後詰の実際例
包囲され孤立した篭城軍に対しての援軍が到着し、攻囲を解かせるという歴史的実例はどういうものがあるのでしょうか。また、所詮多勢に無勢的有利な状況でしかそういう作戦はおこなわないのでしょうか。また、その際の後詰戦線(なんというのかわかりません)は、相当本城から離れた場所になるのが一般的でしょうか。
私が思いつくのは、長篠の合戦、西南戦争熊本城戦くらいです。
回答(5件)
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No.5ベストアンサー20pt
永禄四年の川中島合戦に於ける前半の武田軍の行動も海津城に対する後詰め行動と言えるでしょう。妻女山に布陣して海津城の後方連絡線を分断した上杉軍に対し、迂回機動で茶臼山に入った信玄本隊は上杉軍の善光寺-妻女山連絡線を分断して対抗したのですから、これは信玄本隊の後巻きと見るべきでしょう。
因みに武田軍は農兵主体ですが、農繁期にも度々長滞陣を行っております。農兵主体の軍勢は長期遠征が出来ない、と言う通説は、どうも正しくないようです。若年死亡率の高い当時の家庭では長男が死亡した場合に備えて次男、三男と多産になる傾向が強く、長男が無事に育ってこれ等の男児が家を継がなかった場合、通常農地を与えられる事なく家内奴隷的な労働力とされるので、これ等の次男以下が大名の軍勢に加えられたと考えれば、農兵に長期遠征が不可能と言う説の論拠は崩れます。篭城戦が有利な理由は農繁期の農作業ではなく、当時の軍隊の常であった、現地徴発に頼る貧弱な食料補給体制にあると私は考えます。17~18世紀の欧州諸国の戦争でもそうですが、人力、馬力による荷車での輸送で大軍に後方の自国(自領)内から食料を完全に供給することはほぼ不可能です。ナポレオンなども(鉄道のある時代の大モルトケでさえも!)食料は大部分を敵地からの収奪に求めています。しかし、当然一定の地域に存在する食料、農産物には限りがあります。つまり、大軍であればあるほど、一箇所に長期間留まる軍は食料欠乏に苦しむ事になる訳です。包囲戦、と言うと、包囲する側は楽々と敵が飢えるのを待っているように思いがちですが、実は篭城側と包囲側の有利、不利は紙一重と言えるでしょう。
この回答へのお礼
川中島にもあったのですね。こうしてみると戦士には枚挙に暇がないことがわかりました。
戦争経済とも言いますが、ロジェスティックな考えで行くと、篭城攻城双方とも補給には苦しむものですか。とくに篭城側より数倍は必要な攻城側はいかに長期の補給をまかなうかが実は一番難しいのかもしれないです。小田原攻めなんてできたのも、そういう体制の勝利なんでしょう。
No.4ベストアンサー10pt
まずそういうのは”後詰”とは言いません。
後詰は、予備のため後方に控えている軍勢のことか、
敵の背後から攻める軍勢のことを指します。
ただ二番目の用法は古語の話で、あまり使わないケースです。
包囲された城を解放しようという戦い、日本語で何というか、
うーん、一言で表現できる言葉があるでしょうか、
ちょっと思いつきませんが、戦例はかなりありますね。
ただ援軍が来た時点で、包囲を解くケースも多いので、
その場合、援軍と包囲を解いた攻撃軍が
野戦で普通に会戦することになります。
包囲を解かなかった稀有のケースは、
ガリア戦記のハイライトとしても有名なアレシア包囲戦ですね。
ヴェルキンゲトリクスのガリア軍をシーザーのローマ軍団が包囲して
さらにそれをガリアの援軍が包囲するという二重包囲の戦いです。
これは非常にユニークなんで一番有名じゃないかな。
あとは第二次ウィーン包囲戦。ポーランド国王ヤン3世ソビエスキが
来援して、派手にトルコ軍を撃破するあれです。
解放できた例ばかりではなく、包囲側が返り討ちにした例としては
マントバ要塞包囲戦なんかもあります。
ナポレオンは包囲を続けながら、オーストリアの複数の増援を、
カスティリオーネやアルコーレや撃破しました。
日本の例だと、大友対龍造寺の今山合戦と呼ばれるものなんか劇的。
この場合、増援はなかったんですが、
鍋島直茂らが決死の夜襲を行って、包囲網の一角を崩すて
大友軍を総崩れにさせた九州の桶狭間とも呼ばれる一戦です。
あとは織田信長と本願寺門徒との戦いである石山合戦。
毛利勢の援軍との木津川口海戦なんかは有名ですね。
ま、この種の戦例は探せばいっぱいあるでしょう。
この回答へのお礼
いろいろと例を挙げていただき参考になりました。
しかし、こういうの後詰とは言わないんですね。世界史的にも古今東西、成功例失敗例返り討ちいろいろなんですね。
日本の戦国時代の戦いは、後詰めの戦いが多い。
これは、戦国時代の戦争の理由が起因します。
信長ー秀吉の統一戦以外の戦争の要因は、境目の争いから始まります。
境目は、両勢力にとって、グレーゾーン。
しかも、戦国大名は基本的には、土豪の連合体、一揆の性格を持っており、境目の自勢力に援軍を送らなければ容易に寝返られてしまう。常に後詰めをしなければならない状況にあった。
別回答者の方以外の有名な例では
毛利元就の厳島の戦い
島津の耳川の戦い
現代史では 第二次世界大戦の バルジの戦いなど
この回答へのお礼
寝返り防止のためというのもあるのですか。それで結構例が多いのですね。バルジも後詰ですか。孤立した部隊あったのですね。
こんにちは。
武田信玄(当時は晴信)が敗北した砥石城の攻防戦(砥石くずれ)も確かそうですね。
村上義清の本隊が間に合って、武田軍は包囲を解いて退却の為、布陣しなおましたが、総攻撃にあって総崩れになって甲斐に逃げ帰ったようです。
あと、前田利家の末森城が佐々成政に攻められた末森城の闘いもそうですね。
戦国時代では、篭城戦の勝率は結構高く有力な戦法だったはずです。
攻城側は、兵糧等の補給を続けないといけないのと、兵農分離が出来てない頃は、兵を農業に帰す必要があり、3ヶ月持ちこたえれば攻城側は一度退却しないとダメって感じだったはずです。
なので、探せばかなり事例は出てくると思います。
この常識を打ち破ったのが兵農分離に成功した織田信長であり、更に補給戦略に長けた豊臣秀吉だったのではなかったでしょうか。
そういえば、秀吉の墨俣築城も、元々城はなかったけど、殆どそれに近い物があると思います。
(秀吉:城を作りながら篭城、当然孤立。援軍柴田勝家他)
この回答へのお礼
武田にも例があるのですね。やっている最中来られるとかなり苦しいんでしょう。兵農分離って、戦いにも有利に運べる政略だったのですか。
戦国時代の後詰決戦は、姉川合戦(横山城)、河越夜戦(河越城)が有名です。桶狭間合戦も、織田軍に兵糧攻めにされた大高城への、今川の後詰から始まりました。
主要な城を見捨てると、国人層の離反を招く可能性が高いので、数的に不利でも戦う場合が多いのではないでしょうか。
場所は城からあまり離れないのが普通かと。
この回答へのお礼
桶狭間も今川の後詰だったのですか。城を見捨てると言うのは政治的にもなかなか難しいのですね。
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