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こんにちは。
輪廻転生を信じてる人に質問です。
転生と一口に言っても、内容上、いろいろ違うとは思うのですが、どうしてそういう理解になるのか分からないことがあって、信じている人に聞きたいのです(あくまでも質問であって、批判の意図はありません)。

一つめは、輪廻を霊性の向上や人格の向上のための修行とするという考え方です。よく見ますよね。なるほど、私個人の人生を見て、そう思うこともあるんですが、たとえば例として良くないかもしれないけど、イラクで爆弾に降られて即死したり、食べるものものなく、まともにこの世の空気を吸うこともなく死んでいくのも修行なのでしょうか? 

所詮、人格の向上のためと言っていられるだけの恵まれた境遇にあることが前提になっているように思えて仕方ないのです。輪廻の観点から見て、あれも人格向上になってるのでしょうか? そして、たとえばイラクに爆弾を落としたのがアメリカだとして、アメリカは爆死した人の修行を助けてあげてるのでしょうか? あるいはフセインの独裁は、修行して乗り越えるための舞台作りだったのでしょうか? なお、アメリカやフセインの例は、政治的厳密さは追求していません。

二つめは、一つめと近いのですが、幸福の科学の人がよく言うのですが、「人生は一冊の問題集、解けない問題はない」というのがあるのですが、私にはとてもそんなことを断言する気にはなれなくて・・私個人の感想はさておき、たとえば先の例でいえば、問題を解くということはどういうことでしょうか? 

3つめは、人格が向上すればするほど、新しい課題として難しい問題集を解かなくてはいけない、という話を聞きますが、この理解はいいのでしょうか? もし良いとしたら、修行が進めば進むほど、不幸な人生を歩まなくてはいけないですが、そういうことなのでしょうか?

A 回答 (9件)

宗教団体には無所属ですが、輪廻転生を信じています。



この問題って、輪廻転生にちて考える際、誰しも疑問に思うことですね。でも正解は有って無いようなものなので個人的見解を一つ。

一つ目。
産まれてすぐに爆死したり、幼いうちに殺害されたりなど、一見何の修行もできてないように見えます。
でもそういう人たちが居ることによって、世間に問題提起が出来たりするという見方もできます。
そういう形の徳を積んでいると考えています。

二つ目。
「解けない問題はない」とは言いますが、人生の問題は数学のようなはっきりとした回答があるものではないと思います。
たとえばテロに巻き込まれて死亡する場合、死亡した当人は今後の努力も糞もありません、死亡してしまうので。
いつ死亡しても悔いの残らない人生を送れということでしょう。で、残った人たちによってテロ問題が解決するよう努力していく必要があるんだと思います。

三つ目。
最大限(無限)の努力が大切なんだと思います。
別に不幸度の高い人生が必須というわけでは無いと思いますよ。
例えば、スポーツで世界記録を狙ったりとか、学問で今までに無い画期的な分野で研究したりなどでもいいかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
何しろ、通常確認しようがないことなので、そうかもしれませんねぇ。でも、なんだか割に合わない修行法だという感じはどうしてもしてしまいます・・・問題提起のための投資が多すぎるように思ってしまうんですね。3は、普通はそう考えますよね。でも一段上の困難を解決するとか言われると、不幸になることが必須のようにも聞こえます。別に不幸にならなくても、人格的に磨ければそれで目的が達成されているのだったら、おっしゃっる通りで、私もよく納得がいくのですけどね。目に見えないだけに、難しい部分がありますよね。

お礼日時:2006/01/30 12:08

無宗教、基本的に非常に頑固な私がこの世の不条理、輪廻転生等を納得した説によりお話します。



一つめ:
人生は長いか短いかは重要ではなく、短くしてこの世を去った命にも課題があるということです。
例えば質問者様の挙げた例では、ニュース等で私達の目に留まりますよね。戦争の悲惨さ、人間の不平等さ、命の大切さ。何かを感じませんか?
恵まれた環境の私達に大切なことを教えてくれているのではないでしょうか。それを課題にしてこの世に誕生してくれたのだと私は考えます。
加害者も独裁者も、その経験を通して何かを感じることでしょう。

二つめ:
幸福の科学は分かりませんが、その説の中に「人生には乗り越えられない事は起きない」とあります。
私はそれを可能(乗り越える)か不可能(乗り越えられない)かではなく、選択が可能なのだと解釈しています。
戦争、災害、不幸、辛いこと、人生には乗り越えるには苦しいことが沢山あります。しかし命が奪われない限りは、乗り越えることは可能なのです。苦しみから逃げることもいわゆる可能なことなのです。(本当は逃げることは別の観点からお勧めはしませんが)よって、乗り越えられない事(不可能)はないと思っています。
「人生は一冊の問題集、解けない問題はない」は、
人生は一冊(その人)の問題集(色々な経験/課題)、解けない問題はない(不可能はない)」と考えます。

三つめ:
「不幸な人生」の定義にもよりますが。。。
その説に、人は心を磨くため、修行の場であるこの世に誕生するのだとあります。
”難しい問題集”=苦しい経験(不幸な出来事)と捉えるならば、豊かな経験が出来るということです。心を豊かにするチャンスだと思います。質問者様の言う
”人格の向上のための修行”ですね。
新しい課題として次々に不幸な人生を、、、というのは、必然的なものであるかもしれないし、不幸な人生というのは第三者的意見なのかもしれないですね。
苦労をした人は、優しくないですか?
それだけ、沢山の経験から人の気持ちが理解できたり、許せる度量が大きくなっているからでしょうね。人格が向上するとはそういうことなのではと私は考えます。

また、人は死んだら地位やお金はあの世には持っていけない、持っていけるのは自分の心だけとあります。
心が貧しい人が不幸だと私は考えています。
不幸な人生=物質的に恵まれていない、不幸な出来事が続くということではないのだと考えています。

以上、三つそれぞれに共通した説明が所々入って分かりにくかった点もあったとは思いますが、参考までに。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
1番様と内容的につながっている点が、多いのでそちらへのお礼に書いたことも見てください。確認しようのない、類推を積み上げるしかない分野のことですが、ありがとうございます。1については、そういうご回答が出てくることはある程度は考えていました。輪廻を扱った本のセオリーを忠実に援用するとそうなるからです。でも、私達に教えるためにやられていく人生と加害者もしてはいけないことをすることで学ぶって、すごく燃費のわるい修行を、あちらもこちらもしているという感じはどうしてもしてしまうので、この質問を立ててみました。何か違う見方もあるのかな、と。

2つめは、逃げても良い、という選択もあるのでしたら、なるほどと思いました。苦労をした人が優しいとはよく聞きますし、ある程度本当だとは思うのですが、苦労しすぎると性格がゆがみますよね?、苦労が向上に必須かどうかだと思うんです。あまりにも割に合わない苦労が多すぎているというのが、修行するという説明への疑問なんです。
なお、否定の意図はないので、私自身の今の立場を書いておきますと・・。私は輪廻はあるのかなぁとは思っています。でも目的論的に、どこまで整合的に解釈できるのか、という問題には懐疑的なんです。

お礼日時:2006/01/30 12:31

お礼文拝見致しました。

私なりの解釈を補足します。

>すごく燃費のわるい修行を、あちらもこちらもしているという感じはどうしてもしてしまうので
そうですね。私もそう思っていました。
質問者様は失礼ですが、自分はもう生きてはいけないという程の失敗をしたことがありますか?個人差はあるとは思いますが。
あくまでも自己判断ですが、私はあります。取り返しのつかない間違いを犯したときに、心に深くその重さが染み付いたのです。頭では悪いことと理解していたことが、経験を通じて刻み込まれました。これは死んでも忘れないと思います。
この経験から、頭の中での推測は所詮忘れ去られてしまうもの、経験を通して傷(糧)になるのだと思いました。燃費の悪い修行をしないと真実が分からない事もあるのだと思います。それだけ私が未熟だということです。

更に付け加えると、「欲」が加わることで、余計に燃費を悪くさせるのかもしれませんね。叶わない片思いにしても、好きだけならいいものを、自分のものにしたいと思うことで事態はとんでもない所へ行くこともあります。(片思い反対論ではありません)

>苦労が向上に必須かどうかだと思うんです。あまりにも割に合わない苦労が多すぎているというのが、修行するという説明への疑問なんです。
向上に欲だけでは成り立たないのかもしれないですね。欲から失敗や苦労が生まれ、苦労が伴って反省が生まれ、反省から改善へ、改善から向上へと繋がっているのではないかと思います。苦労なくして本当の向上には繋がらないのだと思っています。世の中の成功者と呼ばれる方たちは、若いときに苦労した方も多いです。親から引き継いだ会社で苦労を知らずして社長になった方たちは、不況で倒産しているかもしれません。例えが悪くてすみません。

ちなみに、
>苦労しすぎると性格がゆがみますよね?
ゆがむことで見えてくるものもあるのかもしれませんね^^; 私も分かりません。。。
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この回答へのお礼

またまたのお越しありがとうございます。

>質問者様は失礼ですが、自分はもう生きてはいけないという程の失敗をしたことがありますか?

えーと、意地悪で言うのではなくて、お答えは控えさせてくださいね^^。「経験してない人、苦労してない奴に何がわかるの?」という意図が少しでも見え隠れするようなら、私の内面の事実とは別に議論が別に進んでしまうので、お答えしたくないのです。回答者様にすでにある種の予断ができており、それに私や他の回答者が乗ってしまうのを恐れています。回答者様は、経験の大切さを強調されますが、何事も経験しないと分からないというある種の経験至上主義の影に隠れて見えなくなるもの(たとえば必要のない経験もあるかもしれません・・ここが私の問題意識なのですけどね、経験してない人への意識の問題もあるかもしれません)だってあるかもしれません。だから、意地悪ではないのですけど、個人的な経験ではなくて、普遍的な演繹と帰納を積み重ねたいのです。
回答者様のご経験は分かりました。とても学びが多かったのだと思います。私の周囲にもそういう方は皆無というわけではないので、これは率直に尊敬いたしておりますが、でもこれは、輪廻転生の構造や目的(あるのかないのか)を説明するものとは少し違うのかな?という気がしています。

お礼日時:2006/01/30 14:48

何度もすみません。


荒らすつもりはなかったのですが、結果、経験至上主義へ議題が反れると思われたのでしたらお詫びします。
私の経験が云々ではなく、解り易い事例(私が)として経験談を掻い摘んで書いているうちに脱線していると思われても仕方ない文になってましたね。頭も悪く、説明が下手なので。。。

本当は宣伝になることを避けて、名前を出したくなかったのですが。。。
江○啓○さんの著書でスピリチュアル・ブックの中に「グループソウルの法則」というのがあります。そこを読んで頂ければ、この世の経験の影響がどう作用するのか、輪廻転生の構造や目的が見えてくるのではないかと思います。私の個人的見解はそこから解釈したもです。女性向けと侮るなかれ!なかなか勉強になります。
抜粋して記入しようかとも思ったのですが、著作権等問題から控えさせて頂きます。

”普遍的な演繹と帰納を積み重ねたい”のご要望に合うかは分かりませんが、一つの考え方ではあると思いますよ^^

誰にも答えは分からない事なので本当に難しいですよね。でもいつか、質問者様の疑問が解けることを祈っております。
何度も登場して本当に申し訳ありません。もし目障りであれば、削除申請して頂いてもかまいません。お手数にはなりますが、新たに質問されても良いかと思います。この辺で失礼致します。
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この回答へのお礼

お気遣いありがとうございます。
言い方がもしかすると傷つけてしまったのかなと思います。でも私自身が侮辱に感じたとか、そういうわけではありませんのでご容赦くださいね。
個人的な経験そのものは参考にならないといわけではないとは思いますが、反証がいくらもあるように思いますので、あのように書いておりますが・。

江原さんについては、きちんと読んだことはないので、読んでみようと思います。グループソウルというのは、彼独自の内容があるのかないのかは知りませんが、似た内容ならたぶん知っているかもしれません。でも彼のは知りませんので一度検討してみたいと思います。紹介ありがとうございます。私もある教団名を具体的に書いてますので(規約違反だったのかなぁ?)、紹介という意味でなら全然いいです。

枝葉になりますが、回答者様は「結果、経験至上主義」とまとめて?お考えかもしれませんね。私は経験がすべて輪廻転生の目的となっているか、ということへの疑問を差し挟んでいますが、「結果至上」に対しては、今のところむしろ肯定的なんです。

すごく冷めた言い方で、日常の「がんばることが良いこと」という常識から見れば、やる気がないと言われて否定されると思いますが(私自身もそう思ってる面もあります)、でも、最初から人間にこんな暴力性や凶暴性を付与しなければ済んだ話だと思います。
どうして、わざわざこういう風に人間を作って?、学ばなければいけないのか、とやりだすと、輪廻の起源を必ず扱うようになると思います。でも、それは質問文には入れませんでした。別の質問文するか、回答者側からその視点が来たときに、その方に聞いてみてもいいと思ってましたので。このあたりに、輪廻というのがあるとして、今私達が知っている「向上」というのが、もっと違う概念であったり、あるいはいくつかの違う要素があって、輪廻になっているのではないかと考えさせる理由になっていて、背後にあるもう一つの疑問になっています。

お礼日時:2006/01/30 18:11

質問者様の疑問は尤もだと思います。


誰でも同じ疑問を持つのではないでしょうか。

この世の中、不公平、理不尽と感じられることが多すぎます。それでも私は「輪廻転生」を説きたいと思います。
私もまだまだ未熟者で分からないことだらけですが、読んで頂ければ、幸いです。

「輪廻転生」を説明するときに不可欠なのが「因果応報の法則」です。別名、「原因と結果の法則」とも言います。
「この世」も「あの世」も「宇宙すべて」をひっくるめて一分の狂いも無く働いているのが因果応報の法則です。物事には全てに原因があり、潮の干満も、四季も、惑星の回転もすべて起こるべくして起こっているというのです。生物の発生も進化もそれを起こすための力(エネルギー)が存在しており、その意志(エネルギーの方向性)によって進められるというのです。

このエネルギーを昔から人々は「神」と呼んできました。小さい低い神から究極の全てを統べる神まで人は区別が出来ずにみんな「神」と呼んでいたのだと思います。

この神のエネルギーは万物に平等に1秒も休む事無く、取りこぼしも無く、同じ法則を働かせます。
この法則が先に説明した「因果応報の法則」です。
因果応報の法則とは
「自分が他に向けて発したエネルギーがそっくりそのまま自分に返ってくる」というものです。
「エネルギー」とは「動機」です。つまり、他者に向けた「感情」のことです。
表面的には全く同じことをしている様でもネガティブな感情でもってしたことと、ポジティブな感情でもってしたことは天と地ほどの差が出来ます。
相手に与える影響、自分に戻ってくる影響もともに全く変わってきます。

人はこの因果応報の法則のなかで輪廻転生を繰り返しているのです。
蒔いた種は刈り取らなければなりません。
良い種も悪い種もあります。
人生とは良い種まきになるための修行です。
人生の苦しみとは過去に自分が蒔いた悪い種をかりとっていることなのです。
人生の幸福とは過去に自分が心を込めて他者のために蒔いた幸福の種の果実を刈り取っているのです。

この幸、不幸が物質的な富でないことも種まきの中で学んでいかねばなりません。
誰もがうらやむ大金持ちの人生はじつは大変リスクを伴うものです。
大金持ちはとかく高慢で貧者をないがしろにしがちです。その人生でネガティブなエネルギーを撒き散らすとやがてその人生又は後の人生で責任を持って刈り取らねばならなくなります。
ですからお金持ちの人生とは自分の霊性を試す一つの挑戦でもあります。
極貧者も又リスクを伴っています。
彼らは自分の不運を世の中と他者のせいにしがちです。
質問者様のおっしゃるとおり、神を呪い、人生に投げやりになるかもしれません。

一つ目の質問について
法則は厳然と働きます。
でもそれは人を罰するものでも見せしめにするものでもありません。
結果を引き寄せているのは人の方です。
物質的ではない、自然の摂理に沿った生き方をすれば平和は実現されるのに、お互いにネガティブな感情からネガティブな行動を引き起こし、戦争や破壊を作り出したのはすべて人の責任です。法則(神)に責任はありません。
冷たいようですが、蒔いた種は刈り取らねばならないのです。そしてそれを観た人々がしらんぷりして何ら解決に尽力しないならば、その冷酷さによって蒔かれた種からできた苦い果実を刈り取らねばならないでしょう。
爆死した人々も苦しいですが、その中から何かを学び取らねばなりません。
幸い、この世に怨念を残さずなくなった方はたとえどんなに悲惨な死に方でも霊界では安らかに過ごせます。
そして自分の体験した人生について深く考え、次へのステップとすることができます。
それを指導してくれる善霊たちが沢山見守ってくれますから心静かに安心して過ごせます。

アメリカやフセインについては彼らの行いがネガティブな動機から出ているものならば、必ずやネガティブな果実を刈り取らねばなりません。
彼らは舞台を提供しているように見えますが、その舞台に乗るか乗らないかは当人の選択の自由です。
誰でも人の人生を牛耳ることは出来ません。
牛耳っているように見えても、それは本人の自由意志によるものです。そうでなければ人の果実を刈り取ることになってしまいます。

人は蒔いた種を刈り取りながらその経験を次の人生で生かしていっているのだと思います。
直ぐに生かせる人もいれば、なかなか進まず、同じことの繰り返しに人生を費やす人もいます。

大変長くなり申し訳ありません。
残りの二つの質問には後ほど回答させて頂きます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
実は、回答者様のくれた回答が、現時点の私の感慨にもかなり近く、また合理性という点においても納得のいくものだと私は思っています。しかし、個々の部分等、疑問がないかというと、そうでもありません。また、この質問は回答者様のご回答を論理の隙間なく納得する趣旨でもありませんし、細かな点を上げていてもきりがありませんので、大きなものについてのみさらに質問し、感想も述べさせてもらいと思います。もしよろしければ、また補足くださいますようにお願いします。
一つは、因果応報についてです。というより、その認識の方法ですが・・。私もこれで、ひとまず矛盾なく世間の不平等は説明がつくと思います。修行のために何でも経験していくという単純な成長主義の論理よりは、よほど明快に説明はつくと思います。しかし、私はこれを確信もしていません。説明が上手につくとつくといっても証明できないからです。ところで、回答者様は、どような方法で、これを事実と認定されましたでしょうか? これは、本題とは直接関わりませんが、教えてくださると幸いです。

二つは、上記矛盾がないとは申しましたが、そのままでは??ということが多いのが世の中ですよね。矛盾がないようにするにはある種の仮定(確認?)がいると思います。この因果応報の論理ですが、私達の多くが日常見ていて疑問に思うことは、この良い人が前世には極悪人であったのだろうか?と思わずにはいらないようなことがたくさんあることです。あるいは、逆に、この人はずいぶん阿漕なことをしているが、これだけ良い果報を受けるということは前世によほど善のエネルギーを出したのであろうか?という、至極初歩的な疑問です。因果応報論では、回答者もおっしゃるように、ここは可愛そうだけど冷然と、YESと言うところです。(今は道義は別として、)それでつじつまは合います。しかし、カルマ論だけで考えていくと、今度は、こんないい人が前世(数多くの過去世かも)でよほど悪の想念を出し、こんな悪い奴がよほど昔は良い想念を出していたのかという、目の前の現実とのギャップがどうしても気にかかります。分かりにくい文章ですが、通じていますでしょうか? 
一度、質問文を切ります。まだ続きます。補足に続けます。今日、書けるかどうかはわかりません。

お礼日時:2006/01/31 19:10

十分におわかりの方が質問されているのであればご容赦ください。


お聞き及びの事柄かもしれませんが、私の信じる範囲で申し上げます。

≪輪廻転生を信じてる人に質問です。転生と一口に言っても、内容上、いろいろ違うとは思うのですが、どうしてそういう理解になるのか分からないことがあって、信じている人に聞きたいのです≫
前提として、ご理解いただきたいのですが、一口に『輪廻転生』と言っても、その言葉を発した人よって、想像していることはかなり違っているかもしれません。
まるで、ゲームのように、死んだら、すぐに転生が始まると考えている人もいるかもしれません。
死後の世界での生活を通して、必要になった時に、来世を選ぶという考え方もあります。
死後の世界でその必要が生じなければ、来世はなかなか選ばれることはないかもしれません。

≪輪廻を霊性の向上や人格の向上のための修行とするという考え方です。≫
霊性の向上のための修行はあくまで自発的なものと考えます。
日本語で意味するような、『修行』という堅苦しさはないように思います。そんなに構えなくて、水が高きから低きに流れるように、自然とそうするのではないかと思います。
誰かに強いられた義務感からではなく、むしろ心の底からそうせずにはいられないという喜びの気持のほうが強いのではないでしょうか。
自ら望まないのに体裁だけ整えても、霊の世界では何の意味もありません。

転生する場合は、自分に足りない部分を補うために、こちらにやってくるわけですが、それはあくまで自発的なものと考えます。行きたくないのにがんばって勉強してこいと放り出されるんじゃなくて、次の生の条件も納得してやってくるのだと思います。

その霊に霊性の向上心が芽生えなければ、死後の世界の中で別の場所に移動して行くだけかもしれません。霊は命令されて行くというより自分の意思で自ずとそれを選ぶようです。

霊としては、胎児の間や生後すぐに死ぬ場合も、そういった運命を選ぶことによって、自分に足りない部分を補っているように感じます。前世で蒔いた種を刈り取るためにそういった意味のない生を体験する必要があったのかもしれません。前世で未熟な命を摘み取った痛みを身を以って理解するためかもしれません。

≪幸福の科学の人がよく言うのですが、「人生は一冊の問題集、解けない問題はない」≫
残念ながら、どういう教義なのか、どういう意図で言われていることなのかわかりません。
ただ転生とどういうつながりがあるのでしょうか。

比喩なので、“人生は一冊の問題集”と言えるかもしれませんが、人に“解けない問題はない”とは思いません。

≪人格が向上すればするほど、新しい課題として難しい問題集を解かなくてはいけない≫
だから、何故難しい問題を解かなくてはいけないのか、わかりません。

死後の世界でも、こちらにいる時と同じように、同じことを繰り返しながら、そういったことが好きな霊達の場所で延々と暮す霊も多いと思います。
延々とセックスに明け暮れたり、ひたすら食べ続けたり、喧嘩ばかりしたり、この世にいる時と同じことをする霊は多いかもしれません。ただ、実体がないので満足することがないようです。
自発的にもっと足りないところを補いたいと思った霊が向上していくのですが、自分でそう思えない限り、向上はできないと思います。

この世でも、人としてどう行動するかは、転生とは直接関係はないと思っています。
人としてこの世でやることは様々だと思っています。
少なくとも、“自分で不幸な人生と思う”ような人生は歩む必要はないと考えます。
いわゆる“不幸な人生”を歩む人は、喜んで進むレベルになっているのではないでしょうか。

その人が心からそう思わない限り、霊的には向上といえないと思いますので、無理にそうする必要はないと思います。

ただし、これ以上のことは何も申せません。ひょっとしてツリなのかしらという疑問を感じるからです。私としてはこんなことで論争する気は毛頭ございませんので。

この回答への補足

長文、ありがとうございます。お返事は後ほど書かせていただきます。何にお怒りを感じられたのか知りませんが、ただ「つり」はないでしょう。回答者様の書かれたことは、論理的検証には向かないものです。もともとこの問題は、そういうことには向きませんが、それでも、世間や本で言われていることから相互の矛盾や整合性を取っていくこと、世の中の状態との合致を検証することならできます。そしてその路線で私は質問し、お礼欄にも書いています。回答者様が書かれているのは、どちらかというと回答者様個人の信心に属することです(このことについて良いも悪いもございません、私はいろいろな考えを知りたいです)。霊界の様子など実証や論理をはばむものについては検証しようがありません。そして、それが書かれていることの中心です。それを論争できましょうか? つりではありませんが、仮に論争をするにしてもできる部分と出来ない部分があります。 
お怒りのない範囲で書いてくださることを望みます。

幸福の科学の教義については、転生を人生修行と見なしている考えの一つの典型として、出しているのみで、彼らの教義そのものを攻撃するのが意図ではありません。これについては、また改めて書きます。

補足日時:2006/01/30 20:09
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この回答へのお礼

ありがとうございます。確かに転生の内容は、人それぞれでかなり違いますね。霊界というものが、転生の一こまとして理解されているのも、スピリチュアル流行の最近の傾向だと思います。伝統的東洋の宗教では、輪廻はしますが、霊界という概念はありませんものね。

幸福の科学について例を出したのは、例が下手でしたね。ごめんなさい。よくネットに出てくる彼らに聞きたいという気持ちもあったのですけどね。他の教義的な部分はさておいて(個人的には彼らの教義そのものは信じてないです)、彼らも輪廻に関する当たりは、ニューエイジやスピリチュアル関係とほぼ同様の考え方をしていて、それで例に出したのですけどね。ただ、回答者様と違うのは、彼らは人生の課題を絶対解けという意味で使っているのがほとんどです。回答者様のような考えの方が、自由度もありますし、そういう意味では強制的な独善は出てこないので個人的にはそちらが好きです、一口に転生と言ってもいろいろあるということはよく分かりました。つまりまだまだ決めつけて言えるほど分かってはいない、未解明部分が多いということなんですね。その部分にも配慮されている書き方には好感を持ちました。でも、つり云々は濡れ衣ですよ! 過去ログを参照していて、そうおしゃった理由が分かりましたが・・私は彼らとはなんの関係もないんです。

お礼日時:2006/02/01 03:18

No.5です。

残り2つのご質問についての回答です。

まず、2つ目の「人生は一冊の問題集、解けない問題はない」についてですが、私は幸福の科学については殆んど何も知らないので文字どおりの意味を自分なりに考えてみます。
自分自身の至らない部分、つまり乗り越えなければならない課題を「問題」と表現しているのでしょうね。1つではなく沢山あるので「問題集」と表現しているのでしょう。
「解けない問題は無い」とはどんな困難でも前向きにチャレンジすれば必ず道が開け、そこから自分にとって貴重な何かを学ぶことができる・・・という意味でしょうね。
人が前向きに生きている時は同じようなポジティブなエネルギーを引き付けて、助けてくれる人、条件、環境を引き付けるものです。そのことを言っているのでしょうね。
そうやってどん底から這い上がった人は世の中に沢山居て、他の人々にその貴重な体験から得たメッセージをもたらしてくれます。
「問題を解く」とは人生の困難を他人のせいにせず、自分自身をよく内観し、自分自身を改革し、外部的には正しいと思われることを迷う事無く実践することだと思います。それによって困難を困難としなくなることだと思います。つまり、乗り越えることです。

3つ目のご質問「人格が向上すればするほど、新しい課題として難しい問題集を解かなくてはいけない、という話を聞きますが、この理解はいいのでしょうか? もし良いとしたら、修行が進めば進むほど、不幸な人生を歩まなくてはいけないですが、そういうことなのでしょうか?」についてです。

例えていえば、赤ちゃんは、まずはいはいすることを訓練します。そして、次に歩くことを学びます。歩けるようになると随分と得意そうにあっち行ったり、こっち来たりします。それができるようになると、今度は走ったり、ジャンプすることを自発的に練習します。
それが楽しいからです。ステップ・アップすることがうれしくてたまらないのです。
はいはいよりあんよが、あんよよりかけっこが辛くなるなんて思っている健康な赤ちゃんは居ません。

それと同じで霊性が向上すればするほど視野が広がり、物事の理がよく分かるようになり、しかも物質的な苦難から開放され、つまり苦痛というものが減っていき、あらゆることに煩わされなくなり、さらにもっと高い境地に上りたいと思うようになるでしょう。
不幸な人生ではなく、霊的に幸福の極地を求め、目指してどんどん苦難の少ない境涯に到達するのです。

これで回答になり得たでしょうか?
もし、不足があるならば、補足要求して下さい。
私に可能な限り、分かる限り、お答えいたします。

この回答への補足

長文かつ丁寧な回答、ありがとうございます。
お礼とともに、私の疑問点なども(大した量ではないのですが)書きたいと思いますが、今ちょっと本業が忙しくなっていますので、3~4日うちには書きます。

補足日時:2006/01/31 03:16
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
現実界の不平等を、霊界での幸福に置き換えてしまうことなく、きっちり因果法則で説明できるといいのですけどね。

お礼日時:2006/02/01 03:36

No.5です。


補足要求1つ目への回答です。

私が因果応報を確信しているのは、他の説明の全てを凌駕する合理性のため・・の他には直感からとしかいいようがありません。

私はよく瞑想をします。自己流ですが世の中に対する奉仕の気持ちをどんどん高めていくことにより、自分自身の波動を高められることに気付きました。
そして一定以上波動が高まると、何か清浄な、聖なるバイブレーションにコンタクト出来ることに気付きました。
(最も大切なのは無私からの奉仕の精神です。)
やがて比較的簡単に波動を調整できる様になると、自分の心の状態が自己の波動にどんな影響を与えるのかが手に取るように分かるようになりました。

他者へ悪意を向けると、自己の波動が暗く濁り、視野(霊的)が狭くなり、それがこうじると、投げやりな、破壊的感情になります。そこから脱するには、ひたすら他者への慈しみの感情(愛のバイブレーション)を高め、心を清めるしかありません。
これこそ因果応報ではありませんか?

自分の不運も大体の原因の見当が付くようになってきました。すべて自分の心が導いてきたことです。
誰も恨めませんし、又不運とも思わなくなりました。
つまり、現在は過程です。道のりの途中です。
まだゴールにたどり着いてもいないのに、運も不運もありませんし、今日の幸福が明日の不幸の原因になることも、今日の不幸が明日の幸福の原因になることもよくあります。

成功者がよく言う言葉に「あの時の辛い経験がいまの自分を作っててくれました。」があります。

自分の人生は自分が作っていくもので、自分の幸、不幸は他人には理解できませんし、人に判断してもらうものでもありません。
人それぞれ別の課題に取組んでいるのに、1つのことを比べあって幸、不幸を判断するなんで意味の無いことです。

因果応報についての本が沢山出版されていますのでそれを読むことによって可也知識としても分かってくると思います。

とりあえず、以上です。続きは又後日に。

この回答への補足

ほんと、誠実の固まりのような方ですね、ありがとうございます。
とりあえず、二つめからはつながっておりますので、もう少し待ってくださいね^^。確認したいこともございますし。私も体験を軽視しているわけではございません。しかし、今の時代は、幸福の科学の信者さんにしても、みなさん「成功者が」という言葉が好きですね。私は、そういう風潮は好きじゃありませんが、これは志向の問題ですね。霊性の「向上」というものは人それぞれで、社会的「成功」などは関係ないといいつつも、例を出してくる時に、やっぱり成功とか、そこに視点が向いてるあたりが、面白いですね。「向上」という言葉が持っている方向性がすでにそういうものを内包していて、向上以外の別の視点を持っている人には受け入れがたいものになっているような気もします。
瞑想は私もします。ここで書いているのが理論偏重になっているのは、ここがダイアログを通す場所であることと、体験にしばられて独善になりたくないという理由で意図的にしているだけです。体験してる人は、しばしば体験を誇りますが、体験してない人には、体験にしばられて規定されてるだけに見えます(それが悪いという意味ではありませんよ)。実際にそうなっている人もあるように思います。体験は強いものですが、体験をしたと思っている人は多く、彼らの言うことはまちまちです。
お返事も、こうした問題は理屈を最後に越えること避けがたいことは知っていますので、納得のいくことです。またそれはこれ以上は、質問してどうこうする問題ではないと思います。ただ、これを聞いたのは、最初の回答者様のご返事に、「この世の中、不公平、理不尽と感じられることが多すぎます。それでも私は「輪廻転生」を説きたいと思います。」とございましたので、こうしたことを、どこの視点に立って、どのような立場としてお話になっているのか、それがちょっと気になったので、事実として話されることの根拠を知りたかったのです。主観的事実と客観的事実と、だれがどこから話すか、因果応報を語るときには気遣いが必要になり、難しい問題だと思います。ありがとうございました。

補足日時:2006/01/31 23:37
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この回答へのお礼

それと、ちょっと気になったのですが、

>自分の人生は自分が作っていくもので、自分の幸、不幸は他人には理解できませんし、人に判断してもらうものでもありません。
人それぞれ別の課題に取組んでいるのに、1つのことを比べあって幸、不幸を判断するなんで意味の無いことです。

もしかして、私の一連の質問と、第2番目の質問を見てそうおしゃったのかもしれませんが、もしそうでしたら私の意図とは違うところを見ておられるような気がします。念のため申し添えました。

お礼日時:2006/02/01 00:44

N0.5への補足要求2つ目への回答です。



「カルマ論だけで考えていくと、今度は、こんないい人が前世(数多くの過去世かも)でよほど悪の想念を出し、こんな悪い奴がよほど昔は良い想念を出していたのかという、目の前の現実とのギャップがどうしても気にかかります。」
について意見を述べます。

質問者様から見た「運の悪い善人」と「幸運な悪人」は世間一般から見ても「不運な人」と「幸運な人」でしょう。でもそれはこの物質界での物質主義観点から観た不運と幸運ではないでしょうか。

人は霊的存在で物質界では「肉体をまとった霊」で死後は「肉体から開放された霊」となります。
霊界が本来の場所で一時的にこの世に参加しているだけです。
この世での体験からの学びを霊界に持って帰り、自分自身のたいせつな霊的向上へのアイテムにします。

何より大切なのは霊性の向上です。
霊としての幸福とはひたすら霊性を向上させて霊格を上げ、苦の少ない慈愛に満ちた次元に上って至福を味わうことです。

物質界での幸福と霊としての幸福は必ずしも一致しません。むしろ逆のことが多いのです。

霊としての幸福アイテムを手に入れるために自らわざと困難な辛い人生を選ぶチャレンジャーがいるかもしれません。わくわくして挑戦することでしょう。

世の中に生き方の見本としての使命を担ったメッセンジャーがその為に特に恵まれない人々の間にすすんで生まれ、その人々の向上のために人生をかけるかもしれません。それが喜びなので。

前世での自分の悪行を反省し霊界で修行し、善人にシフトした善霊が、償いのために不運を担って生まれてくる事だってあります。

前世での善行によって幸運(物質的)に恵まれながらも心がけの悪さによって後退することもあります。
しかし幸運と思われている人でも別の面で大きな苦労を抱えていることが多いです。

不運は取り組み次第で幸運になり、物質的幸運は高慢と唯物主義を生み出して霊的堕落を生み出しがちです。

お分かりのとおり、物質的観点からいくら因果応報の法則を説明しようとしても限界があります。
霊的な観点から見なければわかりません。
その霊的観点にしても人にとっては判断は大変困難です。

他人のものを盗むくせの人がいるとして、もしこの人がいつも貧者に施しをする場合、法則は結果的にどう働くでしょうか?

ある人にいつも辛く当たる人が別の同じような関係の人にいつも心から親切にする場合、法則はどうはたらくのでしょうか?

それでも、法則は厳然と1分の狂いも、えこひいきも、取りこぼしもなく正しく働きます。・・と信じています。現に、宇宙も四季も整然と法則によって動いていますから。 

私たちは他人を見る場合、自分の観点から幸、不幸を判断しがちですが(多くは唯物主義の観点から)果たしてそれは正しいのでしょうか?
霊的観点から見た場合不幸が幸福であり、幸福がじつは大不幸の種かもしれません。

ですから不幸そうな人が前世悪人だったとは限りませんし、幸福そうな人が前世で善人だったとは断じて判断出来ません。

現在の生き方、行動が全てを物語っていると思います。
現在霊的観点から霊性の向上のために何をするかが全てです。

その人の生き様によってその霊格は判断されるでしょう。イデオロギーも国籍も人種も宗教も全く関係ありません。他者に対して何を為したかが最も重要だと思います。

この回答への補足

あの、ちょっとすみませんが、まだ終わってないので、先に行かないでください。どうも、私の文意を自分の解釈に引きつけてお考えのようです。

補足日時:2006/02/01 02:25
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この回答へのお礼

長時間にわたり、ありがとうございました。
質問は、し直した方が良いと思います。
回答者様には、因果応報と霊性の向上というものの関係をもう少しお聞きしたいと思っていたのですが(この二つを単純にイコールとして扱っている書き込みが多く、回答者様もあるいはそうなのかな?と思いましたので、この点を聞きたかったのです、一番合理的と書いたのはあくまでも最初の因果応報に関する書き込みに関する部分だけです)、これ以上はお聞きすることはもちろん勉強になりますが、「質疑によって」は、お聞きする性質のことではないと思いました。議論や質疑には出来る部分と出来ない部分があります。すくなくとも、話者は自分の立ち位置でしか話ができませんし、聞き手も自分の立ち位置でしか話ができません。片方が自分の立ち位置にしか通じない論理を出すときに、それは信念な信仰となってしまいます。できるのは、共通の地盤と対話に必要な論理と事実との照合です。しかし、回答者様はその道は選ばれないようですので、納得できる人にはできるし、出来ない人にはできないというお話になっています。失礼ながら、回答者様の霊性の向上の意味が知りたくて、過去ログ等の拝見をしましたが、納得のいかない人にどこまでも納得されないのは、お話が一方通行になっていて、話してはいても説明にはなっていないのです。質疑のやり方はここが限界ですので、また新たに質問を変えて出してみたいと思います。回答者様の人格は折り紙付きだと思います。私のやり方がまずかった、あるいはスレの扱いがちょっと難しかったのだと思います。申し訳ありませんでした。

お礼日時:2006/02/01 03:05

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