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あなたの一生は、人びとの耳には届かない。彼らにとっては、あなたの一生は沈黙の一生なのであり、あらゆる旋律の妙、前後関係の解決に現れる優美さを、人びとが察知することはない。たしかにあなたは、軍隊式の行進曲を奏でながら目抜き通りを練り歩くことはしないだろう。だからといって、これらの善人たちが、あなたの人生の歩みには音楽が欠けているなどと言う権利はない。聴く耳のある者には聴こえるものだ。
(フリードリヒ・ニーチェ『喜ばしき知恵』第三書234 村井則夫訳 河出文庫 268ページ)

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作曲家にとつて、満足とは何ですか。

A 回答 (4件)

もう一度こちらに回答します。


本題とはちょっと外れるのですが、ニーチェの原文が気になっています。Trostrede eines Musicanten - Musik(c)antは、本来「楽師」という意味で、作曲家は含まないのです。それと、「音楽家への」という訳になっていますが、an einen Musicantenとなっていないので、直訳すると、「一音楽家の慰めの弁論」となり、ひょっとしてこれは、ニーチェ自身が自分をMusicantとして、自問自答するような形で書いたアフォリズムなのか、と考えています。作曲家に当てはめても矛盾は無い内容ですが、関連のないアフォリズムが並んでいるので、真意が完全にはわかりません。

>サラリーマンであれば、給料が入ればそれでいいわけで、他者からの評価はほとんど気にならないのですが、芸術家はさういふわけにはいかないと思ひます。

回答No.3に少し書きましたが、音楽と言ってもいろいろなレベルがあるわけで、実用音楽、商業音楽の場合は、音楽が具体的効果を上げ、また利益を上げないと評価されませんし、評価されないと仕事そのものが来なくなります。あくまでも自分の世界を表現したいという欲求の強い人は、そういう仕事で成功しても、満足は得られません。例えば、テレビドラマの音楽などの場合、作曲家自身がいい曲が書けたと思っていても、製作スタッフからこれは合わないとダメ出しをされたら、書き直さねばなりません。しかし、純粋に芸術的な作曲をメインにしている人でも、食べていくためにはそういう仕事も並行してやるもので、それはそれで、手を抜かずにきちんとやっている場合は、そういう音楽のスタイルの中である程度良いものができれば、多少の満足感はあるものです。
他人の評価は二の次という書き方をしましたが、最高を目指す人の場合、他人の評価より自己評価の方が厳しくなります。歴史に残った人はみなそうですが、ラフマニノフを例に挙げてみます。フィギュアスケートの浅田真央選手が使った「前奏曲 嬰ハ短調(俗称・鐘)」という曲があります。この曲は、ラフマニノフの生前から人気の高かった曲で、大ピアニストであったラフマニノフのリサイタルでは、アンコールでこの曲をやらないと、お客が帰ろうとしませんでした。しかしこの曲は、ラフマニノフの若いころの作品で、本人は、なぜこんな暗い曲をみんな聞きたがるのかわからない、と不平を漏らしていました。ラフマニノフは、一旦書き上げた曲に満足せず、何度も書き直すタイプの作曲家でした。家族はあきれていたようですが、ある時、「この曲には満足している」と漏らしたところ、家族が、もうそれ以上書き直させないように、何月何日にこう言った、と書き留めました。しばらくして、ラフマニノフはやはりその曲が気になりだし、書き直すと言ったところ、家族はそのメモを出してきて声に出して読み上げたそうです。ラフマニノフは、笑いながら改作するのをやめました。私事になりますが、私も随分改作を重ねる方です。留学中、師匠から、もう充分よいからやめろと言われたものです。数年前、その師匠の少し後輩に当たる人が来日してそういう話をしたのですが、その人は笑いながら、そういう私の師匠本人が、曲の一か所がうまくいかないといって、何時間も同じところを書き直している、とバラしてくれました。さらに、その人自身も改作魔で、その時横に座っていた奥さんがこの話の最中機嫌が悪くなり、「もう新しい曲にとりかからなければならないというのに、古い曲を出してきて直している、いい加減してほしい」と訴えました。なかなか満足しない、というこの心境は、普通の人にはなかなかわからないようです。作曲に限りません。昔、日本画家の平山郁夫のドキュメンタリーを見ていたときも、すでに完成した絵を搬出するスタッフが来ているのに、まだ筆を加えていて、奥さんに「まだやってるの」と言われていました。創作家にとっての一番の満足は、自分で納得できるところまで仕上げられたかどうかによりますね。
他人の評価で満足するかどうかは人によるでしょうが、他人の評価の方に重きを置く人は、決して多くはないのではないかと思います。というか、そうであってほしいという気持ちです。最近は、どうも、何を目標にしているのかわからないような作曲家も多いので、少し心配です。本当に自分の書きたいものを書いているのか、あるいは、この程度で満足なのか、という疑問を持ちます。専門家としての耳ではなく、一聴衆の耳で聞くようにしていますが、面白くないと思うものが多すぎます。ですから、この世界の権威から認められやすいものを書いている人たちがそれで満足しているかもしれないということについて、

>それもひとつの「道」なのでせう。人生それぞれですから。

という見方が正しいことはわかっているのですが、気持ちはいささか複雑で、そういう人が増えると、全体のレベルが下がります。長いものには巻かれろ、という風潮が広まるのは困ります。

自分の表現したい世界やメッセージが人に届くかどうかは、考えても仕方がないと思っています。届いたかどうかを知るすべがありません。文学のように、言葉で具体的に伝える芸術ではなく、感覚的にとらえるものです。他人が感覚的にどうとらえたかを知ることは不可能です。聞いた後に、「良かった」「面白かった」という程度の感想をもらっても、まるで手ごたえがありません。評論家などは、まるで見当違いのことを書くので論外です。また音楽は、純粋に音としての美しさを追求する場合も多いですから、具体的なメッセージのようなものがいつもあるわけではありません。また、もしそういうものがある場合でも、現代では、作曲家自身がプログラムなどに作品解説を書くのが通例となっており、言葉での補足が当たり前の時代です。理解してもらうヒントを言葉で提供するチャンスはいくらでもあります。しかし、ニーチェが言う、「あらゆる旋律の妙、前後関係の解決に現れる優美さ」、これは純粋に音楽的な理解です。この部分は難しいですね。
また、私の場合で言うと、これまでにも少し書きましたが、日本の音楽をある程度ベースにして作風を築いています。と言っても、安易なエキゾチシズムではなく、西洋の伝統の中で質の高いものを目標にしています。その日本的な音楽を、日本以外の場所で理解してもらうという目標があります。ですから、ここであまり具体的には書けませんが、ある国でそういう作品を発表して、演奏家や聴衆から高い評価をもらった時は、それなりに達成感はあります。
いずれにしても、この世界には、自分と似た感覚を持っている人が必ずたくさんいます。また、多くの人が共有する感覚もあります。自分が聴きたいと思い、自分が満足する出来の作品ならば、おのずから受け止めてくれる人が存在すると確信していますので、他人の評価は特に気にしないのです。
もちろん、作曲家も一人の人間ですからね、過去の大作曲家でも、作品が評価されずに、失意の底に落ちたというようなエピソードを残している人もまたたくさんいるわけです。
長文の割には当を得ませんが、このぐらいにしておきましょうか。

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ケージの「4分33秒」の意味については、ぶらげろさんのスレッドに書きました。
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この回答へのお礼

またまた私の誤読なのですね。音楽家全般を指してゐるのかと思つたのですが、作曲家が含まれないのですか。独和辞典を見ても、Tastenkastenさんの御指摘どほりでした。

>評価されないと仕事そのものが来なくなります。
>自分の世界を表現したいという欲求の強い人は、そういう仕事で成功しても、満足は得られません。

このあたりが私の知りたいことです。サラリーマンとは違ひますから。

ラフマニノフはあまり聴きませんし、どんな人なのかも知りません。家族の策略で改作をやめたのは、素敵な話です。Tastenkastenさんが「改作魔」といふのは、わかります。

>長いものには巻かれろ、という風潮が広まるのは困ります。

はい、「他人の評価の方に重きを置く人」が主流派になつてはいけません。

>自分が聴きたいと思い、自分が満足する出来の作品ならば、おのずから受け止めてくれる人が存在すると確信していますので、他人の評価は特に気にしないのです。

ニーチェもそのやうに書いてゐますし、Tastenkastenさんらしいお考へと存じます。

>ケージの「4分33秒」の意味については、ぶらげろさんのスレッドに書きました。

以前拝見しましたし、改めて読みなほしました。ジョン・ケージの主張は、通常は文章にすべきものですが、作品として表現したのが、作曲家たるゆゑんなのでせうか。いづれにせよ「初演の一回」のみの技です。平凡なサラリーマンの立場にあてはめると、ストライキのやうで感心しないのですが、このあたりが芸術家の見解との違ひなのでせう。俗人の思考、御勘弁ください。

貴重な御意見をたまはり、ありがたうございました。

お礼日時:2015/04/27 21:19

こんばんは。


私があまり、質問が無い、無い、と言うので、考えてくださったのですか。今日はたまたまOKWaveの方に少し出たので、こちらに気が付くのが遅れました。それと、plapotiさんの御質問は、短いのですが回答が難しく、短い時間で書けません。明日、ゆっくり再回答しますが、少しだけ書きます。
作曲家にとっての満足というのは、今の時代は、音楽の役割の多様化に伴って、千差万別となっています。ニーチェは、自身作曲をしたので、「聴く耳のある者」とは、自分を含めて言っていると思います。このレベルの聞く耳は、結局のところ、音楽を専門的に学んだ者にしか期待できません。いえ、専門に勉強した人でさえ、聞く耳のない者が大勢います。本当の良さを理解してもらうことが嬉しくないわけはありませんが、そこまでのレベルの理解は、最初からあまり期待していません。
もちろん、一般の聴衆でも、かなりの程度理解できる人はいますし、専門家にさえ評価してもらえれば、一般の聴衆に人気がなくてもかまわないということはありません。ただこれは、クラシックに関して言うと、今の時代は複雑な事情があります。専門家の多くが評価するものと、一般の聴衆が受け入れる者との間に、大きな溝があります。ですから、早く成功したい者は、今現在専門家が評価するスタイルで書きます。そういうことをして成功した人の中には、それで満足している人も少なからずいると思います。
私の場合は、まず、自分が理想とする音楽のイメージに可能な限り近づけたと思える作品が書けた場合は、とりあえず最初の満足を感じます。次は演奏がうまくいったときです。その演奏で自分の曲を客観的に聴いて、目標の多くが達成できたと確認できれば結構自己満足に浸ります(笑)。そして、自分が信頼する同業者に評価してもらえば、さらに満足です。
理想的なのは、そのほかに、一般の聴衆と専門家の両方を納得させられることです。留学中の私の師匠は、それを目標にしなければいけないといいましたが、これはかなり困難です。その師匠は一方で、自分自身が聞きたいと思う曲を書くべきだとも言います。現代ポーランドを代表する、ルトスワフスキーという作曲家が京都賞を受賞した時に、講演で、「傲慢に聞こえるかもしれないが、私は自分のために作曲をする、それが一番正しい」というようなことを言いました。聴衆を喜ばすことをあまり意識してもよい結果は出ません。自分が聞きたいと思う音楽を、同じように聞きたいと思う人は必ずいると思いますので、自分の書きたいように書けばよいし、追求している音楽像に近づければ、それで満足です。他人の評価は二の次、自分で納得でき、自信が持てるような者であれば、その時は評価されなくても、いずれされるときがくると暢気に構えています。
中途半端な回答になりました。明日、もう一度見直して見ます。
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この回答へのお礼

サラリーマンであれば、給料が入ればそれでいいわけで、他者からの評価はほとんど気にならないのですが、芸術家はさういふわけにはいかないと思ひます。この件につきましては、御意見をたまはりたいと考へてをりました。

>そこまでのレベルの理解は、最初からあまり期待していません。

私は俗受けする「耳」しか持ちあはせがありません。期待が高いと、落胆も大きいのは、音楽にかぎつたことではありません。

>早く成功したい者は、今現在専門家が評価するスタイルで書きます。
>そういうことをして成功した人の中には、それで満足している人も少なからずいると思います。

それもひとつの「道」なのでせう。人生それぞれですから。

>自分が理想とする音楽のイメージに可能な限り近づけたと思える作品が書けた場合は、とりあえず最初の満足を感じます。

段階的に「満足」があるのですね。合理的です。OKWaveの御回答で、練習もろくにできてゐないのに自作曲を演奏されると傷つく、といふ内容を拝見しました。学校での話題でしたが、音楽の世界にもいろいろおもしろいことがあるものです。

>傲慢に聞こえるかもしれないが、私は自分のために作曲をする、それが一番正しい

基本は、やはりこれなのですね。ニーチェもそのやうにとらへてゐるやうですし。人生にもあてはまると思ひます。

御回答ありがたうございました。

お礼日時:2015/04/26 09:58

自分の精神世界を音として表現する。


この時、自分の発したメッセージが確実に相手に届く保証はない。
まったく届かない場合もあるだろうし、まったく異なった意味で届いてしまう場合もあるだろう。

ただ、たった一人でも自分のメッセージの意味を聴き取ってくれるなら、それが作曲者としての満足では。
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この回答へのお礼

御回答ありがたうございます。これまでも何度か的確な御指摘をいただいて、助けられてをります。

私では芸術家の心がわかりませんので質問してみた次第です。

>まったく届かない場合もあるだろうし、まったく異なった意味で届いてしまう場合もあるだろう。

現実はさうですね。場合によつては、作曲家の死後に、はじめて評価されるといふこともあるでせうし。

>たった一人でも自分のメッセージの意味を聴き取ってくれるなら、それが作曲者としての満足では。

ニーチェもそのやうな意味合ひで書いてゐます。そのあたりが妥当なところなのでせうか。

お礼日時:2015/04/26 09:41

あるがままの自分を受け入れて欲しいということでしょう。



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この回答へのお礼

質問タイトルは、この文章にニーチェがつけたものです。芸術家が芸術に求めるものは、それぞれにあるのでせうけれど、評価といふ点においてどのやうに考へてゐるのか、気になります。評価への欲求はあつてしかるべきですが、私のやうな凡人には、なかなか理解ができないかもしれません。

ジョン・ケイジの横着作品は有名ですが、私にはさつぱりわかりません。4分33秒といふ時間のとりかたが絶妙なのかもしれません。これ以上長いとクレームになりますし、短か過ぎると何が何やらわかりません。

>あるがままの自分を受け入れて欲しいということでしょう。

私がコンサートの客であれば、返金を要求します。心の広いmarbleshitさんならば、喜んで受け入れるのでせう。

御回答ありがたうございます。

お礼日時:2015/04/25 22:59

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