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私は、このような人間とか社会の基本的なことを、過去の哲人たちの思索を
手掛かりに、一般大衆がよくよく考えるべきであると思います。
もはや、我々一般大衆が、力を持っていることを自覚するようになった、そ
ういう時代になったと思うからです。

現代人にとっての「善悪」は、絶対的なものが存在するわけでなく、移り変
わる状況の中で、その都度おこってくる問題との関連で、一人一人がどう生
きるのが最も善の生き方であるかを選択する以外にないという「状況倫理」
の考え方でとらえているのが多数派であろうと思います。

しかし、私はこの「状況倫理」という考え方は、信念を持とうとして持てな
かった結果であり、一種の諦めであるように思えます。

その結果として、地に足のつかない、軽薄で自己中心の社会になり、相互不信
と断絶の状況になっているのではないでしょうか?

今から思えば、倫理・道徳感の残っていた「昭和」と、昭和生まれの人間もそ
れを捨てつつある「平成」とを比べてみれば、歴然たるものがあると思います。

さて、絶対的な「善悪」というものは何なのかという「観念論」とともに、善悪
の基準を持つべきなのか、また、いかなる基準を持つべきかという「現実論」に
ついて、ご意見をお聞きしたい。

質問者からの補足コメント



  • 無責任はいけないけど、こういう雰囲気も、昭和ですよね。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/13 08:59

A 回答 (14件中1~10件)

>地に足のつかない、軽薄で自己中心の社会になり、相互不信


>と断絶の状況になっているのではないでしょうか?

いいえ、なっていません。
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この回答へのお礼

あなたは昭和の時代を生きた経験がおありですか?

社会の中で働いた経験がどのくらいありますか?

具体例は山のようにありますが…

お礼日時:2017/05/11 08:12

状況倫理では、悔しい気に入らないとか


社会が悪くなるという感情を横に置いておいて
本当はどうなのかを考えましょうよ

つまり、絶対善悪とは、その基準はと考える前に
絶対善悪は存在するかどうかを証明するのが先でしょう
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この回答へのお礼

>絶対善悪は存在するかどうかを証明するのが先でしょう

科学的に証明できる類のものではないと思いますが…
仮にできたとしても、哲学者でもない我々一般大衆にとって、そんな観念論を
役立てることはできないだろうと思いますよ。

それから、「証明が先」という考え方にも共感できないです。
よく思うのですが、現代社会は科学的に証明できそうもないこと、議論できな
いことなどを考えないで避ける傾向があると思います。
だから、「善悪」の問題など普通考えないですよね。

それから、感情のことについて一言。
理性と感情を「分離させる」というのが一般的だと思います。
しかし、私はわざわざ分離させる必要は全くないと思います。
感情の伴わない理性では、単なる知的好奇心であると言えるでしょう。
感情が伴ってこそ、行動につながるというものだと思います。

さて、あなたはどうお考えでしょうか?

お礼日時:2017/05/11 08:30

>今から思えば、倫理・道徳感の残っていた「昭和」と、昭和生まれの人間もそ


> れを捨てつつある「平成」とを比べてみれば、歴然たるものがあると思います。

質問者さんは平成生まれですか?

昭和の時代は、今よりもはるかに下劣でカオスでしたが・・・。

倫理も道徳観もないから、公害垂れ流し。
東京湾なんか70年代まで「ヘドロの海」ですよ。
飲酒運転なんか当たり前。
「飲んでた?じゃあ仕方ないね人を轢き殺しても。」
なんて言葉が普通に飛び出してた時代です。
倫理もヘチマもない、オカネ欲しい~、が昭和です。

その究極がいわゆる侵略戦争だったりもしますけどね。
昭和って思いっきり暗黒です。

いろいろ考え語るのは勝手ですが、
あまり調べもせずに「御自身の勝手な思い込み」で書くと
突っ込まれますよ。
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この回答へのお礼

「善悪の問題」「昭和と平成の問題」などについて言及すると感情的に
なる人がいるのはここばかりではありませんから、想定はしていました。

善悪の問題を考えるような人はダサい人と信ずるから、また、昭和は平成
より劣っていると信ずる人が多いからだと思います。

私は昭和生まれ、あなたもそのようですね。

公害については法的規制が厳しくなったのは昭和のうちではなかったで
すか?
倫理・道徳観が高まってそうなったのではなく、実害があって法律で規
制されたから改善されたんですよね?

また、東京湾のヘドロが増えているという情報もあります。

飲酒運転も同様ですね。法律の問題ですね。にも拘らず、よくニュースで
悪質な事件が報道されています。

>「飲んでた?じゃあ仕方ないね人を轢き殺しても。」
こんな言葉が普通に飛び出していたのは、いったいどこの国なんでしょうか?

侵略戦争は国際法で禁じられていて、今はどこの国でもできません。
曲がりなりにも「平和憲法」ができたのは昭和ですし、戦後の40数年は世界でも
稀にみる平和な国でしたね。
しかし、
9条があるのに「戦争のできる国」になりつつある気配は出てきましたよね。

地域のコミュニティーでも、家庭内でも(聞いた話ですが)、仕事上でも、表面は
整っているように見える反面、人心の荒廃は進んでいると思いますね。

あなたは働いている方ですか?
一歩深く物事をお考えになったほうがいいと思います。

お礼日時:2017/05/11 09:07

人の生きる上での唯一の価値基準は、人生を通算した精神的な充足量の最大化に寄与するか否かだけだ。


「善悪」自体、自己中心的に陥りがちな認識を、他律的に社会性のタガにはめるために派生した必要悪に過ぎない。

深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。
その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。
そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。

その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。
それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属するのだ。
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この回答へのお礼

結局、人間は何かを信じずには生きられない生き物だと思っています。

何かを信ずるということは、そこに「善悪」が生じると思います。

つまり、人間から「善悪」を引き離すことはできない、と。

結論として、何を信ずるかが重要である、と。

お礼日時:2017/05/13 22:45

絶対的な「善悪」というものは何なのかという「観念論」とともに、


   ↑
善悪については、時代によって変わらない普遍的な
かつ立ち位置によって変わらない絶対的な善悪が
ある、という考え方があります。
キリスト教の考え方です。
全知全能の神ですから、善悪も神が創った、
その神は一神教で完全絶対ですから、善悪も
普遍的なモノでなければなりません。

これに対し、善悪は人間との関係で決まる、とする
考え方があります。
全知全能の一神教を採らなければ、これが自然です。

民主制は、少し前までは何処の国でも悪い思想でしたし、
ワシントンは米国では建国の英雄ですが、英国では
反逆者です。




善悪の基準を持つべきなのか、
  ↑
持つべきではないし、そもそもそれは不可能です。
絶対的な善悪を持てば、それに反する考え方は
総て悪になるからです。
それをやったのが社会主義国家です。
だから、社会主義国家は、自国民を大逆殺
できたのです。



また、いかなる基準を持つべきかという「現実論」に
ついて、ご意見をお聞きしたい。
    ↑
そもそも善悪という概念は社会を維持する為の
ツールです。
社会の維持にとってプラスを善、マイナスを悪
と名付けただけです。

要は社会の秩序が維持できるかが重要なのです。
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この回答へのお礼

キリスト教は絶対神の前では人間は木偶に等しいという事ですから、
愛を説いてはいますが人間主義とは言えないと思います。

社会主義における「善悪」はどういうことになるのでしょうか?
社会主義が失敗したからと言って、「善悪」の基準を持つこと自体が
悪であるという結論は、どう考えても真とは思えません。

また、人間は「善悪」から本然的に離れることはできないとも考えられます。

大乗仏教は「人間主義・生命尊厳主義」です。
これを「善」とし、これに反するものを「悪」とするならば、万事OK
だと思いますがどうでしょうか?

お礼日時:2017/05/12 14:02

No3です、お礼をありがとう。



感情的に訴えるのは
論理的な人間の常套手段ですよ。
そうしないと相手に入れないから。
でもまあ、
僕は感情的な人間になりたいので
嬉しい限りの評価です。

たしかに是正の手法が作られたのは
その問題が顕著になった昭和ですが、
ゆえに
昭和に幻想するのはおかしい、
と説明しました。

是正が必要なほどメチャクチャだったのが昭和だと
質問者さんも十分に認識されているようですが
なぜに「昭和に憧れ」るのですか?

確かに活気はあったでしょうね。
路上では平気で殴り合いの喧嘩するし
それが拡大して暴徒と機動隊です。
あ、上尾事件ってのもありましたね。
電車が来なければジッと待つしかない
と思っている僕にとっては
大変にエキサイティングな歴史ですが
暴力で訴えるという観点がいまいち理解できません。

強者が暴れまくって弱者は泣き寝入りの昭和の
いったいどこが良いのか理解不能です。
経済的な理由からですか?

まあ、聞くところによると
情緒的で下町チックな人間関係を懐かしむ趣はあるかもです。
ですが、
大災害にいてもたってもいられなくて個人でボランティアとかって
表に出てきたのは平成になってからですよ。
長屋に住んでいていやおうなしに近所付き合いをしなければならないのと
別に他人のフリをしていればいいのに、人助けの手を差し伸べるのと
いったいどっちが人間的に充実しているのでしょうね。

人間はある程度年齢を重ねると故郷なりに戻りたがるものですが
どうもそのようにしか見えません。
怪しい人工甘味料タップリの駄菓子とか「美味しかった」と
懐かしんでいるだけにしか見えません。
僕が、リアルでそういうものを知らないからかもしれませんが。

東京湾のヘドロですが
ここまで第二次産業が衰退している今の日本で
いったいどこの企業がそんなものを出すんですかね?
非常に興味がありますので
ぜひリソースを開示ください。
東京および東京湾周辺自治体の怠慢を糾弾すべきですから。
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この回答へのお礼

>感情的に訴えるのは論理的な人間の常套手段ですよ。
そうしないと相手に入れないから。

一理あると思うが、相手をカッカさせて自分の有利になるように持っていっているのかな
と、思われないかな?
そういう事をする人は多いし。このカテでもね。

あなたの「昭和観」は、ダイジェスト版、(しかも悪いところをデフォルメしいいところを
カットした)を読んで、それをそのまま信じちゃったという感じだね。

これが、正式な歴史の教科書であっても、なかなかその時代を読むという事は難しいと思う。
我々は、江戸時代とか戦国時代の一般大衆が実際どんな感じで暮らしていたかは、史実の集積
だけでは理解できないだろうから。

体験してなきゃ分からないよ。
例えば、喧嘩はしょっちゅうあったけど、大抵は止められて「つかみ合い」で終わり。今は、
マウントして殴り殺すでしょ?
暴走族・ヤクザはそうねえ、派手にやっていたと言えるけど、今のヤクザは普通の顔して、
目立たなく悪いことしているんじゃない?
暴力が日常化していたなんて、そんなの嘘。

とにかく、人と人が仲が良かった。近所の子供たちは全員集まって遊んでた。見えない顔があ
ると心配して呼びに行ったり。おじさん・おばさんも遊んでくれ、かわいがってくれたね。お
祭りなんていったらそれは楽しかった。

もちろん悪いこともあったし、記憶が美化されている部分もあるだろうけれど、楽しさ、安心感
は「圧倒的」だね。

私が知っている昭和世代は、一人残らず同じ意見です。あなたの周りでそういう事を言う昭和人は
いないの?

私から見ると20代・30代の世代の人の「昭和観」は画一化されていると思う。
つまり、「昭和は悪い」という意見には疑いなく賛同し、昭和人の意見を聞こうともせず、つまり
「検証」しないで、結論している。全く論理的態度でないよね。

何故そうなのか?私は考えたね。
そうしておかないと、馬鹿にできないからじゃないのかな?自分を偉くしておくために。

お礼日時:2017/05/12 15:18

>相互不信と断絶の状況になっている



これが一つのポイントだと思いました。確かに昭和の頃、平成の最初の頃は、共通の価値観が何かしっかりとあった気がします。それが良いように働かなかったこともあるでしょうが、少なくても、共通の倫理があるという安心感はありました。
しかし次第にそれは揺らいで行きました。

私が思う理由は次のようなものです。
・ネットができ、情報化社会になった。多様な価値観の人が発言するようになり、共通の価値観が定めにくくなった。
・一つの価値観を定めていた権威が揺らいできた。ネットが権威の失態を暴露していったことも重要な要因である。
・政府に対する批判も多くなり、政府もカジュアルになった。総理大臣がマリオの格好で世界の前に登場するなど。
・大企業は不景気の中で権威を失墜させ、外資系や、ベンチャーの方が伸びてきた。一流企業の倫理に従っていれば間違いないと言えなくなった。倫理の有無は関係なく、あらゆる企業が沈む可能性がある。
・年功序列が崩れ、正しいことを定める人が、倫理判断について経験が少ない若手になった。
・一言で言えば、下剋上的な現象が多く起き、誰の価値観が絶対的な安全牌だと言えなくなった。

この結果、昨今の「洗練された態度」とは、自分の正義感など取るに足らないものだと斜に構え、状況に応じて倫理観を変化させるということになりつつあります。これはカントの態度に似ていますが、実際は違います。さほど熟慮しないのです。なんとなく自分にメリットがあるとか、今はまだ深刻な危機が露呈していないから対応しないでいいや(問題が発覚した時の責任者に任せた。だってその時に問題が起きてもさほど悪いことじゃないかもしれない)、とか。この程度です。軽薄を通り越して、無責任ともいえます。

しかし…権威が揺らぐことは、デメリットばかりでもありません。
・何が異常で何が正常かという境が曖昧になる。この結果、マイノリティに優しくなる。
・上の理由で、「いじめ」に対しては、まだ敏感になったと思う。昔は権威が言えば、誰も批判しなかった。
・権威が弱まると、下の方の自由も必然的に大きくなる。そこで創造的なことができるかもしれない。

結局、上の「洗練された態度」に基づけば、現実的に深刻な問題が起きない限り、まあ、いいんじゃないの、ということになるでしょう。しかし深刻な問題は果たして起きていないのか。原発対応のまずさなどは、その「洗練された態度」の産物だと思います。
(しかし原発を設置したのは、昭和的権威主義ではあるとは思います。昭和的権威主義があれば、うまく対応できたかと言えば、これもまた疑問です。担当者たちが、捨て身で特攻するくらいはやったかもしれませんが、解決に至るとは思えません。神風をやっても、昨今では解決する問題が少ないと言えます。)。

いずれにせよ、平成ももう直ぐ終わりですから、次の時代の適切な態度を考えていかないとならないかと思いました。
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この回答へのお礼

昭和の道徳感・倫理感が揺らいできた理由として、挙げられた種々の権威の失墜がある
というご意見には賛成です。
あえてもう一つ加えれば、男性そのものの権威の失墜ということが追加できると思います。

様々な権威の失墜の理由は、やはりネットの情報によるものが大きいでしょうし、男性の
権威が地に落ちたことも大きいと思います。
ということは、日本の社会は男性が威張ってきたということになるのでしょうか?

で、そのかわり、女性や若い人たちが威張り始めた、と言っていいと思います。日本人って
威張ることが本当に好きなんだなあと思う。
威張るけれども、責任を取ろうとはしない。これは、社会の柱が抜けたようなもんだと思い
ます。危険な状態だと思います。

しかし、仰る通り、権威が弱まっているので、いわば乱世的要素はあると思います。
創造的仕事のできる余地は多分にあると思います。
今の若い世代はリスクを嫌うし、頑張ることも嫌う傾向があるから、むしろ根性のある中高年
にそのチャンスがあるのではないかとほくそ笑んでいるわけです。

そうですね、平成も終わるんですねえ。時代はどう流れてゆくのか?

お礼日時:2017/05/12 23:27

追記。

しかし立場が違えば、理解は異なるかもしれませんね。

昭和的権威主義が、何も考えず、負の遺産を平成世代に残したと考える態度もあるでしょう。この結果、平成世代が対応しきれず、状況倫理という形でしか対応しきれていない、という言い分もあるのかもしれません。例えば、原発設置、築地移転問題、国の負債などです。あるいは自分の町の箱物、意味不明な道路計画など。これら昭和的権威主義が作った問題の対応に、平成の世代が右往左往し、状況倫理でしか判断できていないように追い込まれたとも言えます。

平成の側からすると「あいつらのせいだ=自分たちのせいではない」という納得の仕方になるのかもしれません。
昭和の側からすると「自分達ならもっとうまく対応できたはず」ということになるんでしょう。
引き継ぎがうまくいかなかったのですね。
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この回答へのお礼

そういう事もおおいにあるのでしょうね。

無責任と無責任のぶつかり合いで。

お礼日時:2017/05/12 23:33

これは難しい問いですね。


そもそも私は善を知っているだろうか?
と言う問いが先立ちますし、どうすれば善を知る事が出来るのだろう?理知的な探求で知る事が出来るのだろうか?温情とも違う善というものをいかにして見つけ出せるのか?などの問いが次々と出て来ます。
そして、善を語る上で悪は無視できません。悪に染まっていては悪を知る事ができないし、私は悪に染まっていないと断言することも難しいです。善のことも悪のことも分からなければ善悪の対立を超えた次元に到達することもできないし、さて、どこから考え始めればよいのか、と。

善とは教わるものだろうか?生来に備わってるものだろうか?それとも人生を通じて次第に学んでいくものだろうか?
また、善は社会が担保している準普遍的な価値なのだろうか?

果たして人間は善く生きる事が出来るのだろうか?善を求めて生きる事は出来たとしても、善を体現することはできるのだろうか?
善はその様な意味でイデア的であり永遠の、手の届かぬ光であり、星のごとく方角を示しているのみで、人の生きる道を示す標であるだけなのではないか。

その様な善に向かう方向性を、人間は内在させているとしたら、その内的なものの起源は何なのか?

人間の欲求として、人間らしく純粋でありたいとか、やさしくありたいとか、生存の苦しみから自由でありたいとか、そう言ったものを持っているが故に人間であり、人間になれたのではないか、とも思えます。
そしてどうしても人間らしくあれない所、つまり、獣の様な性質を残しているが故にに、人間らしさが際立って現象するのではないか、それがつまり、善というものなのではないかと思いました。

状況倫理と言うのは所謂処世術に近いと思います。一方、善は人間の根本的欲求にかかわる、人間として・・・という切実なことなのだと思います。
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この回答へのお礼

改めてあれこれ考えますと、人間は生まれつき善悪の枠組みのようなものは
持っているように思います。

赤ん坊の時には、自分を守ってくれる人、笑顔を向けてくれる人などは「善」
で、よく理解のできない不安を与えるようなものは「悪」である、と。
つまり、全く自己中心的なもの。

それが成長とともに発展をしてゆくものであると。ですから、人間にとって
「善」とその反対である「悪」は後天的に学んでゆくものであると思います。

その「善悪観」は社会から与えられたものといえるわけですが、だから他律
的なものと断ずることができるのか?

所詮は、何かを信ずることによって「善悪」が人間の中に生まれるのではな
いか?

などなどと考えております。

お礼日時:2017/05/13 08:40

>また、いかなる基準を持つべきか



お礼欄を拝読すると、これはもう結論が出ていますね。責任を持つこと。可能な限り長期的な視野で。
無責任、場当たり的責任の取り方は、「悪」ということになりそうです。
平成の様々な失敗を前にすると、そう言わざるを得ないでしょう。
責任を取ることを前提に、それぞれが多角的に議論を戦わせられるようになると、次の世代はうまくいくかもしれません。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

「責任を持つこと」が「善」であると?

むむっ。

責任を持つ…という事は、要は「世のため人のため」に自己をいわば「犠牲」
にするという事ですからね。

お礼日時:2017/05/13 08:49

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