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駅の階段の前で車いすに乗った人が上に上れず困っていました。
周りの人が数人でその人を上まで運んであげたのですが、お礼の一つも言わず、当然のように行ってしまいました。
お礼を言って欲しいわけではありませんが、手助けをしてもらった、親切にしてもらったら「ありがとう」と言うのが社会のルールだと私は教えられていたので違和感を感じました。
人づてに聞いた話ですが、「体の不自由な人は助けられてあたり前でお礼など言わない。むしろ手助けをしてくれない人は不親切なんだから非難する」と豪語している人がいると思いました。

みんながみんなそうではないと思いますが、もし「助けられて当たり前」と思っているのであればそれは単なる甘えなのではないかと私は考えます。

体の不自由な方は親切にしてもらって当たり前なのでしょうか?

A 回答 (8件)

ずばり、人によるでしょうね。



知人が障害者で杖をついています。電車では必ずといっていいほど席を譲られます。
しかし知人はそんなに感謝していないようです。
「だって疲れるんだもん」
「私は皆より立ってるのが大変なの」
と言っていました。譲ってもらって当然、と思っているようです。
「皆だって仕事で一日中立ちっぱなしで疲れている人もいるんだよ、ちゃんとありがとうって言う気持ちは持ってなきゃ」と言っても苦笑いするばかり。
もちろんその人はちゃんと御礼は言いますが(小声。相手には聞こえてないかも)、内心はこんなもんです。
他にも甘えがすごいです(待ち合わせに時間どおり来た事がないとか)。
そんな知人を見るとやりきれなくなりますね。

障害があってもなくても人それぞれ。
車椅子が歩道で立ち往生してる時に助けたらとても丁寧に御礼を言われたこともあります。

この知人が特殊であってほしいと願います。
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身体障害の他に言語障害や知的障害を持ってらっしゃる方だったのかもしれないですね。

「助けられて当たり前」と思って生きていらっしゃる方は、私が出会った不自由な人の中には殆どいなかった様な気がします。言葉に出さなくても頭くらい下げて行ったかもしれませんよ!
それなりの事情があったのでは?・・と思って忘れましょう。
お互いに通じ合うもっとやさしい社会であるといいですね
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不愉快なお気持ちはすごく分るし、仰りたいことも分るのですが、


一度の経験で「あの男って」でなく「障害者って」と懐疑をもたれるのは
予断にすぎませんか…。
健常者にも、人口と同じ割合でヤな目に遭わされませんか?
その時は「○○って」ではなく「嫌な人間がいるな」程度ではないでしょうか。

「体の不自由な方は」 この じゅっぱひとからげは、
障害者のみならず どんな人にも すべきでないと思います。
「外国人って」「子供って」「女って」…
自分がそうでないから皆 無神経に言ってしまいますが、
結局 該当する「みんながみんな」にレッテルを貼ってるのです。
ご本人たちは傷つく。繰り返し繰り返し それを聞かされる。

なお私は 誰しも(「自発的な親切」の範囲内で)他人の親切を受けて
当たり前だと思います。
かつ、それを有難く思い 感謝をささげて当たり前だと思います。
(第三者なら 親切の欠如に対して 全うに怒りを表明できるのに、
 自分がTakeする側の場合のみ「いえいえ滅相もございません」と
 思わなきゃならないのは、
 我々に「建前」・「謙譲」を美徳とする伝統があるからです。
 これらは相反する考え方ではありません。)
そういう教育を受けてきたように思います。
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難しいですね。



一概に言えることではありませんが、生まれながらにして不自由さを負っている人はそれを自覚したときから周囲の「好意を利用」しないと生きていけません。
それがゆえに自らの努力で勝ち得る何か、というのを体験する機会が圧倒的に不足しがちです。

美人でチヤホヤされてきた人がワガママになってしまう傾向にあるのも同様です。
ある意味で可愛そうな人達だと思います。
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こんにちは



確かに悲しい現実ですよね。
『助けてもらって、あたりまえ??』という考えが、あるなら、せめて言葉だけでも「ありがとう」がないと。
私も足を骨折し、不自由な毎日を半年、それ以上、過ごしました。そして、善意の助けをしていただい時は必ず「ありがとう」を言ってましたよ。ですから、助けるのは善意の心の働きによるもの。

従って、助けられる方が、『当然・・・』と思う、または態度にだすのは間違ってます。ちなみに、足の骨折の時、母に助けてもらいましたが、やっぱり、甘えるし、自分の自立のためにも、母を説得し、帰ってもらいましたよ。やはり、自分でできることは、自分でやる、自立する精神ですよね。
もし、善意に甘えた発言で、助けを強要するなら、断ればいいのでは??、危険な発言ですが。
それが、"善意"の言葉のもつ意味と思いますが。
以上
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内心、「エレベータが設置されていれば、こんなおおごとにならないのに」と思っていたかもしれません。


極論としては、そういう社会になるのが一番ですね。

ちなみに、私の知人でも車椅子の男性がいますが、彼はそれを逆手にとって?!、女性と仲良くなるのがとても上手です(手をつないだり、車椅子押してもらったりして)。

一枚、”うわて”ですね(笑)。
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もしかしたら、ですが・・・


その人は体が不自由だからといって特別扱いされたくなかったのかもしれません。
親切にされることで、自分が不自由であることを思い知らされるのが嫌なのかもしれません。
お年寄りに席を譲ってあげても、お年寄りと思った人は「年寄り扱いするな」と不快感を感じているかも知れない、それと同じ状況だったのかも。
望まない親切だったのかも知れない、でも一言くらいあって欲しいですね。
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ちょっと悲しい現実なんですけど、私の周囲の身体障害者の何人かは自分を大きく見せたいと、殊更威張ってみせる人がいます。


以前あるマンガで、アクターが演技テストで「せむし男」を演じる課題がありましたけど、背を曲げて演技するだけではダメで、常に背中はしっかり伸びているか、周囲の人間に自分が身体障害者と悟られないか、そういった意識を持ちつつ演じないと合格しないという場面もありますが、一部の人は自分が障害者ということを否定したいという意識が強く、他人の好意を素直に受け入れられない場合もあるんですよ。
自分は他人に介助してもらいたくない、しかし足が動かないから助けてもらうが、人間として自分のことを自分で出来ないと言う現実を受け入れることが辛い、そういった気持ちから、感謝の言葉が素直に出ないのだと思います。
介助するほうも、やってやるという気持ちを持つとダメで、自分も年を取ったら他人に手助けしてもらわないと歩けなくなるかも知れない、他人の介助をするのではなく、未来の自分を介助する、つまり保険の積み立てくらいに考えれば、腹も立たないのではないでしょうか。

勿論親切にしてもらって当然という態度は間違っていますが、感謝されて当然という考えもまた間違っており、気にしないのが一番ですよ。
本当に気を配って、そんなことでありがとうなど言わなくてもいいよといいたくなるような方もいますから、それぞれです。
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