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 自分は妻との二人暮らしで、経済的事情で子供は居ません。
 要するに、「我が家」は、家系的にも遺伝子的にも、何ら生物学的な機能を果たさないまま終焉することがわかっております。

 これまで、歴史上でも、食をはむこともできぬ経済的弱者の集団は、絶滅の憂き目にあい、そのたびに、有力者の子孫のみが繁栄し、その何割かが没落して、結果、身分制度が(表沙汰にはならなくとも)維持されているものと愚考します。
 となると、滅び行く家系の構成員は、いつの時代も存在したことになり、現在の我々が特別な存在ではないことはわかります。

 ですが、このような「滅び行く人間」としては、どのような心構えで「人生」というものをとらえればよいのでしょう?
 
 「DNAの指令を果たした」とか「とりあえず後は子供に任せた!」という投げやりな引退劇は、我々には望むべくもありません。
 ただ、生まれ、ただ、死ぬだけで、後には何も残りません。

 「社会的な功績を残せば良いではないか!」と言われるかも知れませんが、そんな人間は一握りでしょう。
 また「その日その日を幸せに過ごすことが出来れば、それでいいじゃないか?」とも言われそうですが(というか、現によく言われます)、それは論点をずらしただけであって、本質的な疑問の解決にはなっていません。

 「人類は、どこから来て、どこへ行くのか?」という問いならばまだ救いがあるのですが、「自分は、先祖から生まれてきて、ただ死ぬだけなんだが・・・なんか意味あったの?」と考えると、やはりただの乱数の一つであったとしか思えません。

 他の皆さんはどう思われますか?

 何を目標に、何を考えて、生きてゆくのでしょうか?<我々
 意味など無いことがわかった上でも、なお修羅の道を最後まで歩く価値があるのでしょうか?

<なお、宗教関係者のご回答は丁重にお断りさせていただきます。>

A 回答 (24件中21~24件)

>「人類は、どこから来て、どこへ行くのか?」という問いならばまだ救いがあるのですが・・・



それで宜しいのでは無いでしょうか?

一見無意味に見えるこの乱数のような私達の生の積み重ねが、その答えなのだと思います。

確かに、僕やnebura71さんがが人類歴史上のターニングポイントになる可能性は殆ど無いでしょう。

実際、生物の進化や衰退はその生物の意思とは関係なく、環境の変化によるものだろうと思われます。

しかしながら、人は何故か考えるようになってしまった。普通は行動パターンはDNAにインプットされたものをするだけなのに、その行動パターンにすら疑念を抱き始めた。

これは人としての生物が他の昆虫や他の動物と同じように生命体として、組織だって生き延びようとした結果、元々が肉体的に弱者だったこともあって、他の生物が住んでない世界へ乗り出したので、あまりにも様々な環境への対応に迫られ、個々の判断に任せたほうが効率が良いと判断した弊害ではないかと思うのです。

ただ、人と言う生物が、その後、地球規模で爆発的に繁殖した為に、自らの住む環境を壊す要因に繋がり、最近ではその反動として繁殖への危惧を抱いているのが現状ではないでしょうか。

つまり、現在の我々人は思念を言葉として他者へ伝える事によって、全体の行動パターンを統制する生き物なんだろうと推測されます。

従って、一見無駄のように見える私達のコミュニケーションも、人と言う生物にとっては必要で有り、直接の子孫を持たぬ者も他者とのかかわりにおいてその責任の一端を担っていると考えても良いのではないでしょうか。

ですから、
>何を目標に、何を考えて、生きてゆくのでしょうか?
と、言う事をそれぞれが考え、他者へ説明すること自体が「生きる」ということなんだろうと僕は考えます。この際の、説明は「表現」だと思います。自分の思念を何からの方法で表現して他者へ伝える。この他者とのチャンネルが繋がった時が生命体としての人の役割を全うした事となり最大の喜びなんだろうと思うのです。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

 なるほど。
 極端な解釈かも知れませんが「群体としての人類」ということですか。なるほど。

 いや、、、なるほど。
 妙に納得させられてしまいました。

 群体であれば、個々の構成体の意義は「群体の一部であること」ですものね。そして、その群体へいかに有益に働くか?(結果的に)という点が問題でありながら、なおかつ、どんなに努力したところで最初から評価される類の目的でもありません。

 また、群体であれば、自分自身が子孫を残す必然性すらありません。
 他の方がおっしゃっておられますが模倣子を伝えればよいことになりますか。
 鋭いご意見だと存じます(「自信あり」とおっしゃるだけのことはありますね。)。

 それでも・・・この胸のもやもや感は何なんでしょう?
 「働き蜂」や「カツオノエボシの触手」にとっての「幸せ」って、何なのでしょうか?

お礼日時:2006/08/07 12:42

世の中を「乱数」と表現するからでは?と思ってしまいました。


つまり、人間として生活の営みがある以上、誰かと関係し、誰かに影響し、それが何かに影響を及ぼし、世界があると思うからです。

子供を作らなくても、歴史に特別名を残すような功績が残せなくても、あなたが影響していた何かがあったからこそ、何かが起こったという事も考えられなくもないのです。

もしも・・・と言っても証明のしようがありませんが、もしかしたら、私があの時、あんな事をしなければ、911のテロが起こらなかったかも・・・というような事があるかもしれません。
逆に、有り得ない、あるわけがない、絶対違う、と証明も出来ないのです。

私たちを数字に例えるなら、隣と足したり、愛する人と掛けたり、友人と割ったり、同僚と引いたりしていて、その結果がこの地球で起こった全ての事のような気がしています。

ちなみに私の宗教背景は、実家に仏壇もあり、神棚もあり、お寺に行けば先祖の墓もある、日本の普通の家庭の宗教背景です。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

>ちなみに私の宗教背景は

 あ、いえ、この手の類の質問へ「自信なし」でご回答いただける方々については、その宗教的な背景は疑っておりませんのでご安心を。


 確かに、人間1人1人は何らかの因果関係で結ばれているものでしょう。どんなに人間関係が希薄な人間であっても。

 ただ、それは「存在しているが故の結果」であって、「存在をし続けるための理由」ではないような気がするのです。
(だからといって「自殺しよう」とかいうのではないですよ。誤解無きように。あくまでも哲学的な話です。)

 それを言ったら、人間以外の動物は「目的」を持って生きているのか? と問われそうですが、それは逆説的な意味で然り。
 人間も動物の一種であり、自然状態に於いては「人生の目的」など考えもしない生命体なのだとしたら、「何も考えない、ただ存在するというだけの雑多な存在」だというのが本質で、「目的」だの「意義」だのを大層に考えるからおかしいのだと言われかねません。

 もちろん、「目的」や「意義」や「歩むべき道」が無いとも証明できないわけですが・・・

お礼日時:2006/08/07 12:30

お子さまがいなくても、社会を構成する要素としての個人でありますよ。



子供を育てるのは両親だけじゃなくて、社会という第三者も大事です。
もちろん次世代だけじゃなくて、同世代や、上の世代にだって人間生きてる限り影響を与えます。

修羅なんて言わないで、周りの人を笑顔にしてあげられる生き方をして下さいな。
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この回答へのお礼

 周囲の人間への笑顔の配布・・・が目的、と割り切るのも良いですね。

 問題は、笑顔が出せるような状況でないような状況において、いかに笑顔を絞り出すかという方法論かも知れません。
 それが修行というものでしょうか?(人生の修行ですよ。)

お礼日時:2006/08/07 12:19

何を目標に、何を考えて、生きてゆくのでしょうか?



まさに、これだと思います。
そういったことを考えるのが人生なんじゃないか、と思います。

私は、ネイティブアメリカンの言葉

生まれてくる時に、周囲の人々が笑って生まれたのだから
死ぬ時には、周囲の人々を笑わせて逝きなさい

この事を目標として生きています。
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この回答へのお礼

 夜分にどうも。

 なんとなくおっしゃらんとするところはわかりました。
 「人生について考えることが人生の目的である」と。

 ただ、少々、循環論的なきらいがあるような気がします(学術的な指摘なので、お気を悪くなさらないでください。)。

 「死ぬときに周囲の人々を笑わせる」ですか!
 いい言葉です。

 そのためだけに生きるのも刹那的な気がしますが、せいぜい笑わせてやりましょう(笑)
(すべったらどうしよう・・・???)

お礼日時:2006/08/07 04:41

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