プロが教えるわが家の防犯対策術!

1. 《第二の死》とは?――《死が死ななくなった状態》を言うらしい。

2. 死は われあやまつならそのあやまちに気づきわれに還り われ有り
として 死ぬものである。死が死ぬものである。 

3. わが心に背きわれを離れあやまてるわれは われ無しとして死である。
これがわれに還れば われ有りとして 死が死ぬ。

4. このあやまちとしての死は 人間の経験的・相対的で限りある存在に
とって なおまだ相対的にして変わり得る。その死が われがわれに還ると
き 死なしめられる。

5. つまり 《第一の死》は 死ぬことが出来る。
《第二の死》とは この第一の死が死ななくなることである。





6. あやまちをなぜ《第一の死》と言うか? 

7. それは わが心にさからうあやまちの一瞬に わが存在としての時空
間が 相対的な経験存在であるそのままのかたちを映して 実際に《果て》
によって限られて来るからである。

8. 物ごころのつく前のわが広大な宇宙が 時間を見出しこの時間によっ
てわが存在の歴史として《果て》が限られることは 経験事実じょう 実際
の死によって限られることだからである。

9. あやまちは 心を失くし《われ無し》となる死である。ただし われ
に還るとき われ有りとして この死は死ぬ。ゆえに 第一の死と言う。




10. われわれは 人生において 第一の死に突っ込むようにして落ち入
りそこから這い上がり再生するという死と生の循環のごとき繰り返しを生き
る。巡礼の旅路である。

11. ところが この第一の死が死ななくなると言う。如何にか?





12. かんたんである。われに還ることがなくなるときである。
あやまちに気づいても それを認めなくなるときである。

13. 《われ有り》の状態に復帰することがなくなるときである。
心にさからう《われ無し》の状態が・つまり第一の死が 固まってしまうと
きである。

14. そのときには ひとは第一の死から再生しなくなる。
 
15. 第一の死が死なない。第一の死が 固定する。という第二の死。





 
16. 基本的に言って それは 心のたかぶりによって起こると思われる。
のではないか? 

17. ひとつに みづからの考えに無謬性の神話を醸し出しこれを自認し
たとき。

18. ひとつに みづからの思想を外へ発信はするが 外からの受信も輸
入もしないという蛸壺哲学に落ち入ったとき。

19. ほんとうにそうか?

20. それだけで 第二の死が起こるか?

21. いやそもそも・果たして 第二の死は あるのか?


22. ただし のっぺらぼうの顔無しの状態にある文体が散見されなくも
ないのではないでしょうか。

23. だとしたら 死者はすみやかにほうむらねばなりません。死臭がた
だよいます。




☆ ふるってご見解をお示しください。

A 回答 (7件)

善の欠如が悪



悪は存在しない

悪魔的絶望

精神的無

神からの恩寵

救済



こうして考えると
仮現説のような気がするので、
問題があるような気がします。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

☆☆ ~~~~~~~~
13. 《われ有り》の状態に復帰することがなくなるときである。
心にさからう《われ無し》の状態が・つまり第一の死が 固まってしま
うときである。

14. そのときには ひとは第一の死から再生しなくなる。
 
15. 第一の死が死なない。第一の死が 固定する。という第二の死。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ こうなると・これは
★ 悪は存在しない
☆ というのに 悪として存在するかのようである。よって:
★ 仮現説のような気がするので、 / 問題があるような気がします。
☆ 問題があるように見えるということは 確かだと思います。

☆☆ 第一の死が 固定する。という第二の死。
☆ という見方がおかしいのではないかと。



≪仮現説≫の問題をもふくめて 次のように考えてみることはできるか?

すなわち ≪第二の死として固定する・定まる≫というのではなく そ
うではなく ≪第一の死が死なない状態が生物として死ぬまでつづく≫
状態。

第二の死として定まっていないが かと言って第一の死の状態から 
われに還りその死からの再生もおとづれない。という状態です。

詭弁ですか?



現象としてのみ見られる悪が 一生のあいだその人の状態としてつづ
く。

≪現象≫が継続する。
その悪なる現象が 第二の死として定まるというものではない。と。

お礼日時:2016/07/16 20:19

アップデートする仏教


http://www.gentosha.co.jp/book/b7223.html



人の道さんのところで更新性の話をしたけれど、
そういえば

アップデートする仏教があったな、と。

思うのだけれど、


ブッダの発見した真理より

後世の仏教徒が発見したもののほうが

より良い、あるいは良いというのが価値判断であり
不適当だと云うのであれば、
より事実に即している、とか

というのであれば、
ブッダの発見した真理は真理ではないように思うのだけれどどうだろうか。

アリストテレスは偉大かもしれないが
科学的言説においては
今日の学生のほうがよほど、適切である。

はずであるが、そういうわけでもないとは思うが。

いやまあ、アップデートする仏教はそういう内容ではなさそうですけれど。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ 真理
☆ は 普遍神の霊のチカラのはたらく知恵のことでしょう。

そのみなもとは 人間に分かりません。ナゾとして人間にはたらき
ます。

ただし ヒラメキをとおしてその真理なる知恵の切れ端が人間にも
与えられると見られます。

さらに・ただし その人間の言葉に成った知恵の一端は すでに思
考の対象です。信じるものではありません。

ゴータマが何を言ったか知りませんが 神としての真理は 人間の
言葉では表し得ませんし 真理の一端として人間に与えられるヒラ
メキは すでに人間の考えるべき思想と成り変身しています。

だから ひとが真理を≪発見した≫とか 人の言ったことが真理であ
るかないかとかそういうことは 神論と信仰にとっては ナンセン
スだと考えます。


★ アリストテレス
☆ は 思考の行き届きや推論の進め方など やはり一流だと思い
ます。他の追随をゆるさない力があるように感じます。

お礼日時:2016/07/17 11:57

~~~~~~~~~~~~~~~~



思想
ベートーヴェンはカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスやプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。彼の未完に終わった交響曲第10番においては、キリスト教的世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や交響曲第9番につながった。
また哲学者カントの思想にも触れ、カントの講義に出席する事も企画していたといわれる[7]。
政治思想的には自由主義者であり、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。このことを隠さなかったためメッテルニヒのウィーン体制では反体制分子と見られた。
その他にも、天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学での聴講生としての受講やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時において相当の教養人であったと見られている。


https://ja.wikipedia.org/wiki/ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

~~~~~~~~~~~~~~~~


現在、とにかく体調が悪いのと
生活の余裕がないので、音楽など聴いていないのですが、

思想という点で、ベートーヴェンは興味あります。


音楽の好みとしてはいろいろ思うこともありますが。

バガヴァッド・ギーターの影響が気になる。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

★ バガヴァッド・ギーター
☆ ももちろん 梵我一如の神論かつ信仰類型に入ります。

すべて 普遍神の神論のもとにおさめることが出来ます。


汎神論もそうであり ただし≪理神論≫のように理性が大幅に介入
するかたちにまでなると むろん信仰――非思考――ではなくな
るなら 話が別です。

自由主義や反体制分子といった社会政治的な立ち場は 神論とは
一線を画します。

第二の死の問題にまではすすまないでしょう。



★ 敬虔なキリスト教徒
☆ まづ 普遍神とその信仰は ≪キリスト教≫というオシヘない
しシュウキョウとは 何の関係もありません。

そして ≪敬虔であること≫は 信仰とはこれまた基本的に関係あ
りません。

信仰をよくその動態として保つことは 自由意志の努力を伴なっ
ていますが 基本的には神のめぐみのチカラがはたらきこれを受
け取っていると見るわけですから――あの人は敬虔なクリスチャ
ンだよと言ったりするのは―― あたかも神よ あなたは経験な
神の信徒ですねと言っているみたいなことになります。おかしい
はずです。

お礼日時:2016/07/17 11:46

~~~~~~~~~~~~~~~~~



カーリダーサ(サンスクリット語: कालिदास)は古代インドの作家。サンスクリット文学において最も偉大な詩人、劇作家と考えられている。
彼の生涯に関する多くは謎に包まれており、作品より推し量る以外にない[1]。彼の活躍した時期をはっきりと特定することはできないが5世紀の人物ではないかと考えられている[2]。
カーリダーサの作品は主にヒンドゥのプラーナの物語がモチーフにされている[3]。

カーリダーサ
https://ja.wikipedia.org/wiki/カーリダーサ


~~~~~~~~~~~~~~~~

『奴隷意志論』 (De servo arbitrio) とは、1525年末に発表されたマルティン・ルターの著作。デジデリウス・エラスムスの『自由意志論』に対する反論として著された。
初期の宗教改革は、人間の知性に信頼をおく人文主義的な要素と結びついていた。そのため、ネーデルラントの人文主義者エラスムスと、宗教改革の推進者マルティン・ルターの間には親交があった。しかし、ルターが聖書至上主義的な姿勢を強めるにつれて、人文主義者の主張と距離を生じていった。エラスムスは、1524年に発表した『自由意志論(De Libero Arbitrio)』において、人間の自由意志は楽園からの追放、原罪の後にも残されていると主張したが、ルターはこの主張に反論し、翌1525年末に『奴隷意志論』を著した。彼によれば、人間の自由意志とは罪を犯させるだけのものであり、自由意志に基づく努力により神の救済が得られるのは誤りである。そして、ただ神の恩寵と憐れみによって人間は救済されるとする。この一連の論争により、宗教改革と人文主義の間の亀裂は決定的なものとなった。


奴隷意志論
https://ja.wikipedia.org/wiki/奴隷意志論

~~~~~~~~~~~~~~

「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
https://ja.wikipedia.org/wiki/ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

~~~~~~~~~~~~~~~




いつになるかはわからないが、
カーリダーサにルター

やはり両方とも研究するしかなさそうだ。

それからベートーヴェンもか。

というか単純に正解とか公式設定ならカテキズムを読めばいいだろう
という気がしないでもない。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

▼ カーリダーサの作品は主にヒンドゥのプラーナの物語がモチー
フにされている
▲ (ヰキぺ:プラーナ) ~~~~~~~~~
インド哲学では、同時に人間存在の構成要素の1つである風の元素
をも意味している。

そして生き物 (すなわち息物) の生命力そのものとされ、やがてそ
の存在はアートマンの根拠にまで高められた。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ わたしの見方としては 自由意志ないし人間の自然本性の背
後にあるとする神ないし霊の問題について あくまで梵我一如を
基礎とし基本とします。

≪生命力≫もそのアートマン(霊我)にふくまれるかたちです。

言いかえると 梵我一如のほかの概念は 付属する説明であったり 
おまけであったり または余計なものであると見ています。



★ 自由意志論(De Libero Arbitrio)と奴隷意志論 (De servo
arbitrio)
☆ 人間の自由になる意志については 神学としては 定まってい
ます。(誰が神論を展開しても 普遍神をめぐってなら 定まって
来ます)。

自由意志を自然本性のうちにみとめつつ〔も〕 すべては神のめぐ
み――したがって 一般論としての≪梵我一如≫なる神の霊のはたら
き――のもとにある。です。

アウグスティヌスの言うには この神の恩恵は しかしながら・か
えって人間の自由意志を建てる。のだと。



あと この聖霊のハタラキを受け容れる自由意志の存在ということ
も 付属的な問題になります。

付属的だという意味は 神を心に受け容れる意志を起こすのも・起
こすようにはたらきかけるのも 聖霊のしわざであると考えられる
ことになるからです。


あとは 神の恩恵としてのハタラキを人間は 容易には分からない
・気づかないという点。そして その聖霊が現実だと見たとしても
それは それぞれの主観の問題におさまるということ。だと思いま
す。


さらにそして
▼ 救済
☆ は すでに――理論上――すべて成っているということと捉え
ています。

そこにおいて 第二の死の――決定論ではなく――症候の議論が 
現象としてありうる。かもしれないのではないかと。
つねに現象であり 症候の問題としてです。

お礼日時:2016/07/17 06:55

~~~~~~~~~~~~~~



マタイ伝5:3 「心の貧しい人々は、幸いである」について(翻訳者がほぼ全員、「原文を偽っている」という結論に達していたにもかかわらず、協会が)「変えてしまったら売れなくなる」として、「定着度の高い表現は変えない」ことになった。「翻訳者たちに高い翻訳料を払い、10億円もの予算を使って取り組んだことがそんなところに流れてしまう」(本田哲郎)[30]。

新共同訳聖書
https://ja.wikipedia.org/wiki/新共同訳聖書

~~~~~~~~~~~~~~
Mat 5:3
Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven.


5:3 Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν

https://www.blueletterbible.org/kjv/mat/5/1/t_co …


~~~~~~~~~~~~~~~~

3:マタイによる福音書/ 05章 03節
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。


http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html

~~~~~~~~~~~~~~~

Luk 6:20
And he lifted up his eyes on his disciples, and said, Blessed be ye poor: for yours is the kingdom of God.


6:20 Καὶ αὐτὸς ἐπάρας τοὺς ὀφθαλμοὺς αὐτοῦ εἰς τοὺς μαθητὰς αὐτοῦ ἔλεγεν Μακάριοι οἱ πτωχοί ὅτι ὑμετέρα ἐστὶν ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ

https://www.blueletterbible.org/kjv/luk/6/1/t_co …


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

20:ルカによる福音書/ 06章 20節
さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。

http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html

~~~~~~~~~~~~~~~




ウィキペディアの記述がなんだろうと思って、
なんとなくマタイ福音書を読んでみたけれど、

プネウマを心と訳したのがよほど問題だったのでしょうか。

聖霊を人間の心にするな、とかそういうことでしょうか?

聖霊の貧しい人々だとすると、キリスト教徒はむしろ批判対象になってしまうとか?


ルカによる福音書のほうには、プネウマは文章に無い。

マタイとルカの相違とかなんなのだろうと思うけれど、
なんなのだろう。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

≪貧しい≫ということは 旧約のもとでは 律法を守っていない
というような捉え方が広くあったのではないか。

このモーセの律法とそれに基づく生き方について あたらしい
見方考え方を イエスはここで示しているのだから ≪貧しい≫
でいいでしょうし 意訳して≪心の・・・≫としてもおかしいわ
けではない。と。

プネウマだとしても・つまり霊だとしても 当てはまるように
思われます。

お礼日時:2016/07/16 09:06

~~~~~~~~~~~~~~~~~



Jhn 11:4
When Jesus heard that, he said, This sickness is not unto death, but for the glory of God, that the Son of God might be glorified thereby.

11:4 ἀκούσας δὲ ὁ Ἰησοῦς εἶπεν Αὕτη ἡ ἀσθένεια οὐκ ἔστιν πρὸς θάνατον ἀλλ᾽ ὑπὲρ τῆς δόξης τοῦ θεοῦ ἵνα δοξασθῇ ὁ υἱὸς τοῦ θεοῦ δι᾽ αὐτῆς

https://www.blueletterbible.org/kjv/jhn/11/1/t_c …


~~~~~~~~~~~~~~~~~

4:ヨハネによる福音書/ 11章 04節
イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

http://www.bible.or.jp/read/vers_search.html

~~~~~~~~~~~~~~~~~

might


~かもしれない

推量の意味だとすれば
イエスの推量とか主観の表現なのではなかろうか?

栄光を受けないかもしれないと考えていたのだろうか?

イエスはやけに弱気あるいは不安に思っていたのだろうか?

どうなのでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

接続法は 事実や思惟が〔まだ〕直接に起きているのではない事柄を
表わそうとする気分( mood 法)の形式。

和訳のようでよいと思うのですが。

お礼日時:2016/07/16 09:00

分裂生殖する単細胞生物は、死なない・・・かと


思いきや、ゾウリムシだって、他のゾウリムシ
とくっついて、接合という遺伝子交換をしないと、
やがて細胞分裂できなくなって死んでしまいます。

遺伝子を交配して多様性を生む事で、進化したり
多様な環境に適応してきたのだ。
死なないという事は、進化しないという事であり、
生物(種)としての真の死である。
また、死ななければ人口爆発するので、異性との
交配の喜びもなければ、子供を生み育てる喜びも
ない、愛を知らない人生となり、肉体の檻に囚わ
れた哀れな亡者に過ぎなくなる。
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