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私は、このような人間とか社会の基本的なことを、過去の哲人たちの思索を
手掛かりに、一般大衆がよくよく考えるべきであると思います。
もはや、我々一般大衆が、力を持っていることを自覚するようになった、そ
ういう時代になったと思うからです。

現代人にとっての「善悪」は、絶対的なものが存在するわけでなく、移り変
わる状況の中で、その都度おこってくる問題との関連で、一人一人がどう生
きるのが最も善の生き方であるかを選択する以外にないという「状況倫理」
の考え方でとらえているのが多数派であろうと思います。

しかし、私はこの「状況倫理」という考え方は、信念を持とうとして持てな
かった結果であり、一種の諦めであるように思えます。

その結果として、地に足のつかない、軽薄で自己中心の社会になり、相互不信
と断絶の状況になっているのではないでしょうか?

今から思えば、倫理・道徳感の残っていた「昭和」と、昭和生まれの人間もそ
れを捨てつつある「平成」とを比べてみれば、歴然たるものがあると思います。

さて、絶対的な「善悪」というものは何なのかという「観念論」とともに、善悪
の基準を持つべきなのか、また、いかなる基準を持つべきかという「現実論」に
ついて、ご意見をお聞きしたい。

質問者からの補足コメント



  • 無責任はいけないけど、こういう雰囲気も、昭和ですよね。

    No.10の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2017/05/13 08:59

A 回答 (14件中11~14件)

人の生きる上での唯一の価値基準は、人生を通算した精神的な充足量の最大化に寄与するか否かだけだ。


「善悪」自体、自己中心的に陥りがちな認識を、他律的に社会性のタガにはめるために派生した必要悪に過ぎない。

深まる認識が、現象をより原理的に把握したり、また、組織化に於ける個体間相互作用を経験的に編成したりして、体系化(>世界観)する上で、経験の基底(移入)であると同時に意志として認識上に展開される衝動も、不可分に体系性(>価値観)を帯びてくる。
その中で、未だ認識化されない原理に基づく現象の経験的先入化による、あるいは組織化の分業に於ける相対的な環境の違いに基づく認識の違和の他律的原理化による、体系への編入(常識)は、そこに於ける衝動及びその原動力たる進化の展開が認識されぬ以上、自我(衝動充足)以外の先験的価値領域を形成する。
そこに於て、進化(反エントロピー=生~充足)方向現象に於ける自己中心的認識の補完を善と呼べば、それに反する被淘汰(正エントロピー=死~非充足)方向のそれを悪と呼びうる。

その、短絡的利己の社会システム的(認識外)矯正としての、善-悪寄生体系は、より高まる認識に於て、内なる物理=自己の認識システムの存在原理(~不確定性)としての把握と、外なる物理=社会システムの自己の生命の延長としての把握による、全衝動の自己の生(反エントロピー)への集束によって、認識体系に吸収され、即ち全環境(宇宙)の自己としての理解と、全行動の(生産)の利己としての把握に到達する事により、その「意志による生=生存自体による充足」は、最高認識に基づく最大生存に於ける完全充足、即ち最大充足を実現する。
それこそ、現象の如何を問わず、一切の認識=全ての宇宙の、究極の理想であり、善悪の概念は、飽くまで妥協的修正(他律的常識)であって、善は過程として善(生産)であっても、本質として悪(非認識=非充足)に属するのだ。
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この回答へのお礼

結局、人間は何かを信じずには生きられない生き物だと思っています。

何かを信ずるということは、そこに「善悪」が生じると思います。

つまり、人間から「善悪」を引き離すことはできない、と。

結論として、何を信ずるかが重要である、と。

お礼日時:2017/05/13 22:45

>今から思えば、倫理・道徳感の残っていた「昭和」と、昭和生まれの人間もそ


> れを捨てつつある「平成」とを比べてみれば、歴然たるものがあると思います。

質問者さんは平成生まれですか?

昭和の時代は、今よりもはるかに下劣でカオスでしたが・・・。

倫理も道徳観もないから、公害垂れ流し。
東京湾なんか70年代まで「ヘドロの海」ですよ。
飲酒運転なんか当たり前。
「飲んでた?じゃあ仕方ないね人を轢き殺しても。」
なんて言葉が普通に飛び出してた時代です。
倫理もヘチマもない、オカネ欲しい~、が昭和です。

その究極がいわゆる侵略戦争だったりもしますけどね。
昭和って思いっきり暗黒です。

いろいろ考え語るのは勝手ですが、
あまり調べもせずに「御自身の勝手な思い込み」で書くと
突っ込まれますよ。
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この回答へのお礼

「善悪の問題」「昭和と平成の問題」などについて言及すると感情的に
なる人がいるのはここばかりではありませんから、想定はしていました。

善悪の問題を考えるような人はダサい人と信ずるから、また、昭和は平成
より劣っていると信ずる人が多いからだと思います。

私は昭和生まれ、あなたもそのようですね。

公害については法的規制が厳しくなったのは昭和のうちではなかったで
すか?
倫理・道徳観が高まってそうなったのではなく、実害があって法律で規
制されたから改善されたんですよね?

また、東京湾のヘドロが増えているという情報もあります。

飲酒運転も同様ですね。法律の問題ですね。にも拘らず、よくニュースで
悪質な事件が報道されています。

>「飲んでた?じゃあ仕方ないね人を轢き殺しても。」
こんな言葉が普通に飛び出していたのは、いったいどこの国なんでしょうか?

侵略戦争は国際法で禁じられていて、今はどこの国でもできません。
曲がりなりにも「平和憲法」ができたのは昭和ですし、戦後の40数年は世界でも
稀にみる平和な国でしたね。
しかし、
9条があるのに「戦争のできる国」になりつつある気配は出てきましたよね。

地域のコミュニティーでも、家庭内でも(聞いた話ですが)、仕事上でも、表面は
整っているように見える反面、人心の荒廃は進んでいると思いますね。

あなたは働いている方ですか?
一歩深く物事をお考えになったほうがいいと思います。

お礼日時:2017/05/11 09:07

状況倫理では、悔しい気に入らないとか


社会が悪くなるという感情を横に置いておいて
本当はどうなのかを考えましょうよ

つまり、絶対善悪とは、その基準はと考える前に
絶対善悪は存在するかどうかを証明するのが先でしょう
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この回答へのお礼

>絶対善悪は存在するかどうかを証明するのが先でしょう

科学的に証明できる類のものではないと思いますが…
仮にできたとしても、哲学者でもない我々一般大衆にとって、そんな観念論を
役立てることはできないだろうと思いますよ。

それから、「証明が先」という考え方にも共感できないです。
よく思うのですが、現代社会は科学的に証明できそうもないこと、議論できな
いことなどを考えないで避ける傾向があると思います。
だから、「善悪」の問題など普通考えないですよね。

それから、感情のことについて一言。
理性と感情を「分離させる」というのが一般的だと思います。
しかし、私はわざわざ分離させる必要は全くないと思います。
感情の伴わない理性では、単なる知的好奇心であると言えるでしょう。
感情が伴ってこそ、行動につながるというものだと思います。

さて、あなたはどうお考えでしょうか?

お礼日時:2017/05/11 08:30

>地に足のつかない、軽薄で自己中心の社会になり、相互不信


>と断絶の状況になっているのではないでしょうか?

いいえ、なっていません。
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この回答へのお礼

あなたは昭和の時代を生きた経験がおありですか?

社会の中で働いた経験がどのくらいありますか?

具体例は山のようにありますが…

お礼日時:2017/05/11 08:12

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