プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

『道徳形而上学の基礎付け』、『プロレゴ-メナ』を読み、
現在、『純粋理性批判』を読んでいます。
論理構成が非常に綺麗で、理路整然として非常に読みやすく面白いのですが、

読めば読むほど、
「認識を超えて、他者を感じたい」
という欲求に駆られます。

しかし、いく考えてみても、その方法を思いつきません。
哲学の入門書を二年前に読み、
その問題はずっと考えているのですが、
未だに答えが見つかりません。

もちろん、答えはないのでしょうが、
方法論や、こう思う、という様な考えでも、
もちろん非常に嬉しいので皆さんの意見をお聞かせ下さい。

A 回答 (14件中11~14件)

カントの哲学とは縁遠い素人ですが「認識を超えて、他者を感じたい」


ということについて自分なりに考えていることを書かせていただきます。それは当の自分が何者かは絶対にわからないということの別の表現ではないかということです。自分も含めてあらる人の主体(性)を認識の対象とすることはできないことだと思っています。むしろ認識の対象にならないからこそ主体でいられるというべきでしょうか。キリストも釈迦もソクラテスもカントもラッセルもあるいはアインシュタインや湯川秀樹も主体としての自分だけは分からなかったと思います。これは客体に対する理解力とは関係がないことだとすれば当然とも言えると思います。われわれが理解できるのはあくまで客体化されたものですから、あなたが認識を超えてとおっしゃっているのは正に正しい認識だと思います。ただし他人は愚かすでに自分すら認識の対象にはならない(存在は実感できても)と考えるのはどうでしょうか。私は主体を認識の対象にしようと試みることは暗闇とはどういうものか見ようと思って明かりをつけることのようなものかと考えています。想像ですが先験的という言葉は案外(認識)主体だけは認識の対象にはならないという意味かなとも思います。
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この回答へのお礼

あるのは、客体、認識されたもののみ、ということでしょうか。
確かに、「私」を考えても、それは認識の対象としての私で、
主体的な私は絶対に認識できない。
確かにそうですね。

他者には、私が認識されているといいのですが。

お礼日時:2007/07/22 16:16

認識を超える、とか、認識を超えた世界、認識の向こう側の他者、というような言明は、認識の限界の外側ことを表しているように思えますが、


認識の限界の外側というのは、原理的に不可能のように思えますし、そもそもいまいち何を表しているのか、よくわからない言明のように思います。
もしかしたら丸い三角がナンセンスな言明のように、認識を超える、という言明もナンセンスな言明なのかもしれません。
もしそうだとすると、「認識を超えて他者を感じたい」という言明もまた、馬をサンカでトライアルしたい、
という言明が意味不明、ナンセンスであるのと同じように、ナンセンスな言明という事になりそうです。

そうだとすると「認識を超えて他者を感じる」という事は不可能(というか意味不明)なので、どうしようもない事になりますが、
それでもなおrai317さんが「認識を超えて他者を感じたい」という言明に何か意味があるように感じるならば、それは本当は
「認識を超えた他者」という表現ではない何かを意味しているのかも知れません。

その何かが何であるかを探求すれば「認識を超えた他者」ではないものの、rai317さんが「認識を超えた他者」という言い方で言わんとしていた
何かを得ることはできるかもしれません。

つまり、どうやったら認識を超えて他者を感じれるのか、という風に考えるのではなく、
認識を超えて他者を感じるとはいかなる意味なのか、という風な方向で探求していくということです。

以上のようなアイデアはどうでしょうか。
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この回答へのお礼

認識できる=感じる
とすると、確かに意味の無い考えなんですよね。

認識できない事には沈黙しないといけない。
そう割り切れれば確かにいいんですが。

お礼日時:2007/07/22 16:13

自らの心が導くままに

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この回答へのお礼

ありがとうございます。
その結果、二年間、さ迷っています。

お礼日時:2007/07/08 01:35

six sense

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この回答へのお礼

ありがとうございます。
それしか方法が無いのでしょうか。

お礼日時:2007/07/08 01:35

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