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今日の「軍師官兵衛」で、信長に謀反を起こした荒木村重の妻「だし」はじめ「女・子供」も含めた一族郎党が、京の六条河原で公開処刑されました。

こうした「目的のためには手段を選ばない」、「見せしめのためには、非戦闘員でも、女子供でも容赦しない」信長の姿をどう思いますか?

許せませんか? それとも、「必要悪」だったのでしょうか?
そうした弱肉強食の信長だからこそ天下を統一できたのでしょうか?
そして、後の天下泰平の礎になったのでしょうか?

丁度広島・長崎の原爆がアメリカの理屈に依れば、戦争を早く終わらせ、平和を招いたという論法と同じような気もしますが・・・。

別の言い方をすると、そうした相手を選ばない「残虐行為」が、仮になかった場合でも、後の天下泰平は訪れたのでしょうか?

信長のこうした行いは、村重や光秀の、ある意味「穏健」な人々の「反感」を招き、信長の本能寺の変での死を招いたことも考えられますが、仮に信長がもう少し「穏健」で、女子供を成敗するような行いをしていなかったら、どうでしょうか?

歴史に''IF"はありませんが、信長の人物評価とともに、こうした歴史の疑問にお答えください。


※「女・子供」と言う表現は、現代では差別用語に当たると思いますが、ここでは「弱い者」を表す意味で使わせて頂きました。悪しからずご了承ください。f

A 回答 (10件)

>見せしめのためには、非戦闘員でも、女子供でも容赦しない


 って戦国時代は普通です。
 武田信玄なぞ、捕まえた上、金山に放り込んで死ぬまで強制労働とか有名な逸話です。

 それに軍師官兵衛とやらも上月城攻略の時、たて籠っていた士卒、百姓をすべて捕えた上
残る城卒たちは上総踊りの刑罰で皆殺しにしてます。
  その殺し方は蓑笠を着せた城卒に火をかけるのです。
 さらに城中の婦女子200余人を、子供は串刺しに、婦女を磔にして虐殺しにてます
 処刑がおこなわれた谷間は、磔谷と呼ばれてます。

 なお当時の戦国時代は『シュペーラー極小期』と呼ばれる小氷河時代でした。
当時の大名は自国の食料が足らない為、他国に攻め入り食料を確保する為に戦を行ってます。
 なので当時 他国を占領しても、人をそのままにしては絶対的な食料は足りません。
ある程度、人を減らす必要があるのです。
 あの上杉謙信も、人口を減らすために戦を仕掛けた事があります。

>そうした相手を選ばない「残虐行為」が、仮になかった場合でも、後の天下泰平は訪れたのでしょうか?

 足利幕府の衰退の理由の一つです。
 当時、そのような飢饉により、京へ周辺の難民が集中しました。結果京は治安が悪化し、
幕府の権威は悪化しました。

 ちなみにシュペーラー極小期は1420年頃~1570年頃なのです。ちなみに当時の元号は『天文』天文は1532年から1555年なのでシュペーラー極小期まっただ中です。

 食料がないのですから、殺すのはまぁ当たり前。
残虐云々の話はありません
 

この回答への補足

rikukoro2さんには、何回も投稿いただきましたが、最初のこの投稿で、シュペーラー極小期による食糧難を挙げられたのは鮮烈な印象でした。
その他にも、信長の性格が原理主義的で、白黒でしか考えることができなかったことに起因したとするNo.7 のithiさんや、後世の豊臣・徳川政権が信長の残虐性を誇張・デフォルメして、政権安定化に利用したというNo.8のisokenさん、更に、世界中で、宗教絡みの紛争・騒乱が有るのに日本では見かけ上無い様に見えるのは信長公の宗教系大弾圧のお蔭だと主張されたNo.9のssssanさんが印象に残りましたが、思い入れの強さでrikukoro2さんにB.Aを差し上げます。

補足日時:2014/06/18 21:47
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この回答へのお礼

官兵衛も上月城を攻めた時に、婦女子も含めた残虐行為を行ったというのは、他の歴史書にも書いてあるようですね。やはり戦国時代は、こうした残虐行為も不可避だったのでしょうか?

シュペーラー極小期の話は注目するコメントですね。
http://akirayoshikawa.ldblog.jp/archives/3033174 … というサイトによれば、
「過去千年間では,4つの大きな太陽活動の極小期(グランドミニマ)が知られており,それぞれオールト極小期(西暦1010~1050年),ウォルフ極小期(西暦1280~1340年),シュペーラー極小期(西暦1420~1540年),マウンダー極小期(西暦1645~1715年),及びダルトン極小期(西暦1795~1820年)と名付けられている。戦国時代が始まったのはシュペーラー極小期であり、それによる寒冷化が1467年の応仁の乱を引き起こしたと考えられる。そしてシュペーラー極小期が終わり、太陽活動が回復する過程の1500年代後半に、織田信長らが登場して日本を統べる事業が進められていき、それは1603年の江戸幕府の成立で完成をみるのである。」とあるので、回答者様の言われる「真っ只中」は少し過ぎたあたりとも考えられますが、いずれにしても、まだ食糧難のために人口を減らす必要はあったのかもしれませんね。

お礼日時:2014/06/10 21:13

一応補足として


『この時代の武士・大名には、残忍性が代々身に着いてしまっておりり』
 というのは間違いですね。

 例えば日本全国の室町時代
守護大名でそのまま戦国大名として生き残れたのはほんの僅かです。
『武田、京極、佐竹、大内など』日本66カ国のうち少数です。
 温厚な大名はそのまま淘汰されるだけです。
 戦国時代の名将に朝倉宗滴という人物がいますが『犬畜生と言われようとも、勝つ事が一番大事』ともかく、自分が生きるとが最優先というのが大切です。
 そもそも当時は絶対的に食料が不足してますから、そのまま放置しても
他国から攻められ食料を奪われるか、土一揆が起きてそのまま殺されるだけです

 尚、別所長治はドラマでは温厚と描かれてますが
正直、温厚でもなんでもないです。そもそも温厚な大名はその当時まで生き残ってる事はありません。尚、叔父である別所吉親は反信長の急先鋒ですが、本人も反信長です。


 依然、毛利輝元など例外を出しましたが、当時の毛利家は後見人である毛利元就が実際に指揮し、死後は叔父である吉川と小早川がきつく毛利輝元の行動を戒めていました。
 そして後年は佐野道可事件のように温厚さはずいぶん消え、冷酷な面もでています

 
 
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この回答へのお礼

何回もご回答いただき、有難うございました。
当時はやはり『シュペーラー極小期』とやらで、食糧難であり、弱肉強食で生き残ることが最優先だったのでしょうか?

そして、「代々残忍性を身に着いていた」というより、身に着けていかないと生き残れない時代だったのですね。

お礼日時:2014/06/18 21:29

貴方のおっしゃる通り信長のした事は必要悪だったと思いますねー、典型が比叡山延暦寺とか一向一揆とか長嶋一揆とかを徹底的に潰した案件ですねー、これが普通の日本人現代人が知らないか意識してないか忘れてるか何ですが、宗教系は政治に口出すな何です、これで以後日本では宗教団体が政治に表向き口出さなく成って今現在何です、宗教絡みで比較的平穏なのは、チョットホコロビテハ来てますが、草加公明とか議席は無いですけれど幸福の科学とか立候補して議席取れなかった直後に空前のテロやりやがったオウムとかですねー、これも信長公のヒバリが緩んで来てる証拠ですねー。



世界アチコチの国で宗教絡みの紛争.騒乱有るのに日本では見かけ上無い様に見えるのは信長公の宗教系大弾圧のお蔭なんです+秀吉.家康のキリスト教潰しもそうですね、もう秀吉.家康は知ってましたから宣教師は後ろに控える侵略軍の露払い.案内係と言う事は。

天草の原城に立て籠もった天草四郎時貞とか農民の2.3万に徳川軍は10万別説では20万の大軍で攻めて虐殺尽くしたのもキリスト教何て世界中を欧米が植民地にした先兵.露払いを知ってたからです、信長時代に宣教師連中は日本人を何10人も拉致して他国で売買してますし秀吉.家康が怒るのは道理てす。*これは記録が有る様です*


原城に立て籠もった農民は隠れキリシタンで無い人も大勢居たには居ましたけどね、年貢取り立てがキツクテの農民も、でも原城に立て籠もった2.3万には徹底的に虐殺でしたね。異教は潰して置くで植民地主義者の露払い何ですから日本盗られない為には。
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この回答へのお礼

なるほど、世界中で、宗教絡みの紛争・騒乱が有るのに日本では見かけ上無い様に見えるのは信長公の宗教系大弾圧のお蔭なんですね。これはある意味大変恩恵のあることだと思います。
欧米では、政治への宗教の口出しが極めて多いのを考えると奇蹟的なことだと思います。

お礼日時:2014/06/18 21:23

>織田信長ってどう思いますか?



全ては何の根拠も無い全くの想像である事を御理解頂きたいが、信長が為したその時代さほどとも思われない一連の行為をして、著しく残虐と印象付ける必要性がその後の豊臣・徳川両政権にあり、そしてその伝聞がデフォルメされて後世に受け継がれた、そう考えます。

信長の場合は、比叡山延暦寺の焼き討ち・長島の一向宗徒殲滅ほか、世間に誤解され易いティピカルな事例がありましたが、その双方ともに重武装した立派な戦闘集団でして、これはほぼ純粋な戦闘行為と断言しても宜しかろうと・・。
ところがそこに何等かの意図が働いて、残虐行為の典型例としてすり替えられた、そう考えれば全ての辻褄が合う。

さて中国の易姓革命に於いて特に顕著でして、政権が変われば前政権をほぼ全否定するのが常ですが、その実豊臣・徳川の両政権は織田の亜流且つ延長線上ですから、面と向かって信長批判を展開出来ないという背景がありました。

つまりそれとなく信長の残忍さをデフォルメする事で、或る方向に世論を誘導しようとしたとしても決して不思議ではなく、信長のみが残虐と印象付けられた背景には、その後の政権の意図が見え隠れする、私自身はそう考えております。
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この回答へのお礼

非常に興味深い仮説ですね。
偶々相手が「比叡山延暦寺」や「石山本願寺」や「長島の一向宗徒」といった宗教勢力だったので、「神仏をも恐れぬ所業」と言われたけれど、正規の戦闘行為であったものを、後世の豊臣・徳川政権が残虐性を誇張・デフォルメして、政権安定化に利用したという側面はあったかもしれませんね。

お礼日時:2014/06/16 20:29

oozora2000さん、こんばんわ。



こうした「目的のためには手段を選ばない」、「見せしめのためには、非戦闘員でも、女子供でも容赦しない」信長の姿をどう思いますか?


確かに苛烈ですね。叡山の焼き討ち、長嶋一向一揆の虐殺。しかし、これがあの時代の常識みたいなものですね。ただ、彼の場合はとてもやりすぎだったらしく、別所長治も裏切りましたし、この後、気に入らない家臣を放逐したり、天下統一寸前で家臣に裏切られて殺されましたね。あまりにも織田家の勢力の拡大が早かったので、内側のことを考える時間がなかったのでしょう。
これには信長の性格が原理主義的ではっきりしすぎているので、いつも白黒でしか考えることができないところが問題だったのでしょう。



信長のこうした行いは、村重や光秀の、ある意味「穏健」な人々の「反感」を招き、信長の本能寺の変での死を招いたことも考えられますが、仮に信長がもう少し「穏健」で、女子供を成敗するような行いをしていなかったら、どうでしょうか?


確かにそうなれば、家臣も安心してもう少し安定した政権だったでしょう。でも、その分勢いがなくなりますから、天下統一に時間がかかったと思います。
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この回答へのお礼

「人間五十年」であることをわきまえ、太く短く生きようとした信長としては、「天下布武」という目標の前には手段を選ぶ余裕がなかったのかなと同情いたします。
家臣としてもいつ信長の怒りの矛先が向けられるともわからず、心の平安が得られなかったのではないでしょうか?
白か黒かと言う原理主義的な考えは、小生も最も憎むべき性質であり、どこまでいっても共感は出来かねます。共感できない時代であれば、はじめから「降りる」人生を私だったら選択していたような気もします。

お礼日時:2014/06/16 20:20

 そうそう


>村重や光秀の、ある意味「穏健」な人々の
 戦国武将で穏健ってほんと少ないんです。
  有名なとこで『毛利輝元』ですけど、ただ毛利輝元の穏健行為(馬鹿行為)を周り(小早川、吉川)が必死で止めていたからなんとかなった。とも言えます。
 無論、村重や光秀は穏健なんてありません。

 光秀とか例えばフロイスは自身の著書『日本史』の中で光秀について
「彼は、裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」
 とあります。

 実際 明智光秀が丹波において波多野を攻め落とした後など けっこうエグイです。

NHKドラマと実際の歴史を混同しないほうがいいです
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この回答へのお礼

何度も回答有難うございました。
この時代に「穏健」でいることが、如何にリスクの多いことであったか、分かるような気がします。
勿論、村重や光秀だって相当強者だったのでしょう。
一方、輝元の人生にも一寸興味が湧いてきました。
同様に、別所長治も穏健であるように、「軍師官兵衛」では描かれていたように思いますが、叔父たちの妄動を抑えきれず、信長に反旗を翻したのでしょうか?

お礼日時:2014/06/15 15:39

さらに蛇足



 こうし信長→殺す
 ってイメージは江戸時代からの風習みたいなもんですが、実は戦国武将なら誰でもやっていた事なんですな。
 同じような事は『豊臣秀吉』と『徳川家康』も行ってます

 例えば豊臣秀吉なんてもっとえげつないです。
信長なんかは敵には容赦ありませんけど
 謀反しても反省すれば許す事もです。松永秀久など信長に対し2回も謀反、2回とも許してます。(まぁ2回目で秀久は降伏をよしとせず自爆しましたが・・)
 有名な佐久間折檻状にも、あとで武功を上げればOK として許してます。
 実際、柴田勝家も1回謀反してますよ。後で許され、宿老まで上り詰めてます。

だけど豊臣秀吉なんかもっと非道です。
 羽柴四天王と呼ばれている4名がいますけど、そのうちの2名『神子田正治』『尾藤知宣』
この方1回の失敗で処刑です。
 例えば尾藤知宣なんか讃岐国丸亀5万石の大名ですよ・・・。
 部下であろうと1回の失敗で処刑なんて信長もやってません
 
  
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この回答へのお礼

この時代の人間の暴虐性は「サガ」のようなもので、誰でも似たり寄ったりだということがわかりました。
そうした暴虐性と彼らの克己心、大局観、政治力などは、分けて考えるしかないような気もしますが、如何でしょうか?

お礼日時:2014/06/15 15:22

 あと どーでもいい補足ですけど


NHKの大河ドラマって主人公を徹底的に美化するんですよね・・・。

 黒田官兵衛の有名な史実に以下のような物があります。

九州の城井氏の話です。
 1587年、九州征伐により、島津氏が豊臣秀吉に降伏し、城井家も秀吉に降伏。
城井氏は伊予国への転封を命じられたが、鎮房はこれを拒絶し、豊前国の本領安堵に固執したため、秀吉の参謀で豊前国中津に新たに大名として入封してきた黒田官兵衛と対立する。

 天嶮の要害・城井谷城に籠もって頑強に抵抗したことに呼応して豊前の国人が蜂起する豊前国人一揆が起きた。
 城井鎮房の13歳になる娘・鶴姫を人質とする事を条件に和睦が成立する。しかし黒田は鎮房を中津城に招いて騙し討ちを仕掛け、酒宴の席で鎮房は謀殺。
 肥後国人一揆に参陣した嫡男・城井朝房も同時期に黒田官兵衛に暗殺、さらに居城を攻められ、鎮房の父・長房および家臣団も掃討された。
 鶴姫は13人の侍女と共に、山国川の千本松河原で磔にされ惨殺された。こうして大名としての城井氏は終焉した。

 正直黒田官兵衛の逸話だけでも、残虐な話には事かきません。
といっても・・・NHKはこのあたり放送しないんでしょうね・・・、

 
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この回答へのお礼

再度回答有難うございます。
確かに、どんなに大河ドラマで美化しても、この時代の武士・大名には、残忍性が代々身に着いてしまっており、自ずから近代社会の「解放感」からは無縁の存在のような気がします。

お礼日時:2014/06/15 15:18

まあ下克上の時代ですしね。

そのくらいでなければ頂点に立つことは出来なかったのかも。多かれ少なかれ他の大名もやっていたことだと思います。

それに当時は飢饉が酷く、一向一揆が頻発していました。その中心となっていたのが石山本願寺だったかな?急激に人心を集めていく一向宗の勢力は無視出来ないものだった。それに通じていた村重のことも。でも重用していた部下だから、妻と子供の命を盾に翻意を促しましたが、村重がこれを拒否したので、一族皆殺しになった。
こうした駆け引きを、信長はけっこう行っていたようです。

私は、信長はかなり合理的な人だったのではと思っています。
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この回答へのお礼

まあ、一向一揆の勢力拡大を放置する訳には行かなかった信長が、一向宗門徒とつながりのあった村重に疑念を抱きつつ、その人柄や実力に惚れ込んでおり、何とか味方につけようとして、妻と子供の命を盾に翻意を促したが、村重がそれを拒否したので、仕方がなかったのかもしれませんね。
信長も本当は殺したくなかったけど、一度出してしまった鉾は収められなかったのかもしれません。
それにしても、あの情け容赦のない仕打ちは、ちょっと目を背けたくなりますよね。

お礼日時:2014/06/15 15:14

むしろ信長のやり方こそが戦国時代では普通じゃないでしょうか?


家族や家臣 領地を安堵する事のほうがむしろ特殊な事で 後々の策略まで利用するためなのです

しかも荒木村重は武士です
その家族も武士の家族であり 非戦闘民と言う扱いにはならないでしょう

戦国時代とはそういう時代なのです
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この回答へのお礼

毎度ご訪問頂き、有難うございます。
そうか!武士の家族は非戦闘民と言う扱いにはならないかもしれませんね。

お礼日時:2014/06/09 20:33

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