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ジョンロールズの"無知のヴェイル"が理解できません。

Yahoo!/Googleなどで色々と検索してみましたが、いまいち分かりませんでした。英語で"Justice emerges when negotiating without social differentiations."または"fairness = Justice"と解説されていましたが、これはどういう意味なんでしょうか?"無知のヴェイル"はロールズの正義論の一部なのですか?性別や人種によって差別することなく、皆平等ということなんでしょうか?意味がはっきりしません。

哲学はすごく苦手なので、例などで説明してくださると助かります。よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

ものすごく簡単に書きます。



ロールズの思想のポイントは、社会契約論を現代に復権させたことです。

功利主義の考える「正義」は、最大多数の最大幸福にあります。社会に属するすべての個人の満足を集計して、それが最大となる状態が「正義」にかなった状態である、とするのです。
けれども、ロールズは「正義」を、社会契約論をもとに考えて、この「最大多数の最大幸福」という「正義」に批判を加えていきます。

ルソーが考えた社会契約論によると、自然状態にある人々は、孤立して暮らしていますが、やがて、相互に行き来するようになり、社会的な関係が生じていきます。経済活動の発達にともない、貧富の差ができる。そうなると、各個人の間に不平等が生じ、人間は自由を失うことになります。

このような状態を脱するために、国家が求められます。自由な個人が社会契約によって新たな国家を形成するのです。人々は国家に対して自己を全面的に譲渡し、国家=個人となります。これによって人間は、共同体の自治の主体となり、本当の自由を実現することができる。これが社会契約論の基本的な考え方です。(ここらへんがピンとこなかったら、高校の世界史もしくは倫理の教科書を読み返してください)

ロールズは、この社会契約論をゲームのルールと読み替えます(この、「ゲームのルール」ということがすごく大切です)。

まず、ロールズは、「自然状態」というかわりに、自由で平等な道徳的人格者たちがつくる「原初状態」という状況をかりに設定します。
「原初状態」とは、社会生活というゲームを始める前に、ゲームのルールをプレイヤー全員(=すべての契約当事者)が協議し、採択する場なのです。

各プレイヤーは、ルールを決める場(原初状態)での「平等な発言権」を保有しています。

ただし、ルールを決めるプレイヤーたちは、いくつかの制約が科せられます。
そのひとつが「無知のヴェール」なのです。

ここからは、『現代思想の冒険者たち23 ロールズ』(川本隆史)がわかりやすいので、そのまま引用しましょう。

----(p.289からの引用)

これは、自分だけに有利となるようなルールを誰も提案できなくするため、契約当事者たちにかぶせられた目隠しのようなものであって、「誰も社会の中で自分の境遇や階級上の地位、社会的身分を知らないだけでなく、親から受け取る資産や生まれつきの諸能力、知性、体力その他の分配が自分の場合どれほど恵まれているのかもしらされていない」という条件をいう。

----

こうして、社会をかたちづくり、さまざまな価値観を持つ人々が合意できることがらだけを社会の正義の原理としよう、というのです。
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ちょっと簡単に書きすぎたかなぁと思ったので、補足します。



「囚人のジレンマ」ご存じですか。
わたしはいつも夏になるとこれを思い出すんですが。

夏の夜にエアコンをつけて寝るとします。エアコンの室外機がいっそう外気温をあげているのはまちがいないから、寝るときは消して、窓をあけて寝ようと思います。
ところがこんどは隣の室外機の熱風が入ってくる。

エアコンを消した方が、地球環境、とまで大きく出なくても、さまざまなことのために良いことはわかっています。

ところが、これを自分だけが実行しても、何の効果もないばかりか、自分が被害を受けます。

これはもちろん「囚人のジレンマ」ではありませんが、「囚人のジレンマ」的状況であるといえます。
つまり「囚人のジレンマ」というのは、

1.全体の利益が、単に自分が行うことによって影響を受けるだけでなく、他人が行うことによっても同様に影響を受ける。

2.誰もが、自分の個人的利益にはならないことを同時に行う場合よりも、個々に自分自身の利益を追求する結果の方が悪くなる。

こういう状態のことを指しています。
そうして、この状態を打開するには「社会契約」というのは、大変役に立つ思想なんです。

つまり、協力することは、最高の結果をもたらすものではないけれど、各人が独立して自分の利益を追求するよりも、良い結果が得られる、という考え方です。

ここで、道徳を「社会契約」と考えるというのは、どういうことかというと、道徳とは理性的な人間全員が従う「一連の規則」である、と考えるのです。わたしたちは、「他人も同じように従う」ということで、この規則に従うことに同意します。

わたしたちは、この規則に従うことで、利益を受け取り、それに加えて、ほかの人も従うように期待し、奨励します。そうして、それを支える義務を引き受けるのです。

そうして、この規則を「ゲームのルール」と考えたのがロールズです。

みんなが複雑なルールのゲームをしているところに出くわしたとします。
おもしろそうだから、それにあなたも加わった。
けれども、あなたは自分の利点を生かして、ゲームのルールを変えようとします。
たとえば、あなたひとりがA→B→Cではなくて、Bを飛び越してA→Cとジャンプできるとする。
ここで「B」に着地してしまった人は、みんな「振り出しに戻る」にしよう、と提案したとします。
ほかの人は「それは勝手だ」と怒るでしょう。
そんなことにならないように、新しいルールを提案するのであれば、自分がどんな有利な点があるか気がつかないように「無知のベール」がかぶせられるのです。

あるいは、「自分はあらかじめ決まったルールに従うなんて約束した覚えはない。好きなようにルールは変えていいんだ」
と主張したとします。
やはりほかの人は「それはおかしい」というでしょう。
みんながルールにしたがうとはっきりと約束してゲームを始めたわけじゃない。
それでも、ゲームをするということ自体が、ゲームを成り立たせているルールに従うことを意味しているわけですから。

このゲームにあたるのが、社会生活です。
わたしたちはそこから無数の利益を引き出す。
ただし、ゲームに参加するためには、ルールに従わなければならない。
新しいルールを提案しようとするときは、自分の利益は無視して、ゲーム自体がおもしろくなるよう、全員が楽しめるようなルールを提案しなくてはならない。
ということです。
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