プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

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 自分は妻との二人暮らしで、経済的事情で子供は居ません。
 要するに、「我が家」は、家系的にも遺伝子的にも、何ら生物学的な機能を果たさないまま終焉することがわかっております。

 これまで、歴史上でも、食をはむこともできぬ経済的弱者の集団は、絶滅の憂き目にあい、そのたびに、有力者の子孫のみが繁栄し、その何割かが没落して、結果、身分制度が(表沙汰にはならなくとも)維持されているものと愚考します。
 となると、滅び行く家系の構成員は、いつの時代も存在したことになり、現在の我々が特別な存在ではないことはわかります。

 ですが、このような「滅び行く人間」としては、どのような心構えで「人生」というものをとらえればよいのでしょう?
 
 「DNAの指令を果たした」とか「とりあえず後は子供に任せた!」という投げやりな引退劇は、我々には望むべくもありません。
 ただ、生まれ、ただ、死ぬだけで、後には何も残りません。

 「社会的な功績を残せば良いではないか!」と言われるかも知れませんが、そんな人間は一握りでしょう。
 また「その日その日を幸せに過ごすことが出来れば、それでいいじゃないか?」とも言われそうですが(というか、現によく言われます)、それは論点をずらしただけであって、本質的な疑問の解決にはなっていません。

 「人類は、どこから来て、どこへ行くのか?」という問いならばまだ救いがあるのですが、「自分は、先祖から生まれてきて、ただ死ぬだけなんだが・・・なんか意味あったの?」と考えると、やはりただの乱数の一つであったとしか思えません。

 他の皆さんはどう思われますか?

 何を目標に、何を考えて、生きてゆくのでしょうか?<我々
 意味など無いことがわかった上でも、なお修羅の道を最後まで歩く価値があるのでしょうか?

<なお、宗教関係者のご回答は丁重にお断りさせていただきます。>

A 回答 (24件中11~20件)

生物学的には、自分の兄弟や親戚の子供の生存を助けることによって自分の遺伝子を残す働きをしているはず。

だから、社会のため(大きな功績でなくても良い。他の人が生き残れる確率をちょっとでも増やすとOK)になることをしたら十分DNAを残すことだと思うんですが。と言ったら期待はずれですか。でもそうでないなら子供を作ったあとすぐに死ぬように人間はなっているはず。
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この回答へのお礼

 お礼が遅れて申し訳ありませんでした。

 確かに、生き甲斐を、自分の子供を作ることのみに集約するのは無理が大きいと思えるようになってきました。
 その点では、ポイントをお突きになってます。

 その上で「何で生きてるのか?」と問うことは、なんだか人生相談の部類に堕するようなので、哲学とは無縁のような気がしてきました。

 ありがとうございます。

お礼日時:2006/08/21 03:59

失礼ながらお悩みの点は底の浅い問題でありまして・・・


いっそ逆療法でドーキンスの「利己的な遺伝子」でもお読みになる事をお勧めします。
ドーキンスというのは確信犯的にセンセーショナルな用語を使う人ですが、本の中身はまっとうで、知識の整理に役立ちます。
読み終わった段階ではすべてをご理解頂けている筈です。
すべてをです。
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この回答へのお礼

 底が浅くて誠に恐縮であります。

 「利己的な遺伝子」ならばずいぶん昔に読まさせていただきました。
 あれですべてがご理解できるとは、「自信あり」とおっしゃるだけあります。
 すばらしいですね。

お礼日時:2006/08/08 04:16

No.11です。


ユニークなお礼をありがとうございます。

お礼中の疑問に対しては、もしアドヴァイスするならば、私ならば「因果応報」と「輪廻転生」で論じてしまいます。
でも、質問者様が質問中で
>宗教的な話は丁寧にお断りします・・
とありますので、あえて言及しません。

ただ、それでも、もし述べるとするならば、

>「ゴーギャンを失ったゴッホは、幸せだったと言えるでしょうか?」
 確かに偉大な画家ですが、本人が死んでから評価されただけで、ご本人(?)は何か嬉しいのでしょうか?

に対しては、芸術家はその芸術を完成させる過程において満足と充実感を感じるのであって、社会的評価と地位、名誉、報酬はその後で付いて来るものだと思います。

もし、社会的地位や名誉や報酬を優先させるような芸術家がいるとすれば、その作品に本当の情熱、芸術の息吹は感じられないでしょう。
お金の為とはいえ、報酬を忘れ、全身全霊で創り上げたものだけが偉大な人類の遺産となるのではないでしょうか。

又、人生に幸福や不幸があるのは全ての人に共通です。
芸術家のみならず、その全ての体験を通しての人生であり、その中から芸術家は自己の作品をつむぎだしていくのだと思います。
一般人はその体験を通し、人生の喜怒哀楽をしみじみと感じ何かを悟っていくと思います。


>「スターリンは死んでから、なにか苦痛を感じたでしょうか?」
 たしかに人の極悪政治家で大量虐殺者のクソ野郎ですが、それは死後の評価であって、いくら糞味噌にけなされてもご本人(?)には痛くも痒くもないのではないでしょうか。

このスターリンの死後の結論には私は別の考えをもっています。
ただ、痛くも痒くもない・・とは言い切れない、とだけ書いておきます。

何をしても死ねば全て帳消しになるのならば、人生の努力、善行はすべて意味がなくなり空しくなります。
悪人も善人も全く変わりがないことになってしまいますから。

自己のエゴで好き勝手なことをしても、スターリンほどには悪くないならば・・・・う~ん難しいですね。

ならば、人類は倫理的に向上、進歩する必要がなくなるわけで、気に入らない人生ならば、さっさと退散(死)した方がスッキリするわけです。

人類が道徳、倫理を大切にする意味がなくなってしまいます。

論理的な退廃というより、論理的に人類が目指しているものからずれていると思います。

人類の集合意識から外れているとするならば、それは正しいとは言えないと思いますが如何でしょうか。
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この回答へのお礼

 お礼が遅れてすみませんでした。

 ごもっともなご解釈です。
 もっとも、人類に「集合意識」などという高級なものがあればの話ですが。
 その点、自分は悲観的です。
 「人類が倫理的に向上すること」に仮に意義があるとするなら、それは何らかの利益誘導によるものであって、「集合意識」が「「善のイデア」を目指しているからだ」と理由づけるのは、無理があると考えています。

 そうなりますと、おっしゃるとおり、群体の中の個人個人としては、さっさと退散した方がすっきりするというのは、同意見です。
 自分の場合は運良く(運悪く)該当しませんが、先進諸国における自殺率の高さは、そのことが真であることを裏付けているように思えてなりません。

 しょせん、「やったもん勝ち」なのが人類社会という「掃き溜め」なのではないかと思考すると、やりきれない気分になります。

 もちろん、そこで、人生への審判機能として「輪廻転生」が本当に出てくれば話は別なのですが、個人的には(少なくとも哲学的には)、どうも眉唾です。善行を旨とする人々の自己満足のために「因果応報論」がでっち上げられているだけのように思えるからです。
(「善行が悪い」と言っているわけではありません。誤解無く。)

 また、「宗教的な話は避けたい」と言いながら、敢えてそっちへ踏み込むならば、親鸞は「悪人なおもて往生す。いわんや善人をや。」と言っています。
 多少「悪人」である自分としては、非常に救われる話ですが、悪意に解釈すれば、「どうせ往生できるならば、自己都合でやり放題の方がマシ」とも言えます。

 もちろん、親鸞は仏教の一つの派閥でしかないことから、他の宗派や宗教ではこれ自体を容認しないのでOKなのかも知れませんが・・・

 スターリンご本人が、今現在、「痛くも痒くもないか?」という議論については、ご本人からの証言をもらえない以上、無意味な設問でした。その点はごめんなさい。学問的とは言えません。

 論点は、「「人類の集合意識」という美名の下で個々人の生活が不幸であっても良しとされるべきなのか?」という命題へ移ったような気がします。

お礼日時:2006/08/21 04:22

日々どう生きていくのか・・どうすれば少しでも「喜びに満ちた人生」になるか・・それを試行錯誤で求めていくのが人生の目的、生き甲斐ではないでしょうか。



質問者様はその「喜び」の第一に「子孫の繁栄」をあげていらっしゃるのでしょうか。

しかし、結局、人類もいつかは滅んでしまうでしょう。
人類のその長い年月を一つの歴史として考えるとき、「子孫繁栄」にのみ生き甲斐を見出しても結局滅んでしまうならば、すべて無に帰してしまうと思います。

歴史とは、その一瞬一瞬が大切で、全ての事象が何らかの意味、重みを持つものだと思います。
一般に「歴史」という教科で習ったように、重要なこととさほどでも無いことが存在するのではなく、全ての事象が絡み合い、互いに影響し合い、お互いを形作っていると思います。

つまり、ジグソーパズルのそれぞれのピースの様なものです。
一つでも欠けると、全体が完全ではなくなります。

現在、私たちが理解している歴史なぞ、本当に客観的で正しいかどうかは実に怪しいと思います。
視点を変えれば、全く別の歴史が浮上してくる可能性があると思います。

ですから、現在は全く社会からかえりみられない一個人が、実は人類史上大変貴重な役割を果たしている可能性だってあると思います。

その人物の思想、ユニークな視点は子孫を持たないことによってしか培われないことだって有るのではないでしょうか。

そう考えると、皆が子孫を持っては、人類としては困ることになります。

それぞれの人生が等しく重要な役割を果たしていることになると思います。

それぞれの人生の荒波の中で、真摯に人生の意味、目的を考えながら精一杯、生き抜いていく事こそが、人類史上、最も貢献することになると思いますが、如何でしょうか。
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この回答へのお礼

 明確なご回答をありがとうございます。
 人生の荒波に飲まれかけたときには、「自分は全人類というパズルの重要な1ピースなのだ」と心の中で唱えてみれば、勇気が湧いてくるかも知れ・・・ない・・・いや、やっぱり、そんな自信はありません。
 ご回答を賜った上に、一挙に否定してしまって、すみません。倫理的には、まことにお詫びの申し上げようがありません。

 やはり、自分は、そこまで「君子」ではないようです。

 人類史上貴重な役割を果たす可能性へ話題が言及するに至り、極論的な選択を思いつきました。

 「ゴーギャンを失ったゴッホは、幸せだったと言えるでしょうか?」
 確かに偉大な画家ですが、本人が死んでから評価されただけで、ご本人(?)は何か嬉しいのでしょうか?

 「スターリンは死んでから、なにか苦痛を感じたでしょうか?」
 たしかに人の極悪政治家で大量虐殺者のクソ野郎ですが、それは死後の評価であって、いくら糞味噌にけなされてもご本人(?)には痛くも痒くもないのではないでしょうか。

 別の個人として再出現することが出来るとしたら、「スターリン」でしょうか? それとも「ゴッホ」でしょうか?

 私は、むしろ「スターリン」のほうがよほどマシだと思えるようになってきています(あとは野となれ山となれ・・・とはいえ、私はあんなひどいことをする気はありませんが・・・)。

 これは倫理的な退廃と考えるべきでしょうか?
 それとも、衣食が足りていないから礼節を忘れたのでしょうか?

お礼日時:2006/08/07 17:46

論理を明確にするために、


私の存在をどのレベルで考えるか?
を整理する必要があります。

(1)人類の一員という生物的な視点か
(2)社会的存在としての私という視点か
あるいは(3)私という存在そのものの視点か
などが、ごっちゃになると混乱をするかも。

これらは関連しあっているにしても、どの視点での考察か立脚点を自覚しておくことは大事でしょう。

例えば、人類全体としては種を残していくことは大きな欲求であり、個にはその本能がそなわっています。
その視点では、あなた自身も生き残ってきた強者の子孫です。
個としての存在意義を人類という種へ帰着してしまっても、本質的な個の存在意義に対する納得は得られないでしょう。

>「DNAの指令を果たした」とか「とりあえず後は子供に任せた!」
というのはこのレベルの問題を混同しているためだと思います。
この勘違いのため親の愚痴と、もめごとがなんと多いことか・・・・・・。
私と子とは生物的、社会的、生活としても親子ですが別の固体です。
私の存在意義を子に託すというのは、過大な期待であり、飛躍しすぎです。
また、自分ができもしなかった願望を子どもに託するのは自分の問題のまる投げであり子どもは迷惑です。

また(2)社会的文化的存在としての視点は
他からの評価イコール自分の存在意義という視点と
文化の伝承に意義があるという視点があります。

存在意義を他からの評価に帰着してしまうことも危ういですね。評価はたまたまということもありますから。
後世に残すといっても自分の関わった文化的学問的な内容そのものの伝承に意義を感じる場合もあれば、自分自身を個として後世の人に認めてほしい場合もあります。
例えば私の知る老人は、自分の人生録を残す作業をしていますがこれも何らかの痕跡を残したいという欲求でしょう。
でも、普通後の孫やひ孫がそんなもの読むでしょうか?4代5代前の先祖のことなど顔も知らないのが普通です。
そんなものより、本人の願いに反して週刊誌のほうを読むでしょう。
自分自身のあり様を反省するという意味なら人生録を書く意義はありますが・・・・・・。

私自身の存在意義を(1)や(2)に帰着させても、本質的に満足できる解答は得られないでしょう。

「あなたのことを永遠に覚えています。」と言っても、大事なものが別にできたら忘れるし、また脳の状態や病気の進行一つで記憶はなくなります。
個はそれほど危機的な存在なのです。

そうすると最後の(3)私という存在そのもの
という視点は避けられず、哲学的視点や宗教的視点が関わってくるでしょう。
それについてここで述べることは、質問者様の望む回答かどうかわかりませんのでとりあえず控えておきます。

ちなみに私は家に仏壇のある普通の(伝統的な)仏教の門徒ですが、好んで仏教のことを学んでいます。そのなかで「縁起」という己の存在と他との関わりを述べたものがあります。
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この回答へのお礼

 やっかいなところを整理くださって、本当にありがとうございます。

 私の問いの初源的な立脚点は、「(3)私という存在そのもの」です。
 エゴイスティックで情けない話ではあるのですが・・・、「私」が幸せであり、「私」に生き甲斐がなければ、人類の存亡も人間社会も生き甲斐たり得ません。
 ただ、誤解を招くといけないので補足しますが、例えば「自分さえよければ国はどうなってもいい」とかいう思想の持ち主ではありません。

 これまでの思考過程の中で、どうやら(1)~(3)が混乱していた模様で、お恥ずかしい限りです。
 結局、子孫が居るか居ないかと言うよりも、人間が生きる理由を求めていると言っていいでしょう。
 そのあたりの勘違いを正してくださって、感謝の極みです。

お礼日時:2006/08/07 17:30

ご質問の件に関しては、私には回答できるほどの信念も死生観もありませんし、その点に関してはご自身で悩み自分の解答を見つけるしかないと思います。



一点、別の方が書かれたネィティブアメリカンの言葉で気になったのですが、私が聞いたのは下記のものでした。

  あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、
  あなたは泣いていたでしょう。

  だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って、
  周りの人が泣くような人生をおくりなさい。

  【ネイティブアメリカンの教え】

別のものなのかもしれませんが、私はこちらの方が好きです。
もしこれのことでしたら、誤解されるのは残念でしたので、あえて回答させていただきました。


幸か不幸か、子供を持つ持たないも含めて、選択することができますが、それは自身の責任においてです。
また、世の中には子供が欲しくとも、持てない方も大勢いらっしゃいますし、子供を埋めても安心して育てることが困難な国も多く存在しています。
広い視野で考えてはいかがですか、というのが私からのせめてものコメントです。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。
 というより「修正」ですかね?(笑)

 死ぬ間際になって一発ギャグですべったらどうしようかと思っておりましたが、なるほど、これなら悩まなくて済みます。

 (ギャグがどうこうはおいておいて)ほんとうに良い言葉ですね。

お礼日時:2006/08/07 13:15

>ただ、生まれ、ただ、死ぬだけで、後には何も残りません。



「個は吠えても、種は進む!」です。

人間という種全体から見れば、個々の事情は、それが種全体の主たる傾向でない限り余り重要なことではありません。

>どのような心構えで「人生」というものをとらえればよいのでしょう?
 
個という狭い殻を打ち破ればいいです。
古い言葉ですが、「一人は万人のために。万人は一人のために。」が、一つの殻を破る指標です。

まあ、質問は、「レギュラーにもなれない自分がチームに所属する意義は?」という問いと同質です。
「一人はチームのために。チームは一人のために。」
と、思えないと、多分、チームから去らざるを得ません。

何らかの形で、社会との関わりの中に自己の存在意義を認めるか人生という舞台から退場するかは、全く、各自の自由です。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございました。

 なんと申し上げて良いか・・・いや、おっしゃるとおりと思うのです。
 ただ、芥川龍之介の時代とは異なり、そう簡単に自由を行使できないからこその問いだったわけです。

お礼日時:2006/08/07 13:12

ミームという言葉をご存知ですか?あまり定義のはっきりした言葉ではないのですが、簡単に言うと、人間が生物として伝承していくものがジーン(遺伝子)なのに対し、文化という「遺伝子には記録されていないが、人間の考えから考えへと遺伝のように伝承されていくもの」がミームと考えるとよいと思います。


「社会的な功績を残せば良いではないか!」ということですが、確かに社会的功績を残せば、ミームを遺伝子的に考えるなら、突然変異的に優れたミームを作り出し、後に伝承されていく、というのが「社会的功績を残す」という行為の意味になるのでしょう。
でも、そんなことをしなくても、たとえば親戚の子とかにまだ幼い子供がいるとしたら、人に会ったら「こんにちは」と挨拶をしなさいとか、ご飯を食べるときは「いただきます」を言いなさいとか、そういう細かいことでも文化を伝承していくと言うのは、すなわちミームを伝承していくことであり、本能だけで生きているわけではない動物=人間にとって、ジーンを伝承していくのと同等なくらい重要なことだと思うわけですよ。
nebura71さんにも、親戚や近所、友達の子供など子供がいたり、あるいは職場で自分より若い後輩がいたりするでしょう?そういう人たちに対し、細かいことであっても礼儀や人生訓を伝えていく。ミームという考え方をとると、それがいかに重要なことか、わかると思います。
人間は本能だけで生きているわけではありません。精神と言うものを持ち、精神を社会参加させ、精神を後代に伝えていくわけです。その重要性は、人間にとって遺伝子を伝え子供を作っていくのと同等に重要だと言えるでしょう。ある日突然、人間からあらゆる精神的遺産=ミームが消えてなくなったら、人間は死に絶えるしかないでしょうから。
人間は、自らをそういう「肉体と精神を持ち、どちらが欠けても生きていけないもの」と自覚しているから、例え生殖能力をなくした人(老人や病人)であっても、「死んでもかまわない者」とは見做さないのでしょう。
…というような考え方をしてみて、それでもまだ「意味などない」と思われますか?「生物学的な機能は果たさない」というのを「生物学的な機能以外はまだまだ果たすべき役割がある」と考えられませんか?
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

 ミームを否定することは、「姥捨て山」を肯定することに通じます。
 確かに仰せのとおりで、「自信なし」というのは謙虚に過ぎるようです。

 しかし、敢えてアンチテーゼなのですが、「ミームを育てている実感もあまり無いのに、それって個人の生き甲斐に通じるでしょうか?」という個人的疑問が残ります。
 哲学的というより個人的な話題に堕してしまった感がありますが、その点について、何かお思いになられることがあれば、ご教示賜れれば幸いです。

お礼日時:2006/08/07 13:05

 経済的理由で子供を作れないなら、高度成長の前の多産は何だったのでしょうか? 今の少子化は生物としての本能の欠如がもたらしたものでそれを経済という逃げ口上で覆い隠しているだけです。


 人は何のために生きるかという馬鹿げた問いかけもその一つです。生物が生物である所以は自己の複製を残すことにあり、これは幾何学の平行線定理のようにアプリオリなものです。そんなことに悩んでいないで子供をお作りなさいと提言します。そうすればすべてが解決します。そこには喜びも悲しみも絶望もありますが、それが生きるということでしょう。生きるということは何らかの目的を持って行なう行動ではないことを銘記してください。
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この回答へのお礼

 ご回答・・・というか、ともかくありがとうございます。

>高度成長の前の多産は何だったのでしょうか?

 多産になる場合というのは何ケースかあります。
1:今は貧しくとも将来に夢がある場合。
2:将来にしか夢がない場合。
3:「養育コスト」対「扶養コスト」で、後者が勝る場合。

 戦後のどさくさ状況での多産は、後進農業国特有現象の3に近く、高度成長直前の多産は1に近いでしょう。

 話題を振っておきながらこんなことを申し上げるのはなんなのですが、議論すること自体が無意味であると「銘記」すべきだと言われると、一神教的なドグマしか感じることが出来ません。

 いえ、貴殿を批判する意図があるわけではなく、そのお言葉の内容では、私自身はモーセのように一撃で納得というわけにはいかないというだけのことです。

 それに、自分が子供を作れないのは、経済的要因だけではないのですよ(書くとイタイから敢えて書かなかっただけなんですが・・・藪をつついた方がいらしたもので・・・)。

 よって、

>すべてが解決します

 という貴殿の保証も、残念ながら受け取る手段がありません。

お礼日時:2006/08/07 12:58

> ただ、生まれ、ただ、死ぬだけで、後には何も残りません。



現にここに文章を残しています。
文章でなくとも人とコミュニケーションを取り、あなたの意思がどうであるにせよ他人に影響を与えてきたことは紛れも無い事実です。

> 「社会的な功績を残せば良いではないか!」と言われるかも知れませんが、そんな人間は一握りでしょう。

歴史に残るよう人も現状に満足できないから「たまたま」行動を起こしただけであって、満足できない状況(社会)に踊らされただけの人です。
偉大なる功労者と言われる人も全て同じです。

> 「自分は、先祖から生まれてきて、ただ死ぬだけなんだが・・・なんか意味あったの?」

その質問に科学的に答えることが出来ればその人は歴史に残せる偉大な科学者であり、哲学者です。


最後に言うのもなんですが、生物学的な機能を果た"せ"ない人にとって厳しい御意見ですね。
しかもここに書き込みするまでにそれなりのお金を注ぎ込んでいるはずなのに経済的な理由でって言うのが解せないです。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2006/08/07 12:45

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