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ある本に、江戸日本橋から福島白河とあり、別な本には青森、三厩までとあり???です。
江戸時代の古書を読み、江戸日本橋から福島白河まで頭の中で道中笠をかぶってきており、矢吹・二本松と盛岡まで行く予定です。
どこから、どこまでが○○街道か教えてください。また、宿場町も教えていただければありがたいです。

A 回答 (3件)

奥州街道を宇都宮から白河までとするのは、江戸幕府道中奉行の管轄による区分です。


(日本橋~宇都宮間は日光街道と同道とみなされる)
それによれば、白河以北は奥街道、仙台道中、松前道、仙台松前道などとよばれ、奥州道中とは区別されていました。
しかししだいに民間では白河以北の部分も奥州街道の名で呼ばれるようになり、現在に至っています。

奥州街道には三厨まで115の宿場を数えます。

この回答への補足

奥州街道の三厩までの115の宿場がわかるアドレス等を教えていただければ、尚良かったと思います。

補足日時:2001/08/25 00:11
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この回答へのお礼

初めての参加で早速御返事を戴きありがとうございました。

お礼日時:2001/08/25 00:14

 奥州街道は白河までです。

ただ、国道4号線の終点が青森であるため「奥州街道の終点は青森」
という考え方もできないわけではありません。

 宿場町に関しては下のURLをご覧ください

参考URL:http://www2.justnet.ne.jp/~ksugiyama/walking13.htm
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下記URLに街道地図と宿場町が記載されています。

これによれば白河宿が終点になっています。徳川幕府が五大街道(東海道,中仙道、甲州街道、日光街道、奥州街道)を定めるまでは、三厩(みんまや)までがが奥州街道と呼ばれていたのかもしれません。

五大街道は幕府が管轄、それ以外は各地の大名が管轄していましたが庶民からみれば地続きの同じ街道なのでこのような混乱が現代まで続いているのではないでしょうか。似たような例として、東海道は俗に53次と言われますが、これは広重が描いた東海道53次が有名になったためで、京都ー大阪間に更に4ッの宿場があり東海道57次が正しいことは地元ではよく知られています。

街道名を徳川幕府が定めた公道として捉えるのか、古代から庶民が呼び慣らしてきたxxx街道として捉えるのかによって違いが出てくるでしょう。現在国道xx号線とよんでいる道にも地元ではある区間をxx街道と呼ぶ習慣があります。

参考URL:http://www.yumekaido.ne.jp/ousyuframe.html
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