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こんにちは。

キリスト教各派の血に対する解釈を教えてください。
例えば、血の入ったものは食べないとか、輸血をしないとか・・・。根拠も教えてくださると嬉しいです。

自分が属していない宗派がどのような見方をしているのかご存知ならコメントして頂きたいですが、批判はやめてください。

よろしくお願い致します。

A 回答 (15件中1~10件)

プロテスタントの中でも、世間では特に保守派といわれるバプテスト派信徒です。



はっきり言って、血に関わるような制限・戒律は一切ありません!
出されればレア肉も刺身も食べますし、輸血・献血はむしろ褒められるべき事です。

この回答への補足

ご回答、ありがとうございます。
血に関する制約はないんですね。以前に、「エホバの証人は、『血を食べてはならない』という聖書の言葉を誤読して輸血にまで適用している」というコメントを読んだことがあり、ということは、キリスト教の中には、食品として血を避けている宗派があるのかな?と疑問に思い、質問した次第です。
使徒15章29節に、「血と絞め殺されたものを避けるように・・・」と書かれていますが、回答者さんの教会では、どのような根拠で、この聖句をあてはめなくてもよいと結論付けたのでしょうか?よろしければ教えてください。
また、血以外に、クリスチャンとしての制約事項がありましたら、それも教えてください。

補足日時:2005/02/17 13:16
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下のアドレスは「エホバの証人」の輸血禁止に反対されている方のHPですが、参考になると思いますよ。



医療系の学校で、この手の話になって、先生が説明された事があるのですが、
「2000年前の衛生環境を考えると、生血・生肉を食べると病気になり易かったので、聖書で禁じたのだろう」と言う事でした。

私自身はキリスト教ではありません。知り合いの外国人でイスラム教の人がいます。彼は豚肉だけ食べません。生肉・刺身は「気持悪い」とか言いながらも、美味しそうに食べていますが(笑)

参考URL:http://homepage2.nifty.com/ichikawakita/witness/ …
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/17 12:00

http://www.geocities.com/Athens/Agora/2105/bible …

エホバの証人が有名ですよね。
私は最近知ったのですが、エホバって誰だとおもいます?
神らしいです。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が言う神のことらしいです。

したがって、エホバの証人はキリスト教じゃないはずです。
ユダヤ教系列なんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答、ありがとうございます。

>エホバって誰だとおもいます?
神らしいです。
>ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が言う神のことらしいです。
>したがって、エホバの証人はキリスト教じゃないはずです。

エホバの証人は、神のみ子イエス・キリストの教えに従っているので、キリスト教だと私は思います。どの宗教がキリスト教で、どの宗教がキリスト教でないかかは、人間ではなく、神とイエスが決めればよいと思います。

お礼日時:2005/02/17 13:24

半年をカソリック、半年をプロテスタントとして過ごしたことがあるので、何かお役に立てたら。



両方とも食べ物に関しては何にも制約はないです。
血が特別な意味を持つのは、教会でワインが聖杯に注がれた時のみです。キリストの血、となるんですね。同様にパンもキリストの肉となります。だから聖なるもの、自分とキリストを繋げるものとして理解されると思います。
でも、プロテスタントではあまりあの儀式はしなかった。
輸血が駄目というのもないはず。

この回答への補足

ご回答、ありがとうございます。
カソリックでの儀式について初耳でしたので興味深く拝見しました。その儀式はいつやるものなのですか?
#1の方の補足にも書きましたが、以前に、「エホバの証人は、『血を食べてはならない』という聖書の言葉を誤読して輸血にまで適用している」というコメントを読んだことがあり、ということは、キリスト教の中には、食品として血を避けている宗派があるのかな?と疑問に思い、質問した次第です。
使徒15章29節に、「血と絞め殺されたものを避けるように・・・」と書かれていますが、回答者さんの教会では、どのような根拠で、この聖句をあてはめなくてもよいと結論付けたのでしょうか?よろしければ教えてください。
また、血以外に、クリスチャンとしての制約事項がありましたら、それも教えてください。

補足日時:2005/02/17 13:18
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旧約聖書中では「血」は命を象徴する神聖なものとして扱われる事になっていました。

そのためにその取扱いについては動物の血に至るまで厳格な処理方法が規定されていました。基本的には宗教的な祭壇に特定な動物の血が作法に従って使用されることになっていました。旧約聖書の創世記やレビ記・民数記といった個所には「食血の禁止」と「血の取り扱い」についての詳細な戒律が述べられています。

特定な処理が求められる動物の血以外は、「地に注ぐ」ことで処理しなければならず、食用にする事は厳禁されていました。その理由でユダヤ教徒は現在でも特殊な宗教的処理をされたものしか食べない事になっています。

聖書が血を食用としないのはそれが病気などに汚染されているかもしれないという理由ではなく、血が命の象徴であると言う見地から「血食」を「人食」と同類とみなし、人倫に反するとみなすからです。また、宗教上で正しく血を扱わない事は命の軽視を表す事につながり禁忌されるわけです。

多くのキリスト教では、キリスト以降は旧約聖書の規則全てが廃止になったと言う立場を取り「食血」についての戒律は廃止されたと言う立場を取ります。とりわけカトリックではぶどう酒とパンにある種の祈祷を捧げると、それが生体変化・(ある種の化学変化)を生じて「キリストの血・肉」が再現され、それを飲食するという「ミサ」「カーニバル」「謝肉祭」という宗教儀式や概念が生じたので、「食血」を容認する教義で無ければ整合がつかなくなっていたと言う事情もあります。

それに対して、キリスト教派の中でエホバの証人だけがキリスト以降に開催された初回エルサレム会議で淫行・殺人と同列に血の使用が禁止されていたという聖書の使徒行伝の記録を根拠として、現在でも「食血」は人倫に反すると言う見方を取っています。「食血」は殺人などと同じように旧約聖書の戒律の中で廃止にならなかった数少ない戒律の一つであるとの立場を取ります。そして、輸血については「口以外から血を取り入れる」ことであり「食血」の類似行為であるという考え方です。

因みにユダヤ教では「口から摂取していないので輸血は食血ではない。」ということで輸血を容認しています。
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この回答へのお礼

詳しい回答をありがとうございました。
カトリックの謝肉祭と食血のつじつまあわせのクダリ、興味深かったです。

お礼日時:2005/02/17 13:31

#1です。

なお、以下はあくまでも私個人の聖書理解ですので、その点はご注意下さい。大きくは外してないとは思いますが……。

旧約聖書レビ記17章などで、神が「血を食べてはならない」とした背景には、#2さんが仰られた食品衛生上の理由もありますが、より本質的には、
○ 異教でしばしば見られる「人間や動物の生き血を飲む」儀式の模倣に繋がるため。
○ 血は、まず私達の罪の赦しのための、贖いの代価として献げられなければならないため。
が挙げられます。

確かに一切罪を犯さず、旧約聖書に書かれた戒めを生涯完全に守り通せば、私達は天国へ行けると神は約束されました。しかし現実には、それは私達人間には絶対に不可能なことです。むしろこの約束は、私達が罪人であること、神の恵みと赦し無しには絶対に救われないことを自覚させるためだったのです。
神に私達の罪を赦して頂くためには、その罪を代わって負う犠牲が必要です。そのため旧約聖書の時代には、定期的に動物をいけにえとして神に献げる必要がありました(ユダヤ教徒は、今もこれを行っています)。
――イエス・キリストが来られるまでは。

イエス・キリストが十字架の死を遂げたのは、私達の全ての罪を負い、それまでの動物によるいけにえのような「まがい物」ではなく、たった一度だけ支払えばよい「完全なるいけにえ」として自らが献げられるためでした。
このキリストの完全な贖罪により、その救いのみわざに与った私達クリスチャンは、過去に与えられた戒めから完全に解放されました。最初に挙げた「血を食べてはならない」も含めて。


では、使徒15:29の意味は何か?

使徒15章の記事は、クリスチャン内部で発生した論争に関するものです。即ち、「ユダヤ人クリスチャンがずっと守ってきた旧約聖書の戒めを、非ユダヤ人クリスチャンにも守らせるべきだ」と。
これに対し、ペテロやパウロたち教会指導者は、「ユダヤ人さえ守れなかった戒めを、非ユダヤ人に押し付けるとは何事か」と批判しますが、戒めそのものは決して間違ったものではない(もはや強制はされないが)ことを踏まえ、各地の教会にこう書き送ります。

「聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。
すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上。」
(使徒の働き15:28~29 ※新改訳聖書より引用)

つまり、食血を避けることは――衛生上も、異教の習慣から遠ざかるという意味からも――決して悪いことではないので、ユダヤ人と非ユダヤ人との無用の対立を避ける上でも(むしろこれが本旨)、これまでのユダヤ人の慣習に倣ってこれからも続けた方がいいと、当時の諸教会に勧めたに過ぎません。(もちろん不品行は、別の個所で罪であるとはっきり言われているので別ですが。)
この聖句を今の私達に適用するとすれば、「戒律・因習から解放されてはいるが、周りの人達の習慣(信仰に反しない限り)に逆らって無用の対立を招くことは良い証しにならないので、自主的に尊重せよ」ぐらいの意味でしょう。

少なくとも、「○○を食べるな・飲むな」といった制約は、私達クリスチャンには存在しません。
確かに、酒・たばこの類は健康に有害ですから、避けるようには勧められますが、それイコール「罪」というわけではありません。
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この回答へのお礼

丁寧な回答を有難うございました。

食血を避ける理由が、衛生上も、異教の習慣から遠ざかるためであるという聖書的根拠はあるのでしょうか?

それと、使徒15章29節に「偶像に犠牲としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けていることです。」(新世界訳)
とありますが、偶像にささげられた物と淫行(結婚関係外の性行為)も、現代には適用されないという解釈でよろしいのでしょうか?「淫行」と「不品行」の訳の違いは仕方がないですが・・・。

質問ばかりですみません。教理がどっちが正しいということでなく、素朴な疑問と受け止めてください。

お礼日時:2005/02/20 18:35

贖罪の証は



理屈ではない.
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No.4のnasebanaruです。

カソリックの儀式(礼拝)についての質問にお答えします。
●日時:毎週日曜日
●何をするか:神父さんの話を聞く。聖歌を歌う。後述の儀式をする。寄付をする。周りの人と握手。「神があなたとともにありますように」みたいなことを言い合う。
●儀式の流れ:神父さんは祭壇の横にある棚から聖杯を取り出し、懐から出したタバスコソースみたいな形の瓶からワインを注ぎ「このワインは聖なるキリストの血である」と言い、祭壇の上で堅くて薄いパンを割って見せ「このパンはキリストの肉である」と言います。信者は立ち上がって神父さんとお手伝いさん(不特定)の前に並び、パンを貰ったりワインを飲んだり。子供はワインは選べませんでした。
●どんなパンか:私たちのいただくパンは割られたものと違います(専用の、もっと口に入れやすいものが用意してありました)。並んだ人は順番に目を閉じて口を開き、舌を出してパンをいただきます。口に入れたら(乾燥したパンなので舌にくっつきます)軽く会釈して、右手で十字を切り、席に戻ります。
●この後:寄付、握手、最後の聖歌、退場と一連の流れが出来ていました。
プロテスタントの教会では、半年通いましたが、その中で一回しかこの儀式をやりませんでした。聖書を読むのと歌を歌うのが主でした。一人一人いただくのではなく、回ってきた小さなコップとパンを手に取って一斉にやりましたし。(でも、ここのはアジア人が集まってやっている所だったので、ちょっと変わってるかもしれません……)

他の制約事項は、カソリックでは神父さんによって話が違いました……「同性愛は地獄に堕ちる」との過激なものから、「怠惰はいけない」と一般的なものまで。聖書を読むことはほとんどありませんでした。
一般的な答えですいません(>.<)!
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この回答へのお礼

回答をありがとうございました。

儀式を毎週やっているということにビックリしました。
プロテスタントの教会で1回しかやらなかったのは、恐らく、1年に1回、その儀式をやっていて、たまたまその日にあたったのだと思います。通常、記念日というのは、年に一回、祝うものですからね。

聖書を読むことはほとんどなかったというのは、ちょっと驚きです。

お礼日時:2005/02/20 19:22

いくら壁を厚く塗っても



根源は変わらない.
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No.3です



>エホバの証人は、神のみ子イエス・キリストの教えに従っているので、キリスト教だと私は思います。

すいません。
私はイエスは神の子ではなく私たちと同じ人間だったと思っていて、エホバの証人ではイエス=神という位置づけではなく、イエス=予言者だという位置づけだと思っていました。
おまけにマリアと夫婦同然でマリアはイエスの子どもを身ごもってフランスに行ったって思ってます。
これじゃあ人間になっちゃいますね。
イエスの子どもなどいなかった。だって神様だから。
従ってイエスの子孫はこの世にはいない。
それが正解ですよね。 ^o^

参考になりました。



エホバの証人ではイエス=神であり、エホバの証人はキリスト教なんですね。
プロテスタントですよね?
それともカソリックとプロテスタント以外、例えばグノーシス主義のようにカソリックから異端とされた部類に入るのでしょうか?
よろしかったらもうちょっと教えてください。
あら?
 ↓
>どの宗教がキリスト教で、どの宗教がキリスト教でないかかは、人間ではなく、神とイエスが決めればよいと思います

すいません またまたゴメンなさい。
神とイエスって別々ですか?
神とイエスと二つに分けたってことは別ってことですよね。
またわからなくなりました。
つまり決める人次第で、世の中がやっぱり決まるってことですよね。
人間は決めることができない?
うーーん 例えば信号が赤なら止まりますよね。
ところが人間が「神が赤なら進め」といったなら、あなたは歩行者がいたとしても進みますか?
神の御心だと信じ跳ね飛ばしますか?

いえね。実際いるんですよ。年に何人か神の声を聞いたとして人を殺している事件あります。
彼らは神の指示に従って人を殺したとして自分の正当性を主張しています。
宗教では彼は聖人でしょう。
でも、人間の世界では殺人なんですよ。

キリスト教では人間界でもっとも罪が重い人こそ神が愛する人ってなってますよね。
罪が無い人にはそっぽむいていますよね。
どうでもいい まるで存在する価値の無いような言い方ですよね。
でもね、そういう人によって殺人者は生かされているとしたら、やっぱり神の御業ってことですよね。
この前も43人だか拷問してレイプしたあげくに殺した人が神に許されて命を救われましたよね。
殺された遺族には無関心でしたよね。
すごいって見ていて思いました。
これぞまさに罪深い人のためだけに存在価値のある宗教だって思いました。
どんどん人々は罪深くなり、みんな殺しあっちゃうと確かにこの理論でいけばもっとも神に愛される人間になりうるって思う。でも人間ほぼ絶滅しちゃうような気もします。
まるでバトルロワイアル。

産めよ増やせよ そして殺しあえ。
神の御心ならあなたは人を殺していって罪をどんどん重くしていきます?
すると最大級の救いになりますよ。
懺悔さえすれば。


あら?主題からそれちゃいましたね。
失礼しました~

この回答への補足

つづき

>神とイエスと二つに分けたってことは別ってことですよね。
>つまり決める人次第で、世の中がやっぱり決まるってことですよね。

人が決める・・・。というかですね、聖書にそう書いてあるので、そう信じている訳です。上にもそう信じる根拠となる聖句を引用しているように。最初に、「どの宗教がキリスト教で、どの宗教がキリスト教でないかかは、人間ではなく、神とイエスが決めればよい」と書いたのは、本当に神がいるとすれば、神のご意思に沿ったキリスト教って、一つだと思いませんか?「この方針で行きなさい!こうした方法で、わたしを崇拝しなさい!」と、手引きとなるぶ厚い聖書が与えられている訳です。しかし、宗派によって、いろんな解釈がある・・・。例えば、戦争に参加する宗派もあれば、参加しない宗派もある。神の目から見たら、どっちも正しいはずないですよね?ですから、神は、あっちも宗派も、こっちの宗派も容認する訳でなく、「この宗派が、ワタシの意図したやり方を踏襲している!」と一つの宗派しか認めないし、今後も、正しい道を進むように導くはずです。それか、全部のキリスト教が間違った道を歩んでいる可能性もあるかもしれませんね。ですから、キリスト教を奉じるなら、神の目から異端とされないよう、生活のあらゆる面で、聖書をあてはめて、「何が神のご意思なんだろう?」って、考えたり、祈りで導きを求めたりして、探求し続けていくことが不可欠だと思います。

>キリスト教では人間界でもっとも罪が重い人こそ神が愛する人ってなってますよね。

これは???です。
根本的に「罪」の解釈が違うと思うんですよね。日本人の「罪」の解釈は、「法に触れたとき」だと思います。聖書の「罪」というのは、「神のご要求に外れたとき」です。神の完全なご要求を、不完全な人間が完全に守ることはできない。それで、全人類は、罪人なのです。その罪に重い軽いはありません。例えば、「敵をも愛しなさい」という聖書の言葉があります。本当の意味で、敵をも愛せてるかというと、努力はしていますが、私は、全く自信ないです。ですので、私は罪人です。ちなみに、この罪を償うのに道を開いたのが、イエスです。

>罪が無い人にはそっぽむいていますよね。

私たちは、世界の234の国や地域の人々に、聖書の音信をお伝えしています。全ての信者が、この活動に携わっており、一人でも多くの人に知っていただくよう努力しています。こうした形で関心を向けています。それを受け入れるか受け入れないかは、当人の問題です。

>産めよ増やせよ そして殺しあえ。
>神の御心ならあなたは人を殺していって罪をどんどん重くしていきます?
>すると最大級の救いになりますよ。
>懺悔さえすれば。

うーん、すごく過激ですねぇ。マスコミの一面的な報道だけで、教理を解釈していませんか?
大量殺りくや、集団自殺する宗教について時々、報道されていますが、そうした組織って、規模が割りと小さく、「自分は神だ!」という、すごいカリスマをもった人間の教祖を立てているところがほとんどだと思います。心理学の授業で、自分を神様だと思い込んでいるのは、一つの病気として扱われていた記憶があります。人間の教祖を立てていれば、その人の気分次第で、そうした過激な事件へと発展することはあり得るかもしれませんね。しかし、すべてのキリスト教がそうかというと、そうじゃないですよね?例えば、カソリックが組織的に過激な事件を起こすことは考えられないと思いません?
現代、神からの声が聞こえることはありません。「予言や異言は廃された」と書かれているので、神の使いと称する人が語ることもありません。全て聖書が導きです。聖書には、殺人など、人を傷つける行為を容認していませんから、「人を殺せ」という神の声のようなものが聞こえても、それは、神の声でないと判断します。

補足日時:2005/02/21 11:47
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この回答へのお礼

ご回答、ありがとうございます。

補足しますね。

>エホバの証人ではイエス=神であり、エホバの証人はキリスト教なんですね。
>プロテスタントですよね?
>カソリックから異端とされた部類に入るのでしょうか?

エホバの証人は、カソリックからは異端とみなさています。プロテスタントでもありません。人間的な解釈や伝統を排除した原始キリスト教を復興させることを主眼においています。

神とイエスは別物です。神は、エホバという名前を持ちます。古代の聖書の写本にはYHWHという神のみ名が何回も出てきます。現在、一般に使われている聖書の多くは、YHWHを「神」という言葉に置き換えています。YHWHには、母音がないので、正確にどう発音するか判りませんが、「神」という言葉は、所詮、代名詞に過ぎない。エホバの証人は、どの神に仕えているのか特定するためにも、エホバ(英語:ジェホーバ)という読み方を用いるという方針を貫いています。聖書中に、「神のみ名を誉めたたえよ。」とか、「神のみ名に栄光を帰せよ。」という表現があるので、神ご自身が、名前を用いた賛美を望んでおられることが分かります。
イエスについてですが、イエスの生涯を扱った聖書の四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を読むと、イエスが天の父、神に祈っている場面がいくつもあります。また、神がイエスに「これはわたしの子。わたしは、これを是認した。」と宣言される場面もあります。従って、イエスは、神のみ子です。ですから、イエスは、神ではなく、崇拝の対象ではありません。しかし、イエスの教えは、完全ですから、多くを学べますし、神の特質を完全に反映した方なので、イエスについての記録を通して、神がどんな方なのか、推察することもできます。

キリスト教の多くの宗派は、上記のような考え方ではなく、三位一体を採用しています。つまり、神・イエス・聖霊は、別個の物ではなく、1つなのだそうです。この点の詳しいことについては、その道の方にお聞きください。

つづく

お礼日時:2005/02/21 11:47

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