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鎖国をしたことにより起こったことを教えてください。(ネガティブなこととポジティブなこと両方)
また鎖国したことにより日本に与えた影響を教えてください。

質問者からの補足コメント

  • アメリカの学校の論文用なので出来るだけ細かくお願いします。それと、日本にとってネガティブなこととポジティブなことです。

      補足日時:2019/04/11 06:04

A 回答 (6件)

鎖国する前の状況もちょっと書きましょう。



日本が鎖国する直前の時期は戦国時代ですが、室町幕府が明の冊封を受けて貿易を行っていただけでなく、戦国時代は宣教師も受け入れていましたし、日本人が外国にも出て行って活躍していました。当時の南蛮人の防衛拠点は東南アジアにあり、当時最大の日本人街はタイのアユタヤにあり、シンガポールやフィリピンのマニアなども割と大きな日本人街がありました。

当時の日本人が外国で仕事を見つけるのは、男なら傭兵、女なら売春婦で、戦国時代だった日本の傭兵は実戦経験豊富で強い、という評判であったのです。

また南蛮貿易に伴い、キリスト教に改宗した一団がローマ法王に謁見したりしています。戦国代までの日本は東南アジアを中心とする南蛮人と東洋人の国際社会の一端を担っていたといっても過言ではないのです。

鎖国はその経済的交流をほぼ断絶させることになります。
一部残っていたのは、明朝及び清朝との貿易、イギリス・オランダとの出島での貿易だけになります。

鎖国によって大きく影響を受けたのは宗教で、カソリックを布教する宣教師を完全に排除したことから、日本は現在に至るまでキリスト教徒の数が非常に少ない国になっています。これにより、独自の宗教観が発達するとともに、近代化後もキリスト教の影響が少ない社会になっています。

次に影響を受けたのは経済で、南蛮貿易から植民地政策、さらには帝国主義に変わっていく西洋国の国際経済とほとんどかかわりを持たずに明治維新を迎えることになります。その影響は大きく、特に産業革命などの技術革新については江戸時代にほとんど進まなかったため、明治に近代化を強烈に推し進めることになります。

しかし、皮肉なことに、西洋の植民地政策も受けれなかったため、西洋による搾取も経験せず、日本と言う島国で閉じた経済圏を産むことにつながっていきます。それもまた明治維新後の西洋文化の受容に大きく影響し、他のアジア国と違って一気に近代化できた要因にもなっています。

その要因は日本国内だけの経済近代化です。
日本は島国ですので、世界経済とのつながりを絶てば、日本国内で賄うことになります。偶然の産物ではありますが、江戸時代に入ると都である京都と商人の町である関西、それに新都である江戸と2重の経済圏が発展することになり、特に関西は銀による決済、江戸は金による決済と、国際社会と同様の2重経済圏にもなったこと、江戸が莫大な消費地であるのに初期のえど周辺には生産拠点がほとんど無かったことから、関西→江戸というまるで西洋→植民地と言う流れに近い、経済活動が生まれることになりました。

その結果、関西から江戸に向かう菱垣廻船・樽廻船が生まれ、やがてこれは日本を1周する貿易船団となり、まるで地球を一周する初期の帝国主義と同じ働きをしていくことになるのです。
これにより日本は為替などの近代経済の基礎と、貿易などの経済的な基礎、さらには自由経済圏という市場まで西洋に近い状態で維持し、明治を迎えることになったのです。

面白いのは樽廻船で、世界でも「樽」を利用したのはヨーロッパと日本に限られていて、つまりそれだけ「船による貿易が盛んであった」ということもいえるわけです。

総じて俯瞰した時に、日本にとって
ポジティブだったのは
・西洋の海洋貿易がだんだんと植民地支配になり帝国主義化していった流れにほぼまったく影響を受けなかったこと
・それにより、独自の文化と宗教観を維持することができ、近代化した後も非西洋国で唯一の近代国家になったこと
などでしょう。

ネガティブだったことはあまり考えにくいのですが、
・結果として江戸時代末期に帝国主義的な西洋国への対応を誤ったこと
・近代化に多くの犠牲が払われたこと
等になると思います。

江戸末期の状況を説明すると、ほとんどの人がペリーの黒船に目を奪われてしまうのですが、実はそれ以前から「日本に向かう帝国主義(植民地主義)の流れ」はあり、特にシベリアを渡って太平洋に到達した帝政ロシアの影響は無視することはできないでしょう。

ロシアはカムチャツカ半島から千島列島を南下し始めたのが18世紀初頭で、この頃の千島列島とカムチャツカ半島には日本人(和人)とアイヌが少数ですが住んでおり、北海道から北を統括する松前藩は1715年(正徳5年)幕府に対し、「十州島、唐太、チュプカ諸島、勘察加(カムチャツカ半島)」は松前藩領と報告していたぐらいです。

また、小笠原諸島が日本人に知られたのは1670年とされていますが、ヨーロッパの船はそれよりも早く1639年には発見された記録があり(1543年にもあるが記述が不正確)、日本人は発見した5年後には早くも「此島大日本之内也」と標識を立てています。

ペリー来航は19世紀初頭1809年の事ですが、それより100年も前からすでに日本と西洋国の再接触は始まっていて、鎖国していた日本は西洋国家の「無主の地を自国領土にする方針」に対抗する手段を殆ど有していませんでした。

「此島大日本之内也」もそうですが、間宮林蔵の樺太探検は実はロシアに対抗したものであり、伊能忠敬の日本地図作製も「西洋国は領土とする場所の正確な緯度経度と地図を提出する」と言う点を踏まえて作成されたものだったのです。

日本は鎖国によって世界中を席巻する西洋国から切り離され独自の文化が花開いたというメリットの半面、西洋国の領土主張に対抗するために大変な努力も余儀なくされた、ともいえます。

経済については、幸運なことに自国内で模擬的な国際貿易システムを発達させることができたため、為替や先物取期になどの近代的経済への知識も明るく、国民の教育レベルも高くなりました。
これにより、小栗上野助による幕末の日米貨幣交渉なども欧米人が舌を巻くほどの知識で理路整然と交渉でき、日本の開国と独立を後押ししたのです。
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ネガティブ


 ↑
国際関係に疎くなった。

科学技術などの発達が遅れた。




ポジティブ
 ↑
キリスト教を禁止することにより
欧米列強の侵略を免れた。
と、いうか、鎖国の目的がこれでした。

独自の文化が花開いた。
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マイナス面:海外の技術発展や情勢から隔離された、独裁化した、国際的な国力が落ちた、


プラス面:日本独自の発展、文化を確立できた、植民支配されずに済んだ、独裁によって国がまとまった。
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幕府が貿易を独占した、造船、航海技術が衰退した。

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問いに応じた回答をします。



ネガティブ:国際感覚がはぐくまれなかった

ポジティブ:国独自の文化の発展が促された
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知りたい理由はなんでしょうか。



例えば個人的な趣味の範囲でしたら影響は大小様々過ぎて…。イチから知りたいのであればまずはウィキペディアなどを参照した方が早いです。

学校の課題であれば授業で何かしらしていると思うので、まずは教わった事に焦点があるはずなのでそれを補足でかき出してみてはいかがでしょうか。

ちなみに史実について「ネガティブ」「ポジティブ」という視点は「誰にとって」で全く変わります。
なので「客観的にネガティブな影響」というのは存在しません。
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