No.17
- 回答日時:
再度です。
芸術は生きがいになります。ということは、生きるという本質にかかわることではないでしょうか。成長の喜びを確認し、共有することではないかと思います。
たとえば、写真の場合その場に居あわせることが制作にとって必要なことであって、レンズの向きにさほどこだわらなくてもその場の空気や音が伝わってきますよね。その場に至る努力とその喜びが芸術であり生きがいではありませんでしょうか。そのことによって成長することが。写真には作者の人格・環境が見えるように思います。成長しつづけている人の作品がやはり感動をよぶと思います。
>「うちの親父をからかって、怒らせてやろう」というのも芸術に入っちゃう。<
も、そのレベルでの芸術といえるかもしれません。その行為で自分が成長するなら。親父がそれで感動するなら。勘当されるといけませんが。親子の愛情表現として許される範囲で。
ただ、人目を気にしない芸術もありえます。日記とか・・
また、大衆受けして有名になるより、分る人には分るという高度な感性に支えられているものが案外名作であることが多いというのも芸術の特徴ですね。レベルは好みといえるでしょう。レベルアップは良いものに接することで可能ではないでしょうか。そうした行為をとおして自分や人が育つことが生きがいであり、芸術である、というのはいかがですか。
この回答への補足
有り難うございます。いろんなレベルがあるってことですね。なるほど。
反論めいた事言っちゃいまして申し訳ないですが...
ヒトは何にでも生き甲斐を見いだし、またそれなしではやっていけないようです。
逆に...第二次大戦中の捕虜体験者の話ですが、硬い凍土に深さ2メートル、きっちり立方体の形をした穴を掘れ!と命じられるんですって。そんな逆境にあってすら、何かの役に立つと信じれば、作業を楽しむことすら出来る。
やっと掘れた。そしたら、たばこの吸い殻をぽんと投げ込んで、「埋めろ」。埋めたら、「次を掘れ。」これをやられたら誰でも参るそうです。
芸術=生き甲斐説は、「なんでも芸術」説の一歩手前のようで、それは広げすぎじゃないだろうか、そこまで相対化していいんだろうか、と思っちゃうんですよ。
No.16
- 回答日時:
stomachmanさん、拙文お読み頂きありがとうございます。
(お時間あれば、その他の芸術関連の文章も僕のサイトの「dabun extra」というコーナーにありますので、参考になりましたら。と思います)
で、読んで頂いた拙文を理解して頂いたとの仮定の上で、お話します。
最初に「はっきりした定義を聞いたことがありません。」と言われていますよね?
で、定義は「ヒトに感動を生じさせることを専ら意図して行われる活動」と。
すると、この「ヒト」って奴がいけませんねってことになりませんか?
定義がはっきりしないと自分で言われているものの定義の中に「ヒト」にゆだねる部分をつくっちゃぁ、定義として成立しません。
なぜかというと、「じゃぁ、ヒトの感動って何?」っていう新たな質問をうむからです。
つまり、このstomachmanさんの言う定義「ヒトに感動を生じさせることを専ら意図して行われる活動」っていうものは、別の定義を必要とする定義であるわけで、定義として成立しないというわけです。
で、また、「じゃぁ、ヒトの感動って何?」と問われると、はっきりした定義を作ることは、ほぼ不可能ですよね(笑)
で、完全に定義をなさないということになります。
あの拙文の意図はこういうことにあったわけです。
ま、それはさておき。
世の中には「偉大な芸術作品」と呼ばれるものが数多く存在します。
では、それに十把ひとからげに輪をかけて見るという愚考を弄してみれば、
「多数の人に目の前にあるなにかから、なにかそれ以上のものを感じさせることのできたもの」
これがギリギリ狭められるデットラインじゃないかと。
これ以上の単語を追加していくと、何かが漏れたり、こぼれたりするんじゃないでしょうかね。定義としてはめちゃくちゃあやふやですけどね。そして、余計なものも含まれてしまってはいますけどね。でも、これが精一杯じゃないすか?
それと、写真を表現手段としているものとして、reisさんにひとこと。
>カメラを持つ者の感動が風景の美と 同調し芸術になるのでは
それは、ちょっと狭義な見方じゃないですかね?
僕の尊敬する写真家に森山大道氏という方がいますが、
(興味のない方にはマイナーな話題ですいませんが、単なるマイナーな写真家ではないことをお断りしておきます。なにせ、氏の個展はアメリカ~ヨーロッパを巡回で行われたりする世界的な写真家です。)
彼の写真は彼自身も言っていましたが、必ずしも意図して撮られたものではありません。ファインダーを覗かずに撮ることもあるぐらいですから。
ですが、彼の写真からは異常なまでの情熱や想いがむんむんとたちこめています。
このような撮影方法は異例中の異例と写るかもしれませんが、案外写真をやっている人間の中では珍しくもない方法なのです。
彼以外にも同様の方法で、世界的評価を得ている写真家はいくらでもいますし。かの有名な荒木経惟もたまにやってますしね。
写真をやってる人間としてはこの文を尊敬する森山大道氏の引用で終わらせてみたいと思います。
『今思えば、頭から灰をかぶって寝てしまいたいというか、穴があったら木にのぼりたいというか、恥ずかしい。そんな目の前に真理のぶら下がっているようなことを考えているヒマに、もっと撮ってりゃよかったのだ。だいいち、真理とか真実とかあるわけもなく、あるのはド現実だけで、もうこれだけで手いっぱいだ。つまり写真とは?とか、これからの写真は?などと、ゴマメの歯ぎしりをしているから、写真が遠くなってしまうし、写真がダメになっていく。』
僕個人としては大定義の『芸術』じゃなくって構わない、みなさんの思う『芸術』でいいから、僕の写真が『芸術』なのかどうかを知りたいですね。
参考URL:http://www11.big.or.jp/~octacore
この回答への補足
有り難うございます。芸術を実践している方のお考えを直にきけるのは大変嬉しく思います。
感動ってなに? については、生理学的反応を伴ってますから、その質や主観的内容はともあれ、存在ぐらいは客観的に測れるのでは?
ですから、「何らかの感情の変化を引き起こす」ことに成功したかどうか、たとえば、展覧会の入場者に心拍モニターをくっつけたら面白いと思っています。
No.15
- 回答日時:
考えれば考える程に、逃げたり、消えたり、分からなくなったり、つかめなくなったり、しまいには考えている人が行方不明になったりしてしまう、やっかいで正体不明な恐ろしいもの。
書き出すときりがないので、僕が以前に書いた「芸術家論」をお読みいただければと思います。
「芸術家論」なので、ちょっと違うかもしれませんが。
参考URL:http://www11.big.or.jp/~octacore/inframefolder/d …
面白い!stomachmanの質問は、パターン4:「人の心を動かすのがアートだ。」と言い放つ。 がニアミスかと思います。
有り難うございます。
No.14
- 回答日時:
stomachman さんには、「マイナス×マイナス」でお世話になりました。
まだ、よく納得していないので、それは後日お返事するとして…。「ヒトに感動を生じさせることを専ら意図して行われる活動」というのには、ちょっと、賛同できないなあ、と思います。
というのも、例えば(古いですが)「いっぱいのかけそば」というお話など、作者の栗某などは、まさに「ヒトに感動を生じさせ~」であって、それが国会でまで読み上げられたりして、大成功をおさめたわけですね。(彼の意図としては)
でも、あれが芸術だとは、sutomachmanさんも認めないでしょう。認めるかしら。
だから、わたしは、芸術は鑑賞する立場のヒトが決めるものではなく、作者の内面のものなのではないか、と思うんですね。
たとえば、写楽の浮世絵が、アメリカで評価されたとたんに芸術に昇華してしまうわけではないでしょう。
わたしとしては、「芸術は、ヒトのやむにやまれぬ排せつ行為から、そのヒトがつくりだした作品」だと思うのです。
ですから、子どもが偶然つくり上げてしまった積み木は、(私としては)芸術作品ではない、という判断です。青空もダメ。
ヒトに評価されようがされまいが、ヒトに伝えられようが伝えられまいが、芸術は芸術として「ある」んじゃないでしょうか。
この回答への補足
狭い個室で生み出したかぐわしき我が作品を眺めながら考え込んでしまいました。芸術は生理的産物なんですね。
ありがとうございます。
質問当初のstomachmanの考えでは「パイカケ」は「成功した安芸術」に分類されるんですが、reisの姉御に叱られてすでにコロビしました。やっぱりパイカケは大衆美学的家内工業生産品です。
大体の均衡点は見えてきてるんですが、回答してくださる方がいらっしゃるなら、もうちょっと開けといて、色々なお話を伺いたいな、とおもいます。
No.13
- 回答日時:
面白いご質問で、なるほどこういうふうに考えをまとめていくのですね。
私の場合、『フランクリン自伝』の教科の目的を書いた中の
『芸術:本質を見る。感動を伝え合う。』 という言葉が記憶に強く、残念ながら自分で考えたことがありません。
例えば、青空に感動した時、
どう青いのか、それがなぜ感動的なのか・・・今人と分れたところだから?そばに白い花があるから?体力が余っているから?・・・
その本質を捕まえることが芸術でしょうか。
和歌にするか、絵画にするか、音楽や舞踊にするか・・その感動を伝えること、と、鑑賞者がその作品を通して感動に共鳴することも芸術ですね。
芸術って生きがいになります。
ちなみに今凝っているのは書です。
この線を細くすればこの空間が鮮やかな意味を持つようになる。・・・なんて・・
どうでもよいことを発見しては作品になったり、ごみになったり、評論家になったりしています。
無心に全身で書けた時には快感が作品に残ります。
やはり、発見して書きとどめることが私にとって芸術ですね。
先生や仲間に誉めてもらうとうれしいですしね。
この回答への補足
感動の本質を捕まえて、それを別の形式に移し替えて表現する、という方法論。書における美学的発見。書きとどめること。無心に全身で書けたときの快感、そしてそれが残ること。
cotikuさんのお説を拝見すると、またまた「伝えること」と「芸術」との関係が分かんなくなって来る感じで、わくわくします。ありがとうございます。
No.12
- 回答日時:
しつこくてスミマセン。
mori0309です。考え出すとやめられないタチなので。「スゴイもの」って何だろう、定義できるだろうか、誰もが認める共通性質はあるだろうか
と、考えました。
なるべくたくさんの人に「あなたがスゴイ! これこそ芸術だ!」と思うものは何ですか
という質問を投げかけて、得られた種々雑多な回答を、そのまま「スゴイもの」の定義に
するしかないと思うなぁ。(それは定義とは言えないけど)
人々が何を「スゴイ!」と思うかは、時代とともに変わっていくし。
stomachmanさんはやはり完璧な定義や説明をしないと、気が済まないですか?
私が「美学は不可能」と考えるのは、「スゴイもの」が定義不能・説明不能だと思うからです。
それは理性の敗北のようでイヤですか? 定義不能・説明不能と言っても90%近く
までは理性で肉迫できると思います。でも、あとの10%は分からない、知り尽くせない。
逆に、だからこそ、「魅力が尽きない」「飽きない」と言えるのでは?
この回答への補足
reisさんの回答を参考にして、現段階の考えをまとめますと:
最初に質問に書いたテーゼは、芸術ではなく「文化活動」にこそ当てはまる。「こんなに面白い知識・美しいものがあるのを、広く知らしめて、その感動を共有したい。」という動機に支えられている。(儲からない映画館があえてマイナーな作品を掛け続ける頑固さも、これでしょう。)
一方、芸術は未知の「美・感動」を追求するもの。哲学(科学もその一部です)や数学における「真理」の追求と全く同じように、既に知られている種類・程度の「感動」、似たような手段で得られる「感動」の再現は、芸術には当たらない。まだ誰も知らない美を見つけだす(あるいは創り出す)ことがその動機であるような活動です。
なお美学は、「なぜ、美を感じるのか」という人間の仕組みに関する研究です(今では認知心理学の守備範囲かも知れません)から、美ではなく、真理の追究の方です。
しかし「スゴイもの」が万人にとってそうである、ということを期待するのは無理であって、やはりセンスなり基礎知識がないと分からない、というのはやむを得ない。そういう意味で、芸術は文化活動による啓蒙と密接に繋がっていると考えています。
No.11
- 回答日時:
話題をそらすようで申し訳ありません。
「ゲームソフト」カテゴリのNo.22652『「幻想水滸伝((1))」のことで』を読んでいてふと思ったのですが、現代のオリジナリティある芸術作品はこんなかたちで世に現れてくるのではない
でしょうか。「幻想水滸伝((1))」がどんなものなのか何も知りませんけど、atsuotaさんやwayukiさんが
「このイベントは必見です」「グレミオが生きかえるシーンは泣ける」と熱く語っておられるこれこそ、芸術作品が
私たちに与えてくれる感動そのものではないでしょうか。「芸術」という言葉の意味は、「術」のほうにはあまり
重心がなくて、ほとんど「美」と同値・同義の言葉であるかのような語感を、小生はもっておりました。でも、やっぱり
stomachmanさんがおっしゃるように「芸術」という言葉は、「スゴイものができたから、みんな見て見て!」という
「スゴイもの」と「見て」の両方をあわせ持つ言葉だなぁと思いはじめました。
No.9
- 回答日時:
ふたたびmori0309です。
> キモチワルサを狙った作品は成功すればするほど芸術じゃないということ?
プロテスタンティズム(この表現、誤解を招くなー)も芸術として表現されるべき、ひとつの「美」だと
思います。「芸術は気高くて美しいもの」という定義がまかり通るようになると、それは「生きている美」を
剥製化する抑圧的教義になってしまいます。そういうものに抵抗すること、それ自体が「生命感ある美」
ですから。とにかくマンネリズムや機械的教義は、生きているものをみんな殺してしまう。「楽譜どおり」に
「自動演奏」された音楽にはまったく感動できない。
> 実際、音楽理論はかなりしっかりした物がある
理論どおり作られた作品からは、そこそこの感動しか得られないですよね。すばらしい作品・生命感あふれる
作品には、なにかしらの脱線が必ずある。モーツァルトの「脱線部分」を「悪魔的」などと表現する人もいる。
こういうと、もう美学論めいたものになってくるので、イヤなのですが。
私は「芸術」とは「生命感を感じさせるもの」だと思います。
この回答への補足
mori0309さんのお考えは、atsuotaさんのおっしゃるオリジナリティ説に近い、と考えて良いでしょうか。
従来の形式・価値観に対するアンチテーゼそのものがただちに「美」である、というわけじゃなくて、「もっと他の美(従来の形式・価値観から見れば悪魔的)」を追求するというオリジナリティを仰っているんじゃないかと、解釈しました。
そうすると、オリジナリティ=創意工夫がポイントみたいです。
Stomachmanとしては、たまたま作った積み木の作品に作者自身が感動して(ここまでは芸術じゃない)「ママ見て」と感動を伝えに行く行動、これも芸術に入れてあげたいんですが....
No.8
- 回答日時:
stomachmanさん、こんにちは。
回答にも何にもなっていませんけど、まったく主観的な意見を述べます。理由や根拠はありません。私が「思考」なしに感じとっている私だけの真実です。
1.人間の作った芸術作品のうちの最高傑作
モーツァルトが作ったほとんどすべての音楽:とくにピアノ協奏曲20番~27番、交響曲39・40・41番、
喜遊曲17番、経文歌アヴェ・ヴェルム・コルプス、弦楽五重奏曲4番、ヴァイオリンソナタ28番などが
私の好きな傑作です。(他にも数え切れないくらいありますけど)
和歌も好きです。私にとっては柿本人麻呂のものが最高傑作です。電車のなかで歌を読んでいて、不意に
感動に襲われ、感涙してしまうこともあります。
小説・絵画などにも大傑作がたくさんあると思いますが、私の鑑賞能力は音楽や詩にいちばん反応するようです。
2.すぐれた芸術作品に共通する性質
(1)からだ全体に(この表現大キライですが)鳥肌がたつような感動がわきおこり、魂がゆさぶられる・鼓舞され
る。(体の全細胞が幸福感や美的感動で満たされ歓声をあげているように思う)
(2)大いなる存在・大いなる美が私に語りかけてくるような、そんな感じに満たされる。宇宙や自分の存在が無
意味・無意志なもものではなく有意味・有意志であることを予覚させられる。つまりニヒリズムから救われ
る。
(3)その作品が「生きている」と感じられる。その作品にものすごく強い生命感がある。私のまどろみかけてい
たり、硬直しかけていた魂が甦らさせる。
3.芸術は何を表現しているか。
それは、美・いのち・こころ・運命・恋・愛・神・宇宙・意志。
4.芸術と芸術家
芸術は芸術家の「意図ある創造物」ではなく、直感的・本能的に感じ取った「本当の真理」「本当の存在物」を
表現したもの。
5.芸術美に法則はあるか?美学は可能か?
法則はない。美学は不可能である。「生きている美」を完全に捕らえ尽くして説明することはできない。捕らえ
られて説明されてしまったものは「剥製」であって「生きて」いない。「芸術」を対象化して語ることはできな
い。「芸術」は表現するか「鑑賞」するか、そのどちらかしかできない。
キリがないですね。このへんでいったんやめます。
この回答への補足
帰納法で来ましたね(^o^)
優れた芸術作品・・・どういうのが優れているかと考えると、トートロジー(同義反復)に陥ってしまいそう。多くの人に強く心地よいポジティブな感動を与えてくれる芸術は、その結果、広く受け入れられ、すなわち名作の誉れ高いということになるでしょう。でも、キモチワルサを狙った作品(アマデウスさんと比べちゃ可哀想だけど、「たま」の「らんちゅう」とか)は成功すればするほど芸術じゃないということ?
とにかく「美学は不可能」と言い切ったのは凄い!! この線は考えても見ませんでした。
音楽は抽象性が高い。つまり、なぜそこに美を感じるのか、分析しやすい対象でもあるし、作る側にとっては分析を必要ともしている。実際、音楽理論はかなりしっかりした物がある。意地悪い言い方をすれば、受け入れられ、ヒットする作品を意図的に作れる芸術家が多いように思われます。しかし、最上級の作品となれば別なんだろうか。
優れた芸術については、沢山の人が賛美の言葉を述べている。しかし、優れたもの以外は芸術でない、というのなら、あえて「優れた」という修飾語は要らないはず。
優れていないやつも含めて「芸術ってなに?」
もちろん、主観的意見をお願いします。客観的は期待してませんてば。
No.7
- 回答日時:
僕の勝手な解釈を書きます。
「言葉を越えた表現」。
つまり人間は少しは高度な言語を持ったが故に
論理を物にして知能を発達させたわけですが、
他との伝達手段としてすでに言葉を持っているわけです。
しかし言葉は、体験もおありでしょうが、
心の1割くらいしか伝えられない物です。
藤本義一が言ってました。「作家でも15パーセントくらいしか表現できない」と。
それで表現手段としてまず絵画と歌と踊りが発生したわけです。
僕の勝手な考えというのは、
「言葉で表現できる物なら言葉で表現すればよい」
つまり芸術にする必要性はない。
普通の話し言葉で表現しきれない部分を「芸術」で、
人は「芸術」で表現するのであると、思います。
だから全く普通の話し言葉で書いた物を「詩」等と称してくれては、しかも行間にこもる何物も無いような代物では、僕はそれは芸術ではないと考えます。
芸術は言葉の上位にある表現。
それ以上上位にあるのはテレパシーでしょうかね?
芸術の喜びは、原始的に言うと「伝わる喜び」と言うことになろうかと。
言うに言えぬ所が伝わる喜び。
と言うことはビジネスの世界でよく言われる、
「例の件、よろしく頼むよ」
営業マンはこれだけでちゃんと察して色々と便宜を図る物です。
これも芸術と言うことになるかというと、
そう言うことになってしまいますが、お許し下さい。
この回答への補足
> 言うに言えぬ所が伝わる喜び。
そうそう、それなんですよ。いや、まさにそれ!!
名前の付いていない、特別な種類の「感動」を伝えたい、という強い欲求があって、初めて手間を掛けて作品を作り上げることができるんじゃないかと。
小説なんか芸術じゃねえ。と仰ってるわけじゃないのは分かってます。シチュエーションを作り上げ、経緯というものを理解させてようやく、狙った「感動」が(説明するのではなく)読者に引き起こされる。そのための何十、何百ページですものね。
> 全く普通の話し言葉で書いた物を「詩」等と称してくれては....それは芸術ではない
何と称するかによって違うということでしょうか?いや、称しなくたってやっぱりそれは芸術ではないんでしょう?
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