プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

このところいくつかの同じような質問があって、眺めているうちに妙なことを思いついてしまいました。

1)公園を散歩する
2)公園で散歩する
 どちらもフツーに使うでしょう。
 日本語教育のジャンルでは有名な話のようです。
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%85%AC%E5 …

3)公園の散歩をする
4)公園での散歩をする
 どちらも無理気味です。特殊な文脈をもってくればなんとかなるかもしれません。
「公園(で)の散歩」を日課にしているくらいならアリでしょうか。

 さて、本題はこのあとです。
5)公園を掃除する
6)公園で掃除(を)する
7)公園の掃除をする
 6)だけはなぜか「を」があってもなくてもいい気がします。理由は不明です。

「散歩」だと「の」に異和感があるのに、「掃除」だと自然なのはわかりますが、なぜなのでしょうか。
 1)と2)はほとんど同じ意味に思えます。
 でも、5)よ6)は相当違う気がします。どう考えればよいのでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • どう思う?

    国語辞典ひけば、格助詞の「で」には「場所を表わす」と書いてあります。おそらくすべての辞書にそういった記述があるはずです。
     それを全否定するなら、もはや日本語の文法の話ではなくなるでしょう。ヨソでやってください。
    https://kotobank.jp/word/%E3%81%A7-573220

      補足日時:2019/12/13 21:43
  • どんどん症状が悪くなっているようですね。
     ご自愛ください。

      補足日時:2019/12/19 22:27

A 回答 (29件中11~20件)

まだ続いているようなので、興味は無いかもしれませんが、すこしお邪魔させていただきましょうかね。


アスナロウさんの論理が、あまりに無茶苦茶なもんで、見るに見かねてということで。

1.
>★「公園で掃除する」
この「で」が場所を表わすと考えられている方が多いようですが、そもそも「公園」は場所でしかなく、それにも関わらず何故「で」が場所を表わすと考えられるのか、その理由を参考までに伺えれば幸いです。(#15)

『「公園」は場所』だからこそ、

「公園で」というのは、《「で」が(公園という)場所を表わす》

と言えるのです。
こんな簡単なことがなぜおわかりにならないのか?
『それにも関わらず』と論を展開している時点で論理破綻していることにお気づきになってください。

2.
>>「戦争」が「原因・理由」にはなると思いますが、「手段・方法」とは考えにくいのですが。

★戦争で国民の目を外に向けさせるのも一法であろう。
などは、「戦争」を手段として捉えていると思いますが、どうでしょうか。(#15)

詭弁の例証みたいなことをおっしゃっておられる。
そもそもは、「ニューギニアで戦死した」という#10さんの例文が元ネタです。

「ニューギニアで戦死した」原因・理由が戦争だとは言えるかもしれないが、【ニューギニアで】が「手段・方法」とは考えにくい。あくまで「場所」という用法ではないか。

と#10さんは言っているわけだ。
それに対して、【戦争で】と「手段・方法」用法が明らかな例文を挙げることで、いかにも【ニューギニアで】も「手段・方法」用法であるかのような論理展開を試みようとしている。
だから【ニューギニアで】も「手段・方法」用法になると思うがどうか?
と詰問しているわけだ。
この展開で場所ではないことを納得させようとしているらしいのだが、それは無理筋すぎるでしょうよ。
小学生あたりなら胡麻化されるかもしれないが。
逆に、
「ニューギニアで戦死した」などは、
「ニューギニア」を場所として捉えていると思いますが、どうでしょうか。
と問われる可能性に気づいてないらしいのが痛いところですな。
まあ、ヘーゲルやカントを持ち出すまえに、こうした基本的な姿勢や論理を少し見直してみてください。
それからのご高説なら、喜んで拝聴したいものと感じてはおりますので。

3.
#18についても誤解が顕著なので触れておきましょう。

>辞書が書いているように場所や時間や「時間的・空間的・心理的なある点を指定するのが原義〔広辞苑〕」というのは「助詞それ自体がある事物や動作・状態を指す」と解釈した誤りだということです。

★学校【に】大きな木があります。
この「に」は、空間的なある点として学校を指定する働きをしています。
「に」という助詞それ自体が(学校という)事物を指していると解釈している人などどこにもいませんよ。
誰がそんなことを言っているのですか?
アスナロウさんが勝手に思い込んでいるだけでしょう。
[ 自体 ] という言葉の重要性を再確認してください。同様に、
★5時【に】会議が始ります。
この「に」は、時間的なある点として5時を指定する働きをしています。
「に」という助詞それ自体が(5時という)状態を指していると解釈している人などどこにもいません。

因みに、「に」の意義を最も正確に語釈しているのは、下記に引用する学研国語大辞典(※)でしょうね。
【おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定】
すばらしい日本語じゃありませんか。
個人的に以前から認証している【着点】という意義を的確に表現した内容とも言えます。
これを理解できないようではネイティブの名が廃るかもですよ。

※「に」
㊀《格助詞》{体言または体言あつかいのものにつく}動作・作用が存在し、成立し、由来し、おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定し、連用修飾句を作るのに用いる。※
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この回答へのお礼

ホニャララ問答はやっと終わったのでしょうか。
 何を書いてもムダだと思いますよ。現代の日本語にはあてはまらない文法なんですから。そのことに気づいていないのは、おそらくご当人だけです。
 未来なら通用するのかもしれません。
 いわば「SF文法」なのでしょう。当方は関わりたくありません。

 それより、本題に関してはどうお考えでしょうか。
 コメントNo.1のお礼に書いたことを再掲します。

【1】6)だけはなぜか「を」があってもなくてもいい気がします。理由は不明です。
【2】「散歩」だと「の」に異和感があるのに、「掃除」だと自然なのはわかりますが、なぜなのでしょうか。
【3】5)よ6)は相当違う気がします。どう考えればよいのでしょうか。

お礼日時:2019/12/26 22:42

もう少し補足しておきます。



>>国語辞典ひけば、格助詞の「で」には「場所を表わす」と書いてあります。おそらくすべての辞書にそういった記述があるはずです。

これが誤った説明、解釈だということです。

★先生【に】お電話をいただきました。
★先生【に】はペンをあげました。
★先生【に】本をもらいました。
★ここ【に】見本があります。
★学校【に】大きな木があります。
★僕【に】は弟がいる。
★5時【に】会議が始ります。
★5時【に】会議が終わります。

これらの格助詞「に」は全て、空間的・時間的な位置付けの認識を表わすもので、何ら特別の用法ではなく、格助詞「に」の通常の用法に過ぎません。

つまり、No.17で「名詞や動詞などと違って、助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。」と言っている通りで、格助詞は話者による対象の関係の捉え方を客体化することなく直接に表現しています。

この本質が理解できずに、辞書が書いているように場所や時間や「時間的・空間的・心理的なある点を指定するのが原義〔広辞苑〕」というのは「助詞それ自体がある事物や動作・状態を指す」と解釈した誤りだということです。

この本質を理解できずに、文での意味を取り上げ「二の特殊用法? 」などと寝ぼけた戯言を繰り返しても無意味だということです。意味は使用された文でそれぞれ異なり、無限に生み出されるに過ぎません。

膠着語としての日本語の特殊性を正しく理解し、科学的な日本語文法を築き展開する必要があります。

>>それを全否定するなら、もはや日本語の文法の話ではなくなるでしょう。

などと、あさっての方向を向いている人こそ、「ヨソでやってください」ということです。
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No.16 の補足として「助詞の意味ということ」を述べた、柴谷方良(まさよし)「助詞の意味と機能について―「は」と「が」を中心に―」の一部を次に引用しておきます。


 これは、『文法と意味の間―国広哲弥教授還暦退官記念論文集』 [くろしを出版,1990.6.1]に寄せられたものです。

「2.助詞の意味ということ」より

 名詞や動詞などと違って、助詞はそれ自体がある事物や動作・状態を指さない。助詞の意味というときには、ここに問題点の一つがある。このことについて山田孝雄『日本文法論』は次のように言う。「そのあらわせる観念の上より観察すれば助詞は単独にては何らの観念をもあらわし得ず、他の観念語に付属して其の義を認むるを得るのみ」そして、「その機能によりて観察すれば、助詞は観念語たる体言用言副詞に付属して其の意義を明にし、又それらの間の関係を示すに用いられる。」山田は、助詞の分類(記述)として、意義を中心としたものと、それらが示す関係すわち職能に根拠を求めるものとがあり得るが、上の引用でも明らかなように、「独立しては何の観念をもあらわしえるに関せず、他の品詞につきて関係を示すことによりて始めて意義を認め得らるるものなれば、その意義は関係に依存する」(549頁) ことから、助詞の研究は意義を主眼としたものでなく、職能を中心としたものでなければならないと説く。
 助詞の研究ということで注意すべきいまひとつの点は、これ以下に言及する国広先生の論考にも触れられていることであるが、「記述に際し、発語の『意味』や文の『意義』の記述を混じ」ないことである(服部 1953)。
 助詞の研究にとって上述の2点は最も肝要なことと思われるが、近年の助詞研究では必ずしもこれらの点が守られているとは思えない。このことが、現在の有力な助詞論の根本問題であると思われる。例えば、助詞の職能(以下「機能」という)の観点からすれば、係助詞「は」と格助詞「が」は違った系列に属し、現在行よく行われているように、同じレベルで取り扱われるべきものではない。(このことから、本論の表題についても、これらを同系列のものとして取り扱おうとしているのではないということに留意されたい。)/

以下、「は」の主題、「が」の総記、中立叙述という誤りについて論じられ、最終的に認識の相違について限定的ではありますが論じられているので、是非参照下さい。

師である国広哲弥の「は」「が」論、野田 尚史の「は」「が」の俗論を鋭く批判しています。
あくまで、生成文法文法研究者としての枠内ですが鋭い指摘をしています。
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>>国語辞典ひけば、格助詞の「で」には「場所を表わす」と書いてあります。

おそらくすべての辞書にそういった記述があるはずです。

辞書の誤りを信仰、妄信していては進歩も、発展もありません。

辞書は信仰の対象ではなく、批判的に扱うべきものです。

No. 15 で提起した疑問に答えられますか?

>>それを全否定するなら、もはや日本語の文法の話ではなくなるでしょう。

いいえ。
科学的、論理的に正しい真実の日本語の文法で、現在のソシュールパラダイム化の誤りを正さないと日本語教育も進歩しません。
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No.11 に加えて



No.10 の質問をいただいたので、逆に当方の疑問を提起したいと思います。

★「公園で掃除する」

この「で」が場所を表わすと考えられている方が多いようですが、そもそも「公園」は場所でしかなく、それにも関わらず何故「で」が場所を表わすと考えられるのか、その理由を参考までに伺えれば幸いです。

>>「戦争」が「原因・理由」にはなると思いますが、「手段・方法」とは考えにくいのですが。

★戦争で国民の目を外に向けさせるのも一法であろう。

などは、「戦争」を手段として捉えていると思いますが、どうでしょうか。

そもそも、助詞とは何であると回答者の皆さんは考えられているのでしょうか?
この点を明確にしないと、今回の質問に対する回答は不可能で、「理由は不明です」ということにならざるをえないと考えますが。
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手段・方法は如何に拡張解釈しても原因・理由になる得ることはないと思います。


だって、手段・方法は人が選びます、原因・理由は必ずしも人が選ぶ必要はあり得ません、どころか、少なくとも個人が選択不可能のものの方が多いのでは。
ニューギニアで戦死、非常に短い内容ですが、何を表している?。
「で」が理由・原因を表す必要が有るのか、この内容で理由・原因が必要な内容は「死」だけです、「戦死」と表現されています、戦争による戦い、が原因です、「で」なんか無関係で単純に理解できます。
何処で死んだのか、それを表現しています、もちろん単に死だけでなく、また病死でもなく戦死、なんですね
話し代わりますが、最近中学校当たりで、生徒同士が互いに教え合う、と言う授業が有るそうです、あれは教える側の当人にとっても非常によい勉強になると聞いたことがあります。
何故か?教える側は十分理解しているだけではダメなんですね、理解するに必要な情報だけではなく、関連する周辺情報も理解しておく必要が有るからです。
つまり、理解していない相手だから、多少ピントはずれの質問(自分が理解するだけなら不要な内容、知らなくても良い内容)をされても、理論的に説明して、結論に結びつける必要が有るからです。
さらに、相手の理解力によっては、教える当人なら必要のない内容を織り込んで説明して理解を得る必要もあります。
言い換えれば、先生がそう言っていたでしょう、教科書のここに載っているでしょう(いわば、引用、批判的に言ってしまえば、自分の責任回避)、では相手は聞く気にもなりません、とても理解なんかには繋がりません。
戦いの方法の一つにゲリラ戦と言うものがあります。
どんな方法なのか?、手段=武器だけの相違なのか、方法に待ち伏せ(場所、タイミング)はないのか、闇(夜=時刻)に乗じて・・はないのか ・・・、俗に言うはかりごと、も手段とも言われますね、例 汚い手(手段)を使いやがって・・・。
すぐに、専門書の内容を引っ張り出して(引用して)より、日常、身の回りで経験する内容・事例を取り込み、自身の裁量で、加工して、そのまま提供する、これができて本物?。
だから、できる人(教える側)はこの本物?に、より近づき、教えられる側は、身近で経験した内容を通して理解でき、十分納得できます。
専門的知識をひけらかして理解に至る最短距離を示されても、とても付いてゆけるものでは有りません、余裕の遊び?がないことには、その専門知識たるや、責任丸投げの引用ばかりでは、さらに・・・です。
※リハビリ・筋肉トレーニング。
本当に修復、発達し、より強くなるのは、リハビリ、筋トレの最中ではなく、安静時、いやそれよりも直接の関係がない部分を使っている時なのです、単に安静、ではなく遊んでいる時なのです。
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No.2 の回答だけでは理解できないようなので補足をしておきます。



>>「散歩」だと「の」に異和感があるのに、「掃除」だと自然なのはわかりますが、なぜなのでしょうか。

格助詞「の」は所属・所有の関係認識を表わします。
掃除は他動の公園自体に対する行為・作用で公園自体の属性ですが、散歩は自動の話者自体の属性です。
このため、「公園の散歩」の公園と散歩は所属・所有の関係にないため違和感を感じることになります。

>> 1)と2)はほとんど同じ意味に思えます。

同じではありません。意味が異なります。

1)公園を散歩する。

公園を自動詞「散歩する」の対象として捉えています。

2)公園で散歩する。

公園を散歩の手段として捉え表現しています。

>>5)よ6)は相当違う気がします。どう考えればよいのでしょうか。

1)と2)は「散歩」という自動の行為なので、「を」でも「で」でも単に話者に対立する対象ですが、5)や6)の場合は「公園」が「掃除」という他動の行為、作用の対象で、「公園」自体に変化を与える行為・作用で所属の関係となるために自動の「散歩」という対立の関係とは異なり「相当違う気がします」ということになります。

このように、話者の認識を捉えないと、当然ながら「理由は不明です。」ということになるしかありません。

言語は話者の認識の表現であるというのは、この事を言っています。■
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「で」文法の解説書の説明では、手段・方法、場所、時刻と同列で説明されています。


個人的には場所・時刻も手段・方法に含まれると思っています。
武士の時代(に限りませんが)、戦の方法・手段、として「夜討ち・朝がけ」、戦の方法のひとつですね、実際の内容は時刻が問題ですが。
所かまわず・・・・、一定の範囲で目標物の密度が高ければ、方法として照準を合わす必要ありませんね、一定の範囲内でも密度にばらつきがあれば、より密度の高いところを狙う必要がありますね。
全く逆の方法が、絨毯爆撃・・という方法(手段です)。
何かをするにあたり、場所、時刻を選ぶのも、手段・方法のうちでもあります。
文法は膨大な言葉、文章を分類して、体系づけています、、まったく同じものをそれ絵r多だけではありません、分類したそれぞれの名称当、共通する部分(と言っても全く同じ、ことはありません)、が想定可能な名称をつけています、背梅井に使用される言葉も同様です、辞書等で説明される意味、以上に拡大してとらえる必要があります。
ただ、原因・理由への拡張・・・には同意しかねます。
あくまでも、す段・方法の認識を拡張するだけです。
①道具その他
②場所・位置
③時刻
④他と同じ場所、同じ時刻(タイミング)
泥棒の七つ道具・・・・これはは主殿としての、道具ですね。
真昼に堂々と実行しますか?、夜陰に紛れ(時刻)、人目ニつかないところ(場所)
留守の家(タイミング)。
すべてが、手段であり、方法でもあると認識できるかどうかが、文法をどこまで自分のものにでき、他人に説明できるかどうかの分かれ目?、とも言えそうに思います。
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No.10 の質問に答えて



>>「公園で掃除する」は「公園」を使って(利用して)掃除するということになるのですか。

「利用」ではなく、手段・方法という認識を表わしており、その対象が場所であるため場所を表わすと理解されるもので、それは文での意味ということで、語としての格助詞「で」の意義は手段・方法という認識の表現ということになります。

>>「戦争で死んだ」「ニューギニアで戦死した」の「で」も「手段・方法」でしょうか。そう認識して使うのでしょうか。「戦争」が「原因・理由」にはなると思いますが、「手段・方法」とは考えにくいのですが。「ニューギニアで」も同じです。

この場合は、手段・方法から拡張、発展して「原因・理由」の認識になっています。「ニューギニアで戦死した」のような表現が丁度、手段・方法から「原因・理由」への拡張の転機といえます。

>>「これで、失礼します」の「で」はどう説明出来るのですか。「これ」は「このタイミング」だろうとは考えます。

格助詞「で」は古語の「にて」から転成したもので、「に」が時間的・空間的な位置付けの認識、「て」が確認の認識を表わす助動詞で、そこから「~をもって」のような手段・方法という認識を表わすものとして使用され、時間的な位置付けの認識もあり、「これにて失礼いたします」のような「この時をもって~」という手段・方法という認識を表わしてるものです。「これ」が「このタイミング」で、「このタイミング」自体は客体を表わす客体的表現である詞になります。

辞である助詞、助動詞、感動詞などは、こうした話者の客体である対象に対する主観を客体化することなく直接に概念化したもので、この点を明確に理解、認識しないと主客を混同した曖昧な解釈に陥ります。

カント哲学、新カント主義的な物自体の認識を不可とする不可知論に依拠する現在のソシュールパラダイム下の発想では、悟性という理性に対する不分明な認識しか展開できず、物自体の反映とそれに対する能動的な認識を正しく区分、理解することができません。

認知言語学の唱える認知もまたこのようなものでしかないというのがソシュールパラダイム下での現状です。これを超克するためにはヘーゲルによる弁証法の論理と唯物論に基づく反映、媒介の論理が不可欠です。■
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アスナロウさんに一度お聞きしたかったので、この機会に質問します。

「で」が手段・方法の表現とおっしゃいますが、「公園で掃除する」は「公園」を使って(利用して)掃除するということになるのですか。「戦争で死んだ」「ニューギニアで戦死した」の「で」も「手段・方法」でしょうか。そう認識して使うのでしょうか。「戦争」が「原因・理由」にはなると思いますが、「手段・方法」とは考えにくいのですが。「ニューギニアで」も同じです。
 話は変わりますが、「これで、失礼します」の「で」はどう説明出来るのですか。「これ」は「このタイミング」だろうとは考えます。
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この回答へのお礼

返信があったようですが、お礼も感想も反論も罵倒も苦笑もないのでしょうか。
 あれで理解できるならOKATさんを尊敬します。
 当方はとてもそのような解読力はありません。
「公園で掃除する」も「ニューギニアで戦死した」も「場所」だと思いますよ。
 見たことのない不思議な文法をアレコレ垂れ流すかたですから、そのひとつなのでは。

 ところで、本題の3つの質問に関してはどのようにお考えですか。

お礼日時:2019/12/09 21:21

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