アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

こんにちは。
以前から気になっていることについて質問させていただきます。

今日の英語教育では「英語を英語のまま理解する」ことが重視されていると思います。
実際、私も高校生の時(もう何年も前のことですが……)英語教師からこのように教わりました。
ですが、本当にそんなことは可能なのでしょうか?
(ここでは「英語を英語のまま理解できる状態」を「英語の読書聴話の際、全ての思考が英語で行われ、一切の日本語が介在しない状態」とします。)

まず、そもそも「英語を英語のまま理解する」ことを勧める教師も自分ではおそらくできていないのではないかと思います。
もしできていたとすれば、読んだ内容を英語で自在にパラフレーズしたり、あらゆる文法事項を英語で説明したりできるはずですが、そんなことをしている教員の話は聞いたことがありません。

次に、学習者の英語力の問題があります。
ノンネイティブとして及第点と思われる英検1級であるとかTOEIC 900点台後半といったレベルは、英語話者で言えば小学校高学年程度の言語運用能力と聞きます。
その程度の能力で日本語を介在させず、英語だけで考えるのは心もとないはずです。
ましてや大学受験生やその他多くの英語学習者のレベルはこれにはるかに及ばないわけで、そうすると「小説・大人向けのニュース・マニュアル・科学論文を読み、議論する」といった多くの日本人が英語を使うと思われる状況において、母語の手助けが必要になると思います。

学習者が英語を英語のまま理解することは必要なのか、そもそも可能なのか。
皆様のご意見を聞かせてもらえますでしょうか。

A 回答 (9件)

まず、日本で国語力として小学校6年生(学校教育法の指導基準を全て理解している場合)程度の理解力があれば、普通の学問は充分に理解出来ると思います。


英語の場合、小学校(プライマリースクール)の高学年で、どの程度の語学力があるかはわかりませんが、日本の国語教育と大差なければ、普通の文書は読解できると考えて間違いないです。
また、TOEIC900点が取れる読解力があれば、普通の学問は専門用語などを辞書で補えば理解できるでしょう。(辞書は英英や英語の専門用語辞典でかまいません)
ただ、日本の英語教育の目的が英語を英語で理解する事を求めているとは思えません。
もし、そうならば、和訳などの問題は不要だからです。
問題文も英語にして、英語の穴埋め問題にするか、長文を短文に直すなどの試験にすれば良いだけです。
つまり、英語を母国語としている国の教科書をそのまま使えば良いんです。
ちなみに、小説はよほどの事が無い限り、読めますよ。(表現が難しいものは理解が難しい場合もありますが、大衆小説レベルであれば、それほど凝った表現は無いです)
英文をそのまま理解すると言うか、そのまま読み進んで、いちいち日本語に変換する必要は無いです。
日本語の文に直していると、日本語の小説を読むようなスピードでは読めません。
英語のネイティブスピーカーがどのように英文を理解しているかはわかりませんが、意味はわかるわけですから、英文で説明する事も可能でしょう。
むしろ、日本語で説明する方が難しいです。
長期間英語しか使えない環境にいれば、自然と英語のまま理解するようになるのではないでしょうか?
逆に、英語のネイティブスピーカーでも、日本語しか使えない環境に長期間いると、自然に日本語のまま理解するようになるみたいです。
完全なネイティブと同じレベルになるかはわかりませんが、普通に会話出来るレベルだと、そのようになるようです。
英語のネイティブスピーカーで、長期間日本にいた人が母国に帰った時に、友人と会話していて、相手が突然きょとんとした顔をした時があったそうです。
何故なら、その時日本語でしゃべっていたからです。
極端な専門領域の場合は、語学力と言うよりは、専門知識が必要なだけで、逆にそのような場合は、日本語でも理解出来ないでしょう。
お互いが共通の知識がある場合は、それを繋ぐ言語があれば、コミュニケーションが取れます。
それは、会話でなくても、文章でも可能なわけです。
以前、台湾のコンピューター技術者とコンピューターの設定に関してコミュニケーションを取る必要がありました。
現地技術者は、英語がしゃべれず、北京語しかできませんでした。
この場合は、会話ではコミュニケーションが取れません。
実際には、ホワイトボードで、相手が理解出来る英文を書いてコミュニケーションを取れました。
この場合は、お互いに知識はあるのですが、会話できなかっただけです。
知識はありますから、英文を書けば相手は理解できたわけです。
PC関係は、ほとんど英語の用語なので出来た事です。
ネイティブスピーカーの速度で会話する為には、ある程度はその言語で思考しないと難しいでしょう。
いちいち、母国語に直していたら、会話がゆっくりになります。
求めている語学力が、普通の速度で会話出来る事ならば、その言語で思考するというか、反応出来る能力が必要です。
ただ、極端に難しい表現をした場合は、母国語同士の会話であっても理解出来ない場合もあります。
普通の会話では、そのような場合は、何回も確認をしているはずです。(言語的に冗長な会話になっているはずです)
英語と日本語では、語順の違いがあるので、思考形式に多少の差異はあると思いますが、意味のある文章であれば、5W1Hは満たしているはずです。
特殊な慣用表現を除けば、英文をその流れのまま理解する事は可能だと思います。(この場合は英文の単語はそのまま理解する事になり、日本語にはしません)
ただ、それを日本人に説明する為には、相手がわかるレベルまで日本語に直さなければいけません。
英語圏で英語を使うだけならば、英語だけで理解出来れば足ります。
日本で、英語を使う場合は、日本語しかわからない人にも説明出来なければいけません。
日本が求めているのは、本質的には日本語と英語を両方理解出来る人材だと思いますけどね。
実は、それは結構難しいです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

皆様、たくさんのご回答有難うございます。
ベストアンサーですが、内容に順番を付けられなかったので最初に回答を頂いた方としました。

-----------------------

ありがとうございます。
完全な日本語にいちいち直していたら、スピードが遅すぎてついていけないというのは同意見です。
僕は自分が英文を読んでいる時、返り読みはしていないものの情報は日本語で入っていると思います。
簡単な文章でもそんなに早くは読めないので(分速200 words弱くらい?)、修行がたりないどだと思います。

お礼日時:2015/05/10 22:29

ギャル言葉、いちいち普通の言葉に翻訳している人はいないと思います。


たぶんギャル言葉のままで理解しているはずです。
文法こそ後からです。
まず言葉を覚え、話言葉の感性を身に着けてから、文法を習えば、自分の感性の確かさを確認しつつ体系的に整理できます、必然的に文法に当てはまらない例外も自然に身に付きます。
最も、このカテ内でも、母国語の日本語すら十分理解できない、使いこなせていない人がいますね。
    • good
    • 0

>もしできていたとすれば、読んだ内容を英語で自在にパラフレーズしたり、あらゆる文法事項を英語で説明したりできるはずですが、そんなことをしている教員の話は聞いたことがありません。



英語の教員免許を持っている人なら当然できると思いますが。英語のパラフレーズは大学入試で必要な場合もありますし、以前英語の授業は(文法も含めて)全て英語で行うことになったと聞いたことがあります。

>(ここでは「英語を英語のまま理解できる状態」を「英語の読書聴話の際、全ての思考が英語で行われ、一切の日本語が介在しない状態」とします。)

日本語が介在してはいけないという意味ではありません。そもそも、「日本語」で考えているかなどは証明しようがありません。
私は、文法的なことの方が重要だと思います。和訳以外の時は、英文法や英語固有の考え方を日本語の文法に置き換えない方が良いと思います。

> 学習者が英語を英語のまま理解することは必要なのか、そもそも可能なのか。
皆様のご意見を聞かせてもらえますでしょうか。

必要ですし可能です。小説や専門書などの中から興味のあるものを英語の原文で読んでみることをお勧めします。もっと手軽に英語で書かれてるサイトを読んでみるのも良いと思います。リーダーより会話の方が好きなら英語のネイティブの人とお話ししてみることをお勧めします。
    • good
    • 0

ここまで回答された皆さんは、いずれも英語の達者な方ばかりのようです。

ただ、皆さんも 日頃意識しているわけではなく、英語が上達するにつれ、気付かないうちに いつのまにか英語を英語のまま理解しているのではないかと思うんです。
ただ、私の感覚では 一種の慣れではないかと思います。
例えば、華氏100° と言っても ピンと来ませんよね。最初のうちは 摂氏に換算すると思うんです。
でも、華氏に慣れれば いちいち摂氏に換算しなくとも ピンと来るような感覚に近いとも言いましょうか....
    • good
    • 0

こんにちは。



「英語を英語のまま理解する」

ここのカテゴリでは、学校教育の範疇とは違った見方をするご意見が多いのですが、ご質問者のおっしゃる内容は、教育の問題であって、端に個人の範囲で「英語を英語のまま理解する」というご質問とは違うと、解釈しました。
『今日の英語教育では「英語を英語のまま理解する」』ということを、実際に、この言葉を確認しました。

[文科省 審議のまとめ]
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shoto …

 昔、『英語で考える』という本が出て話題になり、その後、この言葉だけが、ひとり歩きし、議論の的になってしまいましたが、調べてみると、当時の文部省の教育方針を取ったものだったそうです。そして、現代は「英語を英語のままに理解する」ということになったのかと思うと、いつまでも、現実とは乖離したところに、教育方針があるような気がしてしまいます。これは、1999年の故・小渕恵三首相による「21世紀日本の構想」懇談会によるものが多いのではないかと思います。

ここ数ヶ月、私は、大学受験の英語科の内容などをみて、50年ほど、大きな進展もなく、そのまま続いているような気がしているわけです。ここには、「英語を英語のままに理解する」の欠片も存在しません。問題は、教師側だけでなく生徒側両方にあるように感じました。ある意味では、大学受験とその受験産業こそが元凶とさえ思えてくることもあります。

 文科省は、英語教育の専門家よりも、政治的な関係者や官僚から意見を吸い上げるほうが大きいとも聞きます。しかし、学校教育周辺では、生徒自身の実力の低下のままに、10年一日のごとく、同じ教材を供給し続けているわけです。

>教師も自分ではおそらくできていないのではないかと思います。

日本の英語教師は、「英語を英語のまま理解する」ところからの教育というのは、おそらく目的化していないはずです。ただ、これをしていない現実を安易に批判するということは、私は避けたいと思うのです。つまり、その各生徒の内面的な部分を測るすべはないし、まして、あるレベルを越えるいわゆるブレークスルー(break -through)がくるまでには、学習時間が足らないからです。大阪の教育指針には、中学卒業時点で英検2級~準1級を目指すというものがありましたが、いつでも、教育は為政者のおもちゃになってしまうようです。

 2014年のNHKの朝の連ドラ『花子とアン』で、戦前の当時の授業を模したものが放映されていたけれども、後々、主人公・花子は、有名な翻訳家・村岡花子になるわけです。当時の教育は「英語を英語のままに理解する」というようなコンセプトも、「英語で考える」もなかったわけです。これは、新渡戸稲造や鈴木大拙のような人たちも同様なのです。にも関わらず、彼らの語学力は、今でも、遜色ないと思うのです。
 そして、今、現在、明治・大正・昭和に排出した語学の達人に匹敵する人物は、平成の世に現れたのだろうか、と疑問に思うのです。

>ノンネイティブとして及第点と思われる英検1級であるとかTOEIC 900点台後半といったレベルは、英語話者で言えば小学校高学年程度の言語運用能力と聞きます。
>その程度の能力で日本語を介在させず、英語だけで考えるのは心もとないはずです。

「英語を英語のままに理解する」ことが可能か、可能でないかは、優秀なここの回答者なら可能かもしれませんが、理解すると同時にどの程度解釈しているかにもよります。ご質問者が指摘するように、日本人が、本当に、英検1級レベルで、英語ネイティブの小学生高学年レベルの「知能」「知恵」しか持たないのでしたら、「英語を英語のまま理解した」としても、その程度の反応しか見られないはずです。

 ここは、第二言語習得(SLA)論と外国語習得論との違いになるのですが、私たちの社会的知識・常識は、英語で学習しているわけではありません。私たちの、科学・政治・環境などの諸問題についての考察が、英語ネイティブの12歳程度の知能しかないのだ、という考えなら、場合によって、英語を基準とする英米の白人至上主義や植民地主義に従うことになりかねないのです。一部では、英語帝国主義と呼ばれているそうです。

 日本語を母語として使う日本人は、あくまでも、英語は、外国語であるという立場であり、シンガポールやインドのような第二言語ではありません。これは、英語で考えるとか日本語を介さないというような学習方法とは意味が違うわけです。「母語習得」「第二言語習得」「外国語習得」では、それぞれの置かれているステージも方法も違います。昨今、第二言語習得論が賑やかですが、それは、非常に手の込んだ、一種の「亡国論」としか思えないのは、お互いの母語のコミニュケーションに潜む情感を否定し、自国の文化を評価せずに、見せかけの英米の価値観のみを優先させるということが多いのです。以前、「楽天」の朝の朝礼が、CNNのキョンラー氏にどのように報道されていたかは、想像に難くありません。しかしながら、もっと最悪なのは、一見、日本や東洋を理解しているように振りをして、まったくデタラメか、日本文化もどきや東洋文化をもどきを、英語で聞かせられ、それを気づかない日本人がいることほど、屈辱的なことはないはずなのです。ルース・ベネディクトの『菊と刀』などは、その代表作ではないでしょうか。

日本の技術が、英語を通してのみ行われているとするなら、日本は、常に欧米に追従していくだけになってしまいかねません。英米の学者の一部は、日本を含むアジアの諸国の人々は、かつて能力的に科学的思考に劣ると言われました。その後、その統計調査対象の偏りがあること指摘されました。また、英語学習の臨界期説の根拠になった、アジア人や日本人の語学習得期に関しても、在米中国人の特定の団体の人々をもとに行われたものであり、日本の英語早教育に採用するほどの根拠には乏しいことが判明しました。しかし、現在も、こうした考えたは、定説として続いているようです。

>「小説・大人向けのニュース・マニュアル・科学論文を読み、議論する」といった多くの日本人が英語を使うと思われる状況において、母語の手助けが必要になると思います。

 昨今、英語学習者は、あまりにも、内言語または内的言語について、こだわりすぎるように思うのです。私たちの思考自体が、厳密に日本語文法を通した日本語ではなく、あくまでも、「外に現れる言葉」に対する「言語以前」のもののはずです。「英語で考える」というスローガンの際にも、あれこれと議論し尽くしたことではあるけれども、表層的な問題で英語だの日本語だのというレベルの話ではなかったはずなのです。それと同じことで、私たちの知識や教養を、英語モードであろうが、母語の日本語であろうが、それは、完全な一つの言語として体系的に脳内で処理されているわけではありません。英語にならないのは、英語で記憶していないからだと思い込んでいる人もいるようですが、それはあくまでも、語学力自体の問題です。それが、全部英語モードに置き換えられたとしても、記憶の言語は、あまり重要ではないと思うのです。

教育界で「英語を英語のままに理解する」というのは、ある種のプロパガンダなのだろうと思います。それは、第二言語習得論であり、それで以って、外国語学習に当てはめることは本来はありえないのです。
    • good
    • 0

>「英語を英語のまま理解する」本当にそんなことは可能なのでしょうか?


可能です。少なくとも学習者としては、これが出来ると仮定し、出来るとすればどういった状態なのかを絶えず想定し、且つ、これを最終目標として、研鑽を積むべきだと思います。

「英語を英語のまま理解する」とは「文字にとらわれずに、意味を捉えること」だと思います。
日本語を使用する際、無意識に行っている上記の作業を、英語でも出来る様にすること、だと私は思っています。

>読んだ内容を英語で自在にパラフレーズしたり、あらゆる文法事項を英語で説明したりできるはずですが、
あらゆる文法事項を英語で説明できることと、「英語を英語のまま理解すること」は別の技能だと思います。ただ英語を英語のまま理解していれば、パラフレーズは簡単に出来ると思います。

>「小説・大人向けのニュース・マニュアル・科学論文を読み、議論する」といった多くの日本人が英語を使うと思われる状況において、母語の手助けが必要になると思います。
「母語の手助けを必要とする」というよりは「母語を通して得た知識・概念の手を借りながら英語で理解していく」と言う作業になると思います。学術論文やニュースの中には、そもそも背景知識がないと理解できない物もあります、ネイティブでも門外漢なら理解できないでしょう。英語力というより、知識の部分で理解できない。言語の運用能力としては、ネイティブの小中学生程度あれば、「英語を英語のまま理解すること」は可能なのだと思います。

私は「英語を英語のまま理解する」は可能であると思います。
必要かどうかは、個人個人でそのレベルにまで達したいのかどうか、によって答えは変わってくると思います。
    • good
    • 0

一つの意見です。




「英語のまま理解する、英語だけで考える」ことができる、というのがどんな状態を意味しているかについては、きっと誰も(もしかしたら文部科学省の方さえ)、さほど明確には捉えていないし、あえて明確化しようとする動きもこれまでなかったのかもしれませんね。

他のご回答にもあるように和訳の試験問題などもありますし、英語で考えるとはいっても、「日本国民である英語学習者は日本語も使う」ことが前提になっているようにも思います。そんな中でなお「英語のまま」と言うのは、精神的な目標であり、具体的に幾ら以上のグレードになったら目標が達成された…という趣旨ではないのかもしれません。

そうだとすれば、学校時代の英語教師の能力がどれだけ低かったとしても、遠い将来の理想像として示しているだけなのだから関係なく、英語の習得に際しての目標というよりは、この国における教育行政を執行・推進していく上で利用される指針に過ぎないのかもしれません(ご質問の目標のみに関して考えれば、という意味です)。


また、全てのコミュニケーションを英語で行っている人には遠く及ばないながらも、英語の基礎を学習中の人でさえ、部分的には英語のまま理解しているところもあるように思うので、指摘しておきたいと思います。

ごく短い文、例えば Let's go. とか now on sale とか label(レーベル)といった言葉は、日本語の会話をしている最中にもよく出てきます。ひとたび意味を知ってしまえば、それ以上深く考えることもないでしょう。たったこれだけの知識であっても、英語に全く触れる機会のない地球上の地域の人たちからすると、とても英語に詳しいことになるのかも。

How are you? とか Good morning. は、いわゆる決まり文句でもあるので、イチイチ単語にばらして意味を検討したり、「良い朝ですね」とか考える人もいないでしょうね。

これが、2 行、3 行、4 行と長く続く文になっていくと、素早く理解できる人数の割合が徐々に減っていくでしょうね。語彙とか文法とかいろんな要素はあるでしょうが、「英語のままで理解する」ということと「すぐに理解できる文の長さ」には、ある程度の相関関係があるかもしれませんね。

つまり、身に付けた英語の実用性を度外視すれば、「英語のまま理解」と一口に言っても、様々な水準があり得るとも考えられそうです。部分的に英語のまま理解しても残りは理解できないなら、日本語などで補うほかないけれども、補うことが許容されるかどうかは、冒頭にも申し上げたとおり明確化されていないのではないでしょうか。
    • good
    • 1

「英語を英語のまま理解する」ことを実践して30年以上が経つ米国在住の者です。

私は英語の使用者であって学習者ではありません。

> 本当にそんなことは可能なのでしょうか?

日本人である私がやっているのだから不可能なはずはありません。ただしすぐにできたわけではありません。私は中一の頃から Sesame Street やTVドラマを英語で視聴し、高二の頃からペーパーバックの多読を始めて英語を英語の語順通りに理解する訓練を自分でやって、「英語を英語のまま理解する」ことができるようになったのはまだ日本に住んでいるときでした。確かに努力はしましたが、自分の好きなことばかりやっていたので決して「苦」に感じたことはありません。英検などの試験で点数を稼ぐ勉強をやっていたら英語が嫌いになると思ったので全然受けていません。

> まず、そもそも「英語を英語のまま理解する」ことを勧める教師も自分ではおそらくできていないのではないかと思います。

私もそう思います。「英語を英語のまま理解する」ことができれば世界が広がるので、教師以外の仕事に就けたのではないでしょうか。

> その程度の能力で日本語を介在させず、英語だけで考えるのは心もとないはずです。

私の能力がどの程度だったのか知りませんが、私は日本語を介さないことで非常に楽になりました。試験問題の長文を読むよりペーパーバック一冊読む方がよっぽど楽だし楽しめると思います。

英語で会話するときも全く日本語を介したり (頭の中で訳したり) することはありません。日本語で何というか知らない単語は山ほどあります。

またこれができるようになると英語を聞き流しただけでもかなりの情報量が頭の中に入ってきます。できない人達にとっては聞き流しは「馬の耳に念仏」状態だし、自分ではインプットの量が多いと思っていても実際にはインプットの絶対量は皆無に近いのです。

> 学習者が英語を英語のまま理解することは必要なのか

可能であることはお話ししましたが、必要かどうかは本人の意思次第です。少なくとも学校の授業を受けるだけではできるようにはならないので個人個人で努力する以外に方法はありません。英語の使用者になりたいなら「英語を英語のまま理解」できるようになることが圧倒的に有利です。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます。英語圏在住の方の考えが聞けて嬉しいです。

>「英語を英語のまま理解する」ことができれば世界が広がるので、教師以外の仕事に就けたのではないでしょうか。
教師は「英語を英語のまま理解する」ことを勧めるものの、「『英語を英語のまま理解する』ことができれば世界が広がるので、教師以外の仕事に就けた」、というのは皮肉なことですね。

僕はまだペーパーバックを辞書なしで読むとなんとかストーリーは追える程度の能力しか無いのでもっと量を実践する必要があるなあと考えています。

お礼日時:2015/05/10 22:57

「英語を英語のまま理解する」というのはそんなに難しいことを


言っているわけではないと思います。

例えば、関係代名詞を含んだ次のような文があるとします。
I know an American boy who speaks fluent Japanese.

こういう文を日本語に訳す場合、関係代名詞の後ろを先に訳して
から「アメリカ人の男の子」を後で訳し、「私は、流ちょうな日
本語を話すアメリカ人の男の子を知っている」となりますが、そ
ういう英文和訳的な理解のしかたではなく、先に I know an
American boy を理解してから who 以下の節を理解する、という
ように、文を前から理解することが「英語を英語のまま理解する」
の意味だと思います。

私は、英検一級には落ちましたから、語彙も少なく、それほど英語
が使いこなせるわけではありませんが、それでも、たいていは意思
疎通ができます。

英語で話したり書いたりするときには、いちいち日本語で考えてか
ら英訳しているわけではありません。基本的には英語で考えています。

ただ、英語でどういうのかわからないときは日本語をまず考えてから、
英語でどう言えばいいか考える場合もあります。

英検1級に合格するのは簡単ではありませんし、また、英検1級レベ
ルじゃないと役に立たないというのも違うと思います。TOEIC800
点くらいでも、英語を使って仕事をしている人達がたくさんいます。

英語を使うと言うことをそんなに難しく考えないで、楽しく勉強なさ
ってはいかがでしょうか?

Hope it helps.

Hirashin
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
>英語を使うと言うことをそんなに難しく考えないで、楽しく勉強なさ
ってはいかがでしょうか?

質問内容から誤解を産んでしまったかもしれませんが、僕は英語は楽しんで学んでますv
(綴りと発音の乖離だけは本当にイライラしますが・・・)

>I know an American boy who speaks fluent Japanese.
これを見た時、「話者にはアメリカ人の男の子の知り合いがいて、その人は日本語を上手に話すんだなあ」というように理解することはできます(厳密には制限用法と非制限用法の違いがありますが)。
結局、僕の脳内ではフレーズごとに瞬間的に日本語に直っていて、それを英語で出てくる順番通りに解釈しなおしていると思います。
これは英語のまま理解したことにはならないんじゃないかなあ、と思います。

お礼日時:2015/05/10 22:51

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!