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簡単な質問なんですが、宗教と道徳の違いはなんですか??(簡単といえば、ただ質問文が簡単なんです)
よろしくお願いしまう。

A 回答 (19件中1~10件)

宗教は神や仏など信仰の対象があります。


道徳とは人としてのよい生き方です。信仰はありません。
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宗教は基本的に教えなど変わらないと思います。


それに比べ、道徳などはその時代によって変わります。

あと個人的には、宗教は、自分の精神を救済したり、生きるうえでの支えになったりするあくまで個人の中のもので、
道徳は、他人とのコミュニケーションなどで必要な常識的など自分の外のことだと思います。
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直接の答えにならないと思いますが,私は天と地の間に居るのが人間だと思っています。

地面がなければ人間は安心して存在できませんが、それだけでは何をどうしたら良いかまったく分かりません。そこで天からの指示が必要になってきます。これは天からの支持でもあります。つまり宗教も道徳も、天と地の両方からの支持によって人間は安定して存在できるということと関係があるのかなと考えています。道徳というのは地の理法,宗教は天の理法というようなイメージも成り立たないでしょうか?
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強制か自分で守るかでしょうね


残念ながら日本みたいに自然災害の多い国では
宗教は死者しか守れません
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宗教というのは、信仰対象があります。

古い既成宗教であれ新興宗教であれ、崇拝対象が人間とは限らず自然現象や物質であっても、対象があるのです。
道徳は信仰ではありません。
また、法律でもありません。

人間が生きて行く上での良心、規範、といったものでしょうか。ただし、道徳と常識というのは時に交じり合っているもので時代と共に変わる部分もあります。

余談ですが、仏教は長い歴史の中でその国によって独自に発達し、宗教という名の元で運営されていますが、当初、釈迦が説いたのは信仰でも崇拝でもなく、哲学、人間としての道徳みたいなものだったのです。ブッダは神だとか信仰という言葉は使っていません。お弟子さん達によって宗教として成立したものです。
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宗教はなぜ?に対して答えを持っているような気がします。

「人は死んだらどこへ行くの?」「天国へ行くのよ」など。
道徳はなぜ?を聞いてはいけないものだと思います。「どうして悪いことをしたらいけないの?」「そうだからそうなの!」
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宗教は道徳を作るが、道徳は宗教を作らない


宗教は目的だが、道徳は手段
宗教は理由が不必要であるが、道徳にはそれが道徳であることの理由が必要
宗教は他者の判断の及ばないものであるが、道徳は他者により判断される
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参考程度に


「道徳」は字の通り徳が身につく道ということですからその道筋を守って生きていけば徳「いいことや自身の向上」があるということですね。一生懸命道徳の道を歩んで死んだけど何にもないじゃないかといわれそうですね。だから徳の道は天国につながらないとおかしいですね。そういうことで徳の道は仏神の教え(宗教)につながっているのです。
道徳の反対は道悪ですね。悪の道を歩めば監獄か逃げおおせても地獄が待っていないとおかしいでしょう。
つまり因果の理法はくらませない不迷因果ということなんです。善因善果、悪因悪果というのですがこの善因を道徳というのですね。これは釈尊の教えであり、それを教育者として道徳の教えとしたのが孔子の教えですね。同じものなんですね。
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道徳は現実に沿っており、現実と違うことを言うと批判されます。



ところが宗教だと崇高な考えだと誉められます。
しかしそれができる人は数少ない。


こんな問答を聞いたことがあります。

A:殴られたらどうするか
B:別になんとも思いません。
A:では親が殺されたらどう思いますか。
B:なんとも思いません。
A:では、何も悪いことはやってないのに、木に縛られ殴られたらどう思いますか。
B:なんとも思いません。
A:では人に殺されたらどうですか。
B:なんとも思いません。

Bの人は無の境地にあり、怒ったり恨んだりするのは空であると悟りきっているのだと思います。

では実際、Bを殴ってみましょう。
顔色が変わると思います。
中傷してみましょう。
苦痛の表情を見せると思います。
では刃物で追いかけてみましょう。
逃げると思います。

一切無反応で微笑を絶やさない人って現実いるのかな?って思います。

でも理想はあくまで動じず、腹を立てず、生きながら仏つまり死んでいれば自分の中の感情をも抹殺できる。

しかーし、人間は感情があるから生きているので、病気などで認識ができない人は別として、やはり怒るとかって集団の中で生きるのには必須なものだと思います。

集団の中で生きると共存しながら悟りの境地になれないので、ひとり山奥で暮らしたりします。
それは、人間にとってとても苦痛です。
では自己に帰依する満足を追及して一生を終えるのか、他人とやりあいながら笑ったり怒ったりして限られた一生を送るのか、ひとそれぞれですが、自己満足の極みに達したければ、それと同じ価値を持った(つまり一切は空である)人たちの集団で交流もなく過ごすという選択肢もあるように思います。


道徳は集団がよりよく生き延びるために考え出されたもの。
宗教は自分の幸せを追求するために考え出されたもの。

という感じに思います。
そして宗教は自分の利益を追求するという事を隠しつつ、本来他人との交流を排除しているのに、他人と交流を保とうとする不思議なものだと思います。
分裂している考えで、時には共存をしようとしたり、離れようとしたり。
謎ですが、このミステリアスさがあるので人を魅了してやまないのではないかと思います。
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道徳の原典を老子の上下経に見出すならば


道徳は宗教といえるだろう.

孔子の論語が乾の道を重んずるとすれば
老子の道徳経は坤の道を示す.

東洋哲学の蘊奥を啓く書である易経の基本的な二つの卦の顕現化と考えられる.
古事記の冒頭の文章に見られるように陰陽の道は日本神道の根本原理でもある.


そして老子の言葉は仏教に通ずるものがある.
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