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媚米売国奴に質問なのですが、日本を敗戦させてくれたアメリカから受けた恩とは何ですか?

質問者からの補足コメント

  • 彼らは何故、戦前の日本を否定して、敗戦した事でアメリカ様が悪い日本を壊してよい国にしてくれたと喜ぶのですか?
    敗戦したことで、この人達は得をしたのですか?

      補足日時:2022/03/31 11:23
  • 乞食のように見えるのですが。

      補足日時:2022/03/31 11:24
  • 利己主義が増えたのも戦後からですよね?
    日本に大量にはびこる乞食根性を持った人達は、どこから社会に湧いて出てきたのですか?

      補足日時:2022/03/31 11:31

A 回答 (28件中1~10件)

食料の支援を受けたことです・


領土の少ない日本がアメリカのような大国と戦争できたのは食料や物資を現地調達したからです。
日本軍が占領した土地や植民地でまずはじめにすることは農業改革です。
それにより兵隊を養うことを現地でできます。
ですが終戦ほとんどすべての植民地はなくし兵隊たちは引き上げてきます。
それでも餓死者が想定よりも少なかったのは支援があったからです。
貴方は他者を乞食に見えるようですが‥
もしその支援がなければあなたの祖父や父は母は餓死して死に貴方という人間がいない現在があったかもしれない!
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https://www.youtube.com/watch?v=D52TrocwQZY&t=0s

表の日本国家予算100兆円の約4倍でアメリカの国債などを購入してる
裏の予算特別会計など、日本人の税金が蒸発するシステムをプレゼントしつづけてくれてます。

狭い島国で絶大な資源になるオオアサ(大麻)を悪とし文化をうばい、
これまた日本人の生活を潤わせないプレゼントをし続けてくれています。
http://rising.ooasa.jp/
「アメリカから受けた恩とは何ですか?」の回答画像27
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ヨーロッパの人達 日本を黄金のジパングと呼んだ


日本を卑下することないから

日本は狙われたのでしょ 出る杭は打たれる

パールハーバー罠
戦争始めたかったのはアメリカだと思う
ウクライナ支援することでロシアを煽ってるから

心理戦上手なんだと思う

恩は感じない

戦争こそ食べる為 食料自給率の問題だと思う
国土へ沿った食料自給率の日本
食べられなくなることないから 食人だの

国土広がるほど食べられなくなるんじゃないですか?
輸入から日本人食べる量より食料多くなった
消費しきれない
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決して「恩」と言っては行けません。


人間で例えると、日本の命の恩人が米国となって、一生、頭が上がらなくなるからです。
もうそれそれ米国依存もほどはどにして、この先、日本は大人への試練である反抗期となって成人にならなくてはいけません。
その為には、決して「恩」と考えないことです。

GHQ(殆ど米国主体)は、事後法のA級戦犯で数人の死刑執行など、戦争責任を一方的に日本に押し付けた。
その結果、日本は連合国のでっち上げた事実を渋々に認めて承諾した。
その代償として連合国(ソ連除く)は、日本との和平を締結させて、日本は自由と平等を与えられて再び独立し、自らの手で日本再建したのです。日本安保は米国の核傘下で守られ、朝鮮戦争特需と日米安保条約を担保に経済復興させて経済大国となり、先進国首脳会議のメンバーになったのです。
日本がそこまで成長させてしまった事に後悔しているのが、米国だと思います。

日本国民を救ったのは米国ではなく「昭和天皇」と考えます。
身の代わりに国民救済を求める昭和天皇の人望に感銘を受けたマッカーサ元帥も影響しているでしょう。
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半分結果論ですが、過去の対立を無かったことにして、西側資本主義諸国と言う「勝ち馬勢力」にうまく潜り込めた、という点。



仮にいわゆる太平洋戦争にそこそこの形で勝てたとして、次に待ち構えているのは
「資本主義(米国)」vs「共産主義(ソ連)」vs「アジア(日本)」
の三つ巴の戦いだったでしょう。
どのような形で決着がつくにしろ、多くの日本人そしてアジア人の血が流される結果になったとは思います。
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https://www.buzzfeed.com/jp/gabrielsanchez/pictu …
写真で振り返る、原爆投下後の広島と長崎
1945年8月6日に広島、9日に長崎の上空で、アメリカが原子爆弾を投下した。


https://www.youtube.com/watch?v=RPvP1iin5fc
戦争と原爆とプーチン氏とオバマ氏
平和の祭典、原爆映像ではくしゅする参加者+オバマ
拍手せず会場でただひとり胸で十字を切るプーチン
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#21てす。

あまりにも入力ミスが多かったので連投です。
 終戦の時は国民学校4年生、つまり小4、9歳でした。終戦の詔書、いわゆる玉音放送は隣組の人が一番性能の良いラジオのある家に集まって聞きましたが,音質も音量も不十分で、屋内に入れず、外にいた私には、何も、と言っていいくらい聞こえませんでした。近くで聞いていた人の話から、戦争が終わったということだけは分かりました。
 50年ほど後に東京、虎ノ門、江戸時代、間垣平九郎が馬で駆け上がって、降りてきたという高い階段のある愛宕山の頂上にあるNHKの放送博物館、桜の名所でもあって、時季には賑わいますが、ここでは玉音放送を聞くことができます。
 沖縄を攻略されて、有識者でなくとも、いよいよ本土決戦と覚悟を決めていたときでした。私などはお気楽もので、両親からアメリカ軍が上陸して、ここまで来たら、まず、「お前を殺して私たちも死ぬがいいか?」と念を押されました。私は、「いや、山の中に逃げ込む」と答えて両親は当惑してました。その夜から山の中に壕を掘って、潜み、米兵がやってきたら竹槍でやっつける夢をよく見ました。
 学校では大量に竹を集めて、生徒の人数分の竹槍を作り、包帯みたいな布に少年特別攻撃隊と書いた襷(タスキ)を掛けて町中を行進です。戦時にあっても攻撃目標も無い田舎で、気楽に行進して、退屈になるとヒョウキンな奴が居て、「オーテーテンプラツーナイデコチャン、ノーミーチーヲーユケとババサン」と歌い出し、周りで唱和します。これは万事、軍国主義に染まっていた学校の生徒は勿論、学校としてあってはならないことです。
 午前中が行進で、午後は授業の予定でしたが、時間になっても教師が現れません。他の教室では授業が始まっています。今、思えば、あのとき担任の教師は校長、教頭に厳しく叱責、多分、体罰もあったでしょう。
 教師はピアノも弾ける女性、戦争に青春を奪われた女性でしたが、彼女のビンタは怨みがこもって、一時間くらいは痺れたように感覚が無くなる威力がありましたが、その彼女が教室に戻ってきました。おりしも、先生が来ないのに気を良くして悪さどもがクンズホグレツの方言でゾウグレと呼んでましたが教壇の上で遊んで居ました。
 さあ、大変です。みんな慌てて席に着きます。ビンタが何発、飛ぶことやら?緊張します。
 ところが、彼女の第一声は、今日、行進のときにやったことを、今、ここで前に出てやりなさい!!と、一言、言って席に座り、ダンマリを決め込みます。何分経っても、誰も動きません。当惑してしまいました。教壇の上でやっていいことではありません。数十分に及んで、私は損な役回りが得意な性分で、教壇に出て、「オーテーテンプラツーナイデコチャン、ノーミーチーヲユケババサン」と歌い出しました。「そこまでしか歌ってません」、これは事実でした。そして、私がビンタを食わないのを確認した級友たちは、続々と教壇に上がって歌いました。そして、覚えのある生徒が全部、唄い終わるとしばし、静かになります。
 そこで女教師は、「私が教室に戻ってきたときに、やってたことをこの教壇でやりなさい」、彼女もヤブレカブレです。生徒の方も興奮状態になって、教壇に上がって 7、8人が、乱暴狼藉を再現しました。そして「これで終りです」。それからしばらく静寂の時間がありましたが、「今日は帰っていいです」と一言、私たちはホッとして下校しました。あの乱暴狼藉の再現の時に校長が何事か、と見にきたのを見ましたが、干渉しませんでした。
 翌日から普通に授業があり、彼女にお咎めがあったのか、確認は出来ません。多分、彼女は存命ではないでしょう。
 そして間もなく終戦です。海から10 km強くらいの場所なので、米軍の上陸用舟艇が町中を走ります。長さが15 m以上ありそうな装甲車が水陸両用になったやつです。ゆっくり走りながら子供たちを見かけるとチョコレートやクッキーなどを投げ与えます。子供たちも、すぐに慣れて、米兵を見ると「チョコレート、チューインガム、クッキー」などと叫びます。すると、かなりの確率で、何かしら、あり付けるのです。私は親たちが、そんな屈辱的なことはするな、と戒められていたので、やりませんでしたが。
 私の父は田舎の駅、といっても軍用の海産品の缶詰工場、赤飯の缶詰などの工場があったりして、荷扱いの量はかなりありましたが、多分、米軍も物資の輸送とかで駅員との接触があったのでしょう。時々、父が米軍に貰ったチョコレートやチューインガムを持ち帰るようになりました。そしてチューインガム一枚を三人で分ける、とかしてました。チョコレートを持ち帰ってきたときは感激しました。アメリカ兵は、こんな美味しいものを食べながら戦争してたのか!!と、これは叶うわけない、と思い知らされました。私たちは「欲しがりません、勝つまでは」でしたから。それでも海軍の乾パンは、手抜きせずに発酵させたものでしたから、陸軍のただ膨らせただけの乾パンと比べると御馳走でしたが。海軍の赤飯の缶詰は戦中に二度くらい、多分、荷扱いの斡旋などするので缶詰工場から貰ったのですが絶品でした。
 さて終戦すると、軍隊が復員してきます。満州、朝鮮、などに植民していた人たちが引揚者として帰ってきます。食料の需給は一挙に逼迫します。配給制度は敗戦しても一応は機能しているのですが、需要に対して供給があまりに少なくて、とても足りません。そうなると、生産者は公定の価格で国に買い取られるのは嫌がって,闇で売ることを選択するようになり、ますます配給制度は機能しなくなります。ついには配給制度では必要な栄養は確保できず、闇を一切しなかった、清く正しい、教授夫妻が餓死する、ということがありました。
 見かねたアメリカは様々な食料援助を始めます。
 ガリオア援助、エロア援助、ララ物資が主だったもので、ほかにもマッカーサーとかトルーマンとか個人名を冠した援助もありました。↓
 https://irdb.nii.ac.jp/en/01441/0004053928
>引用 アメリカを中心とした連合国は、第二次世界大戦後、完膚なきまでに打倒した日独両国に対して、まず戦争犯罪人の摘発・処罰を行うとともに、賠償取立てを進めた。しかし同時に占領政策を成功させるためには飢餓や疾病の拡大を阻止することも緊急の政策であった。ヨーロッパの同盟諸国に対しては、共産主義の拡大を阻止するためにマーシャル・プランに基づくマーシャル援助を大々的に展開したが、旧敵国であった日独に対してはガリオア・エロア援助を供与することになった。ガリオア援助は食料、燃料、医薬品などの緊急性の高い人道援助であり、エアロ援助は経済復興を支援するための援助であったが、被援助国はこれらの援助が無償=贈与と理解していたが復興が進む中でアメリカは返済を求めるようになった。 マーシャル・プラン(援助)も、その根拠法である一九四八年対外援助法第一篇経済協力法により、アメリカからの援助物資を売却した代金を特別勘定として預金することが義務付けられていたが、日独に供与されたこれらの援助物資の売却代金も供与国アメリカがコントロールできる「見返資金」として特別勘定を設置することが義務付けられることになった上に、金利を乗せて長期間にわたりアメリカに返済することになった。こうしたアメリカの対外「援助」は、アメリカの余剰物資を海外に「援助」してアメリカ経済を活性化させつつ、低利とはいえ金利を加えて返済させるというアメリカの強かな対外経済援助政策の原型となったと言える。>引用終わり
 いろいろ、ケチの付け所はありますが、このお陰で私たちは生き延びたのであり、返済は十分に体力がついたところで行ってるので、アメリカを恨むべき筋合いは無さそうに思います。
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賠償取立てを進めた。

終戦の時は国民学校4年生、つまり小4、9歳でした。終戦の詔書、いわゆる玉音放送は隣組の人が一番性能の良いラジオのある家に集まって聞きましたが,音質も音量も不十分で、屋内に入れず、外にいた私には、何も、と言っていいくらい聞こえませんでした。近くで聞いていた人の話から、戦争が終わったということだけは分かりました。
 50年ほど後に東京、虎ノ門、江戸時代、馬で駆け上がって、降りてきたという高い階段のある愛宕山の頂上にあるNHKの放送博物館、桜の名所でもあって、時季には賑わいますが、ここでは玉音放送を聞くことができます。
 沖縄を攻略されて、有識者でなくとも、いよいよ本土決戦と覚悟を決めていたときでした。私などはお気楽もので、両親からアメリカ軍が上陸して、ここまで来たら、まず、「お前を殺して私たちも死ぬがいいか?」と念を押されました。私は、「いや、山の中に逃げ込む」と答えて両親は当惑してました。その夜から山の中に壕を掘って、潜み、米兵がやってきたら竹槍でやっつける夢をよく見ました。
 学校では大量に竹を集めて、生徒の人数分の竹槍を作り、包帯みたいな布に少年特別攻撃隊と書いた襷(タスキ)を掛けて町中を行進です。戦時にあっても攻撃目標も無い田舎で、気楽に行進して、退屈になるとヒョウキンな奴が居て、「オーテーテンプラツーナイデコチャン、ノーミーチーヲユケババサン」と歌い出し、周りで唱和します。これは万事、軍国主義に染まっていた学校の生徒がは勿論、学校としてあってはならないことです。
 午前中が行進で、午後は授業の予定でしたが、時間になっても教師が現れません。他の教室では授業が始まっています。今、思えば、あのとき担任の教師は校長、教頭に厳しく叱責、多分、体罰もあったでしょう。
 教師はピアノも弾ける女性、戦争に青春を奪われた女性でしたが、彼女ビンタは怨みがこもって、一時間くらいは痺れたように感覚が無くなる威力がありましたが、その彼女が教室に戻ってきました。おりしも、先生が来ないのに気を良くして悪さどもがクンズホグレツの方言でゾウグレと呼んでましたが教壇の上で遊んで居ました。
 さあ、大変です。みんな慌てて席に着きます。ビンタが何発、飛ぶことやら?緊張します。
 ところが、彼女の第一声は、今日、行進のときにやったことを、今、ここで前に出てやりなさい!!と、一言、言って席に座り、ダンマリを決め込みます。何分経っても、誰も動きません。当惑してしまいました。教壇の上でやっていいことではありません。数十分に及んで、私は損な役回りが得意な性分で、教壇に出て、「オーテーテンプラツーナイデコチャン、ノーミーチーヲユケババサン」と歌い出しました。「そこまでしか歌ってません」、これは事実でした。そして、私がビンタを食わないのを確認した級友たちは、続々と教壇に上がって歌いました。そして、覚えのある生徒が全部、唄い終わるとしばし、静かになります。
 そこで女教師は、「私が教室に戻ってきたときに、やってたことをこの教壇でやりなさい」、彼女もヤブレカブレです。生徒の方も興奮状態になって、教壇に上がって 7、8人が、乱暴狼藉を再現しました。そして「これで終りです」。それからしばらく静寂の時間がありましたが、「今日は帰っていいです」と一言、私たちはホッとして下校しました。あの乱暴狼藉の再現の時に校長が何事か、と見にきたのを見ましたが、干渉しませんでした。
 翌日から普通に授業があり、彼女にお咎めがあったのか、確認は出来ません。多分、彼女は存命ではないでしょう。
 そして間もなく終戦です。海から10 km強くらいの場所なので、米軍の上陸用舟艇が町中を走ります。長さが15 m以上ありそうな装甲車が水陸両用になったやつです。ゆっくり走りながら子供たちを見かけるとチョコレートやクッキーなどを投げ与えます。子供たちも、すぐに慣れて、米兵を見ると「チョコレート、チューインガム、クッキー」などと叫びます。すると、かなりの確率で、何かしら、あり付けるのです。私は親たちが、そんな屈辱的なことはするな、と戒められていたので、やりませんでしたが。
 私の父は田舎の駅、といっても軍用の海産品の缶詰工場、赤飯の缶詰などの工場があったりして、荷扱いの量はかなりありましたが、多分、米軍も物資の輸送とかで駅員との接触があったのでしょう。時々、父が米軍に貰ったチョコレートやチューインガムを持ち帰るようになりました。そしてチューインガム一枚を三人で分ける、とかしてました。チョコレートを持ち帰ってきたときは感激しました。アメリカ兵は、こんな美味しいものを食べながら戦争してたのか!!と、これは叶うわけない、と思い知らされました。私たちは「欲しがりません、勝つまでは」でしたから。それでも海軍の乾パンは、手抜きせずに発酵させたものでしたから、陸軍のただ膨らせただけの乾パンと比べると御馳走でしたが。海軍の赤飯の缶詰は戦中に二度くらい、多分、荷扱いの斡旋などするので缶詰工場から貰ったのですが絶品でした。
 さて終戦すると、軍隊が復員してきます。満州、朝鮮、などに植民していた人たちが引揚者として返ってきます。食料の需給は一挙にひっ迫します。配給制度は敗戦しても一応は機能しているのですが、需要に対して供給があまりに少なくて、とても足りません。そうなると、生産者は公定の価格で国に買い取られるのは嫌がって,闇で売ることを選択するようになり、ますます配給制度は機能しなくなります。ついには配給制度では必要な栄養は確保できず、闇を一切しなかった、清く正しい、教授夫妻が餓死する、ということがありました。
 見かねたアメリカは様々な食料援助を始めます。
 ガリオア援助、エロア援助、ララ物資が主だったもので、ほかにもマッカーサーとかトルーマンとか個人名を冠した援助もありました。↓
 https://irdb.nii.ac.jp/en/01441/0004053928
>引用 アメリカを中心とした連合国は、第二次世界大戦後、完膚なきまでに打倒した日独両国に対して、まず戦争犯罪人の摘発・処罰を行うとともに、賠償取立てを進めた。しかし同時に占領政策を成功させるためには飢餓や疾病の拡大を阻止することも緊急の政策であった。ヨーロッパの同盟諸国に対しては、共産主義の拡大を阻止するためにマーシャル・プランに基づくマーシャル援助を大々的に展開したが、旧敵国であった日独に対してはガリオア・エロア援助を供与することになった。ガリオア援助は食料、燃料、医薬品などの緊急性の高い人道援助であり、エアロ援助は経済復興を支援するための援助であったが、被援助国はこれらの援助が無償=贈与と理解していたが復興が進む中でアメリカは返済を求めるようになった。 マーシャル・プラン(援助)も、その根拠法である一九四八年対外援助法第一篇経済協力法により、アメリカからの援助物資を売却した代金を特別勘定として預金することが義務付けられていたが、日独に供与されたこれらの援助物資の売却代金も供与国アメリカがコントロールできる「見返資金」として特別勘定を設置することが義務付けられることになった上に、金利を乗せて長期間にわたりアメリカに返済することになった。こうしたアメリカの対外「援助」は、アメリカの余剰物資を海外に「援助」してアメリカ経済を活性化させつつ、低利とはいえ金利を加えて返済させるというアメリカの強かな対外経済援助政策の原型となったと言える。>引用終わり
 いろいろ、ケチの付け所はありますが、このお陰で私たちは生き延びたのであり、返済は十分に体力がついたところで行ってるので、アメリカを恨むべき筋合いは無さそうに思います。
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軍国主義を崩壊してくれたこと、自由、民主主義、アメリカナイズされた文化・・・です。

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民主主義ですぞよ。

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