1.「表面に女王の肖像が刻印されたコインがあります(A)」と言いながら、コインの裏表を相手に見せ、相手もそれを確認する。
2.「今、上になって見えているのは裏面です(B)」と言いながら、掌に載ったコインの裏面を相手に見せる。
3.続いて、「このコインの下になっている面には女王が刻印されています(C)」と言う。
【質問1】
「このコインの下になっている面には女王が刻印されています(C)」は、仮説ですか?真ですか?
【質問2】
仮説だとした場合、仮説を前提に以降の論理を展開するのは誤りですか?または意味がありませんか?
No.51ベストアンサー
- 回答日時:
42、44です。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/mathbook/MB15 …
田崎晴明 「数学---物理を学び楽しむために」
第2章 論理、集合、数、関数
2.1.論理と集合
含意implication (p.23)
こちらに、#42で挙げた命題論理の真理関数について説明があります。
ハコブルさんが、従属変数からのアプローチとおっしゃってくれましたが、そういう見方もできるんだと気付かされました。本質的にはそう言えると思います。それは相関関係を念頭に置くという重要なことを意味しているからです。でも、従属変数であるということ自体が、何らかのコントロールされた条件や原因に付随して生じる可変的な結果という意味ですから、語弊を生むことになるでしょう。
目下の2つの論点は、1つは、因果関係と思われた命題間の関係の正しい把握と、もう1つは片方の命題における「ある」という語の真偽でしょう。
一般に言って、「ある」と「ない」は、突然発生してそこに問題を起こすのではなくて、別個の事実とのお陰様の支え合いっこで浮上しているだけですよね。ですが、その様子を示す〈論理〉は、ちゃんと体系的に「ある」し、無矛盾になるように使えるものを、使えばいいと思うのです。
以下に、【生にある】 と 【人智の及ばぬ何かがある】の各命題についてAとBの二通り、条件法の組み合わせを書き出します。生にあるのは、我自らでも、そこらへんに見える草花や虫でもいいと思います。真、偽、真、真 となっているでしょうか。
〈A〉
a. 1 - 1 生にあるなら 人智の及ばぬ何かがある
b. 1 - 0 生にあるなら 人智の及ばぬ何かは無い
c. 0 - 1 死にあるなら 人智の及ばぬ何かがある
d. 0 - 0 死にあるなら 人智の及ばぬ何かは無い
現実的にも、Abが偽となることは納得しやすいですね。
面白いのは、AcとAdが真なので、人智の及ばぬ何かがあろうとなかろうと真である、と成り立つ条件は、私が(蝉が鳩が)死んでいるならばということです。死んでいるときだけです。
〈B〉
a. 1 - 1 人智の及ばぬ何かがあるなら 生にある
b. 1 - 0 人智の及ばぬ何かがあるなら 死にある
c. 0 - 1 人智の及ばぬ何かは無いなら 生にある
d. 0 - 0 人智の及ばぬ何かは無いなら 死にある
おわかりのように条件を逆に置いただけです。
Bbが偽とは言えそうになく、Bdが真とは考えられません。
つまりBの順序では真偽真真と確かめられず、命題がP⇒Qとして成り立たっていないとわかります。
Aの順序でこそ命題の関係が成立するのでしょう。
やはり、人智の及ばない何かがあるということは原因や条件ではないという感覚をわたしは持ちますし、ハコブルさんもそうでしょう。
ご回答ありがとうございます。
>でも、従属変数であるということ自体が、何らかのコントロールされた条件や原因に付随して生じる可変的な結果という意味ですから、語弊を生むことになるでしょう。
:
なるほど、わかりました。
「人智の及ばない何かによって 自らが生かされている」 は、たしかにそういう関係ですね。
>命題論理の真理関数
:
教えていただいた URL は、チラ見した限りでは面白そうな印象を受けます。
しかし、私の頭ではおそらく難しい内容でしょう。
ただ、「初心者がじっくりと読めば確実に理解できるように、丁寧にしっかりと説明することを心がけた」と著者が言っているので、何か新しいことを部分的にでも学べるかもしれず、楽しみに読ませていただきます。
#42でおっしゃった、
>「私が生かされているのなら 人智の及ばない何かがある」
:
の論証でもあるのだと思います。
前回は、
「人智の及ばない何かによって 自らが生かされている」 と同義と思い、
「私が生かされているのだから(人智の及ぶ○○によって生かされていると自ら証明できない以上) 人智の及ばない何かがある」と勝手に編集して同意の旨お伝えしたつもりでしたが、真理関数としては別物なんですね。
>人智の及ばない何かがあるということは原因や条件ではないという感覚をわたしは持ちますし、ハコブルさんもそうでしょう。
:
そうですね。
少なくとも、「人智の及ばない何か」についての定義が改めて必要になるとは思われません。
色々お手数おかけしましたが、おかげさまで神経細胞が半本ほど増えたような気もします。^^;
No.67
- 回答日時:
まだ甘えるのですか。
《非知》ということばが それは非知なのか?
それとも認識をするにあたって何になるのか?
ただの補助線として・シルシとして用いている。
と分かりそうなもの。
これから先は 甘やかしになるかどうかで やり取りを続けるかどうかを決めます。
ご回答ありがとうございます。
>まだ甘えるのですか。
:
笑ってしまいますが、それはこっちのセリフですよ。
補助線を使わなければならないということ自体にすでに矛盾があるのだ、ということぐらい、そろそろ気づいても良いと思いますが。
いや、これも 見解の相違 ということで申し上げているんですがね。
>これから先は 甘やかしになるかどうかで やり取りを続けるかどうかを決めます。
:
論理的な説明ができなくなって、都合が悪くなったら逃げる、という意味ですね。
ま、それはご自由に。
深追いはしない主義ですので。
あまり関係ないとは思うのですが、ふと、以前、何かの事件で、あるおばさんが、テレビ局の取材に答えていたことを思い出しました。
記者が何かの質問をしたときだったと思いますが、それまで滔滔と何かを語っていた、そのおばさんが急に大声でわめきだしたんですよ。
「私は神だよ?わかる?その神に向かって、何と言う失礼な口の聞き方をするんだ。わかったか?私は神だ、神なんだよ!!」
およそ、こういったセリフだったと思います。
まあ、特に意味はないのですが、スペースが余ったので。
No.66
- 回答日時:
★ (№65補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~
☆《無限・絶対》は《非知》
とは言えても
★《神は非知である》
とは言えない。
という見解が(正しいか否かはさておいても)伝わっていないというのは、
極めて不思議な印象を受けますね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ そのご見解が《正しくない》と説明していることに気がつかない〔振り
をしている〕というのは きわめて不思議ですね。
むろん 気づいたゆえに ハグラカシに出ている。と分かって こうやって
言っているのですが。
すべて この繰り返しですね。
ゴールポストをあっちやこっちに移したり おまけにルールが違うのだと言
い出した。
同じピッチにいても 違うルールでプレーしているんだと言い出した。
まぁ 気が違っているとはっきり言ってやるほうが 慈悲深いでしょう。
あなたは 哲学に向いていない。
考えるチカラ ふつうに自然で人間的な判断のチカラに欠けている。もともと
あったものをそこまでゆがめてしまっている。
そのたどって来た道を振り返り どこで逸れたかの経緯を手繰り寄せ もとの
ご自分に立ち還るようにしなさい。
そのために考えるべき材料はすでに豊富に用意してやったから。
ご回答ありがとうございます。
まあ、そうむきにならなくても。
論点は十分煮詰まっているので見解の相違とするのが妥当でしょう。
☆《無限・絶対》は 《非知》☆
これは一致していますよね。
おっしゃるところの《非知》は、「思考の対象とはなり得ないもの」「分かるか分からないかが分からないもの」という定義。
しかし、この命題における、以下が見解の相違ということになる。それだけの話。
A. ( br ) ☆《無限・絶対》のところに《神》を持って来ても同じ☆
B. ( ha ) ★《無限・絶対》のところに《神》は持って来られない★
「見解 B」 の根拠としては、何度も言ってますが、簡潔に言うと次のようなこと。
「《神》は《非知》」と口にした時点で、《神》を思考の対象としてすでに取り上げていることになる。つまり、「思考の対象とはなり得ないもの」ではなくなっているのだから、「《神》は《非知》」は論理矛盾である。
思考の対象となっているのであるから、(既知でない以上)「《神》は《不可知》」と言えば良いだけ。
または、いずれ存在が明らかになると認識したいのであれば、「《神》は《未知》」のように言えば良い。
#63では、
☆人間は 言わば天守閣の周りにあって 濠を測ったり中への通路を探ったり
して 多少はその城についての案内書を仮りに作成することがある。これが
補助線です。
その趣旨で 神は非知であると説明しているのです。☆
ともおっしゃている。
それに対して、私は、
★神について述べているのであることに何の変わりもないですよね?
つまり、補助線というのは、非知に関する限り詭弁と言わざるを得ない。★
と応じたわけで、これも見解の相違のひとつであろう、と述べた。
このように、明らかに見解の相違に至っているわけだから、
☆そのご見解が《正しくない》と説明していることに気がつかない☆
☆ハグラカシに出ている☆
などは、どちらの立場でも言えることになるわけです。
ですので、(お互いに)それを言わないために、見解の相違 という表現をするわけですから、そこらへんも少し理解されるほうが、今後のためにもよろしいでしょう。
ところで、
☆質問にしてみんなの前に提出☆
は中止ですか?
☆どうすればよいか分からないので しばらく保留☆
するなら、今回のような内容の投稿は慎むべきでしょうね。
No.65
- 回答日時:
《見解の相違》であるなら 次の表現と命題について 《肯定している》と
いうことにはならない。のではないか?
★(№63お礼欄) ~~~~~~~~~
《無限・絶対》は 《非知》なのです。
:
だから、それは肯定している
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ぎゃくに言うならば 《無限・絶対》のところに《神》を持って来ても
同じではないか?
という物言いです。
でも どうすればよいか分からないので しばらく保留することにします。
わたしに構わず この質問は取り扱うようにしてください。
★(№63お礼欄) ~~~~~~~~~
《無限・絶対》は 《非知》なのです。
:
だから、それは肯定している
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ぎゃくに言うならば 《無限・絶対》のところに《神》を持って来ても
同じではないか?
の部分ですね。
了解しました。
たしかに焦点になっていますね。
>わたしに構わず この質問は取り扱うようにしてください。
:
当然でしょう。
そのように言うこと自体が、そもそもおかしいのだ、ということに気づいてください。
裏を返すと、特に言わなければ、このわたしを中心に、すべての質問は取り扱われるべきだ、と言っているのと同じことなんですよ?
No.64
- 回答日時:
№63のお礼欄を 質問にしてみんなの前に提出してもよいでしょうか?
どういう受け取り方になるのかです。
記述を正確に理解なさっているか確認するほうが後々のためと思います。
(私の記述として引用する箇所についてのみで結構ですから)差し支えなければ全文を示してみてください。
無理にとは言いませんが、質問してしまってから、そういう意味で言ったのではない、的な遣り取りを新スレでやるのは、質問者にとっても回答者にとっても迷惑になると思われるので。
No.63
- 回答日時:
いつも例に出すのですが
無限は 二で割っても三で割っても その商は つねに元のままの無限です。
∞ ÷ 2 = ∞
ただしこの説明は 《無限》を認識し特定し得たわけではありません。
そんな無限なるものの本体は 人智がおよびません。
ただし 《未知》ではありません。つねに 《分かるか分からないかが分か
らない》のですから。
《不可知》でもありません。分からないと証明し得たわけではないからです。
《無限・絶対》は 《非知》なのです。認識のあり方・及び方からの分類と
してです。
人間は 言わば天守閣の周りにあって 濠を測ったり中への通路を探ったり
して 多少はその城についての案内書を仮りに作成することがある。これが
補助線です。
その趣旨で 神は非知であると説明しているのです。
そして 城や天守閣の本体 つまり神の正体について おれは分かったぞと
言ってそのオシへを説くのは シュウキョウです。
どうか 信仰としての神についての説明と シュウキョウにおける神をめぐ
るオシへとを混ぜこぜになさらないように願っておきたいと思います。
ご回答ありがとうございます。
>ただしこの説明は 《無限》を認識し特定し得たわけではありません。
そんな無限なるものの本体は 人智がおよびません。
:
人の言ったこと、ちゃんと聞いてますかねえ?????
誰がそんなこと言いましたか???
「人智が及ばぬもの」について述べているのですから、「本体」や「正体」について云々できるはずがないのは当たり前のことなんじゃないですか?
「本体」や「正体」について言っているわけじゃないんだから、そこからいい加減離れてもらえませんかね。
わかりますよね?
で、
☆《神は非知である》☆
のように【言うこと自体】がですね、すでに、神を認識の対象としていることになりますよね?
これは論理矛盾でしょう?
と申し上げているんです。
>《無限・絶対》は 《非知》なのです。
:
だから、それは肯定している、と何度も言ってるじゃないですか。
《神は非知である》のように、対象を示しつつ非知と言ってしまうのは論理矛盾だと言っているわけ。
中高生ぐらいでもわかる理屈だと思いますがねえ。
>これが
補助線です。
その趣旨で 神は非知であると説明しているのです。
:
神について述べているのであることに何の変わりもないですよね?
つまり
☆補助線☆
というのは、非知に関する限り詭弁と言わざるを得ない。
これが私の見解。
そちらは論理的な見解だとおっしゃる。
このようにして目出度く 見解の相違 が成立しているわけだから、それでいいんじゃないですか?
No.62
- 回答日時:
★(№60お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~
その正体について
☆認識し特定し得たわけではない☆
のはわかります。
しかし、
☆そのもの☆
について認識しようとし始めてしまった時点で、すでに《非知》とは呼べない。
これは言語論理だと思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この《認識しようとし始めた》というのは それが オシへをつくってよ
く言えば それを倫理規範として人びとのあいだの秩序を築き安寧を守るため
に用いるという場合であり
わるく言えば オシへによって人びとを感化しそうするだけではなくともかく
群れたがる人たちを寄せ集めこれを従えておのれの支配欲を満たすためとそし
て金儲けのために利用するという場合です。
どちらも《宗教》という社会現象のもんだいです。実際には よく言った場合
とわるく言った場合とが 混ざっていると言うべきでしょうか。
《言語論理》を用いるのは このシュウキョウです。
信仰は 非思考の庭〔なる動態〕なのですから。
そこに思考がからまるのは 神についての説明表現をさらに言葉によっても添
えようとするためでありその時のみです。
☆ 認識し特定し得たわけではない ☆
☆ は つねにどこまでも 有効です。
オシヘは要らないというのは イエスが旧約聖書のエレミヤ書31:31以降
に述べられた《あたらしい契約》を 十字架上に去って行ったときに成就した
と見る新約聖書のへブル書8章の記事において取り上げられ 確認されていま
す。
神は 人びとのあらゆる罪をもう覚えない。忘れる。とともに 神を知れと言
って人びとにおしへることは要らなくなる。というのが エレミヤの預言です。
イエスは この預言を実現させました。よって 《信仰のみ》です。
もともとアブラハムぢいさんにとっては 神は 信仰のみのことです。固有時
における神とわれとのカカハリとそこにおける――持ち得るならば――対話と
だけの問題です。
次に再開されるやり取りを俟たずに おこたえしました。
ご回答ありがとうございます。
>☆ この《認識しようとし始めた》というのは それが オシへをつくってよ
く言えば それを倫理規範として人びとのあいだの秩序を築き安寧を守るため
に用いるという場合であり
:
論点が完全にずれています。
私が申し上げたのは、「神は非知である」などと言う場合に使われる《非知》の定義についてです。
補助線についておっしゃっているわけですが、この説明を伺ったあとでも、
★☆補助線を引いただけのこと☆
と反論されたわけですが、それは、反論として論理の体裁を為していません。★(#61お礼欄)
という認識に変わりはありません。
つまり、見解の相違 に落ち着くことになるようです。
>☆ 認識し特定し得たわけではない ☆
☆ は つねにどこまでも 有効です。
:
いえ、ですから、
☆《神は非知である》☆
のように【言うこと自体】がですね、すでに、神を認識の対象としていることになりますよね?
と申し上げているんです。
☆ 認識し特定し得たわけではない ☆
☆ は つねにどこまでも 有効
:
であるなら、
☆《神は非知である》☆
のように【言うこと自体】が論理不整合ですよね?
簡単なことだと思いますがねえ・・。
まあ、こうしたことも含めて 見解の相違 とおっしゃっているのでしょうから、それはそれでいいんじゃないでしょうか。
No.61
- 回答日時:
《人智の及ばない何か》が 未知でないなら 非知であるしかありません。
と申し上げておくのがよいかと。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
《非知はある》とは言えますが、
《神は非知である》とは言えない。
《不可知》でいいんじゃありませんか?
~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 不可知は あり得ません。
むしろ同じくそうおっしゃっているように思われます。
あとは わたしから申し出るたぶん初めての《見解の相違》です。それで
合意しましょう。
ご回答ありがとうございます。
>☆《人智の及ばない何か》が 未知でないなら 非知であるしかありません。☆
:
根拠が極めて曖昧であり、「非知ありき」の論理になっていると思います。
私の考え方を再度お示しすると次のようになる。
《人智の及ばない何か》や《神》などのように、思考の対象としてすでに取り上げてしまっているのであるから、《非知》つまり、「知に非ずー分かるか分からないか分からない」などという無責任な取り扱いをしてはいけない。(こんな簡単な論理がなぜ通じないのか全くもって不思議ではあるのですが)
こうした根拠によって、
★《人智の及ばない何か》は 未知または不可知である★
と言えば必要十分条件を満たしており、これ以上でも以下でもない。
思考の対象としてすでに取り上げているわけではなく、
☆補助線を引いただけのこと☆
と反論されたわけですが、それは、反論として論理の体裁を為していません。
そんなことは無い、というのがそちらの主張なのでしょうから、ここに【見解の相違が端的に現れている】ということになるでしょうね。
ここまで煮詰まったのですから、判断は他に任せるしかありません。
No.60
- 回答日時:
ひとこと:
★特定した時点で、すでに非知ではない★
☆ 《特定した》というのは 仮りの説明です。
補助線を引いただけのことです。
非知そのもの(本体・正解)を認識し特定し得たわけではないということ。
これが 大事です。
ご回答ありがとうございます。
>非知そのもの(本体・正解)を認識し特定し得たわけではないということ。
これが 大事です。
:
その正体について
☆認識し特定し得たわけではない☆
のはわかります。
しかし、
☆そのもの☆
について認識しようとし始めてしまった時点で、すでに《非知》とは呼べない。
これは言語論理だと思います。
ですから、
《非知はある》とは言えますが、
《神は非知である》とは言えない。
《不可知》でいいんじゃありませんか?
と申し上げているんですけどね。
★(不可知)でいい★
というのは婉曲表現でして、好ましくないのではないか、と思っています。
論理的に使えない、ということの他に、おっしゃるところの《非知》という概念は、言ってみれば「何でもあり」ですよね。
つまり、恣意的な人格神さえも想定可能としてしまっている、少なくとも、そう受け止められてしまう確率が極めて高い表現ではなかろうか、ということです。
このように、
☆補助線☆
を引くのだとしても、そうしたアプローチ自体も、2重の意味で好ましくないという気がしますね。
まあ、これ以上はおそらく見解の相違ということになるのかもしれません。
No.59
- 回答日時:
《非知》と名づけたことを評価していると聞きましたので
細かいことは もうこのスレッドでは言わないこととします。
コインの裏表と肖像の刻印も 論理のすき間を埋めようとした
だけです。
ご回答ありがとうございます。
>《非知》と名づけたことを評価していると聞きましたので
:
ただし、適用条件が全く異なるわけですから、そこを十分にご理解いただかないと、むしろ逆効果になります。
その点は、十分お分かりの上でのコメントと受け止めておきましょう。
★特定した時点で、すでに非知ではない★
つまり、「神の存在自体が非知」といった表現はできない、ということさえ押さえていただけているなら、
★評価★
を取り下げるつもりはありません。
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#1お礼欄からの続きです。
これについては、「人智」という要素が鍵になります。まず、
・人智の及ばない何かによって自らが生かされて いない(イ)⇒裏
は、
・人智の及ぶ何かによって自らが生かされて いる(イイ)⇒裏
と同義であることをご確認ください。
この場合、
「人智の及ぶ何か」が自らを生かしているのだとすれば、「人智の及ぶ」なのですから、それによって「生かされているかどうかわからない」というのは論理的に不整合になります。
よって、
・人智の及ばない何かによって自らが生かされて いない(イ)
または、
・人智の及ぶ何かによって自らが生かされて いる(イイ)
のでないとすれば、
・人智の及ばない何かによって自らが生かされて いる(ア)
のは明白な事実である。
と言えると思うのですが、いかがでしょうか。
念のため追加です。
・人智の及ばない何かによって自らが生かされて いるかどうかわからない。(ウ)
という第3の選択肢は無い、ということです。
お礼欄からの続きです。
>コインだ人智の及ばない何かだなどと分析して、一体何が解るようになるのか、私には見当すら付かないのです
:
これは、質問とどういう関係があるんですかね。
全く関係ないことじゃないでしょうか?
何のための質問なのか、理由がわからないと回答できないんですか?
そういう感想を表明されるのは全くご自由ですが、せめて、論点をはぐらかさず質問に答えた上でお願いしたいものです。
何か答えられない事情がおありなら、その旨おっしゃってください。
今のままでは単なる言い掛かりと大差ないのではありませんか?
念のための補足です。
>まさにゴールポストが・・・。
:
論点という意味であれば、最初から動いていませんよ。
ただ、(あえて言いますが)お互いの表現力不足によって発生し続けた霧のせいで見えずらかっただけでしょう。
時折は見えていたはずなのに、見えたと思ったら、突然試合放棄してしまったりなどもありましたよね。
まあ、どちらがとは敢えて申しませんが。
最初のボタンが掛け違っている、と指摘して論点を提示しているのに、それは無視して、
>見解の相違にすら達していないんだから
:
とぼやいてるんで、次の箇所についてだけ触れておきましょう。
16.
★ 人智の及ばない何かによって 自らが生かされている
☆ なる命題は ふつうの神論の問題に帰着します。神論だけが問題なのです。神が
決まれば――自由に神の具体的な名を主観がえらべば――~~~。
:
だから、
>自由に神の具体的な名を主観が
:
選んではいけない、と言っているのが分かりませんかねえ・・。
そのために
>人智の及ばない何かによって 自らが生かされている
:
を真理として、しっかり認識しておく必要がある、ということ。
>神論だけが問題
:
なんて勝手に決めてくれてますが、今はそれ以前の前提についての話ですよ?
先走らないで素直に頼みます。
あとで、いくらでもややこしくなるんだから。
#57お礼欄から
>★ ~~~~~~~~~~~~~~
たとえば、
・神は非知である
のような命題は成立し得ない、ということ。
~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ですから 神についての説明はすべて 補助線であると言ってるぢゃ
ないですか。
依り代・権現。仮りの説明表現です。
:
神の存在自体が非知と言ってるわけではない、ということですか?
>そうして 《人智の及ばない何か》について 上の一つ目の論点の結果と
して 《未知や不可知》は除いて 《非知》であり非知に限るとはっきり
させたほうがよいでしょう。
:
☆《人智の及ばない何か》について☆
のように【対象を特定した】以上、分かるか分からないかどちらかしかないですよね?
つまり、既知あるいは《未知か不可知》しかあり得ないのですから、《非知》すなわち、「分かるか分からないかが分からない」などと暢気なことを言っててはいけません。
下へ続く
上からの続き
>《〔部分的に既知でありしかもなお〕未知であるところの人智の及ばない
何かによっては 人間は生かされなくなるときがやってくる》ゆえ。
:
理由になっていませんよ?
☆人間は生かされなくなるときがやってくる☆
これと論理とどんな因果関係がありますかねえ・・。
お礼欄の訂正です。
×
「神に関しては思考の対象である」は詭弁であり、言葉遊びにすらなっていないと思いますけどね。
○
「神に関しては非知の対象である」は詭弁であり、言葉遊びにすらなっていないと思いますけどね。
>☆ ぎゃくに言うならば 《無限・絶対》のところに《神》を持って来ても
同じではないか?
:
あれだけ説明しているのに(まじめに読んでるんかいな???)
☆《無限・絶対》は《非知》
とは言えても
★《神は非知である》
とは言えない。
という見解が(正しいか否かはさておいても)伝わっていないというのは、極めて不思議な印象を受けますね。
ま、気の済むようになさるほうがよいでしょう。