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最近、「被害者の感情を考慮して」とか、「遺族が納得していないから」という理由で逮捕・起訴されたり、判決で量刑が重くなったりする例が多いように思います。

民事ならばともかく、刑事裁判においてこのようなことが考慮されるのは、「法の下での平等」に反しているのではないでしょうか?

法理上での解釈や、法曹界での意見はどうなのでしょうか、お教え下さい。

A 回答 (6件)

疑問に思われている点は必ずしも的外れではないと思います。

ただ、単純に「法の下の平等」の問題というよりは、「罪刑法定主義」がメインでそれに絡んで「法の下の平等」とも少し関係があるという感じでしょうか。
 罪刑法定主義の下では、犯罪とそれに対応する刑罰とはあらかじめ法律で定められていなければならず、それに基づかずに裁判官等の官吏が恣意的に決定することは許されません。「被害者の感情」や「遺族が納得しているかどうか」を基準にしてもし同じ犯罪を犯してもある人は死刑になりある人は罰金で済んだ、なんてことがあったらそれは大変です。もちろんこんなことは許されていません。
 整理すると、
 ・犯罪構成要件および刑罰(a) と それ以外(b)
 ・固定されていて動かせないもの(甲) と
  ある程度柔軟に運用することの許されているもの(乙)
とがあります。
 (a-甲)の例として、法定刑(法律に定められている刑)があります。ある犯罪を犯した者に対して予め法律に定められて種類の刑罰を許された範囲内で宣告することのみが許され、その制限を裁判官が越えることはできません。
 (a-乙)の例としては、宣告刑(実際に宣告される刑)があります。たとえば法律がある犯罪に対して3年以上の有期懲役刑を法定刑として規定している場合、3年から15年の間のどの期間の懲役刑を言い渡すかは裁判官の裁量に任されています。これは法律自身が認めている裁量で、その裁量の範囲も明確なので罪刑法定主義に反しません。むろん実際には完全な裁量ではなく、今までの判例に実質的には拘束され、そんなとっぴょうしもない刑が言い渡されることはありません。
 (b-甲)の例としては、公訴時効があります。これは罪刑にかかわることではありませんが予め法定されており、この制限を破ることはできません。したがってどんなに憎い犯罪者でも時効が過ぎれば裁判にかけることはできず諦めるしかありません。
 (b-乙)の例として、今問題になっている、起訴するかどうかの判断などがあります。犯罪が起こったことを検察が知ったときにそれを実際に裁判にかけるかどうかの判断は、ある程度検察官の裁量でできることになっています(刑事訴訟法248条)。これも法律自身が認めている裁量権であり、罪刑法定主義や法の下の平等に反することはありません。これにより、たとえばよく言い聞かせて注意すれば足りるというような軽微な犯罪は不起訴として処分し無駄な裁判を省くことができます。
 逮捕についてもそれが捜査機関の裁量でするかしないかの判断をすることが許されるように法律で規定されています(刑事訴訟法199条)。

 以上、罪刑法定主義・法の下の平等といえども例外があることがお分かりいただけますでしょうか?逮捕・起訴の判断はもともと裁量権つきだということです。その際に被疑者がどういう犯罪を犯し、どういう態度をとり、自分の犯した罪に対してどのような考えを持っているのか等の、いわゆる情状を観察してそれに相応した処分をすることには何の問題もなく、むしろこれは実務上必要な融通性といえます。
 ただしもう一歩突っ込んで言うと、前の方も少し触れられてますが、そもそも犯罪に対する刑罰とはなんぞや?という問題があるわけです。
 古典的には、刑罰とは犯罪という無価値な行為に対する応報(報い)であると考えられていました。したがってこの古典的な考え方に立てば、犯罪の価値(マイナスの価値)はそれを実行したときにもう決定されてしまい、その後どのような情状があろうがそれは変動したりしない、ということになります。質問者の方が直感的に感じていらっしゃるものはこれに近いのではないですか?
 ただ、現在の刑法はこのような古典的な犯罪・刑罰観に立っていないのです(含まれてはいますが)。近代的な議論では、刑罰とは社会的に犯罪を予防するための手段だと考えます。つまり、悪いことをしたぶんだけ痛い目にあわせる、というのではなく、社会的にどの程度抑圧すべき程度が高い犯罪なのか、そして行為者は今後更正する見込みがあり、社会復帰したときの社会にとっての危険性はどうなのか、という点を重視するわけです。
 このような観点に立ったときには、たとえ同じ一人を殺した殺人犯でも、深く反省して被害者にもできうるかぎりの賠償を果たしている者と、まったく反省もせず賠償の誠意も見せず法廷を罵り続けているだけの者とは、社会にとっての危険性に違いがあり、また更正して社会復帰させられるかどうかの判断にもおのずと違いが生じることは分かりやすいことと思います。
 こういった近代的な犯罪と刑罰の考え方にたって、現在の刑法は制定されています。従って、事後の情状を処分に影響させることはむしろ当然のことなのです。
 
 ただ、以上の原則論とは別に、近年、犯罪被害者の権利や心情にもっと配慮をすべきだとの意見が強い傾向にあることは事実です。こういったトレンドのなかで、マスコミが率いる世論の圧力が捜査機関や検察の裁量に影響を与えることはありうることでしょうね。でもそれはどちらかといえば好ましいと私は思います。密室ですべてが執り行われることに比べれば。
 
 
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
大変詳しく説明いただきとてもよくわかりました。

「同じ事をしても、被害者の感情によって起訴・不起訴や量刑に差があるのはおかしいのではないか?」という私の疑問はおっしゃる古典的考え方に基づいており、「法の下の平等」をそのようにとらえてしまっていたようです。
量刑については幅があること、逮捕や起訴の執行の有無についても司法にある程度の裁量権があること、それには個々の事例における個別の事情が考慮されるということはわかりました。

そしてやはり最初の疑問にもどります。
被害者の人権を守るのは当然だと思いますが、心情・感情をことさらに取り上げすぎるのはどうなのでしょうか。
「家族を轢いた運転手がのうのうと暮らしているのは許せない」とか「家族を死亡させた医者の資格を剥奪してやらなければ気が済まない」という感情は、家族を失った悲しみが相手側への怒りへと転化されたものであり、この感情の強さと「刑事責任の有無や程度」には何の相関もないのではないでしょうか。このような感情は民事で争う内容であり、刑事処分や行政処分が影響されるものではないと思うのです。
死刑制度の論議でよく言われることのようですが、「刑法は復讐のためにあるのではない」、「応報感情を重視すれば、私的制裁の禁止を重視する近代法の理念に反する」のではないかと思います。

お礼日時:2006/03/17 16:15

犯罪に対する刑罰をどうするかは、一般予防・特別予防・刑事政策 の観点から考えられます。



一般予防とは、一定の刑罰を定めておけばあまり犯罪はしないだろう という考えです。
この考えでは、一定の犯罪行為については、一定の刑罰(例えば 1万円の窃盗なら 例外なく懲役6ヶ月とか) を定めておけばよい となります。

しかし、日本の刑法は法定刑の幅が広い(裁判官の裁量の幅が広い)といわれ、特別予防と刑事政策的考慮をした結果 と論じられているようです。

特別予防とは、犯人個人の事情を考慮して 刑を定めようという考えです。この犯人は生まれながらに苦しい境遇にあったが、根は良い人間なので刑を軽くしよう とか です。

刑事政策は私はよく勉強してないのですが、要は、いろいろな考え・感情を持った人間の社会であり、理屈だけでもうまくいかないので、うまい具合にいくように考えましょう という感じかと思います。

特別予防・刑事政策 等の個別的事情を考慮しすぎると 恣意的な誤った判断をしてしまう という危険は確かにありますが、一定程度考慮してみよう というのが大勢のようです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
三つの観点からの説明、よく理解できました。

お礼日時:2006/03/17 16:14

マスコミの裁判に関する報道は、


かなりの範囲において脚色があるものと思ったほうがいいです。
特に法律論的には「デタラメ」と断じてもいいです。

>最近、「被害者の感情を考慮して」とか、「遺族が納得していないから」という理由で逮捕・起訴されたり、

そういう理由で「逮捕・起訴」するってのは本当ですか?
実例を示してもらえば検討もしますが、そうでない限り、とても信じられませんが…

>判決で量刑が重くなったりする例が多いように思います。

この部分の裁判官の考え方は、被害者の感情が犯人を許していない場合には
刑を「軽くしない」のです。「重くする」のではなく。
(そして、被害者が許している場合は「軽くする」ことはある)

マスコミはそういう伝え方をしないのでしょうが…
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
「交通事故で子供を失ったが、運転手が不起訴になったのは納得できないとマスコミを動かす。運転手は起訴され実刑判決を受ける。遺族は勝ち誇って記者会見する。」こんな事例がありましたね。
最近の福島県の産婦人科医の逮捕でも、「遺族はまだ納得していない」という報道がありました。
私たちはマスコミの報道からしか情報を得ていないので、実際とは違っているかもしれません。「遺族が許していないから」を唯一の理由とすることはないと思いますが、「遺族の感情に配慮して起訴に持ち込む」という事例は増えていると思います。

「重くする」のではなく「軽くしない」のですか? よくわかりませんが、

http://courtdomino2.courts.go.jp/schanrei.nsf/VM …

この判決は、「遺族の被害感情」等を考察したとき、2審の無期懲役は軽すぎるから死刑が妥当、という意味ではないのでしょうか。
重くする、も軽くしない、も同じ事だと思います。

お礼日時:2006/03/14 16:03

ご指摘の内容が話題になる以前の内容として


被害者との和解が成立した場合には減刑する
という判決があったと思います。

表現が異なりますが.これと同じ内容と思います。
ただ.過去の判決内容と現在の判決内容の差異をみていません。

近年「被害者のどうのこうの」という理由でぞうけいを正当化する報道がみられる傾向がみられます。平均的に刑事罰が重くなっていることは「平等」という観点よりも「国民の自由権の保証」という観点から問題があります。

過去に業務上か質障害でぞうけいされましたが.交通事故による支社が減りませんでした。
犯罪の抑制に刑事罰のぞうけいは意味がないのです。
国民の自由権を保証する観点では.刑事罰は軽いほどよいわけですから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
参考になりました。

お礼日時:2006/03/14 16:01

うろ覚えですみませんが(一般論ですみませんが)


ほとんど議論されない問題のように思いますが

被害者側の感情を考慮する ということで一貫していれば、平等という観点からは、法適用・運用は平等といえ、問題ないといえます。

問題は、人によって、考慮したりしなかったり という異なる扱いがされた場合です。
ただ、憲法上の平等権は、合理的差別は許容されますから、ある程度 異なる扱いがなされても合憲の範囲内と解されると思います。(よほど恣意的な差別的扱いでない限りは)

被害者感情ということは刑法等刑罰法規の条文にはなく、
罪刑法定主義(適正手続の保障)が議論となる余地はありえますが、一定の刑事政策的観点からかなりの刑の幅を認めた現行法の定めは合理性があり、合憲で問題なし と解されるのではないか と思います。

(起訴に関しては、刑事訴訟法248 は犯罪後の情況 を考慮することを認めています)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
憲法上の「平等」という観点からは問題ないと理解いたしました。
私が感じているのは#1のお礼にも述べたように、不平等ではなく「不公平」ではないかということでした。法律について全くの素人ですのでこのような理解不足をお許し下さい。
私が念頭においているのは、交通事故や医療事故(医療過誤ではなく)の場合です。加害者には全く悪意はなく、故意や重過失はなく、場合によっては無過失であっても刑事責任を問われかねないような場合です。
「十分な注意をはらって運転しるときに、突然子供が飛び出してはねてしまった」ような事例でも刑事責任は問われますね。突然家族を失った遺族の感情は察するに余りありますが、その感情の深さや持続時間には個人差が大きく、主観的であり客観的に評価することは困難です。遺族感情が弱ければ不起訴となり、強ければ罰せられる、ということがあれば、これは著しく不公平な感がします。

お礼日時:2006/03/14 16:01

法の下の平等は法律上に扱いは同じつまり特権は認めません、というものです。



また人権の分野です。

ですから、判決での情状判決は法の下の平等とはまた違います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
「法の下での平等」という言葉を私は正しく理解しておりませんでした。憲法に定められているのはおっしゃるとおりであるとわかりました。
実は、私が感じていたのは、同じ行為でも被害者側の感情によって量刑が左右されるのは、法の下で「不公平感」がある、ということです。

お礼日時:2006/03/14 15:59

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