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僕はアダルトチルドレンです。他人からの評価一つで自分の精神状態が左右されます。評価されることに疲れて、ノイローゼになり、苦しみのあまりアルコール中毒になりました。

ある時、教会に行って、素晴らしいクリスチャンに会ってからというもの、自分の苦しみがなくなりました。何か強い存在に、自分の存在というものを肯定してもらいたかったのだと思います。自分はありのままでも愛してもらえる!と感じることができました。


最近、教会に行くのが苦痛になり、クリスチャンを続けることが難しいと思うようになりました。

とにかく、説教が嫌なんです。成長しろとか、正しい人生を歩めとか、教会の人から自分の人生についてアドバイスされるのがダメなんです。ACである自分は、理想の人間にならなければならないという強迫観念が強くて、人が「○○だったらいいなあ」と言ったのが「○○でなければならない」に聞こえてしまうのです。


最初は、自分の存在を受け入れてくれた神の存在が、今は、自分を否定するための採点基準になってしまいました。○○ができないからクリスチャンとして未熟だみたいな言われ方をされて、どうしても教会という場所が肌にあいません。


最初は、教会という場所は、宗教的な雰囲気を味わう場所で非常に安らぎを感じることができたのに、、最近は、教会が道場のように感じるようになりました。クリスチャンのみんなが、少しでも立派な人間になろうと努力していています。牧師の方も、頼んでいもいないのに、僕の人生の先生になって、説教をされます。


勉強したり訓練を受けることと、信仰を持つことは別の話だと思うんです。今の僕にとって、キリスト教はキリスト道のように感じます。


ACの人はクリスチャンの人が多いと思うんですが、こういう問題について考えたことがありますか、どのように解決したらいいですか。

A 回答 (9件)

キリスト教は、「キリスト教」と呼ばれるようになるまえは、「主の道」といったそうです。

その意味では、確かに「キリスト道」かもしれません。(^^;
しかし、この「キリスト道」は、決してエリートや成功者の道ではありません。不潔な馬小屋で大工のせがれとして生まれたキリスト・イエスは、当時見捨てられてた人を安息日も無視して癒し、最後には死刑、それも当時もっとも残酷な「十字架による死刑」をされてしまった方です。
キリストの道は、十字架につけられたキリストに習う道です。自分を低くし、謙虚にし、ただひたすらに神に従う、愚者の道です。人間が勝手に「頑張る」のではなく、幼児のように、だたひたすらに、神様にゆだねる。それが、本来のキリスト教だと思います。
神様が質問者様に求められているのは、神様を信じ、神様が使わされた隣人(お医者さんや、ご交流のある方)からの恵みを生かしつつ、日々の苦しみを耐え、祈り、そして、同じ思いをされている他の方の、励みになること、ではないでしょうか?
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この回答へのお礼

キリスト教は以前、「主の道」と呼ばれていたのですね。「あー、やっぱり」って感じですね。

僕はずっとプロテスタントの教会に行っていたんですが、日本人のマジメで努力する信仰のあり方が合わないのかもしれません。ラテン系の陽気で「けせらせら」な信仰のスタイルが向いているのかなあと思いました。日本人的にはキリスト教を「主の道」ととらえたほうが受け入れやすかったのかもしれませんね。


僕の場合、考えを信じるという行為は哲学になってしまいます。「子供のように、ただ信じなさい」そういう聖書の箇所が僕は好きです。理屈や理論、教え、知識、教義、そういうものがあって、初めて信じるくらいだと、強い心のパワーが持てないのだと思います。

僕のような人間は盲目的になりやすいので、カルトにひっかかる可能性は高いでしょうね。(^^;

アドバイスありがとうございます。もちろん、キリストに習い、愚者の道を歩む、そういう生きかたをすることで、信仰を持つ人たちを僕は否定はしません。むしろ、尊敬しています。貴重な意見、本当に参考になりました。僕も自分の考えを整理することができました。

お礼日時:2006/05/07 09:56

宗教は教会にいきましょう。


といいます。しかし人の作った宮には神はいないと聖書に書いています。
祈りあいのない教会ならそこはあなたにとって教会ではありません。
それなら?どこにあるのでしょうか?
どこに神はいるのでしょうか?
よく聖書を読んでくださいね

人は差別しますが神様は人を差別しません
酒飲みであろうと博打うちであろうと

心に神を受け入れること、儀式的な信仰はいりません
人生において教会や牧師は人を蹴落とす事があっても
救いはしません。
だって救い主はイエスだけですからね。
人はあなた状態を知りません。ただ自分の信仰にもと基づいて、自分の経験に基づいて話しているだけ、
同じ人生を歩いているんだったらそのとおりにすれば
助かるかも知れませんが同じ人生を歩んでいる人はいないよね。

もっと聖書の言葉に目を留めましょう。そして植えつけれらた聖書の言葉を行いましょう
すべて神にゆだねて・・・神様はあなたの事を愛しています
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

自分の信仰をどこに置いていいのか、まだ分かりません。ACとして回復しながら生きるのか、教会のメンバーとして成長しながら生きるのか、、、、。でも、聖書は極力毎日読むようにしてみます。

何か答えが得られるはずです。
ありがとうございました。

お礼日時:2006/05/12 04:59

♯3です。



私は「ひとつにこだわる必要はない」と書きましたが、「こだわるべきではない」と考えているわけではありません。
これだと感じるものがあれば追求してみたら良いと思います。

アダルトチルドレンかどうかには関わらず誰にも言えることですが、二者択一的に考えがちで気持ちがきつくなる人は、『べき』という言葉をちょっとやめてみたらどうかなと思います。
自分もそうですけど、すべき、と考えると視野が狭く硬くなりそうで。

アダルトチルドレンの概念がキリスト教的なのか私は知りません。
特にそう感じたこともないんですが……
ただ、米国人だとキリスト教のお家に産まれ育つ人が多いですよね、それとACは必ずしも矛盾してないんだろうから、ACだからこの宗教は合わないとかいうことはないだろう、と思ったのです。
ACだからでなく、自分に合わないだけじゃないか?と。

日本だと、生まれたお家がクリスチャンだからという場合はもちろんあるでしょうが、自分で選んでクリスチャンになる人もいます。
そういう人は真面目なんじゃないでしょうか?
悪い意味で言っているんでなくて、生き方について意識的にいろいろ考えている人たちだろう、と。

フィリピンはキリスト教文化圏ですよね、全部ではないかもしれないけど、スペインに支配された時代があったし。
そうすると、生まれた家やまわりの環境がキリスト教なわけです。
自動的に。
日本で家に仏壇があったり、お宮参りや七五三なんかで神社に行く生活があるのと同じように。
イスラム圏に生まれればイスラムの生活があるし。
宗教というか、生活、歴史、文化などのバックグラウンドがそれぞれの土地やら民族やらにあるわけです。

むしろインテリのほうが家の元々の宗教から飛び出そう、なんかちょっと変えてみようとするんではないかという気がしますよ。

私は意識的に仏教徒なわけではないのですが、ニューヨークでミサ見学してゴスペルを見たら「あ、私は多神教に慣れてるんだ…」と気付いただけでしてね。
聖母マリアは大好きですのでカトリックのお祭りなんかに行ったら感動するかもしれないけど(マリア信仰はどっちかといえばカトリック)。
カトリックってプロテスタントよりアバウトだと言われています。ラテン系の国がそうでしょう……

私は信仰だけでなく文化として宗教を捉えてしまいます。
知人で大人になってから洗礼を受けた人がいるのですが、その人に言わせるとこういう考え方は信仰とは全然違うようですけど。そりゃそうでしょうね。。。
私はこんな人間なので今のところクリスチャンにはなれなそうです。

でもキリスト教に信仰を持てそうならキリスト教の勉強をしてみたらいいと思います。
他の方々がおっしゃっていますが教会の合う合わないもあるのかもしれませんし、基本は人の言うことでなく、イエスの教えですから。

ACであることを自覚するとしても、それに寄りかかってはいけないと思います。といってACを否定するのではなく、そこで止まらずに何か発展させて行けたらいいんではないでしょうか。
自分を赦るし、他者(親を含めて)を赦せるように。
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この回答へのお礼

2回目の返信ありがとうございました。

宗教のとらえ方は人それぞれなんですね。なるほど、文化としても宗教を受け止めている人もいるんですね。参考になりました。

今は 自分の中で、ACの考え方>信仰>キリスト教の教え みたいな優先順位です。でも、日本の教会に行っている限り、ACである自分は、理想のクリスチャンにはなれない感じです。

ACだけでなく、教会の考えだけでなく、いろいろと探してみます。

お礼日時:2006/05/11 05:35

同じACです。



それで、私は自助グループというACの集まりに参加しているんですが、
ここでは、初めに「平安の祈り」というものを唱えます。
http://www15.ocn.ne.jp/~mari07/inori1.html

私はクリスチャンではないし、家の宗教は神道系だし、
自分は仏教を勉強しているので、無茶苦茶混乱するときが
あるんですが、ACでクリスチャンを求めていらっしゃるなら、
クリスチャンになる前に、自助グループに通われるのも良いかも
知れませんよ。
会場も、教会を借りてミーティングしているところも多々ありますし。
http://www10.ocn.ne.jp/~ayumukai/zizyo.htm
http://www.geocities.jp/eikoreanjapan/tiiki.html

ミーティングの内容は、言いっぱなし、聞きっぱなしで
匿名で参加可能ですし、お金もジュース代くらいで良いというところが
ほとんどだと思います。

ちなみに、私もアルコールに問題があり、
この問題でも、自助グループに通っていました。
断酒会とAAという大きな2つの団体がありますが、
クリスチャン系なら、AAの方が断然入りやすいと思いますよ。
http://www.ieji.org/index.shtml

同じ悩みを持つ仲間の中で、自分の膿を徐々に出していくことで
私は、すごく助かりました。

質問者様は、クリスチャンになりたいのではなく、
回復したい、そして、成長したいという思いの方が強いと思います。
(私はそうでした)
自助会では、12のステップというものを使うところが多いです。
これは、ACにもアル依存にもとても有効なものだと思います。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/aa-jso/fsteps.htm

ご興味があれば、覗かれてみてはいかがでしょうか?
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この回答へのお礼

情報ありがとうございました。

先週の土曜日にミーティングに参加してみました。自分の思いを吐き出すことができて、気持ちがよかったです。ミーティングの後に何人かの人とお茶をしたんですが、とても打ち解けることができました。

そうですね。僕はクリスチャンになりたい、つまり、クリスチャンとして成長したいのではなく、回復したい、つまり、依存を打ち切るために、子供から大人に成長したいということに気づきました。

アドバイス、ありがとうございました。

お礼日時:2006/05/07 09:02

教会があっていないような感じですね。


>勉強したり訓練を受けることと、信仰を持つことは別の話だと思うんです。

はいそのとおり、です
>教会という場所は、宗教的な雰囲気を味わう場所で非常に安らぎを感じることができたのに

 これが本来の教会のあり方です。

そこで神様はどこにいるのでしょうか?
信仰とは誰を見、何を基準とするのでしょうか?

すべて基準はイエスですよね?

心を御言葉に向けましょう。
聖書は次のように書いています

「すべて、疲れた人、
重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます」と

今の気持ちは神様がよくご存知だと思います
祈っていますね、あなたのために

参考URL:http://www.kinpouden.com/main/mission_page/red/r …
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この回答へのお礼

祈ってくださってありがとうございます。

去年引越しをしてから教会を探しているんですが、、、全然、自分に合った教会が見つかりません。


もう、教会には何にも期待をしてません。自分一人だけで信仰を持ちます。

ACであることは地獄だけど、教会にも行かないけれど、絶対に神様は守ってくれるはず。

お礼日時:2006/05/08 21:46

私はクリスチャンではありません。

通りすがりです。
お話を伺ったところ、あなたが自分が生きていてもいいと実感できた
のは、そのクリスチャンが「自分はありのままでも愛してもらえる」、
そういうお話をされたからだと思います。素晴らしいお話が
聞けましたね。何よりです。

宗教は本来人の心を救済するのが目的と思われます。実態はよく
存じませんが、ホスピス等に積極的に出向き患者さんの苦痛を和らげる
事を活動としている宗教も有るようですね。

あなたもクリスチャンに苦痛を和らげて頂いたのでしょう。かといって
無理にクリスチャンになる必要は無いと思います。そのお話が
たまたま今のあなたにあった特効薬だっただけかも知れません。

寧ろ、クリスチャンになったことで、他人の不安、苦しみ、迷いも
背負わなくてはいけないかも知れません。信仰とはそれほど大変な
物だと、私は思います。

私もお坊さんが大変良い説法をされたのを聞いたことがあります。
しかし、私が仏教徒になったかというとそうではありません。

結論を申しますと、
宗教を通し、人を救済することで人格が形成されることは良くある事
だと思います。故にその方たちのお話は素晴らしい物が有ると
思います。ですが、話は話、感銘を受けたからと言ってその宗教全てを受け入れる必要は無いと思われます。

一度、牧師様にご相談をされてみてはいかがでしょうか?
あくまで私の一存ですので、御気分を害したのであれば済みません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かに、無理にクリスチャンになろうとしていたところはあったと思います。もう、宗教は宗教で区別して考えていこうと思っています。

どん底の時に、信仰を持ったことがすごい特効薬になったのは事実です。まだまだ、回復する必要はあるのですが、もう、キリスト教という薬は効かないのかもしれません。

だけど、神の存在は信じています。もう、教会には行かず、一人で生きてゆきます。

お礼日時:2006/05/08 21:52

一般人ですが、半分ぐらい経験者かな。



タイトルだけ見て思ったのは、「えっ、アダルトチルドレンという概念が誕生したのはキリスト教文化圏だぜ」ということでした。
米国が発祥の地です。
米国人がすべてクリスチャンなわけではないし、ヨーロッパ系アメリカ人(白人)がすべて神や教会を信じているかというとそうでもないんですが。

私も一時期カトリックに憧れたことがありましたが、どうも違うと思って遠ざかりました。
ニューヨークのハーレムの教会(ここはバプテスト派で、カトリックではありません。プロテスタントに入るのかな)でゴスペルを聞いて、「こんなに違うとは」と感心しました。
神様を退けるわけではないけれど、信仰の持ち方が違うんだなあ、と。

私はアミニズムとか自然宗教とか、仏教とか神道とか、多神教の血が流れているらしい。
キリスト教を否定はしませんが、私にはちょっと合わないみたい。

そんなもので、マザー・テレサは立派だと思うし好きだけれど、彼女のことばを読んでいても私にはよく解らないところがあります。ピンと来ない。

宗教は一つではないし、キリスト教圏でも「ニューエイジ」なんてのもあるわけです。
瞑想したり仏教を学んだりしてみるキリスト教国出身の人たちだっているわけで。
日本人でイスラム教徒になる人だっています。

キリスト教はキリストの道でしょう。それはそうですよ。
何教であれ、古いと元とは違う風に人間が作った形式が硬くなってくることもありますが。
(だからニューエイジムーブメントとかヒッピーが出たのかなあ)

マザー・テレサの言葉に出てきたのですが、インド人(一般人だったかガンジーさんだったか忘れた)が「キリスト教の教えを知って立派だと思ったが、出会ったキリスト教徒は全然違った」とかありました。
仏教でも何でも難しものです、本当に教えの通りというのは。

最初キリスト教に惹かれたとしても、違うなと思ったら他のものも探してみては?
私は最近、仏教とネイティブ・アメリカンに興味があります。

それと、他の宗教を尊重する宗教者もけっこういらっしゃいますよ。
カトリックのヨハネ・パウロ2世もそうでしたし、マザー・テレサもそうでしたし、チベット仏教のダライ・ラマもそうです。
アッシジって知ってますか?

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022643 …

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あれ?なんだか河合先生関係になってしまいました。

とにかく、一つだけにこだわる必要はないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。それと、返信が送れてしまって申し訳ありません。いきなり、仕事の関係でフィリピンに行くことになって、1週間ほどパソコンを使うことができませんでした。

言われてみればそうですよね。アダルトチルドレンってキリスト教の考え方がかなり反映されてますよね。だから、ACがクリスチャンになれるのか迷うのって言われてみたら変ですよね。


よく、野球とベースボールは違うと言いますよね。それと同じことじゃないかなと思いました。日本人はスポーツを人格形成の道具としてとらえているけれど、アメリカ人はスポーツを楽しむための道具として考えていますよね。

日本人はストイックな国民性かなと思いました。


after_8さんのおっしゃる通り、一つの教えにこだわるべきじゃないと思いました。僕はイエス様の大ファンだけど、キリストの教えが絶対だとは思わないようにしました。


それから、国によって信仰が違うと回答にありましたが、フィリピンに行ってそれを本当に痛感しました。

僕が見た日本のクリスチャンは、例えるなら、学級委員をするような優等生タイプの女性が多かったんですが、フィリピンの場合は、肉体労働するようなあんちゃん風の人をよく見かけました。日本では絶対にクリスチャンにならないタイプの人が、こっちではクリスチャンになっていることが多いみたいな印象です。(あくまで、僕の一方的な独断ですが。)


一番びっくりしたのが、夜の街をウロウロしていた時に、売春宿にイエス様の絵が飾ってあったのを見た時でした。この国の人って、信仰を持てば売春婦でも救われると考えているんだ、、、おおらかな国民性だなあと納得してしまいました。(よく考えたら、聖書には、律法学者よりも売春婦のほうが救われると述べている箇所がありますよね。日本って、学者タイプのクリスチャンが多いから、聖書的には救われにくい国なのかもしれませんね。)

日本人はストイックな人が救われると考えがちでしが、フィリピン人はどんなにだらしがなくても、純粋に信じている人が救われると考えているみたいですね。


僕も、なんとなく、一つの教え、一つの国の価値観に縛られることなく、信仰を持とうと思いました。

after_8様。
本当に、有益な回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/05/06 01:41

キリスト教にはあこがれがあったし、


ミサにでたことはあるけれど、信者になるまではいかず、という感じのひとです。カトリックでしたけどね。

宗教は直接には悩みを解決はしてくれません。
アダルト・チルドレンという言い訳も、悩みを解決はしてくれません。

教会にいくのが苦痛になってきたのなら、
やめてよいのでは?
教会が必要にならない程度に、気持ちが回復したのでしょう。
もし、縁があるのなら『帰ってきた息子』の話のように、また戻ってくるかもしれませんしね。

なによりも、自分の苦境をひとのせいにしないほうがいいし、だれかが助けてくれるのを待っていないほうがいい。少なくとも、パソコンでインターネットに接続できる程度の生活レベルはもっていらっしゃるわけだし。

早起きしてお散歩するとかでもいいし、
楽しみにしているテレビ番組をみつけるとかでもいいし。

自分で楽しく過ごす工夫をしたほうが、ずっと明るい気分で過ごせるのではないかしら?
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この回答へのお礼

早い返信ありがとうございます。クリスチャンでもACでもない、客観的な意見はとても貴重です。

そうですね。。。。初めて教会に行った時は、アル中、無職、人生の希望もない状態でした。今は、お酒の量もかなり減って、正社員として働いているし、将来の目標もできました。信じ始めたころに比べると、生活レベルは雲泥の差です。


もう、教会を卒業する時期なんでしょうか、、、。

お礼日時:2006/04/28 06:25

クリスチャンだから教会に行かなきゃいけないわけじゃない。


キリスト教を信じるのなら自分1人でもできるはず。

そんなに自分をがんじがらめにしないで
せっかく心休まる場所(教会じゃないよ、キリスト教だよ)を見つけたんだから、自分の好きなように信じればいい。
牧師も他人も関係なし。

わたしはクリスチャンでもないけれど
中高ミッション系だったので、漠然といまでも信じている所もある。
教会に行くとか、クリスチャンとか、信じる心に関係ないよ。
もっと気楽に頼っちゃえばいいと思う。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

なんだか、ほっとしました。そうなんですよ、、僕も自分が信じたいように信じたい、気楽に宗教をしたいと思っていたところなんです。でも、それでいいのかな?と感じていたところもあって、誰かに背中を押してもらいたかったのかもしれません。だから、少しほっとしたのかも。。。


こんなふうに、誰かに「大丈夫だよ。」「君の意見はいいんじゃないのかな。」って言ってもらいたかったのだと思います。


僕は見た目がマジメそうだから、周囲の人がすぐに激励するんですよね。もっと、気楽に生きます。

お礼日時:2006/04/28 06:34

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