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大昔は数学やその他の学問も哲学に包含されていたそうですが、歴史が下るにしたがって、各学問分野が独立しつづけ、現代は哲学が扱う分野は残り少なくなっている様に思います。

アリストテレスやフレーゲが哲学の一分野として開発した論理学(Philosophische Logik, Philosophical logic)は、数学の集合論やブール演算が開発された現代においてもなお有用でしょうか?

質問1:集合論とブール演算を熟知している人が、哲学的論理学を学習して初めて可能になる論理・論述はあるのでしょうか?
質問2:命題論理あるいは述語論理で記述(論述)できるが、集合論とブール演算では表現できない「何か」があれば、その一例をご教示ください。

哲学の学生、数学の学生、哲学や数学の教員、それに市井の哲学愛好者など古典論理学や記号論理学に知見のあるかたよりアドバイスいただれば幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。

A 回答 (10件)

こんばんは。



☆質問1:集合論とブール演算を熟知している人が、哲学的論理学を学習して初めて可能になる論理・論述はあるのでしょうか?
◇一つには意味論でしょうか。

「明けの明星」と「宵の明星」は同じものか?
さらに、
「明けの明星」と「宵の明星」は、「金星」と同じものか?

「長い」(という形容詞)は、「長い(形容詞)」か?

などなど。

☆質問2:命題論理あるいは述語論理で記述(論述)できるが、集合論とブール演算では表現できない「何か」があれば、その一例をご教示ください。
◇「三角形の内角の和は180°である」という命題は、ブール演算(代数?)で表現できないんじゃないですか。

また、
現代的な集合論、公理的集合論は、誕生の経緯からして、記号論理学と不可分の関係にあります。

たとえば、
バートランド・ラッセル
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC …

さらに、参考までに
分析哲学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%9E%90 …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

私は、過去に理系だったので、集合演算やブール演算は親しみがありますが、文科系の専門分野とみなされていた哲学的論理(Philosophical logic)というものを勉強する意味があるのか、それほどでもないのか、に興味があります。

ご回答の例にある、三点の問は、いずれも新たにPhilosophical logicを学ばなくても議論できる問であるように思います。
「明けの明星」と「宵の明星」は同じものか?
「明けの明星」と「宵の明星」は、「金星」と同じものか?
「長い」(という形容詞)は、「長い(形容詞)」か?

>◇「三角形の内角の和は180°である」という命題は、ブール演算(代数?)で表現できないんじゃないですか。

命題自体を表現する言語がドイツ語であれ、日本語であれ、プログラミング言語であれ、それは不問になります。
命題は一ビットの真偽値をもつものとして定義されます。
その命題に関して論述(操作)をするのがブール演算であり、Philosophical logicの方法だとおもうのですが、、、。

お礼日時:2017/03/15 09:46

質問2


 ブール代数は命題論理のモデルなので、モデルを命題論理と同一視できる。曖昧論理や様相論理、量子論理も、結局は(集合論上の)数学でモデルを作って意味論を与えるんだと考えれば、同一視できるでしょう。そもそも集合論は、「等号を含む一階述語論理」に「集合論の公理」を追加したものなので、「集合論の公理」を使わずに(等号を含むor含まない)一階述語論理で言えることは、当然、集合論で全部言える。
 さて、 集合論の公理は、無限個の公理から成る。これを有限の体系に収めようとすると、二階述語論理で記述する必要がある。このように、高階論理は一階述語論理では言えないことが言えるのが値打ちなのだから、集合論では扱えない。しかし言いっぱなしではなくて高階論理で妥当な推論ができるように適当な制限を加えようとすると、またしても集合論上で表現されるモデルに帰着しそうであって、「いや、高階論理で妥当な推論ができるように制限を加え、しかも(集合論に乗っかった)モデルでは表せないものがあるんだ」という話は知らない。

質問1
 問題意識によると思います。論述あるいは思考から何らか形式を抽出して一般化し、批判し、洗練し、…というプロセスのススメ方を学んだ上で、新しい論理を作る、というのなら意味があるでしょう。あるいは、認識論や存在論(あるいは科学の方法論)の流れのなかで論理実証主義のようなスカタンにどうして嵌っちゃったのかを理解して、同じ轍を踏まないようにする、という学び方もあると思う。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

何度も読み返したのですが、まだ二階述語論理が良く理解できていないためでしょうか、「集合論の公理は、無限個の公理から成る。」という件が理解できません。

>論述あるいは思考から何らか形式を抽出して一般化し、批判し、洗練し、…というプロセスのススメ方を学んだ上で、新しい論理を作る、というのなら意味があるでしょう。

上記よくわかりました。
私は自分で論理を作りたい訳ではなくて、論理的に破たんしている論述を短時間で見分ける能力をつけたいと思っています。
いままでは理科系の教育しか受けていないために、ド・モルガンの法則や、単純なブール演算で論理的な破たんを見極めてきましたが、縁あって、4月から哲学科で学ぶチャンスを得たので、哲学科で教えてくれる論理学を選択するのが良いのか、それ以外を選択したほうが良いのか、考えているところです。

大変参考になる回答ありがとうございました。

お礼日時:2017/03/17 10:42

こんばんは。



☆命題自体を表現する言語がドイツ語であれ、日本語であれ、プログラミング言語であれ、それは不問になります。
命題は一ビットの真偽値をもつものとして定義されます。・・・
◇これは、ブール演算によって、複合命題の、0と1、FalseとTrueの論理演算ができる、その真偽値が求められるということにすぎないのでは。
命題論理は基本的に∧や∨、さらに¬(not)などをつかえば論理式に換言できますから、命題論理で書かれた命題の真偽値はブール演算で求めることができるでしょうけれど、私が言いたのは、「命題そのもの、命題それ自体をブール演算で表現できるのか」ということ。

それはそれとしまして、
これを命題論理や述語論理に含めていいのかどうかわかりませんが、
論理値が偽と真、0と1の2値でない多値論理(代表としてファジー論理)がありますよね。
そして、ファジー論理はブール論理では扱えない。

多値論理
https://goo.gl/Mlewsm

ファジー論理
https://goo.gl/WH0L1H
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この回答へのお礼

再度の投稿ありがとうございます。

命題そのものの記述はドイツ語や日本語などの自然言語、あるいはプログラミング言語や数式などの人工言語であっても構いません。不問です。

>多値論理(代表としてファジー論理)がありますよね。
そのファジー論理というのは哲学的論理(Philosophical logic)で学べるのでしょうか?
もし、そのような論理(つまり集合演算とブール演算で推論できないことを推論する)が学べるなら哲学科の論理学を履修したいと思います。

お礼日時:2017/03/16 10:08

お礼、ありがとうございます。



☆そのファジー論理というのは哲学的論理(Philosophical logic)で学べるのでしょうか?
◇数学科出身の論理学を専門に研究している先生がいる哲学科ならば、哲学科の専門講義の論理学の講義の中で概論的な話は出てくるかもしれませんが、哲学科の論理学の講義などでファジー論理などは出てこないと思います。
ファジー論理を勉強するならば、数学科または情報学科、あるいは制御学科で、となるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

なるほど。

哲学科で学べる論理学からは、ド・モルガンの法則やブール演算以上のものは学べないといと考えないといけないのですね。

大変参考になりました。

お礼日時:2017/03/17 09:06

アリストテレスやフレーゲの論理学それ自体が有用ということはないでしょうね。


ただ、何らかの集合が成り立つときに既に生じているメタレベルの視座とその持ち主について、つまり言語の発話行為や思考者の存在について、言語分析を打ち立てたフレーゲにして暗部を持っているということそのものが、学び所ではないかと思います。
そういう学びは、精神医学や脳科学に今日も場所を占めていると言ってよいはずです。人工知能がいかに概念を形成し諸相関から言語を操るにせよ、ある命題から導かれる論理を無矛盾に収めえない場合にわたしたちが飛躍的かつ直観的かつ大胆に前提の転換を行い、闇雲な演繹を通ってから帰納して落とし所を探ったりするのと同じ芸当に至るには、どんな道のりがあるのか、ということがわからないですから。哲学は人間の正常なモデルを示しながら、その正常さに届かないということはどういうことかを、同時に、あるいはやや遅れて提起してきました。ですから、哲学は内容よりも、メタに引いて見る景色からさらに地平を延ばすところに価値があるのだろうと思います。
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この回答へのお礼

雨合羽さん、ごぶさたしています。

いつも高尚な回答をいただき、ありがとうございます。

不肖、愚拙はこの三月末で商売を辞めて、4月から大学で哲学を学ぶことになりました。
といっても、学部の三年生ですから、あまり専門的なことではなくて、哲学の歴史や、哲学の方法など基礎的な事柄を学ぶことになるかと思っています。
偉い哲学者の価値主張にも興味はありますが、なんせ限られた残り時間ですから、立派な哲学者の個性を学ぶよりも、思考の方法、推論の方法、論証の方法などを見つけて、残りの人生を唯我独尊に過ごしたいと考えています。

「フレーゲにして暗部を持っている」ってのは、なんだか意味深ですね。

入学したらカント、カント、カントの日々になってしまうのかも知れない(教授のプロフィールを見たらカントだった)のですが、難解なカントの著作に戯れて二年すごしてしまうのは嫌だなぁ、と思っています。

数学と論理学の中間みたいのを勉強できればと思っていますが、入学した大学の講座によりますね。

また、いろいろ刺激的なアドバイスをいただきたく、お願い申し上げ候。

お礼日時:2017/03/17 10:53

No.2です。


[1] 「集合論の公理は、無限個の公理から成る」件について。
 たとえば分出公理は、要するに「xとyを自由変数として含まない任意の述語 φと任意の集合sについて、sの要素のうちφ(x)を満たすものの全体も集合だ 」ということです。
このうち後半部分は一階述語論理で
∀s∃y∀x((x∈s ∧ φ(x))↔x∈y)
と表せます。しかし「xとyを自由変数として含まない任意の述語 φについて」の部分は、述語φは何でも良いのだから、一階述語論理で表そうとすれば個々の具体的な述語α, β,γ, … について、同じことを書き並べていくしかありません。それじゃかなわんので、「xとyを自由変数として含まない任意の述語 φ」という(形式論理からははみ出した)記述を使って、「具体的な述語について、必要になったらその都度公理を書き下してね」というルールにしてある。この表現の仕方をschemaと言います。
 二階述語論理ではそんなことしなくても、(一階)論理式 を対象として扱えるんで「任意の(一階)論理式 φ(x)」を「∀φ」と書けるわけです。

[2]  もしかして、ブール演算だけで論理が分かった気になってらっしゃるんじゃないか、という気がする。もしそうなら、いやそれは違うんです。たとえばカリーのパラドックス
  https://oshiete.goo.ne.jp/qa/4893333.html
とか。集合論にお詳しいのならラッセルのパラドックスはご存知でしょう。ゲーデルの不完全性定理は(実用性はないにしても)哲学者の教養として学ぶ価値があります。

[3] すでに書いたことですけど、人がする考察や論述の形式を取り出したのが論理です。そのうち、間違いが生じない部分だけを洗い出したサブセットが命題論理や一階述語論理である。そして論理だけでは「予め仮定したことの言い換え」しか出てこない。
 科学にしても人文にしても、経験(実験・観察)だけじゃなく類推や飛躍がいっぱい入った、論理的には不備な論述によって、仮説(理論)の形成がなされる。ある論証の中に論理的な不備がある場合、それが誤謬なのか誤魔化しなのか、というネガティブな見方だけじゃなく、あるいは創造的な飛躍なのか、という捉え方もできるんです。
 逆に「絶対誤りたくない」と決めて掛かるとどうなるか。経験ってものも、それをどういう見方で見たかによってその記述が変わってしまうし、再現するのかどうかよく分からんような経験も多い。いやもっと本質的に、経験は所詮過去に属するのだから、将来については何も言えない。そういう萎縮した態度しか取れなくなります。
 ですから、論理も分からんようじゃ話にならないが、論理だけじゃ話が始まりもしないということですね。

[4] さておき。
 論述の中に隠れている穴を見つけるために論理を学ぼう、というのがご質問の背景たる意図のようである。だったら論述の分析を通じて実践的に学ぶのがよろしかろう。コツは、論述の主張に賛同するとか共感するとかの感情を断ち切り、意味を一切無視して形式だけに注目することです。スカタンな論述の常套手段は、用語の定義を曖昧にしておいてだんだん意味をずらしていく、だとか、アナロジーを好き勝手に援用する、だとか。たとえばソクラテスが素直な人をイビるのに使う論法や、デカルトだのスピノザだのの一見論理的風だけど実はこっそり飛躍が入っている論法をなぞってみれば、そういうズルい手がどっさり見つかるでしょう。また、自己言及(「あるルールや述語をそれ自身に適用する」など)は多くの論者が大好き。これに目を晦まされないためには、高階述語論理が如何にしてパラドックスを導くか、を学んでおく必要があると思いますが、いや、自己言及の構造が出てきた段階でどうも臭いぞと思わなくちゃね。
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この回答へのお礼

益々内容が濃い回答誠にありがとうございます。

>ブール演算だけで論理が分かった気になってらっしゃるんじゃないか、という気がする。

気のせいですよ!
いえね、昔、若い時分には「世の中0と1ばかりじゃないぞ!」とか批判されるほど、ブール演算男だったかもしれませんが、それじゃあいけねえってんで、いま、改めて哲学とか論理学とか思考・推論のメカニズムを自ら勉強しようと志しているんです。

>集合論にお詳しいのならラッセルのパラドックスはご存知でしょう。
学問に関しては素人なんですが、その昔、すべての集合を要素とする集合の親分みたいのを考えたんですが、専門家いわく、「それだけは考えちゃあいけねえよ」とアドバイスされましてね、その時、べき集合なるとんでもない集合が常に定義可能であって、こいつが定義可能ってはの公理だから、禁ずることはまかりならないので、止む無く「集合の親分」の方を考えないことにした、ってんですよね。
面白いなって思った。50歳ぐらいのときです。

で、志賀 浩二先生がお書きになった 無限への飛翔 集合論の誕生 (大人のための数学 3) って本を読んだんですが、面白かったですよ。目から鱗でした。
不肖、愚拙は50歳になるまで無限というものを考えたことがなかった。
無限とか無限大という言葉は使ったことがあるのですが、その意味を知らずに使っていたってことです。恥ずかしいねぇ。自然数すべての数と7の倍数すべての数を比較すると、7の倍数すべての数は自然数の数の7分の1だろうと思って50歳まで生きてきてしまった。

その時、何不自由なく暮らしている愚拙に唯一欠けているのは「学問」じゃないかと悟ったわけです。それからというもの仕事の合間を見て少し学問の本を読んだりしたのですが、やっぱ、学問が無いから基礎的思考力が弱いんでしょうね。数学の証明など読んでもわからない、というか、読んでるつもりでも頭が真っ白になってしまうような感じなんです。

今回、胃男先生の回答を読んでいて、気づいたんですが、この手の学問を学ぼうとすると、哲学科じゃなくて、理学部の数学科に行かなきゃイケなかったかな。
もう、学費を文学部の哲学科に学費を振り込んでしまったから後の祭りなんですが、ちょっと心配になりました。

脳みそを刺激する回答をいただき、重ね重ね御礼申し上げます。

お礼日時:2017/03/18 11:02

市井の哲学愛好者として回答してみます。

プール論理に関する素人ですので、ウィキペディアなどを読みつつ確認してみています。

まず一般に哲学の論文を読んでいて、真・偽など、プール論理の言葉を使ったことは見たことがないです。考えを整理するときに研究ノートにそういう言葉を書いている人はいるかもしれませんが、いざ論文となると見たことがないです。哲学研究の多くは、ほとんど他の研究者が積み重ねてきた解釈をまとめ、検討しているものなので、事象そのものを直接検討していないです。

しかし私は思うんですが、カント哲学などの場合、プール論理を適応できるほどあっさりと考察領域が定まるものとは思えないのです。カントとなると当然、ヴォルフの形而上学から始めるはずです。しかし形而上学的な無限を、どのようにプール論理で表記できるのか。ちょっと私は見当もつかないんですね。カントは形而上学的な無限の理解の仕方に革新をもたらしたことで知られます。彼の場合、無限を客観的事実として考えたのではなく、人間の主観的世界の問題として領域を設定したのだと、私は理解しています。こういう変革をプール論理で表記できるものかどうか・・・・・・。できたら面白いですけれどもね。

以上のような感想を踏まえて質問に回答してみます。

1:形而上学的無限をプール論理で示せたら、凄まじい革新だと思うが、どのようにしてよいのか見当もつかない。同様に主観的世界の働きをプール論理で解明できたら興味深い。しかし例えば、悟性と理性はどう違うのか。理性と感性はどう違うのか。このような範囲の区切り方それ自体が、大変難しい。何かの事例を局所的に絞り込めば可能かもしれないが、一般論として行うには、大変広漠としている。もし一般論としてできたら上に匹敵する革新だと思う。(人工知能の判断を多層的にすることに応用できる気がする)。

2:1と同様。

何かの参考になれば幸いですが、プール論理は素人ですので、トンチンカンで意味がわからないと思われたら、笑ってお流しください。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

質問はカントの著作や主張に関するものではございません。
カントの著作がブール論理で置換できるとは考えておりません。

しかし、
1.人間はみな死ぬ。2.ソクラテスは人間だ。3.ソクラテスは死ぬ。
というような論理はブール論理で推論可能です。

1.関取はみな太っている。2.お前は太っている。3.お前は関取だ。
このような誤謬推論を誤謬判定することもブール論理で可能です。

以上は、人間という「個体数が有限」の集合を扱った推論ですが、個体数が有限でない集合(数学では、これを一般に集合と呼びます)を扱う場合には、必ずしもブール論理(命題論理)で推論することができないそうですが、無限集合を要素として扱えば、無限を含む論述に関しても命題論理で推論可能なのではないかと疑問に思っております(ました)。

ちなみに、プール代数と入れて検索すると自動訂正されてブール代数が表示されるようですが、プール代数ではなくてブール代数( Boolean logic)でございます。

ありがとうございました。

お礼日時:2017/03/18 15:49

プールではなくブール。

いや、どうも目があまり良くないもので、失礼いたしました。よくこういうミスをいたします。
カントに関する質問ではないとのことでしたが、別の応答を読んで、まあ一例になるかなと思った次第。別になんでもよかったのですが、カントは私にとっては守備範囲と考えていたので、少し話せる余地があるかなと考えたのでした。
三段論法については私も承知しているつもりです。
ただ「推論」など、用語の使い方が一般の言葉とは違うのだなと感じております。

>無限集合を要素として扱えば、無限を含む論述に関しても命題論理で推論可能なのではないかと疑問に思っております(ました)。

無限集合を形而上学的な諸問題に読み替えれば、私の回答もさほど外れていないような気もしたのですけれども。

しかし無限集合まではわかりますが、それを要素として扱うとはどういう操作を意味するのかが、よくわかりません。そして可能だと思っていたことが、どうして過去形になるに至ったのかもよくわかっておりません。
ちなみになのですが、どういうことを研究すれば、可能かどうかがわかるのでしょうか。
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この回答へのお礼

再度の投稿ありがとうございました。

>どういうことを研究すれば、可能かどうかがわかるのでしょうか。
これを知りたくて質問した次第ですが、だんだんとわかってきたことは、数学基礎論を勉強すれば、自然と記号論理学の考え方が身に付き、そのうえで、哲学的な論述の文書を読むと、はるかに理解が進むであろうということです。

どうもありがとございました。

お礼日時:2017/03/20 16:05

No.2, No.6です。


 数学において証明ということができる理由は、数学が自己完結していることにあります。ユークリッドの公理主義を徹底して洗練した、ヒルベルトらによる形式主義の成果ですね。数学という言語を使って何が言えるか、ということだけを問題にしている。用語が現実世界とは全く無縁であることによって、現実の経験とは完全に切り離されているんです。そのためには、現実の経験とは無関係に、しかも自己撞着に陥らないで用語(概念)を導入する仕組みが必要不可欠である。論理と集合論がその基礎を与えていて、すなわち集合を素材にして、さまざまな概念が構成されるという仕組みです。
 これが数学基礎論です。哲学をやるのに大いに助けになる。いや、哲学やる人には数学基礎論を必修にしたっていいぐらいじゃないか、と思います。

 というわけで、島内剛一「数学の基礎」の前半を(全部は分からなくたって気にしないで)とにかく通読なさることをお勧めしよう。数学の仕掛けの構造が、ドロドロした歴史的背景なんざ無視して、奇麗に整理されているからです。これを一通り理解した上で、それでもどうしても溺れてみたいのならドロドロに入ってみれば良いかと思います。

> 理学部の数学科に行かなきゃイケなかったかな。

 数学科に学費払うまでもなく、良いテキストがあれば独習で足りると思いますただね、歳を取ると根気と集中力が落ちるのがヤバいんだよな。

こちらもご参考になるやも知れぬ。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/43691.html
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3290945.html
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/3948315.html
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7423274.html
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この回答へのお礼

三度目の投稿ありがとうございます。

胃男先生はやっぱ、哲学じゃなくて数学系の専門家ですね?
私が高校2年か3年のときに胃男先生に教わったら、工学部など行かずに、数学科を目指したんじゃないかと思いますよ。
工学部の数学って、フーリエ変換とかテーラー展開とか計算術ばかりで全然面白くなかったです。

>いや、哲学やる人には数学基礎論を必修にしたっていいぐらいじゃないか、と思います。
賛成です。少なくとも哲学科の選択科目で数学基礎論を履修できるようにしておいてほしいです。日本では哲学科が文学部の内部にあることが多くて、数学科は理学部の内部にあるので、学生はクロスしにくいです。
欧州では哲学部は独立した学部で、決して文学部の内部ではないそうです。
それに数学は自然科学じゃないのですから、理学部から独立して哲学部と合併しても良いのにね、、、。

胃男先生のアドバイスに触発されていろいろ調べていたら、下記の文章に出会いました。
「自然演繹は、ヒルベルト、フレーゲ、ラッセルらに共通する命題論理的公理化に対する不満から生じた。」
この文章では、共通するのが命題論理的公理化なのか、それとも「対する不満」なのか、文法上は両方の解釈が可能で、コンテキストとして前者であると判断できるためには、ヒルベルトとフレーゲとラッセルの業績に精通していないといけない。
そんな(精通している)人なら、この文章自体なんら目新しいことがないので、つまりこの文章は無価値ってことになる。
いえ、言いたいことは、日本語をはじめとする自然言語で論述しているかぎり、「解釈の余地」ってものが付いて回るので、独習者にとってはえらく効率が悪い。特に哲学みたいに日常的な用語に非日常的な意味を与える領域は。
で、ドイツ語や日本語で論述するのはいい加減に止めにして、解釈の余地がない人工言語(記号論理)で話を進める方が効率的と思うのです。
それに、厳密な人工言語で論じておけば、事後に人工知能にインプリするときも好都合だしね、、、。

>島内剛一「数学の基礎」
Amazonで古本が2999円で売りに出てましたので、一度、勉強してみたいと思います。著者の島内先生はALGOLの開発者だったんですね。
きっと愚拙と似たような嗜好の先生だったんじゃないかと想像しています。

なんどもアドバイスいただきありがとうございました。

お礼日時:2017/03/19 21:15

木造さんが大学の哲学科に。

。。それは意外です。慣れたことから離れて、敢えて振幅の大きいふるまいをなさって、量子論的に人生を豊かにしようと?

数学科や情報科学科で数理論理学をおやりになるのは楽しいかもしれません。でも数理言語とプログラムの開発に携わるには、お歳からもお立場からも容易とは申せません。しかし、いま多くの数理言語学の研究が人工知能に向かっているのは事実です。そして哲学科なら門戸も広く、数理言語学の論理の限界を見つめる機会が得られるのではないかと思います。

ブール の『論理の数学的分析―演繹的推論の計算に関する試論』(1977)、訳されたのは、西脇与作さんですね。慶応で科学哲学がご専門ですが、大雑把にいえば、こういう先生たちは分析哲学畑を歩んでいるわけで、そうでなければ近代の学問領域それ自体を対象になんて出来ようはずもありません。言語や心や行為が分かちがたく繋がっており数理分析を必要としていることは、現代の哲学で明確に示されています。

> 教授のプロフィールを見たらカント

内包と外延の問題漬けになったら、木造さんの真骨頂を発揮できるではありませんか。楽しみですね! 内包量と外延量がカントの筆にかかるとわけがわからない。
Viel Glück!!
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