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朝鮮出兵の加藤清正隊や関ヶ原の島津隊では、騎馬隊のほとんどが銃を装備しており、藩によっては騎馬隊が鉄砲を持つことを定めているものもあるようです。
騎馬鉄砲という独立部隊というよりも、騎馬隊の装備の一つとして用いられていたように思います。現在見られる砲術団体はホルスターのようなものに馬上筒を入れていました。

しかし、当時の騎馬隊はどのような用法で馬上筒を使っていたのでしょうか?下馬して撃っていたのでしょうか?それとも馬上から射撃していたんでしょうか?
当時の図では、馬上から鉄砲を構えたものがあります。西洋の重騎兵のように近距離で射撃してから乗崩しをしたのかな・・・?

A 回答 (9件)

騎馬侍が銃を装備していたとしても、後年の騎兵隊のような統一行動はとらなかったと思います。


当時の騎馬侍は士分であり、1騎につき数名の取り巻きがいました。それは馬の口取りであったり鎧持ちだったり槍持ちだったり鉄砲持ちだったり中間だったりします。彼らは戦闘中は主人の護衛を勤めて戦闘の補助役を務めていますから、彼らを置き去りにして騎馬侍だけが突っ走るという事も基本的にはありえません。彼らを置き去りにしたら銃や槍なしで戦う事になってしまいますから。戦国時代の戦闘が下馬して行われたかは別にして、いずれにせよ一般的には徒歩の速度で従者を従えたまま騎馬侍は戦闘します。
従って馬上筒は槍と同様に従者が持って、必要に応じて装填済みの銃を渡し、撃ち終わったら従者に渡して槍を受け取り、従者はその間に装填作業をするといった形が一般的であったのではないかと思います。なので騎馬侍が統一行動をとって一斉射撃するとかいう事はありえず、各自が状況に応じてバラバラに銃を使用していたのではないでしょうか。
伊達の騎馬鉄砲については、司馬氏の小説でしか読んだ事がないのでよくわかりません。そのようなものがあったとしてもごく特殊な例であって他家にそれに類する物があったとは思えません。
実際の射撃が馬上から行われたかについてもわかりませんが、停止した馬上から射撃したり下馬した状態で射撃するのが一般的であったと聞いた事がありますが、それが妥当だと思います。当時の馬上筒は拳銃のように小型の物ではなく騎兵銃のような普通の小銃の短縮型ですから、馬上での扱いは難しかったろうと思います。また命中を期待できる近距離では、連射ができない当時の銃では一発撃ったら槍に持ち替える事もできず戦闘力を失ってしまいます。
ただし、馬で走りながら射撃する例が皆無だったとも思えません。もともと東洋では騎射が伝統的な戦闘法ですから、弓の代わりに鉄砲を使うという発想はごく自然です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
乗切など機動力が必要な戦法の場合、途中まで奉公人と共に進出し、敵前で騎馬は駆け足で乗り込み、奉公人は遅れて主人に追従してきた、という可能性はないでしょうか・・・戦国後期の西国では、下馬突撃を行なっていますね。

自分も騎馬における鉄砲の使用は、あくまで槍、刀など武器の一つとしてバラバラだったのではないかと思っています。ただ、信長の播州征伐の平井山合戦では騎馬が取って返し鉄砲を持ちより、馬上で10mくらいからの距離から一斉射撃という使い方をしていたそうです。

馬上筒は二~五匁と小口径で銃身は短く、実際に撃ってみても遠距離での威力・命中率は低いようです。2kg未満のものも多いようで、馬上筒の砲術隊は腰の入れ物に下げて、片手で撃っていました。

お礼日時:2007/06/01 22:48

騎乗射撃は組織的ではありませんが、古くから行われていたようです。


馬をとめて撃ち弾込めは従者ですから効率悪く、重い銃は使えず普通の火縄銃の短いものを使うため、馬上からの射撃では命中は期待出来ません。
しかし高所からの射撃は敵に対し、威圧効果は相当あったはずです。
しかし鉄砲が普及すると停止騎乗武士は、格好の標的になりました。
そこで軽い馬上筒が考案され、走らせながらでも撃てるようになりました。
弾が小さく射程距離が短いが、近接戦闘では騎馬武者の兵器の一つになったようです。
1617年の津和野城の城付き鉄砲の中に、61挺の馬上筒が含まれていたそうです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
そういう理由から短筒化が進んだのでしょうね。近くで撃てば馬上からでも命中が期待できますし。

お礼日時:2007/06/03 14:24

島津軍は関が原の戦時の敵中強行突破、


武装退却時にも使用したという、
すてがまり?の戦法があったと思います
逃げて、先行する途中馬から下りて 地面に座り
小銃を反転して敵に撃つ戦法です
当時は効果もかなりあった模様です 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
鉄砲足軽のように座って撃っていたとはしりませんでした。

お礼日時:2007/06/03 13:35

火縄銃についてのみ。



火縄銃の着火装置は、銃身右横にある火皿で、小さなくぼみに着火用の火薬をのせ、スライド式の火蓋でカバーしている物と言うのはご存知と思います。

火縄先端の灰を吹き飛ばし、起こした撃鉄にはさみ、火蓋を開け(切る)照準の後、発砲。

揺れる馬上では、これら一連の動作を完璧に行う事は、、無理でしょうね。
火皿の火薬もこぼれるでしょうし、当時の火縄銃(マッチロックガン)は、引き金を引いた!・・・発射!=までわずかな遅延がありますし、
(リード=見越し射撃の範疇を超える!)これらの事からみて、馬上での射撃は困難かと思います。

加えて、馬上での装填も難しい問題です。

上記欠点をおぎなうべく、銃は改良され、扱いにくい火縄のかわりに火打石(フリント)を使い、引き金に連動して火蓋が跳ね上がるフリントロックガンが登場するわけです。

海賊映画等で見覚えがあるかと思いますが、銃口が広がった、いわゆるラッパ銃。あれは、揺れるボート上での装填を考慮してのデザインと云われています。(フリントロック銃)


ちなみに、「信長の三段撃ち」も事実では無いと言われています。
パンスカ撃ってる脇で、火薬を装填!、火縄銃は燃焼カスが盛大にでますから、移り火で(チェーンファイア)で大惨事!!です、、。

以上、参考程度。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
発砲の際に燃焼物が飛び散る火縄銃では、時代劇のように密集はしなかったでしょうね。
現在各地の祭りなどで見られる鉄砲隊も、1~2mは間隔を開けて撃っていますし。

お礼日時:2007/06/01 23:11

騎馬鉄砲隊は、伊達政宗が創設した兵科で、加藤清正らも採用しています。


馬に火薬のにおいと発射音に慣れさせる必要があるため、コストはかさむ、だけではなく、問題はこの馬上筒にあります。なにしろ大きな鉄砲は使えないので短くした都合上、飛ばない、当たらない、威力は低い、とかなりの欠陥が大きい代物です。
合戦で実際に使われたのは、大阪の陣の際に一度だけ記録があるそうですが、真田幸村につぶされ、戦果はありません。


因みに、島津家は採用していません。というか、全員が鉄砲(鉄砲隊以外は小型の物ですが)を所持していました(馬上で打ったかどうかは不明)。こういった兵がすてがまりとなって関ヶ原からの撤退に成功します。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
確かに、島津勢は騎馬というより全員が鉄砲使いですね。

お礼日時:2007/06/01 21:40

 私の戦国史のつたない知識・記憶ですが、騎馬鉄砲隊というのは記憶にありません。



 騎馬武者が馬上で鉄砲を使う場合は、付き従っている数人の足軽が発射後の掃除・弾込めを行い、馬上の武者は鉄砲を撃つことのみを行っていたようです。
 馬上からでも敵に命中させるだけの鉄砲の名手で、馬にも鉄砲に驚かないだけの訓練を施した比較的少数の上級武士が、数丁の鉄砲を使いまわしたようです。(流鏑馬のように走りながら打つというのは、ほとんどなかったようです。)

 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
発砲の轟音に関しては、武田家のようにどの大名家も馬場で鉄砲の音に慣らすよう躾けていたようですが、どれほどの効果があったんでしょうか?馬の頭越しに鉄砲を構える図がありますが、馬の鼓膜は大丈夫なのかと・・・

お礼日時:2007/06/01 23:05

ウマというのは非常に神経質な動物ですので、ウマの上で大音響を発する火縄銃を撃ったとしたら、よほどの訓練をしていないとウマが棹立ちになって騎手を振り落とし、どこかへ走り去ってしまいます。

特に、日本ではウマを去勢する習慣がなく、西洋人から見れば「小さな猛獣」のようなウマを使っていたわけですから、「馬上の発砲に耐えるように訓練する」ことはほとんど不可能だったでしょう。

仮に馬上発砲が可能であるとすれば、下記のような用兵が可能になります。なお、当時の日本のウマでも、「鎧を着て装填した火縄銃を持った兵を乗せて行軍する」ことは可能です。

1) 100騎程度の騎馬鉄砲隊を編成。100丁の火縄銃は結構なコストを要します。馬上発砲が可能なまでに訓練したウマ100頭(プラス替え馬)と、揺れ動く馬上からある程度正確な射撃をできる武士を100人揃えるのはかなり難しく、コストがかかることです。以下、それが可能だったという前提です。

2) 野戦で、騎馬鉄砲隊を敵陣の側背、できれば高地に進出させ、100メートル以内の距離で馬上から一斉射撃。高い所から撃ち下ろせば火縄銃の威力は倍増します。銃身が短い馬上筒であっても、敵にかなりのダメージを与えられるでしょう。後方で指揮している侍大将を射殺できるかもしれません。発砲後は、退路を絶たれないうちに機動力を生かして自陣に戻ります。

3) この攻撃で敵陣が混乱した所で、正面からの攻撃を強めれば敵軍の壊走を誘うことも容易です。

4) さらに、「**軍には訓練された騎馬鉄砲隊がある」ことが相手に知れ渡れば、戦のたけなわに背後の思わぬところから銃撃され、指揮官を失う可能性ありとなれば、常に騎馬鉄砲隊への警戒を怠れなくなります。

5) 下馬して射撃するとなると、奇襲射撃の後に敵から離脱するのに時間がかかりますし、下馬している間にウマを確保する口取りの歩兵を随伴しなければなりません。機動力が大きく削がれますので、「下馬しての発砲」は考えにくいです。

6) 大坂夏の陣で、伊達家が「騎馬鉄砲隊を組織。鉄砲を一斉射撃した後、敵陣に斬り入る戦法」を取ったと司馬遼太郎の小説で読みました。ただ、当時の日本のウマで「西洋の近代騎兵のような、馬体によるショック攻撃」が可能だったとはあまり思えません。個人的には眉唾のように思います。

西洋では、ウマの体が大きく、馬体によるショック攻撃(敵兵を踏み潰す)ことが有効でした。馬上で銃を使う騎兵も一部あったようですが、近代騎兵は槍やサーベルを主武装としていました。
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この回答へのお礼

一撃離脱、まさにカラコール戦術のような使い方ですね。
関ヶ原の薩摩勢に下馬して射撃したものもいたと見たものですから、西洋の竜騎兵のように下馬射撃なのかな?と思っていましたが、薩摩の場合は退き口ですてがまり戦法をしただけで、特殊な例だったのかもしれませんね。

西洋馬との比較は興味深いですね。新田義貞の鎌倉攻めの戦死者と共に出土した128体の馬の平均体高は129.5cmで、126~136cmが平均的な分布であり、最大140cmだったそうです。
いっぽうドイツ三十年戦争期のスウェーデン軍の装備目録における騎兵用軍馬の体高は112~133cmなのですが、この体格の馬で長剣突撃戦法を用い活躍しています。
長距離疾駆するような使い方はできないとしても、源平合戦の頃より馬ごと敵に体当たりする馬当戦法が存在し、戦国期にも槍隊などと共に敵陣に突っ込み陣を崩す乗崩しがあったので、自分は西洋馬に及ばないながらも衝力を利用した戦法があったと思っています。

お礼日時:2007/06/01 21:52

騎馬隊の標準装備として鉄砲が存在していたことはありません。



一部の藩で実用された例はありますがあくまでも一部です。
馬上筒は歩兵用と異なり重量、銃身長なども軽く短いものであったはずです。

当時の鉄砲の有効射程は100m程度で、銃身長が短ければさらに有効射程も短くなります。
従って狙撃というより銃撃による威嚇に近い使用法で、馬上で射撃し自陣にかけもどり再装填して再度前進するという用法であったと思われます。
敵前で下馬すれば恰好な目標で弓、鉄砲の的です。 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/06/01 22:56

戦国時代の戦闘は鉄砲に限らず下馬戦闘です。


特に鉄砲の場合は一発打てば充填しなおさなければなりませんので馬に乗って扱えるようなものではありませんでした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/06/01 19:28

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