで行き着く更に前段階のところで、「気分」を経験して、そこで「頑張ろう」と思って終わるということなのでしょうか。

お礼日時:2015/03/10 21:41

そういう経験は私にはありませんし、親や子供など、これまでに一緒に暮らした人がそう叫ぶのを聞いたこともありません。



ただ、例えば、いわゆる”ブチ切れて”叫んだり、物に当たったり、過去には人に当たったこともよくありました。とはいえ、思わずやってしまったことではあるものの、意識は常にありました。

質問者さんは異常といえば異常なのかもしれませんが、それでおつらいわけでもなく、人を精神的にも物理的にも傷つけているわけでもないなら、つまり、対処法を心得ているなら、それはそれでいいのではないでしょうか。

でも、せっかくなら人にも相談してみて、それをきっかけに、死がそこまで異常なほどに怖くはなくなるといいのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

「”ブチ切れて”叫んだり、物に当たったり」ということは稀にありますが、おっしゃる通り、それとは全然違う感覚です。

つらいのはその叫ぶほど怖い一瞬(数瞬?)だけですし、何回も経験しているので、今更ではあるのですが、ふと皆も同じなのか気になったもので..

ご回答ありがとうございました!

お礼日時:2015/03/10 21:28

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