プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

田舎というか地方の田畑が広がっていたり、
家しかなくスーパーも小さなものが一つしかなく、
電車も2、3時間に一本とか車や自転車がないと生活できないような場所でも住めば都というか不自由はしないのでしょうか。

ある地方に行ったのですが、到着地から市街地まで歩いている人は見かけず時々車とすれ違う程度で市街地もコンビニが一つあるだけで飲食店も何もない様な。
銀行とガソリンスタンドがあったり、駅はありますが数時間に数本しかなく、駅中の売店も16時で終わりでした。
仕事があり普通に生活するだけでも、子どもたちもそうしたものだと思えば不自由はないのでしょうか。

地方の何もないと言ったら語弊がありますが、
どのような暮らしなのでしょうか。

A 回答 (3件)

質問の文面を拝見して私が感じたことは、たぶん質問者さんには、何をどうお話ししたところで、現地の人の感覚はご理解いただけないと思います。



私は東北の山合、名もない寂れた寒村の生まれ育ちです。

小学校は全校生徒数がやっと 100 人を超える所でした。
小学校や中学校にくる子は、私は近かったですが、遠くからくる子は毎日1時間以上をかけて自転車や徒歩で来ていました。

農村地帯でしたから、八百屋と言うものはありませんでした。
せいぜいあるのは、魚屋と菓子屋と電気屋と雑貨屋ぐらいでした。

街を貫いて本線の鉄道があり、駅もありましたが、駅員こそいましたが売店などありませんでした。
列車は、朝は7時前後に2本、夕刻は1時間に1本、昼間は2~3時間に一本、夜は9時で終わりでした。
バスも似たようなものでした。

それでも家々はポツンと1軒だけでと言うところは少なく、たいていは何件か固まって集落を形成していました。
相互扶助のようなリスク対策的な面もあったのでしょうが、多くの場合は血族で固まっているというのが理由でした。
なので、集落ごとに皆『姓』が同じなことも多く、ほとんどの場合、それぞれの家のことを、その家の家長さんの『下の名』で呼んでました。

子どもの目から見た当時の生活をいくつか紹介してみるとこんな感じでした。

小中学校はクラスがせいぜい 20 人ですから、ちょっと大きな家族のような感じです。
当時は月曜から金曜までは給食がありましたが、なぜか土曜日はありませんでした。
なので、土曜は皆家から弁当を持ってくるのですが、良い季節の天気が良い日は、そのお弁当を持って、学校の裏山に上り、山の上で食べたりしたもんです。

小学校の時も中学校の時も、1年にはいくつかのイベントがありました。

そのひとつは運動会。
もともと子どもの数が少ないので、学校だけでやってもいつもの体育の時間と変わらない感じになってしまいます。
なので、私の町では、小中合同の上、町の青年団や消防団、婦人会なども加わった町の運動会になっていました。
大人と子供が入り混じって走るリレーなんかは結構楽しみました。

夏には水浴びと言うのがありました。
当時、町にはプールはなかったので、毎年夏になると、町を流れる渓流の砂防ダムに、消防団が土嚢を積んで即席のプールを作ってくれました。
そして、天気が良い日の昼前後の時間、消防団や青年団の人が監視員になってくれ、その時間だけ水遊びができました。
渓流なので魚は居ましたが、モリなどの危ないものを持ち込むのはご法度でした。
その日が泳いでいい日かどうかは、町の防災放送で教えてくれるので、毎日それを楽しみにしていました。

私が暮らした町は、山菜などがよくとれる地域でした。
なので、春は『フキやタケノコ』、秋は『ゼンマイやワラビ』を採るために、学校を休みにして野山に出かけました。
皆日頃からに山を駆け回って遊んでいましたから、それらがどんなところに生えているかはよく知っていましたから、けっこうたくさん採ってきます。
だいたい平均的に大人の腕で数抱えは採っていました。
それをリヤカーに積んで学校に集め、食品加工業者に売却し、学校の備品を買うのに充てたりしていました。

町は稲作と果樹を中心にした農村でした。
なので、稲作では、春は田のシロかきから田植え、夏は田の草取り、秋は稲刈りと脱穀、と言う具合に忙しい時期がやってきます。
果樹も同じで、春は受粉と袋掛け、夏は収穫と出荷、秋は剪定です。
今のように機械化が進んでいなかった当時では、子どもと言えどもその手は当てにされました。
たとえば、農作業をする人たちに食事やお茶を運んだり、留守になる家で赤ん坊や小さい子の面倒を見るといった具合です。
なので、その時期になると学校を休む子は結構いたりしたもんです。

春と夏に農が忙しくなる間を見計らうように、学校の先生は『家庭訪問』をしました。
今のように道路事情も自動車の普及状況もよくなかったですから、先生も子どもたちと同じように、多くの場合は徒歩で各家を廻ってました。
その道案内は子どもたちがしてました。
実際には面白がって、まったく関係のない子もなじったりしてワイワイ歩いたものです。
たとえば、『次は xx さんのところだけど、それはどっち?』と先生が子供に聞くと、『あぁ、それは裏だよ』と言って歩き出しますが、歩けどもあるけどもそこには着かない。
なので聞いてみると、裏は裏でも『家の裏手』ではなく『裏山の裏手』だったりするのです。
こう言った経験を通し、先生は田舎の暮らしがどんなものかを身をもって体験されたと思います。

これは 1960 年台の話ですが、基本的な人の感じは今も変わっていません。
不便なら不便で、それが日常、普通なんです。

そんな私も大学進学で首都圏に出て都会の暮らしをはじめてしまいました。
こうなると、もう元には戻れないですね。

その後は考えるところがあってアメリカに渡って来ました。
当地でも、ニューヨークの大都会にも、全米一貧しいミシシッピの小さな町にも、バーモントの山の中も、カンザスの大平原の中も、テキサスの砂漠の中も暮らしてきました。

仕事柄、取引先に深くかかわる必要から一か所に3~4ヶ月長逗留することも多かったので、そんなところも入れれば、北米・日本・北欧・西欧・豪州などのたくさんの町に暮らしました。

そんな経験から『住みたいところ』をじっくり考えて探し出し、移り住んできたのが今暮らす町です。

ここは 200~300 キロ四方の森に覆われた低くなだらかな丘がちの平野の中にポツンとある田舎町です。
やっぱり、私には、田舎の、おおらかで、ゆとりがある、のんびりした暮らしがあっているようです。
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普通の暮らしです。

そうして育って来た人は、無くても暮らせる。畑の野菜飼っている鶏で卵と肉、味噌醤油豆腐も自分で作れるたまの買い物で必要な物を買う。町中だって朝夕通勤しか人はあるかない。郷に入れば郷の暮らしに馴染む物です。
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へんぴな地方で暮らす家族は、TV番組でよく報道されています。



住宅から食べ物まで、家族が一体となって自給自足したり、
買い出しは月に1-2回とも。
子供の学校は片道3時間以上もかかるので、
月曜早朝に家を出て、学校に泊まって、帰りは金曜日の夕方とかも。

のどかなのは、景色だけ。
外から見れば、大変な苦労に見えるけど、
当人達に聞けば、何の苦労もなく、むしろ楽しいといいます。
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