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新約聖書野中でイエス様が空腹を覚えたときイチジクの木に実がなっていなかったためその木をのろって枯らしてしまう話があります。ずいぶん大人気ない理不尽な話のように思えるのですがそこは新約聖書 なにか深い意味が隠されていると思うのですがそれは何でしょうか。

A 回答 (9件)

イエスがナザレのシナゴーグで伝道宣言をして数名の弟子を連れてガラリア湖に向かう途中での出来事の1つですね。

何も無い丘陵地帯をだらだらとガラリア湖まで下っていくのですから喉も渇いたでしょうね。いろいろな解釈はありますが、個人的には、その道を実際にたどってみると、「私が私の仕事をするために一人立ったのにお前(イチジクの木)はそれに気がつかず祝福も忘れているのか。」といったように思いますね。これにはいくつかの意味が含まれていて、例えば、「マスターは、密かに帰ってくる、そのときを見逃さないようにしなさい」旧約部分、などのように「主が帰ってくるときを見逃さないように、怠らなく準備しておきなさい」ということが出来ていないと叱ったように思います。
つまり、伝道のはじめに、イチジクの木を例えて、そういう人の方が多いのだ、といいたかったのかもしれませんね。実際は、見逃すどころか、多くがイエスに石まで投げたのですから、歴史のほうがイチジクの木より厳しかったわけですね。
今となっては、わかりようがないですが、イスラエルが平和なときを迎えたときに歩いてみるとわかるかもしれませんね。
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ここで言うイチジクの木は当時のファリサイ派・サドカイ派の人々、つまり悔い改めをしない当時のエルサレムの人々の事だったのではないでしょうか。

実る時につまり悔い改めるときに悔い改めない彼らをイエスはお叱りになり呪った(非難した)のでしょう。
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frashprimさんへ


《「葉のほかにはなにもなかった。イチジクの季節ではなかったからである。」
「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」と刈り入れを考慮している場面もあるので、実がなっていなかったで怒ることはないと思います。》

借り入れの季節こそイチジクの見のなる季節ではないですか。
我が家のイチジクはただ今、収穫時期です。
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幻視に成功しました。


これから話すことは、普通感覚でみたらはかなり危ないものですが、匿名を良い事に報告しときます。

イエスはイチジクの木に近づいた時に、イチジクの木から何か話しかけられたようです。それでイエスはイチジクの木を見つめながらその周りを半周歩んで、神意を述べました。普通に立って腕は下げていました。イエスの後ろには弟子が静かに控えていました。話の内容までは分かりませんでしたが、まるで人に話すかのようなものでした。口調とイントネーションが怒るでもなく、静かでもなく、熱くもなく、冷たくもなく、押し付けるものでもなく、なだめるものでもない。聖人、偉人とはこのような話し方をされるのかとびっくりしました。わずかですが、幻視は以上です。もちろん他者が信じられるものではありません。



「葉のほかにはなにもなかった。イチジクの季節ではなかったからである。」
「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」、「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」と刈り入れを考慮している場面もあるので、実がなっていなかったで怒ることはないと思います。
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イエスは神の子ということですから、全てのものを生き返らせることも出来、又、罰する(命を取る)能力もあるということです。



ここは比喩。昔の本を読んだことのない多くの人々に分りやすく、例えて話されてるということでは。。

実がならないイチジクの木なんて、植えておくのは畑の無駄でしょう?水も肥料も一杯吸いますから。でも、普通の人間なら、イチジクは大木ですから、抜くのにも大変な力が要ります。

イチジク(人々)の栽培主であるイエス(神)が毎日育ててきた実(教え?)を必要とされてるときに、
つけていないことに怒られた、という意味じゃないかしら?

信者さんじゃありませんが、ミッションスクールでしたので。
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http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM …

子供ができない女を呪ったわけです。


イエス物語の作者はユダヤ教徒だと思います。
ユダヤ教では「神が祝福をする」とは、<その人の子孫を増やし繁栄させる>という意味なのです。

神は人間に産めよ増やせよと命じたとこの宗教は言っています。
その命令に逆らうということは、子供を作らないということです。


つまりイエスが実をつけないイチジクにのろいをかけて、そのイチジクが一代で絶えろと言ったわけですが、イエスが呪わなくても、子供ができなければ、そこで絶えるわけで、イエスの魔力でも妖術でもなんでもないので、恐れることは無いです。

摩訶不思議な魔法使いが存在して、人々を呪い 子孫ができないようにする魔力がある人など存在しません。

ただし、フラシーボ効果というものがありますので、催眠にかかりやすい人は、「呪った」と言われたら、日に日にやつれていく人もいますので、そういう人に関わらない または そういう迷信を信じないことが大事です。
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個人的な判断で回答します。


聖書も一つの伝承です。従ってそのまま鵜呑みにしない方が良いと思いますし、現実には起こりえない現象が多々見受けられます。
あなたが仰っている『 大人気ない理不尽な話』も信仰と言うフィルターを通せば、それなりの真理をうかがい知る事も可能です。
しかし、それをどう解釈するかが問題になって来ます。キリスト教にも数多くの宗派が存在するのはその為です。
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聖書は理想を追求した本です。

多少のひずみは必ず生じます。深い意味は、ないです。イエスも人間であった証拠です。
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イエスは5千人にパンと魚を与える能力を持っています。

山をも動かすことが出来ます。実際に動かさないのは意味が無いからだけです。これらの力は神(父)から来ています。イエスからではありません。空腹を覚えてイチジクの木に近づく前に、実がなっているように祈られたはずです。だが、近づいてみると実は成っていなかった。そのイチジクの木は、神(父)に逆らうものの象徴となったわけです。神(父)は全てを統べられている。神(父)に真っ向から離反するものは呪われる、こういうたとえです。神(父)が怒ると鉄槌が下されることもある、こういうことです。昔の人は天変地異が起こると天が怒っておられるから、襟を正さなければならないと気をつけました。これは民族も場所も関係ない概念です。あの矩を踰えない孔子も天が荒れると大変畏れました。
ですからイエスは「神を信じなさい」と弟子たちに教えたわけですね。スウェデンボルグは神を信じなくともそれは仕方が無い、未熟な人間も居ると、しかし、故意に神(聖なるもの)を冒涜するものは一切許されない「天の掟」と教えています。なぜかというと人間は神によって生かされていると、その神をないがしろにするのは自己を苦しめるのと同等であり、自己が自己に罰を与えるのだ、こういうことです。イチジクの木は役立ち(神と人間の対して)のために枯れてしまいました。問題ないわけです。

つれづれに話しましたが、私としては「イチジクの木を呪う」は、後代の改竄と捉えています。
イチジクの木はユダヤ教、または、イスラエルの象徴とする説もあるみたいです。
誰にも真相はわからない話と捉えることをおすすめします。

聖書の各国語の翻訳にも問題があります。句ひとつで意味が異なります。
http://www.makuya.or.jp/bible/kouwa/mat05.htm

アラム語からギリシア語に変換されると、ですね、アラム語を解する人がどれだけ居たかというのも問題でるわけです。言葉ひとつでも時代によって意味が変わるわけですよね。ギリシア語から古代ラテン語(ヴルガータ)、これもかなり難しいです。大昔さえラテン語を解する人は居ないといえるほど難解な言語です。意味が分かっても翻訳する言語に相当する単語が無ければ、意味が変わります。これらを含んで聖書を読まないとダメです。
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