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人間には自由意志があるか?

私は、ないと思うのですが、その理由があまりにも単純なので、もっと異なった考えがあれば、教えてください。

以下は、私の考えた理由です。

人間は、色々考えて、最終的には、「自分は、これを選択するしかないと納得したこと」を意志するのだと思います。

ところが、その納得する事というのは、様々な自分以外の要因が絡み合って決まることなので、自分の意志だけで自由勝手に「納得感」を作り出すことはできない。例えば、愛する人を理由もなくなぐることを納得しようと思ってもそれは無理である。

従って、人間には、自由意志はないと思います。

A 回答 (19件中1~10件)

 自由意志とは何かを明確にしなければなりません。

何かを選択しなければならないときに、同じ条件に置かれたとしても、その都度違うものを選択するなら自由意志があることになり、毎回同じものを選択するならば、自由意志はないことになります。自由意志によって毎回同じものを選択する可能性もありますが、違うものを選択すれば、自由意志はあると言えるでしょう。
 自由意志を上記のようなものであるとして日常の生活を考えてみると、自由意志はあるように見えます。例えば、今日の昼食は何を食べようか、と考えます。選択肢は、カレーとうどんとラーメン。今日は昨日と変わらない日常であり、同じ条件に置かれている訳ですが、あるときはカレーであったり、あるときはラーメンであったりします。それは、自由意志に基づく選択のように思われます。このようなことから、自由意志があるように思われますが、これは自由意志の証明にはなりません。昨日も今日も同じような日常ではありますが、まったく同じ条件ではありません。腹の空き具合は同じかもしれませんが、職場の雰囲気は微妙に違うかもしれません。朝食べたものも違うでしょう。何より、今日は昨日の記憶があります。まったく同じ条件にはなりえないのです。したがって、人間を同じ条件において自由意志があるかどうかの実験をしても、結論は出ません。
 そこで、別の角度から考えてみたいと思います。人間が何かを選択する場合、自分にとって最も都合がよいと思われるものを選択します。そのときの判断基準は、1つは本能です。自分自身を維持するため、また、自分の子孫を残すため、遺伝子にプログラムされた判断基準が本能です。もう1つは経験です。環境の変化に適応できるようにするため、経験から判断基準を学び取る能力を人間は持っています。経験は脳の中にデータベースとして蓄えられています。時折、このデータベースがいくつかに分断されている人がいます。多重人格と呼ばれる人たちです。この人たちは、同じような条件に置かれても、判断基準が異なるデータベースを複数持っているため、違う行動を見せることがあります。これはちょうど、同じコンピュータを使っていても、違うプログラムを動かせば違う仕事ができることと同じです。私はこのように考えて、人間には自由意志はないと考えています。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

> 自由意志とは何かを明確にしなければなりません。何かを選択しなければならないときに、同じ条件に置かれたとしても、その都度違うものを選択するなら自由意志があることになり、毎回同じものを選択するならば、自由意志はないことになります。

これって、すごく明解でわかりやすいですね。そして、現実には、「完全に同じ条件」というのが整わないので、判断が難しいというのもよくわかります。

>私はこのように考えて、人間には自由意志はないと考えています。

本能と経験で何を選択するかが決まってくるということですね。私も同様な考えですが、ご回答の「自由意志の有無の確認方法」を見ていて、ふと新しい可能性を思いつきました。それは、「勘違い」ということです。「完全に同じ条件」であっても、「勘違い」で、前回とは異なった選択をしてしまうケースもあり得ますね。これって、もしかすると、自由意志と言えるでしょうか?

補足日時:2006/08/12 09:15
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#15です。

ご返事ありがとうございます。
>要するに、犬には、行動の自由や選択の自由はあるが、そのことを自覚していないので、自由意志はないということですか?
:端的に言うとそういうことですが、
選択する際に恣意性が存在せず、意志というよりは本能的なそれこそ必然性による結果ではないかと思います。
その意味で意志は存在しませんが、その必然性が他からの強制を免れた固有の選択である限り、「自由な選択」ということは言えるように思います。

他からの強制は、避けて通ることの出来ない「他からの刺激」の一部ではありますが、刺激の場合はそれを受け入れるか否かという選択が可能なわけで、その意味で自由は担保されているように思われます。
無論、ひとつのある刺激は個のキャパシティによっては強制ともなり得るでしょう。
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この回答へのお礼

わかりました。

たびたび、ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/14 21:20

No17さんの回答に一票です♪



もし自分のクローンを造って、
クローンに考えてもらったり、苦労してもらったり
大好きな人と恋愛をしてもらっても
自分的にちっとも納得しないです。
それで上手でなかったら
自分のクローンでも他人事のように責任転換します(笑)。

動物的な求愛を否定する
子孫を残す為でない不合理な恋愛したりの想像力は
結論が出せなくても
納得したいが為にしてしまい
哲学は模索で自由意志そのもので、
常習反応ではないです。

哲学出来るんだから
「人間には自由意志がある」っていう
明確な証明になりますね。(自信ないですが、汗笑)
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この回答へのお礼

>哲学は模索で自由意志そのもので、常習反応ではないです。

miko-desiさんは、ときどき、常識論理が吹っ飛ぶので(失礼。でも、褒め言葉のつもりです。)、確かに、自由意志を謳歌しておられるような気がします。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/13 21:30

#7です。


>「物が見えるんだから、自由意志があるはずだ」と考えておられるのではないでしょうか?
そうですね。自由意志の無いものにものは見えないと思います。たとえロボットの中に閉じ込められて何もできなくても
それとロボットの中の人が自由意志がないとは別の問題だと思います。
「我思うゆえに我あり」という言葉は「我見えるゆえに我あり」でも良いと思うのです。
ひょっとしたら見ようという意思が無ければ、見えないとも言えるのかも知れません。

私の勘で客観性のある説明はできませんが、
最近は人型ロボットの技術の発達が目覚しいですが、このままではどんなに発達してもロボットには自由意志を
もつ事はないと思います。限りなく、自由意志をもっているように振舞うロボットはできるかもしれません。
どんなに高性能な視覚センサーを高度に処理して、行動にフィードバックするロボットが開発されても、それはあたかも自由意志が
あるように振舞うからくり人形にすぎないと思うのです。
>そして、「理由があること」を行うのは、必然であり、自由ではないということになりそうです。
前の回答で理由があると述べたのはロボットの恋愛についてす。
私は人の場合はひとを好きになるのに理由は要らないって申しております。
>そして、「理由があること」を行うのは、必然であり、自由ではないということになりそうです。
ですから人の場合は自由では無いとは言えないと思うのです。
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この回答へのお礼

ロボットと人間の違いを考えるとヒントがありそうですね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/13 21:25

自由というのは相対的な概念なので、「何からの自由か」が問われます。


「囚人は逃げることができるか」という問いは、監獄が存在し、その脆弱性を問うことで可能性を探ることができますが、初めから監獄が無ければ逃げることができません、自由に囚われてしまいます。同様に、「人には自由意志があるか」を問うには、人を支配しているものを知る必要があります。
おそらく、kobareroさんの問いは「あらゆるものからの自由」を想定しているのでしょう。私は「あらゆるもの」を知りません。ですから、わからないです。

しかし、もしあるとすれば、無(空?)や0(ゼロ)と関わりのあるものではないか。何もないところから、ビックバン的に意思が生れるのならば、それは0によって生まれ、何ものにもよらない意思となる。矛盾していますが、自由意志は論理くらいヒラヒラ飛び越えてしまうのです。
初めに「自由というのは相対的な概念」と申しましたが、0には、0の世界なりのしがらみ(因果、法則)もありそうな気もします。0は存在しているものからは自由ですが、それは世界の階層が違うからで、一段上ってしまえば、0どうしの弱肉強食があるのかも知れません。監獄から逃げた囚人が、社会に追いかけられ、社会から逃げ切った先に、山の中で狼に追われるように。

後半は個人的な空想です。仏教の無や数学の0を、きちんと理解しているわけではないので、お遊び程度にお取りください。
個人的には自由意志はあってほしいです。
人生は爆発だ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>自由というのは相対的な概念なので、「何からの自由か」が問われます。

おっしゃる通りですね。それで、「何からの自由か」を考えてみたのですが、ちょっと思い付かない代わりに、別な視点が出てきました。それは、「何の自由か」と言うことです。これについては、「精神の自由」ではないかと思います。少なくとも、「昼飯は、そばにするか、ウナギにするか、それとも、冷やし中華にするか」に対する選択の自由や、選挙で「自民党に投票するか、民主党に投票するか」に対する選択の自由の話でないことは確かです。そんなのは、(見かけ上)自由に選べるに決まっていますから。

「精神の自由」を突き詰めると、結局、「何を思いつくか」に対する自由ではないかと思います。何だか変な結論なんですが、そんな感じがします。というのは、自分で何かものを考えていくと、自分の欲望とか経験、これまで受けた教育、様々なメディアからの情報、そういうものにものすごく縛られていて、それ以外のことがなかなか「思いつかない」のです。せいぜい、その中から、自分の気分に合うものをまとめて編集するくらいです。これだと、「精神の自由がない」ような気がするんです。要するに、様々な因果関係の寄せ集めに過ぎない気がします。そのようなことなら、遠からず、ロボットでも同じようなことができるのではないかということです。

>何もないところから、ビックバン的に意思が生れるのならば、それは0によって生まれ、何ものにもよらない意思となる。

これは、確かにそういうことが言えますね。既存のしがらみや因果関係を離れて、ゼロから、新しい何かを「思いつく」とすれば、それが、「精神の自由」のような気がします。実際的な視点では、これに一番近いのは、結局、「創造」ということになるのかなぁ。「芸術は爆発だ」みたいな世界ですね。やはり、狂気じみないとだめかな。

お礼日時:2006/08/13 21:23

#11です。

補足拝見しました。


>「決める」というのは、「自由意志を認める」を別な言葉で表現したただけのように思います。
:おっしゃるとおりです。
「>(要因が絡み合って)決まること」自体が自由意志の否定を前提とした表現のように思われたので、それに対立する前提としての表現でした。

<質問>
 犬には自由意志はありますか? もし、ないとすれば、犬には自由意志がなく、人間には自由意志があると考える根拠は何ですか?

<回答>
犬には自由を感じる能力はあると思います。逆の不自由を感じることがあることを考えると理解しやすいような気がします。
しかし、意志と呼べるものがあるかどうかは不明です。
自由になりたいという本能は持っているだろうが、「自分が自由を欲している」という自覚はないように思うからです。

人間の場合は、その自由は自らが選択した結果であるという認識が可能なわけですから、選択したという事実が明白であり、取りも直さずそれを「意志」と人間は定義したのではないか、と思うわけです。
犬の場合は、選択した時点で己の介在はないわけですから意志とは呼べないように思います。


<質問>
 「自我を解放する」とは、どういうことですか? 社会常識や道徳に縛られないで、自分の欲望を自由に出せるようにするということでしょうか?

<回答>
そのとおりです。
社会通念と相反する必要はありませんが、いわゆる超自我などによって抑圧されている本能に従おうと思えば従える自由、という意味です。
ただ、必ずしも結果としてその自由を行使するかどうかはまた別の問題です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>人間の場合は、その自由は自らが選択した結果であるという認識が可能なわけですから、選択したという事実が明白であり、取りも直さずそれを「意志」と人間は定義したのではないか、と思うわけです。
犬の場合は、選択した時点で己の介在はないわけですから意志とは呼べないように思います。

要するに、犬には、行動の自由や選択の自由はあるが、そのことを自覚していないので、自由意志はないということですか?

お礼日時:2006/08/13 20:41

 No9です。

「勘違い」は、「入力ミス」と考えられます。どの時点でミスが起こるかは色々可能性があるでしょうが、中央演算装置に入る時点でデータが違えば、出力も違います。つまり、勘違いによって選択に差が出ることはありえます。しかしこれは自由意志とは言えません。中央演算装置は、入力に対応した出力を出しただけだからです。
 この中央演算装置に、量子力学の確率の解釈を取り入れて、入力と出力が1対1対応をしない可能性を研究している学者がいるようです。それが正しいならば、それを自由意志と言えないこともありませんが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/13 20:26

在ります。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/13 20:26

すべてのボランティアは突き詰めれば利己的な動機に基づいているので卑しい行為である。



っていうのと似ていますね。

どこまで突き詰めるかによって、どうにでもなる議論に見えます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/13 20:25

#5です。

補足拝見しました。

「>自分の納得感からは、自由でない」とすれば自由意志とは言えない、というのは、
「納得するということ自体が、そもそも自分以外の要因が絡み合って【決まること】だから」、という前提に立っての結論と言えると思います。
しかし、私の考え方の骨子は「(要因が絡み合って)決まること」ではなく『(要因を絡めて)決めること』ではないか、ということです。

>「自我を解放すれば」、自由で、「自我が解放できなければ」、自由でないという意味ですか?
:いえ、違います。
解放したい時は解放しようと意志することができ、解放したくない時は解放しないと意志することができる、という意味です。
確かに意志したとおりには制御できない場合もあるでしょう。
ただ、肝心なのは
「解放しようと思っても【他からの意志によって】強制的に妨げられたり、解放したくないのに【他からの意志によって】強制的に解放せざるをえなくなる」
という状況に陥ることはない、という意味です。

高校野球の最中ですが、ストライクを投げようと思ったピッチャーの自由意志で投げた球がボールになる場合もあるでしょう。
この場合、結果的にピッチャーの自由意志どおりにはならなかったわけですが、誰の強制も受けずその球をストライクゾーンに投げようと思って投げた、という事実は動かせないと思われます。

kobareroさんがご質問で提起されたことは、
ピッチャーはストライクを投げようと思ったわけではなく、彼のそれまで積み重ねてきた諸々の経験が集積された結果から、脳がこの場面ではストライクを投げるという判断をしたにすぎず、そこに彼独自の自由な意志と呼べるものは介在していないのではないか、
ということになるように思います。

経験値の集積による脳内の化学作用の結果を意志と呼ぶのか、意志によって脳内の化学作用がその結果を導いたのか・・・。
どちらの要素もあると思われますが、わずかながら後者優勢の立場に立った場合、初めて個性というものの存在が許されるわけで、そのほうが面白いような気がします。

たとえ、檻に入れられた家畜であったとしても、「自由だ」と感じていれば、そこにその個体の自由意志は働いていると認識せざるを得ないように思います。
それが真の自由ではないのではないか、という疑問をいだくには、まず「檻」の予感が必須になってくるのではないでしょうか。
そしてその檻の存在が明らかになった時点で、実は自由意志ではなかった、ということは証明されるでしょうが、そのためには神をこの場に引きずり出す以外に方法はないかもしれません。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>しかし、私の考え方の骨子は「(要因が絡み合って)決まること」ではなく『(要因を絡めて)決めること』ではないか、ということです。

「決める」というのは、「自由意志を認める」を別な言葉で表現したただけのように思います。それで、ちゅっと別の角度から質問させてください。

<質問> 犬には自由意志はありますか? もし、ないとすれば、犬には自由意志がなく、人間には自由意志があると考える根拠は何ですか?

>解放したい時は解放しようと意志することができ、解放したくない時は解放しないと意志することができる、という意味です。

解放したいとか、したくないとか言うことが、具体的に何を意味しているのか、あまりよくわかりません。それで、また、質問ですが.....、

<質問> 「自我を解放する」とは、どういうことですか? 社会常識や道徳に縛られないで、自分の欲望を自由に出せるようにするということでしょうか?

補足日時:2006/08/12 20:22
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