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16世紀後半から東アジア貿易ネットワークへのヨーロッパ人(特にポルトガル人)の進出、介入が著しくなる中、ヨーロッパ人はお金がなく、中継貿易(日本への中国製生糸の輸出など)によって巨利を得ていたそうですが、

なぜ中国人商人は利益が減るだろうにも関わらず中国人倭寇の船に同乗させたのでしょうか?中国商人はポルトガル人と抗争して利益を独占しようと考えると思うのですが。

A 回答 (2件)

まあ、一言で言えば「陸地で生産できる商品に対して、貿易のために運べる船の数が全然足りなかった」からです



元々、この時代の貿易船は「お金が足りない」というより「最初からそれほどお金を持っておらず、現地で稼ぎながら移動する」ものでした。
なので、ヨーロッパを出発する船は自前のお金でアフリカあたりで売れるものやアジアで高値で売れるものを積み込み、アフリカの寄港地で品物を売って、現地通貨で滞在費や食料を払い、品物を仕入れて次の寄港地で売る、という事をしていました。もちろん最終目的地はアジアで、そこで高値で売れる商品も買っていますが、日常的な商品でも「船で運ぶ」なら運搬費が陸路に比べて安いので、十分に利益が出たのです。

このような形で各地に寄港しながら、船は進みアジア圏内でも同様に寄港地で売る・買うを繰り返していきます。

そして中国から日本への貿易は「ルートが細く、また寄港地の無い危険な航海」であるため、商品を運ぶ船があるなら、どれでも喜んで運んでもらったのです。それぐらい対日本の貿易は旨みがあったからです。

したがって、ポルトガル船に中国商人が乗り、水先案内をしながら利益を分け合うこともあったし、ポルトガル人が中国船に乗り、日本の南蛮人ルートで売りさばくこともあったのです。

中国にも日本にもお互いが欲する商品はたくさんあったのですが、それを運ぶ船はニーズに対してとても少なかったので、リスクも高いですが、利益が半端なく高かったので、中国人もポルトガル人も喜んで船に乗って日本を目指したのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2019/08/12 12:11

歴史を紐解くのであれば、その当時の中国(国の内情)について知らなければなりません。



16世紀後半を調べてみると、ちょうど明から清へ国が変わる前の時期ですね。
北虜南倭によって明は相当な財政面におけるダメージが負い、停滞していました。
ですから、張居正という人物が改革をしました。
大部分省きますが、貿易を広く許可することによって倭寇の存在意味を無効とする働きです。
これが「中国人倭寇の船に同乗させた」理由ですね。
商人の利益よりも、まず国として維持できる状況を保つ方が優先されたわけです。
結果的にその改革は成功するのですが、その後、秀吉の朝鮮出兵など様々な問題があり、明の負債は大きくなっていました。ただ、明が滅びる大きな要因は北慮南倭なので、ポルトガル人と対抗する余裕はなかったかと思いますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2019/08/12 12:11

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