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学校でら、江戸幕府崩壊に天皇が介入したとは教わりませんでしたが、絶対に何らかの影響力はありましたよね?

単なるデフレだけが理由じゃないような気がします。幕府が崩壊した理由は簡単に言うと統治の仕方が雑だったのが災いして市民による一揆が起き、加えてお金の管理もずさんだったらしいですが、あんなに強い勢力を持った幕府が、本当にそれだけの理由で衰退するものなのでしょうか?

天皇は、自分たちが直接関わらなくても自分の存在無しでは幕府はどうせ滅びると見切ったから変に首を突っ込まなかったのでしょうか?でなければ、別の勢力が拡大するのを黙って見てるなんて普通はしないと思います。

幕府を信用できなくなった市民たちが、続々と天皇側に付くのを密かに眺めていたのではないでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 学校でら→学校では

    (修正します)

      補足日時:2019/05/07 23:17
  • デフレ経済についてはここをご覧ください。様々な要因が重なって崩壊に至ったのでしょう。たしかに一揆が1番の原因ではありません。

    https://president.jp/articles/-/25019

      補足日時:2019/05/08 01:41
  • ありがとうございます!勉強になりました。じっくり読ませて頂きます!

      補足日時:2019/05/08 09:08

A 回答 (3件)

>単なるデフレだけが理由じゃないような気がします。



デフレが理由なんて聞いたことがありません。

>幕府が崩壊した理由は簡単に言うと統治の仕方が雑だったのが災いして市民による一揆が起き、加えて>お金の管理もずさんだったらしいですが、

どこで聞いた話ですか?
少なくとも市民の一揆が原因ではないし、お金の管理も関係ありません。
薩長を中心とした反幕府体制が朝廷を取り込んで幕府を再起不能なところまで追い込んだのです。
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学校でら、江戸幕府崩壊に天皇が介入したとは教わりませんでしたが、


 ↑
外国との貿易で、天皇は開港に反対していましたよ。
それで尊皇攘夷運動が盛んになったのです。
学校で教わりました。



絶対に何らかの影響力はありましたよね?
 ↑
勿論です。



単なるデフレだけが理由じゃないような気がします。幕府が崩壊した理由は簡単に言うと統治の仕方が雑だったのが災いして市民による一揆が起き、加えてお金の管理もずさんだったらしいですが、あんなに強い勢力を持った幕府が、本当にそれだけの理由で衰退するものなのでしょうか?
 ↑
1,内面的理由
 武士が武士で無くなったから。
 武士とは戦争のプロのことですが、平和が続き
 旗本などはただの官僚になってしまいました。
 ほとんどの武士は仕事もしないで、禄をもらって
 いて、存在価値がありませんでした。
 存在価値が無いものは、いつかは消滅します。

2,西洋は国民国家化に成功しました。
 つまり、王侯貴族のモノに過ぎなかった国家を
 庶民を含む国民のモノとしたのです。
 これは、国力を総動員できるので、強力なのです。
 だから、西洋が世界を席巻できたのです。
 日本も西洋にならって国民国家化する必要があり、
 それには武家を廃止する必要があったのです。
 


天皇は、自分たちが直接関わらなくても自分の存在無しでは幕府はどうせ滅びると見切ったから変に首を突っ込まなかったのでしょうか?でなければ、別の勢力が拡大するのを黙って見てるなんて普通はしないと思います。
  ↑
岩倉具視などが、中心となって、天皇を動かして
いますが。
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質問者様の提示するURLの内容も拝見しました。



たしかに、このコラム氏を書いていることは正しいし、そういう点では「デフレが江戸幕府を崩壊させた」のは正しいのですが、このコラム氏は根本的なことを書いていないので、誤解というかミスリードを招いています。

まず何が書かれていないのか、について

 封建主義というのは農本思想と一体になっています。民主主義と資本主義が一体なようにです。コラム氏が書いている「デフレ」という分析は、あくまでも資本主義(&民主主義)の原則があってできることで、そこには「自由市場経済の原則」が必要になってくるわけです。自由市場だから、アダム・スミスがいう「神の見えざる手」でインフレになったりデフレになったりして、政府はそれに対応する、わけです。

しかし、農本思想というのはそもそも自由経済ではありません。だからそもそも江戸幕府が改鋳とかをやってはいけないし、インフレにもデフレにも「ならない」のが農本思想の基本だったのです。

だから幕府の政治家たちは「インフレ対策・デフレ対策」という概念ではなく「本来あるべき農本思想として正しい経済」になるために特別で一時的な対策「改鋳や引き締め」などを行っていたにすぎないのです。

農本思想と貨幣経済
ところが日本は世界的に見て非常に早く貨幣経済が発達した国だったのが幕府を困らせることになります。農本思想経済では物々交換がもっとも機能するのです。

農本思想とは「人々の命をつなぐ農業生産が最も重要な経済価値であり、その生産のために土地を確保し、農民を土地に縛り付けて農業労働に従事させること」をいいます。階級社会というのは、農民を農地に縛り付け、農業の生産を一定にすることを主目的としていて、武士階級というのはその監督のため、商工は農業や生活に必要な最低限の物資の補給のためにこれも小数だけ許される身分だった、はずなのです。

ですから、商人が大量に発生し、右から左に商品を移動させて儲けると農民は「あんなに簡単に儲かるなら農業しなくていいや」と考えるようになります。金融業はもっと悪くて、お金自体が利子を産んで、金持ちは座って金を貸すだけで利益が上がるようになります。これも農民から見れば「あんな楽な商売ない。毎日地面を耕すのはバカバカしい」と考えるようになり、その結果(人々の命を担う)農業を放棄する人が増えてしまう可能性があり、幕府や各藩はそれを最も恐れたのです。

だから倹約令が何度も出ているし、徳政令も出して、経済の過熱を抑えようとしたのですが、江戸時代には地方の寒村でも貨幣が利用されるようになっていたので「お金をお金で稼ぐ(つまり金貸し)」を防ぐことができなくなっていたのです。

しかし、幕府は農本思想にこだわる(こだわらないと武士階級が不必要になる)ので、年貢は米で納めさせ、農民とはなるべく距離を置いた場所で商人に米からお金に変えてもらって幕府の財政を賄っていたのです。

ですので、最初の町人文化である元禄文化の頃にはすでに封建主義は日本の経済実態とは合わなくなっていて、それをなんとか農本思想の軌道に乗せるため、改鋳したりまた逆改鋳したり、徳政令を出したりとインフレとデフレを繰り返しながら200年間経済運営をしていったのです。

その点でコラム氏が書く「通貨発行益で200年乗り切った」というのは正しい知見ではありますが、今の経済原則から見たデフレというのとは根本的な意味が違うのです。

そもそもなぜ元禄文化という町人文化が花開いたかというと、農業の生産性が向上したからです。これもカラクリがあって、そもそも検地がまともに行われていなかったからなのです。戦国時代が終わると、農民から兵員の供出がなくなります。さらに元禄の頃まで80年ほど平和な時代が続きましたので、農耕可能な土地も増えましたし、生産性も伸びていたのです。しかし、検地は元禄までに4回しか行われず、しかも天領以外ではほとんどおこなわれませんでした。

また元禄以降は幕末まで検地が行われず(というか農民が反対してできず)、農業生産の向上や各地域の特産物の販売などが幕府や藩の収入に全くなっていなかったのです。そのため幕末には天領の一般的な地域でも元禄の頃に比べて米の生産高が1.2倍ぐらいになっていて、5公5民でも実際には5公7民だったのです。
 だから農家は「余った米や余暇で作った特産品」を市場経済に乗せて儲けましたし、その仲立ちをした商人はもっと儲けて、幕府や藩だけが農本思想にこだわったために、加熱した貨幣経済である経済の実体とどんどん離れてしまったのです。

その結果、幕府や藩は通貨発行だけでは経済のコントロールができなくなり、借金まみれになって幕末を迎えることになったのです。

この点について「天皇」が自ら動いた、という記録はありません。しかし公家にも岩倉具視など現実を見極めている少数の秀才がいて、彼らが主に松下村塾で学んだ武士たちと結託したことで、明治維新に大きく動くことになるわけです。公家が動くには天皇の意向はそれなりに働いたでしょうが、そもそも御簾の後ろにいる天皇は情報が遮断された状態だったので、どこまで知っていて判断したかは分かりません。「幕府憎し」という感情はあっても、実際の指示を天皇が出した、と言うことは無いと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2019/05/08 09:11

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