No.4ベストアンサー
- 回答日時:
雑兵たちの戦場―中世の傭兵と奴隷狩り (-)
藤木 久志 (著)
謙信の関東入りは、農閑期の出稼ぎで、関東で彼らがやったのは、奴隷狩りです。
感状に関して
江戸初期までは、武家社会は転職社会です。感状はその際の推薦状あるいは、現代の「アメリカの大学でMBA取ってきました」というような証明書になりますので、紙切れではありません。
越後の富
青苧と金(三川鉱山、佐渡が上杉領になるのは、景勝時代)
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sakura/5469 …
http://www.miharu-e.co.jp/ja7fyg/kouzan/mikawa/m …
感状のことは「再就職」における履歴書だと解釈しております。
ただそれは「離職」してからのこと。
恩賞ではないのが気がかりなのです。
奴隷狩りや略奪はあったのですね。手ぶらでは帰りにくいのもわかります。
佐渡金山のことは忘れていましたが、青いもとは初めて知りました。
ありがとうございました。
No.9
- 回答日時:
no.6の補足です。
(ついでに攘夷はこの字)当時の支配者層は、今の公務員のように地位が保証されていませんから、上杉謙信だって、知事選に出馬して当選して知事になったんじゃないですから、地元であっても、この地は本来自分たちが治めるべき地域であるという勢力はありまして、お父さんの時代も、守護代と関東管領とで争っていまして、謙信のお父さんは一時は関東管領に追い出され、佐渡に逃げてそこから捲土重来しています。お父さんが死んじゃった後は、謙信もそういった勢力に殺されかけていますが、戦いが強くて勝ったので生きていられたのです。
謙信政権では重きをなす人たちというのは、謙信以外がお殿様になると殺されたり追放されたりする人たちなので、ワープロ2枚打つとその日の仕事は打ち止め、文書の移し替えをデタラメにやっても、のうのうとボーナスもらえるような強力な地位はもっていませんから、ドラマでいうとヤクザの勢力抗争に近いと思います。殺らなければ殺られる。
でも、抗争が起きるのは、突出した実力者がいない場合で、だから謙信という突出した実力者の側近とその家族にとっては、謙信は生存を保障してくれるというか、謙信がいないと生きていけない状態だったと思います。その辺を理解して、謙信も一度山篭りしたのを断念しています。
謙信は守護代と関東管領を兼ねていましたが、謙信の管領職は認められないとイチャモン付ける人はいくらでもいたでしょう。現に謙信の死後はその養子二人に守護代と関東管領を別に相続させ、とたんに抗争が起きて、守護代を受け継いだ上杉景勝が勝利したのですが、上杉謙信の腹心の人たちでも、関東管領側に付いた人たちは殺されたり、追放されちゃったと思います。
後は謙信自身の心の持ち方として、損得考えて救援していては、勝てなかったんだと思います。目の前でホームから人が線路に落ちたら、後先考えずに瞬時に飛び込むことが大切で、間に合うかどうか考えていては凡人です。救援依頼に損得考えて応じる依頼と応じない依頼に分けていては、心が曇ってしまって、神がかり的な強さは保てなかったんだと思います。彼が信心深く見えたのも、自身の心が曇らないよう日々精進していたんだと思います。
直近の家臣団は生死が掛かっているので、損得で文句言ってる余裕は無かったと思います。
再度の回答ありがとうございます。
確かに直臣、特に一門衆や旗本、馬廻りは必死で戦ったでしょうね。
反面統率を取るためには自身が強く(精神的にも)ならないといけない。毘沙門天の法力に頼ってでも。
救援依頼に義で立ち向かう「義侠心」については、この時代稀な事であり、素晴らしいと思います。
まあ、どの大名でも嫌々従う家臣というものは存在しますが、それを政治力に頼らない、ある意味実力で押さえるのは、それはそれで凄いことだと思います。
謙信が生存を保障してくれるから侵略に遭わずに済むのは納得です。
それを恩賞代わりとするならば、田畑を荒らされずに済む、人攫いに遭うことも無いと言うのはありがたいでしょうね。
回答ありがとうございました。
皆様のさまざまな意見を頂戴しまして、大変勉強になり、視野も広がったおもいです。
たくさんの回答ありがとうございました。皆様全員にポイントを差し上げたいくらいで選ぶのに申し訳なさが・・・ご容赦のほどを。
またよろしくお願い申しあげます。
No.8
- 回答日時:
上杉謙信は直感的戦略のひらめきはある人ですが、経済に疎く、また、情に流される性格であったという説があります。
狂信的な正義感というより、情に流されるタイプだったようですね。
そのため、家来同士の紛争の調停にもてこずり、苦悩し、自己嫌悪に陥っていたと推測されています。
戦は強かったのに、経済観念が欠落しており、経済的理由で武田に寝返る武将などが出ると、なぜ武田に寝返るのか、理解できず苦悩したりもしたようです。
そして、自分の精進が足りないのだと自分を戒め、読経、写経、護摩焚き修行などやって自らの直感と法力を必死で磨いていたようです。
本当は、経済政策しないといけないんですが、そういう発想は無かったようですね。
社会的道徳を訴え、自らも早起きしたり、仏壇の拭き掃除したり、やたらと正義を叫んだのも、仏の道に精進して、正義を貫けば、国がまとまり、家臣もついてくると考えていたからです。
実際、その並々ならぬ努力に心うたれ、上杉謙信を尊敬する家臣も多かったようです。
しかし、相変わらず、戦に勝てど、人々の暮らしは貧しかったようです。
敵地での略奪行為は、積極的に勧めてはいませんでしたが、罰則も無かったようです。
「敵を懲らしめているのです!」と家来が言ったら納得してしまっていたようです。
道徳的に敵地での略奪行為が悪いことという観念があまり無かったようです。
<狂信的な正義感というより、情に流されるタイプだったようですね
あの毘沙門天信仰はキリシタン大名や他の入道大名と比べ物にならない、一種「狂信的」と言っていいですよね。
謙信ファンには申し訳ない表現ですけど。謙信個人の考えが色濃く出ています。景勝時代の直江山城守のような存在は居なかったのでしょうか?
それ(信仰)を政道に使ったのでしょう。そこに惚れて(諦めて)着いていく、もしくは恐怖心から着いていく、と言ったところでしょうか。
あおその件、穀倉地の件、強奪の件で国内がかろうじて「やっていけた」のですね。略奪を縛る法度、号令も無いと思っていたほうが自然のようですね。
またその略奪の件を言い換えれば、家臣団の統率は取れていないと思います。
回答ありがとうございます。
No.7
- 回答日時:
戦国時代に名を残す大大名のうち、謙信公ほど反乱を起こされた大名はいなかったのではないかと思います。
たぶん、信長より反乱されてるんじゃないかな(ちょっと自信はありませんが)。しかも一度は自分から「もう嫌だ、高野山にこもる」って家出までしていますしね。基本的に出兵にまつわる出費は上杉軍に限らず武将の自分持ちが原則です。北条氏康から家臣に宛てた書状で「金が足りなかったら借りてこい」と残っているのがあります。あくまで「自分で用意しろ」であり、決して「足らなかったら貸してやる」ではないんですね・笑。
それでも武将達が出兵に付き合うのは「恩賞」を期待してのことです。武将達が最も欲したのは「土地」です。土地が増えれば自分たちの収入が上がります。まあこれは現代の会社でいうと「ベースアップの昇給」ですね。しかし名将といえどいつも敵から土地を奪えるわけではない。だから、金や銀などの現金を与えることが一般的でした。これは「ボーナス(一時金)」ですね。信玄公は金山の金を軍資金にしました。謙信公は青そを京都に売ることでかなりの現金収入を得ました。おそらく、それを軍資金に当てていたのだろうといわれています。
しかし謙信公は家臣が最も望む土地を手に入れようとしなかったので家臣団は不満たらたらです。だから反乱もよく起きましたがなにしろ信長の野望でも唯一の武力100の武将です。ことごとく鎮圧されるので家臣団も「本当は嫌だけど従わないと怖いから従う」という側面も大いにあったと思います。それに、雪国の人ってもんのすごい忍耐力があるんですよ。私は何度か新潟出身の人と仕事をしたことがありますが、すんごくこき使われてもカナーリ耐えるんですね。
また一方では家臣団も結構「今回の出兵には参加しまへん。嫌です」って人も多かったみたいですよ。いわゆる揚北衆なんかはかなりいうこと聞かなかったですしね。ですから、案外に謙信公の軍勢はさほど大軍団ではなかったようです。おおよそ8千人くらいの軍勢で出兵することが多かったようです。単純に兵数なら北条や武田のほうが動員兵力は上だったと思いますが、謙信公のバカ強さを知っていた両氏は正面からの決戦を回避していました。なにしろ、武力100ですから。
ベースアップ無しで一時金収拾。
判りやすいです。
でもやはり不満はでますよね。
信長は能力のある武将には広大な知行をキチンと与えています。反乱は荒木村重に見る恐怖心からの場合と明智光秀に見る仕打ちの冷たさに見て取れる場合があります。謙信に対する離反とは事情が違うように思われます。謙信の場合おっしゃるように恩賞が現物支給でその場限りだったのでは。土地ならその点、安心ですからね。
揚北衆には謙信も手を焼いたようですね。私はやはり政治力は低かったと見ています。
北国の人は我慢強いのは納得です。兵数に限って言えば常時戦闘に参加していたのはもちろん一門衆、馬廻り衆だったと聞いています。これがめっぽう強かったのでしょう。
あの信長でさえへりくだっていたほどですから。家臣からしたらやはり恐いでしょうね。
回答ありがとうございました。
No.6
- 回答日時:
イメージが違うと思います。
謙信は頼まれて出兵していたんだと思います。
東では北条が、南では武田が勢力を伸ばしていますから。勢力伸ばすってことは、侵略してくるってことで、侵略されて、そこを追い出された人たちがいるってことです。
その人たちからすれば、自分たちの土地を不法に侵略されたのですから、取り返すってことですから、で、当時は国連軍なんてないので、頼むのなら戦争に強くて領土欲の無い謙信にってことで。
義というのは、頼まれたら断らないってことで。「義を見てせざるは勇なきなり」の義の意味です。
直属の家臣を養うためには、京に話をつけてきて、あおさとかいうのを貿易して儲けていたようです。ブッシュが日本に牛肉売り込むような感じです。
謙信は政治が好きじゃなかったみたいで、長尾家をとりあえず周りから滅ぼされないようにした後、もういいやってことで、出家というか妙高山に山篭もりというかして、連れ戻されています。
戦上手の謙信がいるから周りは攻めてこないので、謙信がいなくなればとたんに難癖つけて攻めてきますから。
幕末の譲位運動に似てるでしょうか?損得で譲位やってるんじゃないですよね。外国に殺されたくないからって当然のことでやっているだけで。武田、北条に取られた領地を取り返すとか、周りの有力武将に攻め滅ばされないためにとか。
今で言うと公演を頼まれて、全国公演旅行していたようなものに近いでしょう。
ドラマ好きの人への共感力はあるけど科学的洞察力のない脚本家のドラマの世界は、現実世界では過去にも現在にも存在しません。
武田信玄に追われたものたちが村上義清を頼り、それでも敗れた義清がこんどは上杉家を頼る。まあ、謙信が頼りになる大名だ、強いというのは周知の事実なので、認めざるを得ません。では頼まれてする戦争に自領の家臣はどう思っていたのでしょう。
事実、離反が多いのは統制が取れていなかったと見ます。商業的には成功していたと見ても政治的にはどうだったのか疑問視しています。
恩賞が無い、これは「ただ働き」ではないかと思います。もちろん100%の家臣がそう思っているわけではなく、本当に謙信の義にほれ込んで着いていくものもいたのでしょう。男惚れなんでしょうね。
稀な大名であったのは認めるところであります。
回答ありがとうございます。
No.5
- 回答日時:
北条高広、大熊朝秀のほか長尾政景、本庄繁長が出奔なり反乱を起こしています。
(長尾政影は代替わり時のごたごたなので、謙信の資質の問題ともいえませんが。)それに謙信がなにか決めようとしても、家臣が揃って反対して潰すようなことが多々ありました。はっきりいってまったく家臣掌握はできていません。義で戦うというより、信濃、関東、越中と戦略的方向性なく出兵して、結局どこも占領できなかったのが現実でしょう。それでも大過なくすんだのは、もともと越後が経済的に豊かであったことと、商業統制をしてそこから税をあげる手腕に優れていたことが理由といえるでしょう。回答ありがとうございました。やはり出奔しますよね(うなずく)。
その理由が「家臣団に統制がとれていない」「戦略性の無さ」だとしたら、私の思うところとそんなに離れていません。同感です。だって戦争なら少なからず死者を出すわけですから、何にも無しじゃついていけません。まして、他所を見たら侵略戦争まっさかり。
義と言えば聞こえはいいのですが、そんなことが理由で参戦できるのかは疑問です。
確かにカリスマ性もありますし、戦上手かもしれません。宗教的要素も例の「毘沙門天」にありますが、入道する大名なら他にも多く見受けられますし、キリシタン大名だってそうではないのでしょうか。たとえば宗教に殉じるように仕向けるとか・・・
しかし、前回答者様にもお答えいただいたように穀倉地であること、商業統制と税について手腕があるのなら、最低恩賞が無くても飢えることはなかったのでしょうね。強奪もあったようですし。
ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
北条高弘や大熊朝秀のように謙信やり方についていけなくて謀反や他国へ走る。
また裏切るそぶりを見せたため先手をうたれ殺されてしまった家臣も何人もおります。武田に寝返った大熊朝秀は、その後、信玄、勝頼の二代に従い
武田家滅亡時には古参の家臣ですら次々と離反する中で最後まで勝頼に付き従って戦い、彼とともに天目山で自害するほど忠誠心の厚い人物でしたが、謙信にはついていけなかったようです。
こんな状態でも国を維持出来たのは謙信が鬼のように強かったからでしょうね。
謙信は管領山内上杉家の失地を回復するため10回以上関東に出兵していますが、地元の国人達は彼がやってくると恐れおののき即座に配下に加わりました。
もっとも謙信が越後に帰ってしまうと瞬く間に裏切っては北条や武田に走ってしまったそうですが・・・・・・。
やはりついて行けない武将は出たでしょうね。
謙信はかなり特異な戦国大名でしょう。
さしずめ強い=恐いというのもあったのでしょう。カリスマ性はわかりますが、こちらのほうが大きいのかも。
普通に加増を期待したらついて行けないでしょうね。
回答ありがとうございました。
No.2
- 回答日時:
恩賞も知行加増もなかったのではないのでしょうか←この点についてはほとんど無かったと考えるのが、上杉謙信については普通でしょう??ただ、国の経営について言えば、越後領は冬は厳しいでしょうが、隣り合う、国々に比べれば豊かな国で、武田信玄のように他国に攻め入る必要がなかった、自給自足??適当でないかも??兵農分離は出来ていなったかもしれませんが、武田信玄のように拡大主義をしなくても良かったのです、川中島の戦いは“バトル”であって、“War"ではないと何かで読みました、織田信長の軍団のように職業軍人は手柄=恩賞(出世)でないと、人は付いてこないでしょう、しかし、戦に借り出されても、豊かな土地がバックにあれば、それほど恩賞は必要ないと思います、逆に領地が豊かでない武田信玄は戦をしすぎれば、軍人(農民)が農作業をできないことになり、勝てばよいが、負ければいよいよ厳しくなる。
回答ありがとうございます。
米どころならではの自給自足だったんですね。武田信玄の甲斐は貧しかったといいますね。その点越後は恩賞無しでも食いっぱぐれは免れたでしょうね。
ただ戦をする以上、少ないとは言え戦死者を身内から出すのでは。その場合それに報いる恩賞も無かったのでしょうか?
戦争と勝負の違いは良くわかりました。いかにも謙信らしいですね。
No.1
- 回答日時:
出兵して領地が得られなくても利益がない訳ではありません。
上杉家の家臣は武士と農家の兼業でしたから、冬の間出兵することが多かったようです。それは農業が暇だからという理由だけでなく、冬は食料も不足しますから敵地で略奪をして糧を得るという意味合いもあります。上杉軍は強いので敵地で死ぬ確率も低かったでしょうまた、関東管領という名目や将軍の信頼が厚いことや、北条高広が謀反を起こしたが許すエピソードなどカリスマ性が非常に高かったのではないでしょうか?
もっとも謙信に嫌気が差し謀反を起こしても勝てません。
回答ありがとうございました。
<もっとも謙信に嫌気が差し謀反を起こしても勝てません
そうですよね。ちょっと謀反は無理でしょうね。それは納得です。
確かに強いので略奪行為に移りやすかったのかも知れません。恩賞の代わりとして、その場合「義」の謙信としては容認していたのでしょうか?
何か特別な法度があったのではと思ってしまいます。ありがとうございました。
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