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自由時間というのは、何をどう過ごせればいい時間のことですか?

A 回答 (25件中11~20件)

お礼、ありがとうございます。



白熱教室で一躍日本で有名になったサンデルは、
この講義内で
「アリストテレスは、奴隷になる自由もある、と言っている」
みたいなこと言っていたようです。

そして、奴隷の労働によって、古代ギリシア人はヒマ・自由を獲得し、哲学をはじめとする学問、そして、様々な文芸に専念することが出来た。

学校・schoolの語源であるギリシア語のschole(すこれー)は「ヒマ」を意味する。

和辻哲郎は著書『風土論』の中で、
(奴隷獲得以前の古代)ギリシア人は、仕事をしようにもギリシアには何にもなくて、ただボーッとして物を見つめるしかなかった。だから、(自然)哲学が生まれたんだ、
みたいなことを書いていたんじゃないかな。
土地は恐ろしく痩せていて農業に適さない上に、目の前に海はあるものの、大きな川の流域以外では魚はほとんどいない。
ひがなボーっとして自然を眺める以外することがなかった、それ以外できることがなかった。

和辻のこの話が本当かどうかは別にしまして、
哲学の祖といわれるソクラテスが暇をもてあましていたのは事実のようです。
この有り余る暇な時間をつぶすためにヒトを見つけては問答を吹っかけ、当時のアテネの人々から恐れられていたようですよ(笑)。

要注意人物ということでは、この眠りネコもソクラテスに負けておらず、
とあるサイトで「馴れ合いヴァカ」の代表的な回答者としてリストアップされており、
「教えて! goo」回答者の要注意人物として、
NemurinekoNya
の名前が大々的に挙げられています。

ではでは。
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この回答へのお礼

時間はたっぷりあり見つめるのも飽きて、
時間を潰すのに問答してたんですね。
哲学するのに奴隷要員と時間をかける。お金の問題ではないよう(笑)

行動派だと考える時間と学ぼうとする気力体力までもが奪われちゃいます。
哲学行動派?にしたのが芸術かも。
芸術は自分でもう思わなくていいんです。思われるための存在だから。

ねこさんには一度庇ってもらったことがありその節はありがとうございました。
いい意味でどんどん恐れられていってください!

お礼日時:2015/05/31 13:15

面白い質問ですね。



私はいまblogをやっているのですけれども、暇な時間の多くをこのブログの記事を書くことに割いています。
だから、「教えて! goo」に回答しなくなったのですが(笑)。
 ―――最大の理由は、gooとOKwaveの分離ですけど。補足数が最大10件、今日気づいたのですが今はお礼は最大1000文字まで書けるようになっているみたいですけれど、400字制限になり、「これじゃ何も書けないだろう」と嫌気がさした。それで自身のブログを始めた。きっかけは、neutralさんの、私が過去に書いたものを「読んでみたい」という一言なのですが―――

ブログの記事を書くための下準備、そのための自身の勉強時間を含めてですが、多くの時間を費やしています。その意味で、ほかの事に使える空き時間、《自由・free》な時間は大きく減少した。そして、同時に私はこのブログ作りに束縛されている。この意味においても自由な時間は減った。

しかし、これは他者から強制されたものではなく、私自身がくだした私の自由意志の選択の結果このような状態になったわけであり、これを自由な時間ということもできるのでしょう。
これは義務ではありませんし、誰から強制されたわけでもありません。また、いつでもやめることが出来ますし、やる、やめるの選択の自由も常に私にある。
ですから、これこそ、この状態こそ真の自由な時間と言えるのかもしれない。

ですから、
結局のところは、自由な時間をどのように定義するか、どのようにとらえるかなんでしょうね。

じゃぁ~、ブログに使っている時間、私がまったく自由か、何物にも強制されていないか、と言われれば、思わず「う~ん」と唸ってしまいます。
読む人がいるので、毎日、せっせと記事を書かないといけない。これが有形、無形の圧力、強制力になっているのは事実。自縄自縛の状態に陥っている(ポリポリ)。
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この回答へのお礼

眠り猫さんありがとうございます!
そうですか、モノを書くのは最高な営みと言ったのは誰だったろう?
今じゃ確認のとりようもないのですが、自由を手にしたのですね。

>他者から強制されたものではなく、私自身がくだした私の自由意志の選択の結果このような状態になったわけであり、これを自由な時間ということもできるのでしょう。
これは義務ではありませんし、誰から強制されたわけでもありません。また、いつでもやめることが出来ますし、やる、やめるの選択の自由も常に私にある。

自由には任意で執着するのも手放す自由もありますね。
拘束で満足しても褒美的なものは当然とされ罰を受けることを恐れ続けてしまいそう。
自由を手にするには、あえて手放す勇気?他を優先する勇気?
いっそ、身を削り大負けしてやる勇気?がいるかもしれないですね・・。

お礼日時:2015/05/31 10:59

他人の自由を侵害しない範囲内でマイペースでいい時間、だと思います。

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この回答へのお礼

すずめのこっくすさんありがとうございます!

ある程度自制することも大事ですね。
自分のペースも「突然変異」することもある。
成長に遅い早いがあっても脱皮したかのように再生されることもありますし。

お礼日時:2015/05/31 10:37

お礼ありがとうございます。



>内部に限界がないと外部をひっくり返しちゃいます!?
>毛穴に限界はありそうですが夢の中なら無限かも。

毛穴からベロンとひっくり返すことはできないでしょうが
内部から外部をひっくり返すことは出来ますよね。
地動説から天動説にひっくり返ったのは、ご存知の通り。

地動説的質問は、Q&Aでは常に有りますけどね。


>今家にある食材で出来る料理、ぐらいのショボい課題にも夢がもたらせます。

ほどほどに頑張って下さい(^ ^)


>夢は叶えることが出来る!叶えられないのは祈願の類でしょうね。

確かに言えますね。

ただ一つ、可能性としては祈願に決意があれば叶うように思います。
御賽銭と引き換えの、一方的お願いを買い付けるのはできないでしょう。
金で買えるなら、祈願は必要ないと言えると思います。

決意が有り、自身が動き働きかけることで叶うのは
内部と外部が同調しあってこそ叶うから。

決意のない願いは欺瞞であると、神道をやって行く内に思えました。
だからと言って単にお願いしても悪ではないですが。

依存は、打ち破れば願いが叶うのは容易かも知れませんね〜。
と検証してみて思ったのであります。
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この回答へのお礼

>祈願に決意があれば叶うよう

決意が自由意志で出来るものならいいですが、
意志してもそれが危険であったり、
利用価値がなければ諦めるより他ありませんよ。

自由と価値で、価値はそれを認める人がいてくれてこそ価値の名を手にする事ができる。
「自給自足で満ちたりた生活」を夢みても、
食べるものに困っている人が居れば施すなり売るなりしてしまうもの。
周囲に歓迎されないと自分だけ良ければで生きれないのが人間ですね。
だから祈願とは周囲にも叶えさせない働き(祈願)があるように思います。
それを夢はどう打ち破るのか?

お礼日時:2015/05/31 10:29

他の方へのお礼からです。



>自由じゃないという時は
>それは閉塞感、拘束感、絶望感、
>孤独感、疎外感、不信感、危機感、等、感覚や感情がある。

これってmiko-desiさんの答えでは?

人間は生き物であるから、何事においても物理的に限界があります。
限界が無いのは、内部だけですね。

縛るも拘るも自由も、自分で選べることを
手にするかどうかは、誰しもの課題かもしれないですね。

障害があっても、自由を生きる人は生きるし
物理的に障害は無くても、不自由に生きる人はそう生きていきます。

それぞれがそれぞれに、好きに生きて行く。
自分が何を選んで生きているのかを
多くの人は認識しないでね。

それもまた、悪でも善でも無い。
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この回答へのお礼

考えを電波に変換して、それを文字にしてやりとりする。
これも肉体という桎梏から外れて自由になりつつある感。

>限界が無いのは、内部だけですね。

内部に限界がないと外部をひっくり返しちゃいます!?
毛穴に限界はありそうですが夢の中なら無限かも。

>自分で選べることを手にする

今家にある食材で出来る料理、ぐらいのショボい課題にも夢がもたらせます。
夢は叶えることが出来る!叶えられないのは祈願の類でしょうね。

お礼日時:2015/05/29 18:00

というのも、そもそも、時間と自由のあいだに関係があるという発想が近代工業に根差した生産消費文明の産物ではないのでしょうか。


雇用労働の責任から外れた時間とか、契約上の他律的制約から外れた時間など、
時間に自由をくっつけるというのは狭い概念にふさわしいのではないでしょうか。

古代ギリシャやローマで自由と哲学的に関係があったのは、奴隷制度のある政治や統治でしたし、
中世キリスト教社会で自由と哲学的に関係があったのは、神でした。
中国の後漢では自由と実際的に関係があったのは、支配力や権力でした。

そういうものを敷衍して、責任や自律の問題圏をくくることはできるわけですが、
他者の利益に占められているかわりに何かを奪われている、という領域があるとして、
その何かの領域をじわじわと拡大できそうな感覚を指して、自由と呼んでみるとよいと思います。
自己の利益のために、自分の他にない責任を持って、自律した力を行使する。

そんなことが、巨視的には成り立つわけはないのですね。
そこで手に入れた範囲として、つまり「時間」を「範囲」として使っている。
区切るという空間操作で時間を範囲化してしまおうという、近代合理主義のやりかたでもって、
大量生産・大量消費の市場から経営者が利益を得る際のノウハウを駆使して、
区切られた自由の範囲を、自由時間と呼ぶのではないでしょうか。

わたしはベルクソンの『時間と自由』をろくに読んでいませんが、
区切られるものと、区切られない純粋持続とを、意識のうえに描いたようなところがあって、
たぶんミコさんがご覧になった電車内の男性は、
近代文明に毒された区切り宗教の自由時間ではなくて、何かひたひたした脈動を電車のリズムに重ねて
純粋なる持続を味わって自由と時間とを集めたり手放したり並べたり転がしたりしていたのだと思います。
そういえば、猪突先生にはこの前の質問のときお声をかけそびれました。論理記号学なんて高等なコメントいただいちゃった。
わたしはこっちの質問の方が面白いと思いました。
哲学って、切りこんで行かなきゃいけない。わかりきったことを弄んでいてはいけないから、
わかりきったことがどういう外圧でわかりきらされたのか、外圧を調べないといけないと思います。
で、さっぱりわからないことが、垢の取れた姿で出てくるのが良いところだと思います。
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この回答へのお礼

>時間と自由のあいだに関係
>何かの領域をじわじわと拡大できそうな感覚を指して、自由と呼んでみるとよいと
>区切るという空間操作で時間を範囲化

そうです!やはり姉さん!するどいですね。ありがとうございます!!
私もベリクソン全く読んでません(笑)。興味が湧いたので読んでみます。
猪突師匠だったら数式とか記号で説明も出来てしまうのでしょうが、
想像ですが、専門的な複雑な問題を一般的な言い回しへ翻訳するのは骨が折れることだと思います。
逆に素朴な疑問を深く掘り下げたり、多角的に解説する人が居て、それまた偉業です!

>哲学って、切りこんで行かなきゃいけない。わかりきったことを弄んでいてはいけないから

そうですそうです。哲学は見かけのイメージを払拭する役目もあるかと思います。
逆説ばかりを好きでいっているのではない。
それも本質(>垢の取れた姿)だったりします。


自由じゃないという時は
それは閉塞感、拘束感、絶望感、
孤独感、疎外感、不信感、危機感、等、感覚や感情がある。

でも自由という時
感覚は広大してそうです。
はっきりと自己主張や自己確認が出来ているような時に感じます。
自分が占有している空間の感覚よりも、
独りでなく、外圧との関係で自己への信頼を得ているようなです。

時間的な区切りは日本人的かなと思います。
一つの部屋をリビングにしたり寝室にしたり、作業場にしたり。
空間で部屋の役割を区切る西洋と違ってます。
空間を節約する智恵がありますね。

とりあえずお礼しなきゃと。
読み込みに苦心してますが(汗)まだまだしつこく読ませていただいて、
脳の血流が良くなって書きたくなる時をどうか;お待ち下さい~。

お礼日時:2015/05/28 21:11

存在にかかわる条件というのは、場所や移動とか、着るものや食べるものとか、健康とか、社会的役割とか、さまざまな位相で挙げればきりがないのですが、今、そういったことに関する約束(制約)があったとして、時間にかかわる約束(制約)が無ければ、これは自由時間なのだろうか? または時間において身体の動作や行動や姿勢に約束(制約)が無ければ、自由時間なのだろうか?


けれど、畳2枚の空間を与えられて拘束を解かれている人間が、食事や睡眠やその他の約束のない時間にあったからといって、それは自由時間なのだろうか? あるいはいっそ、手足も拘束されている人間が何の用もなく考え事に耽られる時間だからといって、自由時間なのだろうか? 病院のベッドで恢復を待つ人々、死期の近づいてくるのを待つ人々は、自由時間にあるのだろうか?
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この回答へのお礼

ありがとう

>約束の時間(制約)と自由

自分が意思決定した時間なら自由かな、
でも禁止じられた自由?の行使には覚悟がいる。


>身体の動作や行動や姿勢に約束(制約)と自由時間

身動き出来ない状態で真っ直ぐな姿勢になってても、
不自由故にならそれは自慢にならないですよね。


>何の用もなく考え事に耽られる時間が自由時間なのだろうか? 

考えたり、その考えを自由に変更、中止できるなら自由かな。
もう考えても仕方ないのに他のことが手に付かないとなると「考えに拘束されている」


>死期の近づいてくるのを待つ人々は、自由時間にあるのだろうか?

「早よ家に帰り」と言われたら「お邪魔しました~」と退散。
一番いいのはご馳走になり「ご馳走様でしたっ」ですよね。
それでも納得いってなかったら「じゃあまたね」って。
やり残してても死んだら悩めないし後悔することもなくなる。

問題は「死にたい時に死に方を自分で決める」なら生き方として自由と思う。

面倒みないといけない人を残して先に行きたくないですね。
他人の迷惑になったり、気にかけてくれた人がいると自分なんかよりもっと可愛そう。

お礼日時:2015/06/21 09:03

こんにちは。



>自由時間というのは、何をどう過ごせればいい時間のことですか?

自由時間というのは、何をどう過ごしてもいい時間のことだと思います。
私にとって「いい時間」と言うのは、自分と共にある時間でしょうかね〜〜。

最近、30分は自分の時間にすると決めて
自分だけのことを考えるようにしました。
これを「宝物の時間」「幸せの時間」と呼ぶようになりました。

人の事ばかり考えていると、いつしか自分を置き去りにしてしまうので。

また一つ、人生の充実度が上がったようです(^-^)v
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この回答へのお礼

かんとさんありがとうございます!

自分のことばっかりか、関係のことか、部分なのか何を考えているのかもわからない
けど考えている。のも自由なのかな?
けど自分だけじゃ突破口を見つけられなくて、
こうして晒して(笑)甘えられるのはありがたいことです。

時間をきっちり決める自由時間!?
やりたいだけするより私が持てる自由を真剣にやる訓練になりそうですね。
私はあらゆる面でルーズなので参考にさせていただきます!

お礼日時:2015/05/27 21:05

No.5 gouzigです。


「自由は感じるものでもありますが、他人に感じさせることも出来ますかね?」
→そうですね。
自由が好きな人は感じると思いますが、自由を嫌いな人に感じさせるのは難しいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

勝手な持論で自由に逆するものって愛!?なんて思っちゃったりするんですよね。

お礼日時:2015/05/27 09:33

接触をいただきましたので厚かましく再度、



貴女のHN、
高尚な問いかけの質問でしたので、てっきり宗教絡みの物かと、
読み間違いでした、

私のHNは、「ワルキューレ」と発します、
中世の作曲家・ワグナーの<ワルキューレへの騎行>が由来です、
ベトナム戦争(ご存知ないでしょね)を扱った映画、「地獄の黙示録」のテーマ的に使われてました、
ホンダのバイクにも同名のが有ります、

そうですか、 その老人、女性専用車両に乗車して何を思索されてたんでしょうね?、

単なる興味?、若いときには成しえなかった禁断の領域の探索?、年寄りの厚かましさ?、

それとも、「と」の付かないボケかも、

私も、心して掛からねば、その内に。
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この回答へのお礼

ワルキューレさんどうぞどうぞ、どうぞ。

しゃんと起きて居られたので、
厚かましさの裏には自由思索活動の高尚さがあるやもですね?
「禁断の領域」ともなると期待やイメージばかりが膨らみます(笑)

お礼日時:2015/05/27 09:31

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