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さまざまな分野の学問を学んでいると合理的に考えることが良いことであるかのような印象を受けますが、合理性をそこまで信用しても良いのでしょうか。

合理性を疑う行為そのものが合理的かもしれませんが。

A 回答 (20件中1~10件)

合理性をそこまで信用・・・・ってどこまで信用か書いてませんが、



合理性は利用するもので、信用するものではありません。
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はじめまして


多分そこそこご満足頂ける回答できそうです。

合理性は疑ってください。
理由は、昨日は合理性にかなっていても、今日もそうだと限らないからです。
同じ理由で、ここでは通用しても別の場所では通用しないかも知れないでしょう。
時間と空間による条件付けが必ずあります。

これに対して、合理的に考えることは社会経済上は良いことと言って大丈夫ですが、芸術等の分野では当てはまらないことも多々あることは御理解頂けることと思います。

これでいい?

筑紫野教授より
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私は、難しい理屈は分かりませんし、学ぼうとも思いませんが、


ご指摘は、「正しい」と思います。

「合理性」とは、「理屈に合った。」とか「能率的な、効率的な」的意味合いを
持っていると思いますが、

「合理的」であるためには、「無駄を捨てる、或いは無視する。」と
言った意味合いが、含まれている、と思います。

物事を単純化し、理屈が通るように見ようとする態度は、
従来、往々に行われてきた手法でしょうが、それを妄信してはいけない、と
思います。

類似の事柄であっても、視点を変えて、切り口を変えて考えてみれば、
「捨ててきたもの」「無視してきたもの」が、実は非常に重要であることも
あります。

詰まり、合理性には、常に「落とし穴」が潜んでいて、そのことを
認識しないと、痛い目に合う、と言う事です。

私は、このことを自分の仕事を通じて、強く学びましたが、
「頭だけで考える。」方々には、このことを理解出来ていない、と
思える事が、良くあります。
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・合理性


道理にかなった性質。論理の法則にかなった性質。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/75449/meaning/m1 …
・論理
思考の妥当性が保証される法則や形式。
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/237233/meaning/m …
ということで、思考の妥当性が保証されるような形で考えることを疑うべきだ、とおっしゃっていることになります。
辞書語釈にある「妥当性」の意味するところが鍵になるでしょう。
妥当か否かということは、あくまで個人の主観に委ねられざるを得ない、ということ。
つまり、(主観なのですから)無条件に「信用」することはできない、と捉えるのが妥当と言えます。
西部邁は、論理は最終的に誠意だ、てなことを確か言っていたように記憶しています。

ただし、これはあくまで論理的に、つまり合理性に基づいて思考を進めた場合の最終局面で問われるべき問題。
そこまで辿り着く前の時点で、論理を見失ってしまうことも多々見受けられるわけで、そうした場合の言い訳として、「そこまで信用しても良いのでしょうか。」という反語的疑問が流用されることのないように留意しておく必要はありそうです。
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カントの美学では合理性は重視されない様ですよ。

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コミュニケーションの段階では、「客観的合理性」を具備した方が、理解や共感を得やすいと言うことですよ。



たとえばこのQ&Aも、コミュニケーションの典型です。
ここで、「合理性など要らないんじゃね?理由は判らんけど・・」みたいな、客観的合理性が皆無の回答をしても、信用に足るどころか、無意味,無価値でしょ?

一方、頭の中で「考える」段階では、別に合理的である必要はないし、不合理とか感情論,感覚論なども交えた方が、思考の幅は広がるし、脳の活性化にも繋がります。
言い換えれば、なるべく多くのデータから、なるべく多くの演算を行った方が、より精度の高い客観的合理性を具備したアウトプットを出したり,パフォーマンスを発揮できます。

その逆が、答えに直結する様な思考であって、ある種の合理性はあるものの。
答えがいくつもある様な問題に対し、「正解はコレ!」などと安直にアウトプットを出せば、「短絡的」と言われかねませんし、反論などに対しては、対応も難しいです。

これもQ&Aサイトで言えば、宿題の答えを、何も考えずに質問する様な話です。
正解に直結すると言う部分では、合理的とは言えますが、明らかに客観的合理性は欠いてて。
安易に正解に直結しない方が良い例ですね。
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合理性をそこまで信用しても良いのでしょうか。


  ↑
良くありません。
ほどほどにしておくべきです。

合理性に徹しようとしたのが、社会主義国です。

経済活動を自由にしておくから、不況や好況が
あるのであり、格差が生じるのだ。

だから一流大学を出た優秀な知的エリートが計画を建て、
その通りにやる計画経済にすれば、不況も、格差も無くなる
理想的な国になるに違いない。

そう考えて実行した結果は、独裁と貧困と自国民の
大逆殺でした。


徹底した合理主義は、人間の知性を過大視した
傲慢な考え方で、不合理です。

人間はそこまで賢くないのです。
もっと謙虚になるべきです。
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そうですね。

合理性を追求すると「〇〇主義」みたいな話になります。しかし今は、何事もほどほどが適切だとわかった時代です。資本主義の過剰も良くない。マルクス主義の過剰みたいなものも良くない。

結局、人間が合理的だと思うものは万能ではなくて、限界があるということではないでしょうか。
例外のない規則はないと言いますね。例外に相当する「遊び」を作らないと、なんでも失敗はあるのだと思います。
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物指しですから。



どこかの国では いまもメートル法に従っていません。

どっちが合理的か? の議論になるのか・ならないのか。

クルマが左側を走るか。右側か。

合理的な根拠はなくとも 統一して決めたほうが 合理的であろう。

箸を右手に持つか。左手でもよいか?

左利きは 子どものうちに矯正すべきかどうか。

――物指しも いろいろであるか?
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人は目的を持つと、脳やら体やらがフル稼働して活発になり、良い循環を生むそうです。

無目的だと弛緩してアメーバみたいになり、不活発で停滞し、あまりいい循環にならないそうな。
難しいのは、何を目的にするのかという目的設定だと思います。
目的を作ること、これが今、難しいことなのではないかと思います。
これは合理的にできないことです。
食べることは生きること、では生きることはなに?と問われたときに、人は食べることと答えられない。なんで食べるの?生きるため。なんで生きるの?うーん・・・ってなってしまう。
こんな風に目的を作ることは難しく、合理性でもって説明できないことです。
合理性は、ステージによっては信用できるが、起点においてはあまり役立たないと言えるのかもしれません。
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