織田信長と徳川家康が長篠で武田軍の騎馬隊を完全に破壊した理由のは
たぶん無敵だった鉄砲の威力のためだった、と私はしてましたね。
でも、最近、どの人から面白い意見を聞いてました。
当時の鉄砲の射程距離は50メトール(meter)だったし、
一分には、たって1或いは2の人だけ殺せるんだった。
三段鉄砲の場合もただ1分で3より6までの騎兵を討った。
それでは、武田の騎兵が1分で50メトールを飛び掛かれなかったのか
実例をあげると、秀吉の朝鮮攻撃中、どの戦いでは朝鮮軍の弓兵二人が日本軍の鉄砲隊300人から150人を討ったこともある。
信長公記には、信長の鉄砲隊が浅倉から笑い種となったと記録もある。
言わば、信長軍の鉄砲じゃない何が武田軍の騎馬隊を破壊したって話しでした。
どちらが正しいですか、当時の鉄砲はほんとう
No.7ベストアンサー
- 回答日時:
回答:Yの字やΩ型の対騎馬武器。
武田の戦術は機動力です。
この時織田鉄砲隊は人ではなく「馬」を徹底的に狙わせてます。機動力を殺いで乱戦にして消耗戦をしかけたのです。鉄砲では物足りないので馬防柵の他に多数の騎馬妨害をしています。ちゃんとこの時だけ調達した対騎馬武器が現存します。馬の足を引っ掛けて傷つけるやつね。
もう一つに、馬の機動力を殺いだ後は、ヒトの機動力も殺ぎにかかってます。
対騎馬武器でヒトの足を徹底的に狙ってます。
相手の得意な戦術を徹底的に殺し心理的に追い詰めて相手を後退させる。
騎馬戦術は高速でいくつもの小隊を高速で動かし、戦場の至る所に現れて敵を幻惑し混乱した部隊を各個撃破することです。
欠点は高速で動くために一部隊の兵力が少ない。
そこを織田信長は突いたのです。
とすれば、まず馬防柵等で「馬」の動きを止めて、至近で馬を撃つ。強制的に馬から引き釣り下ろす。これで部隊を小数の歩兵にして兵力差を生かして反対に各個撃破。
ここで武田は基本戦術がとれなくなり、指揮系統が混乱します。各部隊の連携は乱れ、小数部隊の局地的抵抗になります。
馬が無くなった事で武田は簡単に移動することが出来ません。同じ歩兵同士なら追撃する方が有利。後ろからやられるなら前進するのみ。更に足を奪われてその場で討ち死にとなります。
そして味方を見殺しにも出来ないので武田は更に突撃するものの、さらに馬を失い兵力はあるが部隊を救うだけの機動力が無くなり、いくらかの部隊は全滅を受けました。
織田は大軍を分けて疲労が溜まると部隊を交代させて元気な兵力を前線に出してくる。
いくら最強武田軍でも疲労までは回復できずに追撃され力尽きて討ち死に。
前線まで誘い出して機動力を殺ぎ、簡単に後退させずにひたすら連戦させる。
これが戦国時代最大の戦死者数を出した戦いです。
鉄砲は一役かったでけで戦術的にはそれほど活躍はしてません。
鉄砲が有名になったのは「馬防柵」や数多く用意した「対馬武器」では宣伝効果にならないので新兵器「鉄砲」で統一したんだと思います。
そしてこの後、この戦いの惨劇を全国に流布し、はったりで勢力拡大しています。
でも通用しなかったのが石山本願寺だけ(笑)
ちなみに長篠の戦いでは織田は他の領土をがら空きにするほど総力戦を挑んでます。布陣を見れば織田軍団武将が結集してます。それに丁寧に上杉、北条に武田の後方を妨害させ武田に総力戦をさせていません。
戦略的に騎馬武器も揃えて兵力も揃えて織田は最初から優位だったんですね。
それでも抵抗した武田の底力はすさまじかったと思います。
鉄砲の効果は城の防御の時くらいですね。
安心して撃てるし、撃てば当たる。ので。
何故これほど対騎馬にこだわったのかは、武田を討てばそれだけで敵を牽制できるからです。畿内をがら空きにしたのも甲斐源氏の武田様が何とかしてくれる!という信仰があったからです。
それを見抜いた織田信長の偉大さは恐ろしいですね。
皆様のすごい答えへ感謝の言葉を申し上げてます
ただ二人の方だけへポイントを差し上げることが悲しくなりました
おっしゃってくれたものはまことに記憶するはずです。
No.8
- 回答日時:
他の方の回答に付け足して、
当時の日本の馬は現在のポニーぐらいしかなく、実際は馬を降りて戦ったそうです。騎兵ではなく、馬に乗った歩兵といった感じでした。
長篠合戦屏風の元になったとされる絵を見たことがありますが、たしかに足軽とは思えない武者が馬防柵に突撃している絵でした。その絵には馬など一匹も描かれていませんでした。
しかも、鉄砲足軽が馬防柵の前で撃っていました。
その絵は長篠合戦屏風より前にかかれたものだそうです。
長篠の合戦の真相は、背後の鳶ノ巣の山をとられた武田軍の寡兵による長篠城への玉砕といったところだと思います。
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No.6
- 回答日時:
ちゃんと実験した方がいまして、150mを騎馬で突進させました。
すると、1人で射手、掃除、玉込めをすると、2発目は打てませんでした。
3人で射手、掃除、玉込めを分担しても、2発目は打てませんでした。(殆ど変わらない)
うい!?^^;
3人で鉄砲3丁を射手、掃除、玉込めと流れ作業させても、2丁は打てませんから、1人で射手、掃除、玉込めをした場合との差は3倍にはならず、僅かな差でしかなかったよいうです。
思ったより騎馬の速度は速かったのです。
馬は、時速60キロ、つまり、車並の速度が出ます。
更に、加速度が車よりはるかに高いのです。
当時、電光石火の機動力を誇りました。
3段構とは、功防の策、つまり、
突進する敵に1弾浴びせておき、
馬防柵、横に張りめぐらした溝(堀)で、相手の得意とする突進を1時的に押さえ込み、鉄砲や弓で狙い打ちする。
馬防柵に取り付いた敵を槍隊で攻撃する。
こう言う、多重の策であったようです。
上手く敵が消耗してから馬防策を壊してくれると
追撃戦に転じる事が出来、
敵は兵力を消耗させて敵の追撃の手助けをした事になり、
策が完璧に間違っている事になり、大敗走は確定します。
何でこんなありもしない話が事実として流れているのか?
自分の手の内は絶対見せない。偽の情報を与えておく。(信長はこの手は相当多い人です)
また、敵の勇猛果敢さを称え、死んだ武将にまでツバを吐かない。
こう言う観点からでしょう。
とても分かり易い、単純な策です。
複合策をけん制します。
No.5
- 回答日時:
既に多くの回答がありますからふれられていない点を補足しますと、
当時の鉄砲の有効射程はおよお100mと思われますがこれは正確に狙った的に対するもので実際の射程はもっとありました。
従って密集して突撃して来る敵には誰かに当たる事は十分あり得ます。
弓の威力は一矢で人を殺すのは余程の偶然で何本もの矢を受けても戦える程ですが、当時の鉄砲は口径も大きく鎧も打ち抜く位でしたから当たれば致命傷か重傷で戦闘能力を失う事必定でした。
当時の騎馬隊は下馬して徒歩で戦う乗馬歩兵でしたから乗馬のまま進むのは指揮官だけです。
織田軍は前面に連子川があり馬防柵を作り野戦築城を施していましたから武田軍の接近は手間取ったのです。 この間に鉄砲の発射準備が十分余裕をもって出来ます。
従って連射が可能だったのです。
しかも武田軍がその備えを見て攻撃を躊躇することを恐れ、一部の軍を馬防柵外に陣取らせ誘いをかけるほど用意周到でした。
織田徳川連合軍には弓組もいて長射程を利用して活躍しています。
火力、防御設備、兵力に優れた連合軍陣地に不敗神話を信じ肉弾突撃を繰り返した武田軍は兵力の損耗を受けるだけで戦意を失いかけた時に連合軍の一斉攻撃を受けて壊滅したのです。
戦闘における死傷や戦果は追撃戦できまるものです。
敗走する軍は統制は失い、大将も護衛とはぐれ、バラバラに退却し、一方追撃軍は集団でこれを追うので戦闘力の懸絶は拡大する一方です。
戦闘がに化すのはこの瞬間です。
長篠の戦いで鉄砲の活躍したのは序戦だけで、勝敗を決したのは信長の卓越した戦闘指揮能力と徳川軍の野戦戦闘力によるものと思います。
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No.4
- 回答日時:
基本的に、今までの方の言われたとうりだと思います。
武田軍は、その兵ま少なさから、撤退路を見下ろす、鷲ノ巣山を攻略され、安全に撤退できる状況ではなくなっていました。
あの状況で撤退することは、後に敵を受け、壊滅の危機にありました。
あの状況では、前面の織田・徳川連合軍を破るしか、勝つための、安全に撤退するための手段が無いのが実情でした。
勝頼の失敗は、自軍の2倍とも3倍とも言われる織田・徳川軍が、進出してきた段階で、撤退すべきでした。
鉄砲の3段撃ちではありませんが、逸話としての長篠の戦いににた戦いが、ヨーロッパで百年戦争時ありました。
クレーシーの戦いです。
フランス軍の騎士と、イギリス軍弓兵との戦いです。
フランス軍は、イギリス軍の3倍の兵を持っていましたが、約3千のイギリス軍弓兵に粉砕されてしまいます。
イギリス軍は、丘の上に陣取り、その長弓の射程距離の長さと発射速度の速さから、フランス軍の石弓部隊を粉砕し、その後のフランス軍騎士の突撃に対しては、馬を射ることにより、騎士を落馬させ、重い鎧をきた騎士が、徒歩で丘を登ってきたところを、イギリス軍騎士がしとめました。
その後のアーザンクールの戦いでは、イギリス軍は、先の尖ったクイを建てる事により、フランス軍の突撃を阻止し、長弓でしとめる戦いで、3倍以上のフランス軍を破っています。
この時は、フランス軍の突撃進路の両側が森で、迂回できない状況でした。
前回のクレーシーの戦いでは、馬をやられたため、突撃ができなくなった事から、フランス軍騎士は、馬を降りて徒歩で進撃しましたが、重さ40kgから80kgと言われる鎧を着ていての突撃は不可能で、ヨレヨレの状況で、イギリス軍に突撃しても、あっさりやられてしまいました。
これらの逸話が、宣教師などによりもたらされていて、長篠の戦いの逸話として、伝えられたのかもしれません。
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No.3
- 回答日時:
基本的に誤解されていることですが、
戦闘では相手を殺すことではなく相手の意気を挫くことが目的となります。
よって必ずしも殺した数が勝敗を決めるわけはありません。
火縄銃の戦場での有効性が低かったとしても、
それによる戦死者の数が少なかったとしても、
その効果が相手の戦意を挫き、敗走させしめれば
それで十分なわけです。
もちろん長篠の戦いで兵力差がものを言ったのは明らかです。
一般的には織田徳川軍三万八千、武田軍1万5千といわれますが
ともかく二倍強の兵力格差がありました。
これは十分に相手を圧倒しうるものです。
また鉄砲隊はわずかに3000名で、織田徳川軍の
1割程度の比重でしかないわけで、
鉄砲の力で相手を撃退したわけではにことはありからです。
ただしだからとって鉄砲の弾が綿でできているわけでもなく
当たったら当然、死にます。
突撃する武田軍の一角をこの鉄砲隊と馬防柵で防げらば
それはもちろん効果的な戦術といえます。
そもそも織田徳川軍は半築城陣地を築いて防衛的布陣をしいたわけで、
その戦略の延長線上に鉄砲隊もありました。
要するに鉄砲隊は確かに武田騎馬軍団を撃退したわけですが
それだけで勝ったわけでもないですし、
それが勝因から除外されるべきでもありません。
例えば、野球の試合で9回裏に逆転2ツーランで4-5で勝ったとしても
3回に打ったソロホームランの価値がなくなるわけではないということです。
勝因は当然ながら複合的であるはずなのですから。
鉄砲の威力の一つに心理効果というものもあります。
轟音は相手の怯えさせ、味方に勇気を与え、
集中的に投入することでその威力は増します。
火縄銃はたしかに個々の性能という点では
弓矢と比べても劣る面もあります。
ただし弓兵二人で150~300名も討ち取ることは不可能でしょう。
なにしろそれだけの弓矢を持つだけでも大変なので
かなり城攻めの間とか、
長い期間のスコアでなければ、誇張した数字でしょう。
いずれにしても条件によって有利不利はかなり差がでてきますし、
銃の名手なら100m以上の距離からでも命中させられます。
また火縄銃の口径や尺はまちまちなので、一概にはいえないところもありますが、
有効射程50mは十分な距離です。
なにしろ密集戦闘に時代ですからね。
弓は使い手の力量でその性能が変わってきますが、
銃の利点は使い手を選ばないことです。
弓矢だと下手は3メートル先の的にも矢をさせませんが
銃なら弾さえ出れば確実に当たり、確実に殺傷できます。
要するにそういうところが先見性というやつです。
信長は現実的には島津や九州の大名のように
火縄銃を大量の戦場に投入できませんでしたが、
長篠の戦で自身の力と経済力を誇示することが出来ました。
ちなみ、長篠の戦いで、もうひとつ決定的に作用したことは、
酒井忠次と金森長近が武田軍の背後にあった鷲ノ巣砦を
攻略したことです。
これによって武田軍は後退できなくなり
会戦の敗北が大潰走につながりました。
武田軍の戦死者の多くも(通常の戦闘どおり)勝敗が決した後に負ったものです。
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No.2
- 回答日時:
長篠の戦の兵力実数は織田・徳川軍が約15000~20000、武田軍が6000~10000と推定されています。
尾張兵は天下の弱兵、甲州兵は越後兵と並び日本一の精兵、というのが当時も通り相場だったようですが、いくらなんでもこの兵力差で、しかもきっちり野戦築城した相手に突撃をかけるのは無謀というものでしょう。
なぜ武田勝頼がああも単純な突撃をかけたのかは現在でもよくわかっていません。歴史作家たちは武田側からこの戦いを描写する場合、佐久間信盛による偽の裏切り、など、謀略があったとしていますが、真相はどうでしょう。
なお、織田・徳川連合軍も相当数の死傷者を出しています。一方的に武田騎馬隊(なんてものは存在しませんでした)を織田鉄砲隊が射すくめた戦いではないことは明らかです。
結構この戦についてはいろいろな人が研究書を出していますから、大き目の図書館でいろいろと探してみてはいかがでしょう。
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No.1
- 回答日時:
武田軍に織田・徳川連合軍が飼ったのは鉄砲の力ではありません。
いわれているように当時の鉄砲の威力があるのは50m程度で、しかも一発打つとすぐには次を打てません。また武田軍も長篠城の城壁がぼろぼろになるほど鉄砲を撃ちかけたとありますから、かなりの鉄砲を持っていました。
そのために三段打ちをしたといわれますが、これは後世になって作られた作り話で実際にはありませんでしたし、実際にはやろうとしてもよほど訓練した兵士が多数いなければなりませんが、そのような多数の兵士はいませんでした。
いわゆる長篠の戦いで織田・徳川軍が飼ったのは、もともと兵力も多く、また野戦築城もして準備万端だったところへ、どう血が昇ったものかこういう場面では撤退するべき武田勢が無謀な攻撃を仕掛けたためです。
ただ、これは鉄砲が兵器として役に立たないということではなく、弓に代わる遠戦用兵器としては有効でしたが、まだ鉄砲だけで戦えるほどにはなっておらず、完全に鉄砲だけですむのなら鉄砲足軽だけになったでしょうが、鉄砲の合間には弓や、接近戦になると鑓も必要で、弓組や鑓組の足軽も残ったわけです。
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